アマージュの坂

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


「あ……」
 その坂道の勾配は、決してきついわけではなかった。その代わり、曲がる角度はかなり急で、上から降りてゆくとまずは左に大きく振れ、それから右の方に旋回していた。どうやら勾配を緩くするための苦肉の策らしい。白っぽい石で作られた中央の階段は、人々の靴裏と歳月に削られ、角が取れて丸みを帯びていた。階段を挟んで、両側は幅の狭い坂になっている。丘を廻る若い野菜売りたちが、毎朝、小さな車を押して上がる道だ。
 硬めの革靴で歩けば、私の歩く速さの曲が生まれる。リズムだけのはずなのに、古びた石は、音程を適度に変えてくれる。
 左右の家の広い庭からせり出した木の枝は、絡み合うかのように不思議な模様を形作っている。枝先で茶色の羽を休めているのは――あれは百舌鳥(もず)だろうか、小首を傾げている。
 吹き抜ける風は心地よい。濁りがなく澄んでいて、美味しい。
 太陽のかけらのような黄金の花を、縦の波のごとく垂らしたギンヨウアカシアは散り始め、向日葵色の星へと移ろっていた。
 私の背丈よりも少しだけ高い、古びて黒ずんだ煉瓦の壁が、家と坂とを隔てている。壁の横に立っても庭の様子は伺えないが、坂の上ならば俯瞰できる。庭は、坂の中腹にしては広く、横長だった。その奥に、線対称の二階建ての家屋が据わっている。屋根の角度はやや鋭く、上下や斜めに走って屋根を支える木の柱や、白い壁の調和は麗しい。木の大きさから察すれば、かなりの年月を経た建物のようだが、庭の草の状態といい、庭を蛇行する石を敷き詰めた道、あるいは褪せた朱色の屋根瓦、煙突、何枚かのガラス窓に至るまで、必要なだけの手入れが行き届いている。この町では、家はとても大切にされている――むろん、その延長として、家が有機的に組み合わさった町全体も――そこに住まい、日々の糧を得、暮らしを営む人々の心にも、新興の町とは異なる落ち着いた余裕が感じられた。

 丹念に町を見下ろしていた視線を解放して、ぼんやりと斜め上方を眺める。私は坂の上に立ち、シラカシの木の脇で、優しい木洩れ日を浴びながら柵に寄りかかり、頬杖をついていた。
 身体の力が抜けて、心臓の鼓動がゆったりした一定の速さに落ち着き、普段の私に取り憑いた幾重の薄皮が風に剥がされて、単純な〈私〉、戻るべき所に還ってゆくのが感じられる。胸に残っていた昔の息を、一抹の不安とともに自然と吐き出した。
「ふぅー」
 そして吐き出した後は、もちろん新しい風を吸い込むのだ。
「……」

 ここはとても空に近い場所だ。眼下にはアマージュの町の屋根が見え、鳥になったかのよう。目の前には青い空が拡がり、まるで天上界の入口にでも来たかのような気分を味わえる。
 悠久の河に浮かぶ雲の流れで時間の流れを計れば、私という個人の思いはぼんやりとして、風との境目が徐々に薄まり、私は砂糖のひとつぶになって溶けてしまう。まぶたを閉じてさえ、移りゆく空と変わらない空が重なって、立体的に現れる。
 柔らかな風が頬の産毛を微かに撫でてくれる。もう、寒くはない――そういう季節が来たのだ、という実感の大波小波が、同心円上に押し寄せてくる。心の奥の方にある、上手く表現できない〈嬉しさの雷〉が飛び出して、身体中を走り抜け、背中や腕に鳥肌を立てた。感覚が研ぎ澄まされてゆき、今ならきっと、舞い踊る木洩れ日や、可愛らしい花びらと、耳には聞こえない言葉で語り合えそうだ――お互い、世界に溶けた砂糖同士で。

 いくぶん強く吹いた風に春物のブラウスの襟がはためくので、重たい腕を上げてしっかりと握りしめ、私は瞳を開いていった。
 僅かな陶酔は幕を閉じ、深い眠りから醒めたような、ひどく心地の良い感じが残っている。東の空に浮かぶ黄金の陽は、低すぎず高すぎず、朝の喧噪が終わった静かな刻を見下ろしている。冬とは異なる強い光で、町を温め、肌に日焼けをもたらし、草花を起こすのだ。おそらく私も、彼に起こされた一人だろう。

 坂の下の方から背の高い白髪の男性が登ってきたのが視界の隅に入って、私の魂は我に返った。彼は一歩一歩、地面を感じ取る足取りで、時折足を休めては空を仰ぎ、町を眺望する。
 ふいに私と彼の目が合って、どちらからという事もなく会釈をする。この季節と、この町のすがすがしさに彩られた私たちは、自然な微笑みを交わすのだった。しばらく見ていると、彼は静かに最後の坂を登り切り、立ち止まって疲れた息を吐き出す。
「ふぅー」

 彼はズボンのポケットから布を取り出し、額の汗の珠を拭う。やがて私の方に顔を向け、少しだけ掠れた声で、こう語った。
「結構な、陽気で」
「ええ、本当に」
 はにかんだ笑みを自然に浮かべ、私は応えた。細い目をさらに細めて、老人は再び軽く会釈をすると、背中を向けて立ち去った。骨格のしっかりした後ろ姿を、私はずっと見つめていた。

 太陽は天頂を目指し、閑静な丘にも子供たちのざわめきが、切れ切れになって届けられる。じきに乗合馬車が来る頃だ。
 私も行こう。天からの坂道を降りて、風とともに舞い降りよう。

 こうして私は、初めて訪れたアマージュの丘に立っていた。
 そしていつかこの町に住みたいと、強く記憶に刻むのだった。

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・アマージュの町
 ルデリア大陸ラーヌ公国メラロール連合王国)の中部、ラブール町の北東にある町。人口は四千五百人程度。古くからの町で、付近の農村から農作物や畜産物が集まり、ラブール河の中流の魚介類も交えて、大きな朝市が開かれる。毛織物が発展している。水が良く、有数の葡萄酒の産地でもある。

(了)



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