笑顔の種

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 それは半年ほど前の、ある秋の日の出来事だった。広々とした丘を涼しい風が駆け抜けるたび、銀色のすすきの穂が波のように首をかしげていた日々を、テッテは良く覚えている。透き通った水を湛える小さな池は、まるで水の組成が空と融け合ってしまったかのように、野原の片隅で鏡となり、雲を映していた。

「葉っぱの代わりに、花を咲かせる研究……じゃとォ?」
 小さな木造の研究所を細かく震わせるほどの良く響く大声で聞き返したのは、当代きっての“迷”発明家、五十四歳のカーダ博士である。白髪交じりの頭髪は整えられておらず、顎や顔の横には、モヤシの根を彷彿とさせる細い無精髭が生えている。
 博士は見るからに使い古された眼鏡を外して、木の台に無造作に置いた。裾の長いベージュの作業服は洗濯されてはいるものの、色鮮やかな赤や青の塗料のようなものが染みついていて、あまり見栄えは良くなかった。眉間に深い皺を寄せて普段通りのいかつい表情を浮かべ、椅子に腰掛けたまま腕組みし、立っている弟子のテッテの顔を胡散臭そうに睨んでいる。

 博士の雰囲気にたじろいだのは、やや痩せてパッとしない青年――デリシ町出身のザーン族、二十四歳のテッテである。彼も眼鏡をかけており、その内側の瞳を素早く瞬きさせていた。
 身体中の筋肉という筋肉を堅くし、肩を怒らせ、緊張の面もちで、弟子は立ち尽くしていた。まともに博士の眼差しを受け止められず、しばらくの間は困ったように視線を彷徨わせていた。
 が、このままではいけないという、強い意志の力が働いたのだろう。ごくり、と唾を飲み込むと――人知れず立っている閑静な丘の研究所の中では、その音はとても大きく響いた――まずは勇気を振り絞り、弱々しくも精一杯の返事をするのだった。
「は、はい。そうです」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「フン。突っ立ってないで、少しは説明したらどうじゃ!」
 思い切り唾液を飛ばし、カーダ氏は吠える。彼は続けた。
「わしはこれまで四千人の弟子を取ったが、そんなこと言うたのは、おまえが初めてじゃ。葉の代わりに、花を咲かせるじゃと」
 このままでは埒があかないと思ったのだろう、テッテは改めて〈説明すること〉の難しさを噛みしめながら、想像力をかき集め、適切な言葉を探し、とつとつとした口調で熱っぽく話し始める。
「あのですね、師匠。師匠の虹の橋に対する執念に比べれば、比べるべくもないのですが、今の僕のささやかな夢なんです」
「当たり前じゃ。年期が違うんじゃ」
 腕組みしたまま黙って聞こうと努力していたカーダ博士だったが、どうしても口が挟みたくなり、一言だけ呟いた。彼は親から受け継いだミレーユ男爵家の資産を投じ、四十年間にも渡り、一つの夢に向かって取り組んできた。すなわち、雨上がりの空に架かる七色の虹の橋を、魔法の力を帯びた薬品などを混ぜ合わせることによって作り出せないか――という課題である。
 副次的な成果として、気づかぬうちに自然科学の分野の重要な秘密を解き明かしたり、多種多様な不思議で珍妙な発明品が出来上がりもし、それを町で売ることによって研究資金の足しにしてきた。最終的にはそれらの段階を踏まえた上で、あくまでも虹の橋を生み出すのがカーダ氏の生き甲斐なのである。

 テッテは負けじと、彼にしては珍しく身を乗り出すようにした。双眸の輝きを増し、ここぞとばかりに奮起して、素直な気持ちを、心の土で培ってきた願いを、静かな声に乗せるのだった。
「普通の花はすぐに散ってしまいますが、葉っぱのように長く花が咲いていれば、あの子たちがよろこ……いえ、あの、きれいだと思うんです。どうでしょうか、任せてもらえませんか……」
 勢い良く語り出したテッテだったが、末尾は曖昧に響いた。資金や薬品の援助は、師匠であるカーダ博士次第である。テッテには頑固でケチなカーダ氏を説得できる自信はなかったのだ。
 まずは開口一番、感情的に怒鳴られるだろう――テッテは覚悟を決めて、唇を微かに震わせ、ややうつむいて立っている。

 研究所の窓からは、秋風に揺れる野原の草が垣間見える。
 結果から先に言えば、テッテの予想は半分当たりで、半分は外れた。カーダ博士は声を荒げて反論したものの、話の中身は極めて理知的で、なおかつ理論的だったのだ。自らの研究課題を洩らした三十歳年下のテッテを、博士はこの時初めて、単なる弟子としてではなく〈共同研究者〉として叱ったのだった。
「馬鹿もん。葉と根は、植物の口なのじゃぞ。昔、研究の途中で発見したんじゃ。葉を抜いておくと、すぐに草は枯れおったわ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「そうなんですか?」
 色々な意味で驚いたテッテは、つい聞き返してしまった。
 面白くないのはカーダ博士である。椅子に腰掛けたままの彼は、作業台の表面を指の爪の先で弾きながら、顔をしかめた。
「なんじゃ、師匠のわしを疑うのか。いつからそんなに偉くなった、このたわけが。正直者のわしを疑うとはいい度胸じゃ!」
 こうなると博士は手がつけられなくなる。テッテは平謝りだ。
「申し訳ありません、本当に、断じて、その様な疑いは……」
「まあいい。で、どうするつもりだったんじゃ?」
 カーダ氏は頑固そうな声と表情を保ったまま、あっという間に怒りを鞘に収めて、すかさず弟子に先を促した。根っからの研究者であるカーダ氏は、テッテが考えていた方法を聞きたくて、内心はウズウズしていたのであった。いつもなら大爆発する場面であるに違いないが、知的好奇心の方が勝ったのだった。
 そんな師匠の頭の中でのせめぎ合いには気づかず、そういうことに関して非常に鈍感なテッテは、慌てて説明を再開する。
「紫色の夢幻の粉をですね、水に溶いておいて、そこに草木の素を少しずつ足していこうと思っているんです。花は夢、葉っぱが草木の力を表すのであれば、割合を時系列と逆に変えることによって、その溶液にですね、植物の種を浸しておけば……」
「駄目じゃ駄目じゃ。そんなことをしたら種が腐ってしまうわい」
 必死に語るテッテの話を遮って、カーダ氏は激しく手を振る。

「やっぱり駄目ですか……」
 テッテはがっくりと両肩を落とし、溜め息をつく。彼は不器用で不注意で、町の忙しいパン屋の仕事などに就いていても、言われたことさえ上手にこなせなかった。どこにいても叱られてばかりで、長続きしなかった。自分を駄目なやつだと悲観していた。
 そんな彼がカーダ氏の研究所に居着いて、言うなれば〈研究職〉に就いた。それほど成功しているわけではないし、相変わらず叱られない日は無いのだが、テッテにとっては最も長く勤めた記録を更新中であり、カーダ氏にとっても最も長い弟子の記録を更新中である。一年先、二年先を見越してじっくりと取り組める今の仕事は、何はともあれテッテには向いているようだ。

 太陽が薄雲に隠れると、丘に灰色の津波が訪れ、光のまぶしさが奪われていった。小さな研究所の中も彩度が減退する。
 やがて黄金の陽が顔を出す。カーダ博士は自分のことを棚に上げ、白っぽく染められている細い顎髭を撫でながら呟いた。
「それに、あまり実用的とは言えんな」
「この方法が確立すれば、お花屋さんに売れると思いますが」
 珍しく食い下がったテッテに対し、カーダ氏は呆れたような声で反論する。博士は、まずは何事をも否定したくなる性格だ。
「お前は、フレイド族の造花を知らんのか。あの精巧な……」
 背が低く、手先が器用なフレイド族は職人に向いている。
「いやしかし、師匠、作った花と、生きている花は違いますし」

 相手を説得するため、久しぶりに熱くなっているテッテの脳裏には、年の離れた二人の〈友達〉の笑顔があった。たまに遊びに来てくれる二人の少女――学舎に通っている八歳のジーナと九歳のリュアは、テッテのことを〈お兄さん〉と慕ってくれる。
 カーダ氏に気づかれぬよう森を案内するのは大変だが、三人で不思議なことを体験するのは、忙しい研究生活の中では最高の息抜きであり、何よりの楽しみだ。テッテの方こそ、彼女たちに教えられることは少なくない。そのうち大きくなれば、来なくなるのは分かっているが、それも承知の上だ。学舎では習うことのない、森の和音や風のきらめきを知ってもらいたい――。

 望みを叶えるには、金銭面や薬品面でのカーダ博士の助力が不可欠だ。あまり手応えがなく、それどころか普段のように反論ばかりなので、テッテはいささか疲れてしまった。顔からは歓びや情熱が急速に失われ、成果の上がらない交渉には諦めの感情が膨らみ始める。会話が止まり、テッテは頭を下げた。
「……すみません。無謀なお願いでした」
 カーダ氏の性格――まずは何でも否定したがる、あまのじゃく――を意識的に衝いたわけではないが、テッテの吐いた弱音が、逆に師匠を懐柔し始める。博士は腰に親指を当て、上体をやや反らし、足を組み直して、探るような視線を弟子に向ける。
「まあ、目標が出来ることは悪いことではないな」
「でも許して頂けないんでしょう……方法も駄目みたいだし」
 頭を抱えて壁に身を預けたテッテは、かなり自虐的になっていた。当然、博士はそれと反対のことを言いたくなってしまう。
「許さんわけではないし、方法も全く駄目とは言うとらん。見るべき所はあるし、もう少し工夫すれば上手くいくかも知れん」

「えっ、師匠……」
 さっきまでの態度からは、まさか許しが出るとは思っていなかったテッテは、頭が混乱してきて絶句した。後から考えれば、ここで〈本当ですか?〉とか〈信じていいんですか〉〈許してもらえるんですか〉などと訊かなかったのは、彼にとって幸運だった。
 テッテが呆然としていると、博士は当然のように条件を出す。
「最後まで聞くんじゃ。認めてやってもいいが、その代わり肥料代、薬品代、その他もろもろの代金は給料から天引きじゃぞ」

 あっけにとられた様子で、テッテはうわごとのように訊ねる。
「師匠……本当に許して頂けるのですか?」
 他方、珍しいほどの穏健さ・冷静さを保っていたカーダ博士は、最後に一言、大事な条件を付け加えるのを忘れなかった。
「それと、経過を報告することじゃ。きちんとな」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 まろやかでコクのある季節は、日に日に深まっていった。
「お兄さん、これ何?」
 カーダ氏の研究所からやや離れた不思議な森の片隅で、好奇心に満ちあふれた少女の声が響いた。後ろで束ねた長い黄金の髪を振り乱し、身体いっぱいに元気を身にまとった八歳のジーナは〈森の先生〉であるテッテに次々と質問を浴びせる。
「ここ、火炎畑……って書いてあるけど、山火事は大丈夫?」
「ええ。土の中で種になっている分には問題ありません。大地は火炎を打ち消します。万が一に備えて、飛び火しないように草は刈ってありますし、さらに周りを水路で囲ってありますよ」
 テッテはなるべく丁寧に、分かりやすく、しかも幼稚な内容にならぬよう説明しようと努めたが、専門用語が多くなってしまうのはやむを得なかった。木々が途切れ、広場状になっているこの場所は、カーダ博士の研究農園だ。ルデリア世界の七つの源――火炎・大地・月光・草木・天空・氷水・夢幻の〈七力〉を用いて、植物を交配したり、魔法のエキスを抽出したりしている。

「水路……?」
 ジーナの後ろから首を伸ばすような姿勢で二人のやり取りを覗いていたリュアが、ぽつりと呟く。森を吹き抜ける秋風に、肩に届くほどの銀色の髪は翼のように舞い、茶色の地に赤茶や黄土色の柄が入った、厚手の生地の長いスカートが揺れる。
「ええ。ですが、ただの水路ではありません。氷水の力を増幅してありますので、炎はこの中に封印されます。出られません」
 テッテはほとんど出し惜しみせず、分かっている範囲内のことを説明した。知識をひけらかすのではなく、ごく自然に語りかけるように。そしていつも、少し恥ずかしそうにこう言うのだった。
「僕の師匠、カーダ博士から習ったことばかりですけどね……」
「じゃあ、これ何?」
 水路の脇にしゃがみ込んでいたジーナは、青っぽく変色していた丈の短い草を指さした。テッテは瞳をしばたたいたが、あまり長いこと考えずに首をかしげて腕組みをし、素直に応えた。
「うーん、分かりませんねぇ。何でしょう、これは?」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「えー、分かんないの?」
 蒼い瞳をまん丸に見開いたジーナは、驚きの大声で、のけ反るようにして訊ねた。ジーナとテッテのやりとりを聞いていたリュアは、何か言いたげに口を開きかけたものの、つぐんでしまう。
「ええ」
 傲慢でも卑屈でもなく、わざとらしくもない小春日和のように柔らかな微笑みを浮かべて、研究所の助手はすぐにうなずいた。
「僕は、残念ながら、学舎の先生とは違いますから……さまざまな研究はしていますけれど、何でも〈正解〉を知っているわけではありませんよ。本当に、分からないことだらけなんです」
「大人なのに〜?」
 少しがっかりした、という感情を露わにしながら、ジーナは問い返した。足の位置がずれると、数日前に落ちて地面に横たわっていた木の葉が、薄い氷の割れるような音を立てて崩れた。
 時たま、赤や黄色、茶色の新しい葉が、ゆらりゆらりと波のように揺れそよぐ風に流されながら、目の前をすり抜けて、深い森の底に漂着する。やがては落ち葉のじゅうたんになり、虫たちの冬場のねぐら――春を創り出す天然の肥料になるのだろう。

 テッテが気を悪くしていないだろうかと心配そうに、リュアは横顔を見上げていたが、青年は真面目な口調で穏やかに語る。
「大人だから何でも知ってる、と言うことはないのだと、僕は思いますよ。むしろ僕やカーダ師匠よりも、ジーナさんやリュアさんの方が、色々な事を知っていると思いますよ。冷えてしまった硬い知識としてではなく、温かな直感や柔らかな経験として」
「え? あたしたちの方が?」
 ジーナは自らを指さしながら、とっさに友達を見た。その相手――リュアは、ジーナとテッテの間で視線を彷徨わせている。ジーナはどう答えていいものか戸惑っていたが、つま先立ちを繰り返して後ろ手に組み、はにかんだ微笑みを浮かべた。新鮮で誇らしげな気分を味わっているのだろう、満ち足りた様子だ。
「そんなことないと思う……」
 ぽつりと曖昧な反論をしたのは、長らく聞き役だったリュアである。とんでもない――とでも言いたげに、小さく首を振った。

 彼らの周りで、秋がざわめいていた。限りなく透き通った風の輪舞に、時雨に湿った土の中に。光と影の間で、虫や鳥の鳴き声に呼ばれて。夏の元気さとは明らかに異なる、豊穣と教養を思わせる大人びた雰囲気が、静けさの森に染み込んでいた。
 ジーナの期待とリュアの不安そうな眼差しを受けたテッテは、万感の思いを込めた語り口で、考えを率直に綴るのだった。
「僕が確実に〈知っている〉と言えるのは、おそらく、僕があまりにも知らないと言うことだけです。分からないことに出会うたび、この世はなんて不思議なところなのだろう……と思いますよ」

 言いながら、テッテはおもむろにしゃがみ込んでいた。話を中断して、両手を胸の前で組み、うつむいて短い祈りを捧げる。
 瞳を開いた青年は、首だけを動かして少女たちの方を振り向いた。眼鏡の奥にある二つの瞳と、唇を緩め、悪戯っぽく笑う。
「誰かに百個の素晴らしいことを聞くのも楽しいですけど、自分の力で、たった一つのつまらないことを発見するのも、それはそれで面白いですよ。僕は、そちらの方に魅力を感じるんです」
 肌荒れして痛々しいテッテの右の掌が、ジーナの方に向かって真っ直ぐに差し出される。背の低い八歳の少女は好奇心をはち切れんばかりに膨らませて、顔を近づけていく。友達のリュアは背伸びをして、二人のやり取りを興味津々そうに覗き込む。

「師匠には、風で吹き飛ばされたことにしておきますからね」
 と、小声で言ったテッテの、掌に握られていたのは――。
 それはジーナが気づいて質問した、水路の脇に生えていた〈青っぽく変色している丈の短い草〉である。細長い二本のうちの一本を、テッテはまず人差し指と親指でつまんで持ち上げ、左手に移す。そして残った一本を、迷わずにジーナへ渡した。
 はっと現実に戻って、ジーナは威勢良くお礼の挨拶をする。
「ありがとう!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「どういたしまして。はい、リュアさんの分もありますよ」
「うん……」
 リュアはゆっくりと両手を差し出して、背が倍ほども違うテッテからもう一本の青い草を大事そうに受け取った。しばらくは不思議な色に魅入られていたが、思い出したように顔をもたげると、飾ったところのない素朴な安らぎの微笑みを浮かべて言った。
「ありがとう、お兄さん」
「いえいえ、どういたしまして。お礼なら、いつも通り……森に」
 テッテは右腕を斜め上に掲げ、大勢を紹介するような仕草で森の木々を広く示し、少女たちを促した。ジーナとリュアは掌を合わせて瞳を閉じ、新鮮で敬虔な気持ちを胸に祈りを捧げる。
(森の神様、ありがとう――)

 少しずつまぶたを開いていくと、遠くに想いを馳せていて散らばっていた心の欠片たちが素早く帰ってきて、眼の焦点も合ってくる。空気に混じりつつある夕暮れの涼しさの粒子や、木の幹や草の葉、足元のシダ植物や落ち葉や土の匂い、上品で控えめな秋の花の香りを改めて感じ取ることができる。名も知らぬ鳥の啼き声や羽ばたき、たくさんの命の営み、森の息吹きを。

 と、その時だ。ジーナはふと、別の小さな区画に気づいた。
 赤ばかりの火炎畑と黄色が目立つ月光畑は、年じゅう秋の終わりのように〈紅葉〉し、または〈黄葉〉している。その境目の辺りに、この前までは見られなかった正方形の〈場所〉が出来ていた。雑草はきちんと抜かれているが、まだ何も生えておらず、耕したばかりの赤茶けた土が剥き出しになっている。それは新しい家が建つ前の、まだ何にもなっていない土地を思わせた。
 抑えられない好奇の想いがうずいて、ジーナはすぐ訊ねた。
「これは何?」

 するとテッテは珍しく口ごもり、うつむく。その頬には紅みがさしていた。ジーナは首をかしげたが、教えてもらえないと知りたい気持ちは逆に高まり、追い打ちをかけて疑問を投げかける。
「ねえ、お兄さん、これ何? ねえ?」
 リュアが不安そうに見守る中、容赦なく責め立てられたテッテは上目遣いに相手を見下ろして照れ笑いを浮かべながら、ほとんど聞こえないくらいの声量で恥ずかしそうに答えるのだった。
「僕の楽園……もとい、農園ですよ」
「えー、テッテお兄さんの? なんで教えてくれなかったの?」
 初めて聞いた話に、ジーナは目を丸くして叫んだ。リュアも驚きに充ちた瞳を瞬きさせ、テッテと足元の区画とを交互に眺めている。三人の間で微妙な時が刻まれ、木洩れ日が光った。

 興醒めした空気を痛感しながら、しばらくして研究所の助手は話を始めるのだが、言い訳じみた苦しい説明になってしまう。
「隠すつもりはなかったんですが、まだこの状態ですからね」
「でも、たったこれっぽっちぃ?」
 おかしな雰囲気――まだ何かを隠している――を敏感に察知したジーナは、口を可愛らしく尖らせて相手を煽るように言う。
「ジーナちゃん」
 遠慮のない発言に、リュアは勇気を出して友達をいさめる。
「ええ。今はこれだけです」
 しっかりとうなずき、飼っている小動物をいたわるような温かい視線で自分に与えられた区画を見下ろし、青年は堂々と語る。
「ごめん。でも良かったね、もらったの?」
 話題の切り口を変え、早口でジーナは訊いた。テッテは怒った素振りを見せず、むしろ追及の手が緩んだのでほっと息をつき、明るい声を取り戻そうと努力しつつ返事をした。その額にはうっすら冷や汗をかいていたが、ジーナは気づかぬふりをした。
「そうです。師匠に頼んで、僕の研究用にもらったんですよ」
「ふーん」

 ジーナはしばらく考えていたが、結局はいくらも我慢できなかった。実はリュアも猛烈に知りたがっていた、青年の〈秘密〉の核心に迫る問いを、思い切ってぶつけてみることにしたのだ。
「ここで……何を育てるの?」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「それは……」
 テッテは息を飲んだ。腕を組み、真面目な顔で立ちつくしている。やや上目遣いの視線は、二人の少女たちを通り越し、木々の梢を突き抜けて、はるかな森の向こうに焦点が合っていた。
「それは?」
 八歳のジーナは期待に瞳を輝かせ、思わず身を乗り出して訊ねた。好奇心に満ちあふれた彼女の前を、森に住む羽の生えた小さな虫が一匹、幻から生まれたかのように通り過ぎゆく。
「それはね」
 もったいぶったテッテは、さも楽しそうに口元をほころばせていた。頬張った大好物のお菓子をゆっくりと堪能する状況を思わせる幸せそうな表情で、彼は夢見心地にまぶたを閉じてゆく。
「うん」
 相づちを打ったのはリュアだった。話を一言も聞き洩らさないため、テッテを一生懸命に見上げて、返事を待ちわびている。

 その時、青年は再び目を開けた。彼の双つの眸(ひとみ)には、師匠から与えられた現実のささやかな畑が映っていた。
「今はまだ、秘密です」
 辺りに漂う土や草木の醸し出す森の匂いに、清々しく流れ去る一陣の秋の風に、あるいは高みから降り注いでくる小鳥たちのさえずりに乗せて――偽りのない本当の〈思い〉を伝えた。

「えーっ?」
 直後、落胆と疑念とに彩られたジーナの甲高い声が弾けて、緊張感のガラス細工を粉々に砕いた。彼女は納得できず、諦めきれるわけもなく、テッテの足元に駆け寄って理由をただした。
「なんで? どうしても?」
「ええ、どうしても。今は駄目です、申し訳ないですけど」
 これ以上は一歩たりとも譲れないという風に、テッテは珍しく毅然と語った。きっぱり断られたジーナは、返す言葉がない。
「……いじわるぅ」
 せいぜい風船のように頬を膨らませ、腰に手を当て、恨めしげに呟くくらいだ。一方、青年は吹っ切れたような口調で応えた。
「そのうち分かりますよ。時期が来たら、お教えします」
「きっと?」
 リュアは切なる願いを込めて訊ねた。すねたり怒っているような態度はなかったが、やはり待つのがつらいのだろうか――長い時の流れに負けてしまわぬよう、じっと宙を見据えている。
「今じゃ駄目なんだ」
 少しふてくされているジーナが、ぽつりとつぶやいた。それからしばらくの間、会話は途切れた。静寂の天使が舞い降りる。

 赤い落ち葉は次々と木の枝を離れていた。右に左に舵を取りながら、一生に一度の大舞台で自分らしい踊りを披露する。それが傾いた紅の陽の光を受けて鏡の破片のごとくにきらめき、まさに神聖な炎と化していた――秋という季節が燃えていた。
「秋の夕暮れは早いですよ。さあ、出口までご案内しましょう」
 黄昏が奏でる静けさの織物作りを邪魔しないよう、テッテが注意深く語りかけると、ジーナとリュアは顔を見合わせて素直にうなずいた。三人の影が、真東を目指して細長く伸びていった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 まろやかで深い味わいの季節は、こうして暮れていった。
 やがて広葉樹の葉が落ちて、森の地面に降り積もり、枝先から澄みきった青空が覗くようになる。デリシ町と、やや離れた丘にある〈七力研究所〉にも、例外なく冬がやってきたのである。
 曇り空の野原は閑散として、北風が吹き荒れていた。地面までもが薄暗い灰色で塗り替えられてしまったかのようで、彩度が低い。尖った刃の切っ先のような静寂に溢れていて、こんな日は小動物たちもあまり出歩かず、時折、鳥の声だけが響く。
 それほど寒い地方ではないため、滅多には降らないが、鉛色の空からは今にも白い天使たちが舞い降りてきそうだった。

 他に誰も住んでいない秘密の丘の上に建てられた、無骨で古びた木造の家の煙突から、ゆらゆらと煙が立ちのぼっていた。
 暖炉では赤い焔が燃えはぜて、雫に似た不規則で不思議なゆらぎの音楽を奏でていた。窓ガラスはわずかに曇っている。
 薄暗い部屋の中で、カーダ博士は暖炉の方を向いて椅子に座り、机の上に分厚い本を置いて読んでいる。その首が前後に動き始め、完全に垂れ下がり、しまいには寝息が聞こえ出す。
 弟子のテッテはというと、研究所の出窓――と言っても、ほとんど出ていないが――のわずかな棚の部分に幾つもの小皿を乗せ、丈の高い椅子に座って頬杖をついていた。ぶらりと下ろした反対の手は四つ折りにした皺だらけの紙をつかんでいる。

「うーむ……」
 彼は長い間、それぞれの小皿の中にある色とりどりの粉末を見ながら考え込んでいた。ルデリア世界の元素である〈七力〉を帯びた抽出物で、例えば黄色の粉は月光の力を表している。
 その脇に置いてある、欠けた部分のある焼き物の深皿には、つぶれた楕円形をした黄土色の植物の種が入っていた。やや大きめで、黒や焦げ茶の線が縦の方向に何本か入っている。
 疲れたのだろうか、テッテは安物の眼鏡を外し、服の袖で両眼をこすった。掛け直したのちに、腕を窓の方へ伸ばしてゆく。
 隙間風の入り込む木造の研究所ではあるが、ずっと暖炉を焚いて空気が悪くなっていた。彼は換気のために窓を開けようと思い、取っ手に力を込めようとした。造りは頑丈で品質は高い建物だが、幾星霜を経てさすがに立て付けが悪くなっており、結構な力が要る。聞いたところによると、カーダ氏の弟子であった大工の経験者たちが、何人も入れ替わりつつ建てたらしい。

「こりゃ、そこを開けちゃならんぞ」
 突然、後ろから声が聞こたので、テッテは驚いて振り向く。
「師匠、起きてらしたんですか」
「にゃにを言っとる。わしゃ、ずっと本を読んでおったわ」
 相変わらず自信たっぷりの言葉ではあったが、声の勢いは弱く、発音も曖昧だった。ほとんど開いていない寝起きの目は焦点が合っていないし、額には本の跡が残っている。白髪混じりの髪の毛はクシャクシャで、年代物の眼鏡は少し歪んでいた。
「なぜ、窓を開けては……」
 テッテが問うと、博士の普段よりも勢いの弱い雷が落ちる。
「馬ぁ鹿もん。貴重な七力の粉末が飛んでしまうわ」
 言い終わると口をひん曲げて、カーダ氏は口をつぐむ。はっとしたテッテは、身体中に鋭い刺激が走り抜けるのを感じた。
「ありがとうございます、僕の研究を心配してくださって」
「心配なんぞ、しとらんわ。わしがせっかく七力の粉末の余りをくれてやっというのに、無駄になっては、もったいないからじゃ」
 カーダ博士は精一杯の毒の籠もった言い方で応えた。眠りから醒めたばかりで不機嫌そうではあったが、朦朧としている頭は、博士がいつも隠してきた〈人の好さ〉を浮き彫りにさせる。
「一つだけじゃが、わしの極意を教えてやろう……」

 テッテはさらなる衝撃に貫かれ、息を飲んだ。四十年間、七力の研究をひたすら続けてきた頑固者のカーダ博士がこのような話をする機会は、これまでの所、ほとんどなかったからだ。
「はあ」
 と、気の抜けたような相づちを打つのが、やっとであった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「植物をなめてはいかんぞ」
 まだ多少はまどろんだ瞳をしていたが、いつも怒鳴っている時とは明らかに異なる深みのある声で、カーダ博士は若き弟子に〈忠告〉した。妙な研究を繰り返し、四百種類を越える奇抜な発明品を作り上げてきた老師であるが、最終的には〈世界を形作る七つの元素を解明して、虹の橋を人工的に造りたい〉という一つの目標を目指して四十年も続けてきた熱意は人並み外れており、培った思想も、独特の実験の結果に裏打ちされている。
 言われた方のテッテは襟元を正す思いで、立ったまま背筋を伸ばし、一言も聞き洩らさぬように聴覚へ神経を集中させた。

「植物も命。植物にも、心がある」
 妙なふしをつけて、古い神事の歌を口ずさむかのように、かつての男爵の跡取り――白髪交じりの研究所の所長は告げた。
「は、はい」
 他方、初めて自分自身で設定した課題の研究に取りかかっている弟子の方は、震える声で相づちを打つのが精一杯だった。握りしめた掌に緊張と興奮の汗をかいている――話に集中していた彼がそのことに気付くのは、ずっと後のことだったが。

 老師が捉える〈世界認識〉についての講義は、ひそかに燃えたぎる血潮の激流のように、なおも留まることなく続いていた。
「命というのは、ある意味、バネみたいなもんじゃ」
 淀みなく語った偉大なる〈迷〉博士は、弟子が並べておいた窓際の薬品の皿を椅子に腰掛けたまま遠い目で眺めた。その向こうには、窓枠に四角く区切られた灰色の寒空が覗いていた。
 野原の彼方に連なっており、鮮やかさを失って長い眠りについている広葉樹の枯木の建ち並ぶ森の奥には、テッテが秋の終わりにジーナやリュアと遊んだ農園があるが、この研究所からは見えない。彼に与えられた小さな区画もそこにあるのだ。
(テッテお兄さん、すごいね!)
 一瞬、花を愛でる少女たちの喜ぶ笑顔がテッテの脳裏をよぎったが、カーダ氏の厳しい声色で、急に現実に引き戻される。

「おぬしは葉っぱの機能を持つ花を咲かせたいと言うが……それは葉っぱから七力の薬品を抽出するのとは訳が違う。分かっておろうが、根本的に違っているんじゃ。もちろん難易度もな」
「はい」
 テッテはしっかりとうなずく。普段は師匠から叱られてばかりで、危険な実験を多く任されていたテッテだが――今は使命感と責任感、なおかつ溢れんばかりの研究意欲に溢れていた。
 カーダ氏の話は、基本的には論理的だったが、時には飛躍して非論理的で幻想的な方向へも自在に足を踏み入れていた。
「植物の性質を力ずくで変えるんじゃない、話を聞いて貰って、了承を取れるようにしなきゃならん。それが何よりも第一じゃ」
「はい、師匠……」
 近年はあまり激しく感情を揺さぶられることの少なくなったテッテだったが、瞳は輝き、数年来の感銘を抑えきれない。腕や背中には鳥肌が立ち、涙腺が温かく緩みそうになるほどだ。博士の実験や発明品にはどこか懐疑的な部分があったが、今日の〈想い〉の伝授で、改めてカーダ氏を見直したテッテだった。

「子供というのは、親の言いなりにはならないものじゃからな」
 老境に差しかかりつつある五十四歳の壮年の男は、少し懐かしそうに目を細める。自らの少年時代を重ねていたのだろうか、意見の食い違いで別れた三千九百九十九人の弟子たちの顔が記憶を掠めたのだろうか。もしかしたら、なかなか上手くいかない研究の成果を自嘲気味に思っていたのかも知れない。
 テッテには、それらの仮説がすべて正しいように感じられた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「わしはさっき、命はバネみたいなものじゃ、と言った」
 思いをじっくり味わうかのような口調で、博士はつぶやいた。
 吟遊詩人がまれにが吹く、鳩の形に似ている陶器の笛は物悲しい音を奏でる。それを思い起こさせる北風の一団が通り抜けると、古びた研究所は微かに震えた。隙間風も入り込むし、築四十年近く経ってあちらこちらにガタは来ているものの、何人もの腕のいい大工が建てた木造の〈七力研究所〉は土台がしっかりしていたので、驚くほど堅牢であった。平面上の広さはそれほどでもないが、二階と屋根裏、そして地下倉庫まである。
 それは建物の主(あるじ)の雰囲気と、とても似通っていた。

 外の風の音が収束していく速度に合わせ、老師は瞳をゆっくり閉じていった。代わりに、無精ひげの伸びた口を開いてゆく。
「わしらが知恵を絞り、いくら薬品や魔法の力で作り替えようとしても、やつらは抵抗する。伸ばしたバネが縮むように、元に戻ろう……バランスを取ろうとするんじゃ。それを知り、上手く誘導することじゃな。決して騙してはいかん、理解してもらうんじゃ」
「……」
 弟子のテッテは口をへの字に曲げて、眉間に皺を寄せ、無言でうなずいていた。そのたびに安物の眼鏡が上下に揺れた。
 彼はふと思い出す――昨年、師匠に怒鳴られながら何とか育て上げた、天空の魔力を帯びた道具のことを。空切り鋏・雲塗り絵筆・星吹きストローと名付けられ、ジーナとリュアが初めて研究農園に迷いこんできた日に彼が贈った不思議な草のことを。
「と、いうわけじゃ。……ふっうぉーおァ」
 言い終わってから、カーダ氏は椅子に座ったままの姿勢で腕と腰を思いきり伸ばし、大きなあくびをした。次々と襲いかかる強烈な睡魔の攻勢に耐えられず、壊れかけの眼鏡を無造作に外し、幾筋もの谷が刻まれた初老の手の甲で両眼をこすった。
「そして、わしは寝る」
 突然に話を打ち切った博士は、作業机の上に開きっぱなしになっていた分厚い専門書に突っ伏し、腕で頭を抱えるようにして眠る体勢を整えた。後で首が痛くなるのは分かっているが、暖炉を炊き続けている室内の空気は温かく淀み、眠気を誘った。

「貴重なご助言、ありがとうございます」
 テッテは真摯な気持ちで深く頭を下げた。さっきまでの興奮は冷めて、体の奥にじっくりと力の源が染み渡ってくるような、奇妙で新鮮な感覚に捉えられていた。左手に握りしめていた四つ折りのメモ用紙が汗で湿っていることに、今さらながら気づく。
 カーダ博士は早くもいびきを立て始めている。最初は偽物のいびきに聞こえたが、いつの間にか本物と入れ替わっていた。

「夢、か……」
 雫の浮かぶ窓辺に近づき、若い弟子は野原を眺めていた。
 外に広がる丘や森、くすんだ空は遠い春を待ち望んでいる。
 傍らで寝息を立てているカーダ博士も、夢を彷徨っている。
 たまに遊びに来るジーナとリュアも。
 そして自分自身も――。

「よし、決めた」
 師匠を起こさないよう小声でつぶやいたテッテは、靴の足音に気を付けながら部屋を出ていった。だいぶ火の勢いが弱まってきた暖炉には、黒く炭化した角材がうずたかく積もり、まだ燃えはぜっている部分は黄色の焔をあげて室内に暖を振りまく。
 戻ってきた時、テッテは一台の天秤を胸に懐いていた。手先の器用なフレイド族が作り、観賞にも堪えうるほどの美しさを誇るが、実用的でもある精巧な秤だ。古びてはいるが、男爵の息子だったカーダ氏がずっと大切にしてきた貴重な一品である。
 幾つかの小皿に分けて狭い出窓に並べておいた粉末のうち、テッテが最初にスプーンを差し伸べたのは、紫色をした〈夢幻の魔力〉の抽出物だった。それから他のエキスを混ぜたり、割合を変えたりし、深めの皿に移し替えた。もちろん内容物と、区別するための皿の模様をメモ用紙に記入することも忘れない。
 汲み置きの水と、触媒の薬品をそれぞれの深皿に加えて良く溶かし込んだ特殊な液体へ、最後に同じ数ずつ植物の種を沈める。一晩浸けておけば、実験に用いる種子は完成である。

「出来た……」
 池に氷が張るほど冷え込んだ翌朝、紫や青や緑色にうっすらと染まった種をつまみ上げて、テッテは息を飲んだのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 使い古して刃こぼれしている鉄製のシャベルで土を掬い上げ、そっと種の上にかけて、テッテは一息ついた。冬の真ん中だというのに、黒い上着はとっくに脱いで近くの木の枝――天然の洋服掛けに預けていたし、脇の下や腕、足や背中や腰の辺りはうっすら湿っていた。作業用の軍手の中も蒸している。
 眼鏡を外して額の汗を服の袖で拭い、弟子は独りごちる。
「これで良し、と」
 実験的に作り上げた冬蒔きの花の種を埋めたのは、とても風の冷たい日だった。空は良く晴れていて、他のどの季節よりも空気は澄み渡り、どこまでも深い蒼に染められていた。葉の落ちた木々の梢に垣間見えた近くて遠い天の大地は、まさに水色の彩りの濃淡だけで描いた神殿のステンドグラスであった。

 それからテッテは、晴れた日も雨の日も、曇りの日も風の日も、毎日のように自分の区画を見に行った――と言っても、広い〈カーダ研究農園〉の管理は、腰がだんだん悪くなってきている博士に代わって、元々テッテの仕事である。彼が与えられたのは研究農園の隅の一角だったので、負担にはならなかった。
 面積で言えば、テッテの畑の管理はおまけのようなものであったが、彼にとってはその小さな領域こそが最も大切だった。

「おわっ!」
 自由を求めた水の先兵がチャプンと飛び跳ね、情けない音を立てて森の土を黒く濡らし、無気力そうに斜面を流れ下った。
 木の根につまづいた拍子に、小さな陶器の瓶(かめ)の水はほとんどこぼれてしまう。テッテはしかめ顔で呻き声をあげた。
「うぅ……」
 冬場は乾燥するので、水路も枯れることが多く、その場合は溜め池から汲んだ水を何度も運んで念入りに撒く。カーダ師匠の研究農園は広いので、水撒きは一日がかりの重労働だ。
 カーダ博士の農園を管理するのは以前から任されている事務的な職務である。ところが自らに与えられた区画に撒く時だけは違った気持ちで、とても緊張した。心配で不安だが、大いに期待してしまうような――出産を待つ親心にどこか似ている。
「ああ、こんなに待ち遠しい春ははなかったですよ……」
 見た目には何の変化もない地面を見つめながら、誰に言うともなく自嘲気味に呟く日々が続いた。掘り起こして、根が伸びているか確かめたくて仕方がなかったが、魔法の力を受けた非常に神経質な草を育てるには、芽吹きまで我慢するしかない。

「お兄さん、ここはいつになったら分かるの?」
「春になったら、生えてくるのかな……」
 冬になると日が短くなるため、なじみの少女たちはあまり遊びに来なかったが、ジーナもリュアも彼の区画を気にしていた。
 その度にテッテは穏やかな微笑みを浮かべ、首を振るのだ。
「ええ。まだですよ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 峠は、下る途中で振り返った時に〈あそこが頂上だったのだ〉と気づく。それは季節と季節をつなぐ時の山道でも同じである。
 冷えるだろうと身構えていても、晴れた時に雲間から降り注ぐ見えない光の綿は、少しずつではあるが日を追うごとに温かくなる。良く研がれた鋭角の切れ味が錆び付き始めて、風は軟らかくなり、厚い上着を着て動けばうっすら汗をかく。背伸びしていた凛々しく透明な霜柱が午前中に溶けて、ぬかるんだ土になるのが、この季節を象徴している。むろん、まだ季節の山道は最も険しい段階を通り過ぎたばかりで、一般的には〈寒の戻り〉と呼ばれる急な上り坂もあれば、危険な箇所もあるが――。
 とにかく、長く厳しい冬の峠はいつの間にか越えたのである。寒い日が続いても、予想より寒い日は、きっとやって来ない。

 春に花開く木々には、まだつぼみさえ付いていない雪月(二月)の末頃、テッテは木洩れ日の中で少女たちに語っていた。
「来月になれば色々な花が咲き始めますよ。実は、森が見えないところで一番活発に動く時期は、今なのかも知れませんね」
 花屋の店員をしたこともあるテッテは、珍しく流ちょうに語る。
「ふーん。食べ物やさんのお料理中、みたいなものだよね?」
 八歳のジーナの問いに、お兄さんことテッテ青年は応えた。
「ええ、そうです」
 冬の終わりの〈カーダ研究農園〉は良く耕されており、種がきちんと植えられ、次の季節の準備で忙しい。表に出ない場所ほど強い希望に身を焦がしており、その不思議な妖気と生まれ出ようとする精気が蒸発している。楽しいものは、まだお預けだ。
「ここにいても仕方ありませんから、湧き水へ行きませんか?」
「行こう行こう。リュア、早く!」
「うん!」

 ジーナとリュアは、テッテに与えられた秘密の区画のことは敢えて聞かなかった。二人は遊びに来る途中、事前に打ち合わせて、テッテの方から言い出すまでは知りたくても我慢しようと決めていたから、聞くに聞けなかったのだ。あまりしつこく聞いて彼が嫌がり、結果的に教えてもらえなくなるのが怖かった。
(きっと忘れてしまったのでしょうね)
 少女たちがどれほど好奇心を抑えるのに苦労していたか――それには気づいていないテッテは、驚かせるのが楽しみだと思っていた。年齢は倍以上違うし、そのうち離れて行くことが分かっていても、今は〈友達〉である。普通の花のように短い期間で散らず、葉っぱのように長く咲いている花を見つけた時に弾けるであろう彼女たちの笑顔を、テッテは見たかった。カーダ博士に言われた通りに作った〈空切り鋏〉などとは違い、自分で研究した不思議な品物で少女たちに喜んでもらいたいと願っていた。
 新しい季節を呼ぶ鳥の甲高い歌声が響く中、三人は木の根が浮き出している細い獣道を通り、森の奥へと進んでいった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 真冬の透き通った青さが薄らぎ、白っぽくなった明るい空から降り注ぐ光は強まって、晴れた昼間は汗ばむくらいの陽気となる。弱い雨の日が増えて森はしっとりと湿り、秋に降り積もった落ち葉を濡らし、土の中に染み込んで種を育てる。野原で早咲きの小さな紅い花が咲いたかと思えば、落葉樹のつぼみは少しずつ夢を膨らませていた。春の幕は開くのを待つばかりだ。
 純白の蝶が戯れ、鳥たちは暗くなるまで賛歌を唄い続ける。それほど寒さの厳しくないシャムル島であっても、水は確実に温み、山の雪解け水を集めた河で下流の市街は潤っていた。
「もう数えきれないな」
 森の中では、テッテが改良に使った草は次々と芽吹きの頃を迎えていた。しかし彼の区画にはなかなか変化が訪れない。
 毎日、たとえ用事がなくても通い詰めて様子を確かめ、そのたびに落胆していた二十四歳の弟子に、待ち望んでいた変化がもたらされたのは芽月(三月)ももう半ばを過ぎた頃だった。

 テッテは度重なる失望の結果、あまり強い期待を抱かないように自分を戒めていたので、横目でちらりと〈区画〉を眺めた。
「……ん?」
 目の錯覚だろうか――彼は何かに気づき、怪訝そうな顔をした。眼鏡をかけ直して両目をしばたたくが、それは消えない。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 次なる刹那、博士の弟子は雷にも似た速さで素早くその場にしゃがみ込んだ。双眸は、とある一点に釘付けにされている。
「これは……」
 自然と、溜め息のような声が洩れる。いくら首を動かしてみても、目の錯覚ではない――それが消えることはなかったから。
 ほんの小さな先端が露わになっただけであるが、ゼロが一になったのだ。その間には言葉以上の〈違い〉が存在している。
 大地という厚い殻を破り、確実に芽が生まれ出ていたのだ。
「やった」
 テッテはかすれた声で呟いた。それから感情のままに腕を振り上げ、遅れてやって来た〈実感〉の波に、しばし酔いしれる。
「やった、やったぞォ!」

 その一カ所にとどまらず、数日のうちに芽は幾つも現れた。
 しかしこれはまだ、ほんの第一段階に過ぎなかったのだ。
「ここから先がどうなるか、じゃな」
 芽を見たカーダ博士は至って冷徹に、そう評したのだった。

 最初こそ成功に喜び、芽が増えるたびに頬を紅潮させ、自信を取り戻していったテッテではあったが、カーダ師匠の言葉の意味が重くのしかかってくるまで、さほど時間を要しなかった。
「これも駄目ですか……」
 そもそも芽が出ないものが多かったが、種に魔法のエキスを染み込ませてある花は芽が出てもくきが細くて、そのまま枯れたものもあった。その都度、彼は調合の割合の一覧を記したメモ用紙に二重線を引いていく。いつもの筆が、ひどく重かった。
「やりきれないな」
 テッテは毎朝、自分の区画に寄るのをためらうようになった。見たいような、見たくないような気がしたからだ。それでも結局は見ずにいることができなくて、横目で覗き込み、近づいて見下ろして、堅く瞳を閉じ、頬を強張らせ、溜め息を漏らすのだ。
 全体的に弱々しく、風が吹くと倒れそうなくらいに揺れる。すぐ近くにあるカーダ氏の農園では、同じ花がすくすくと成長しているので、場所や日当たりや土質や肥料のせいではなかった。
「まあ、焦らぬことじゃな。草には悪いがな」
 カーダ博士の励ましの言葉は、いつになく優しくなっていた。

 夢の遠くに、テッテは滝の流れるような音を朧に聞いていた。それは激しく叩きつけるように大地を打つ、水の力であった。
 それらは時に勢いを弱め、盛り返しながら、一斉に降り注いでいた。あまたの透明で大きな粒が、冷たさと潤いとをもたらす。
「ん……」
 木で作られた狭くて硬い箱に布団を乗せただけの簡素なベッドで寝返りを打ち、薄明かりの中で夢うつつを彷徨うテッテは、未だに続く滝の音を聴いていた。目を半分だけ開き、農作業の筋肉痛と眠気に顔を歪め、もう一眠りしようかと思った矢先だ。
「……水?」
 彼はゆっくり上半身を起こし、カーテンの裾を持ち上げて外を眺めた。涼しさの天使が舞い降りたかのように、ひんやりとした空気がさざ波のように寄せてくる。野は灰色にけぶっていた。
 早朝の気まぐれな春雨が、明け方の丘に降り続いている。全てを湿らせ、命を育てる水であり、と同時に、奪う水でもある。
「は、花が!」
 テッテは飛び起きて、上着を貪るように羽織り、寝室を駆け抜け、ドアを開けるのももどかしく思いながら、外に飛び出した。
「何じゃ、騒々しい……」
 カーダ氏の不満げな愚痴は、やがて寝息へと変わってゆく。

 冷ややかに、機械的に降り続く雨には優しさがなく、痛いほどだった。髪の毛は一瞬にして濡れそぼり、頬を幾筋もの水の河が止むことなく流れ続けた。服は重みを増し、ズボンは色が変わるほどで、肌にへばりついて気持ちが悪かったが、彼は野を疾駆した。何度も滑り、泥だらけになるが、彼は走りに走った。
 森に入ると、直接的にぶつかる雨粒は減ったが、針葉樹の木の葉や広葉樹の花を、相変わらずの強さで空からの水の使者が打ちつけていた。それらは奇妙な楽器と化して、せせら笑うがごとくに響き渡る。跳躍する驟雨は霧を呼び、風を呼んだ。

「あぁ……」
 目的の場所に着いた時、テッテは畦道に両膝をついた。泥が跳ねて、ズボンが茶色く汚れる。息が上がり、肩は激しく上下し、胸の鼓動は乱れ、服の中は熱気と湿気で蒸している。曇った眼鏡には水が滴り、髪は千々に乱れていた。むろん、心も。
 彼にはなすすべがなかった。雲がぶちまけた春雨は、広場の中で下流に位置していたテッテの小さな区画に濁流となって注ぎ、細くても懸命に生きていた魔法の花々を根こそぎ流した。
 のろのろと起きあがり、近づいてみると、水の流れから微妙に離れて芽吹いていた一種類だけが奇跡的に生き残っていた。

 雨はまだ止みそうにない。彼の瞳から熱い涙が溢れたが、それは雨に溶けて地面にこぼれ落ち、どこかへ消えてしまった。
「僕が、研究を始めたばっかりに……」
 それから数日、テッテは高い熱を出して寝込んだ。遊びに来たジーナとリュアは、彼の姿を見いだすことが出来なかった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「やっとこれで普段の研究に戻れるわい。とんだ無駄じゃ。この分と薬代は、給料から引いておくぞ。全く、この忙しい時節に」
 看病せざるを得なかったカーダ博士は、自分の仕事が倍以上になってしまったため、テッテが元気になるに従ってさんざん文句を言った。衝撃的な雨の出来事から数日後、晴れた日の朝に、テッテはようやく農場管理の仕事に復帰することとなった。
「すみません。では行って来ます」

 病み上がりの狂った感覚では、世界と混じり合うのに時間がかかる。いつもと違って新鮮ないつもの道を踏みしめてゆき、坂のきつさに汗をかいた。太陽は斜め上から照らし、森の木洩れ日の記号は様相を変えている。草の表面には朝露のかけらが残り、地面は乾いていた。鳥たちはのどかに春を唄っている。
「残念ですが、仕方ありません」
 木の根をまたぎ、独りごちたテッテの横顔は晴れ晴れとしていた。揺れる世界の向こう側に彼は新しい夢を見つけていた。
「あの花で研究するなら、また来年……」

 気持ちを切り替えたテッテだったが、数日見なかったうちに懐かしささえ覚える森の広場に来ると、再び目を見張ったのだ。
「おや?」
 風が舞い、わずかな土埃を手で掻き分けて彼が向かった先は、小さいけれどもとても大切な、自分に与えられた区画だ。
 近づくに連れて、疑念は期待と変わり、確信へと昇華する。
「信じられない」
 彼の震える声は最初、予想外の驚きに彩られていた。泣き笑いのような表情を浮かべて、無意識のうちに腕を差し伸べる。
「生きていたとは……まだ生きていたのか!」

 荒れくるう自然を体現していた先日の豪雨で奇跡的に生き残った一本の草は、他の草に比べるとかなり遅かったし見栄えもパッとしなかったが、それでも背丈を伸ばし、根を張り、くきを太らせて成長していた。草なりに、生命の炎をほとばしらせ、適応していこうと必死だったのだろう。もう風が吹いても大丈夫だ。
 むろん、ちょっとやそっとの雨が降っても――。

 そしてテッテを最も驚かせたのは、本来ならば緑の葉が茂るはずの場所に、碧色のつぼみが出来ていたことだった。可憐で美しく、繊細で淑やか、しかも力強さを内に秘めたつぼみだ。
 テッテの目頭は熱くなったが、もう泪が流れ出ることはない。
「僕はもう一喜一憂しません。そりゃあもちろん、このつぼみが開いた時に薄桃色の花が咲けば、どんなにか嬉しいだろう!」
 くきを握り、相手の首を起こしながら、彼は優しく呼びかける。自分が表現出来る限りの想いを、一つ一つの言葉に乗せて。
「でも、あなたはあなたらしく、花を咲かせていいんです」
 甘い香りを含んだ、穏やかな春風が森を縫って通り過ぎてゆく。テッテの耳からは、いつの間にか鳥の歌声は消えていて、不思議な静寂の世界につぼみと二人だけで向き合っていた。
「そのための協力は、僕は惜しまないつもりですよ」
 そうして彼は誇らしげに胸を張り、素直に口元を緩ませるのだった。満開の春が、いま、この場所から拡がってゆく気がした。

「ようやく一歩……いや、半歩くらい、進んだようじゃな」
 木陰から様子を伺っていた師匠が、目尻を下げるのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 翌日、テッテがカーダ博士を連れてやってくると、葉っぱの位置に生まれた碧のつぼみがすでに開かれて、つぼみと同じ色の花が咲いていた。新しい変化としては、本来、花のつぼみが出来る位置に、桃色の可愛らしい葉が生まれていたことだ。
 ジーナとリュアに喜んでもらいたくて、葉のように長く咲き続ける桃色の花を咲かせる研究を始めたテッテだったが、結果としては成功しなかった。それでも彼はすっきりした声で語った。
「きれいな緑色の花です。僕としては、上出来だと思いますよ」
「フン」
 カーダ博士はいつも通り鼻で笑い、表情を変えずに告げる。
「ま、この花については来年、やり直すことじゃな。この場所は貸してやるから、夏の花で研究するなり、好きにするがいい」
「ありがとうございます、師匠」
 日焼け顔のテッテは真摯な気持ちを込めて礼を言い、姿勢を正して深く頭を下げた。それから足元を見て、小声でつぶやく。
「生き残った草と、亡くなった草にも……ありがとう」
「自分でやってみて、色々なこと――難しさや楽しさが少しは分かってきたじゃろう。体験しないと分からぬことは山ほどある」
 カーダ博士はやや遠くを見つめ、昔を振り返るような口調で語る。空には薄雲がかかり、やや蒸し暑い春の昼下がりだった。
 
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 それから二、三日が経った。いつもの日課として〈カーダ研究農園〉で独りで仕事に没頭していると、聞き慣れた声がした。
「テッテお兄さーん」
 紛れもなく、デリシ町に住んでいて学舎に通っている八歳のジーナの甲高い声である。きっと、親友のリュアも一緒だろう。
(そういえば、今日は夢曜日……学舎はお休みですね)
 彼は手を休めて顔を上げ、膝に力を込めて立ち上がった。額から汗がこぼれ落ちる――今日も快く晴れ渡り、暖かい日だ。
「ようこそ、いらっしゃい。お久しぶりですね」
「こんちは、お兄さん! この前、来たけどいなかったよ?」
 先に着いたジーナは、小さな身体から有り余る元気を発散させている。もうすぐ誕生日が来て、彼女は九歳になるはずだ。薄い黄色の長袖を着て、焦げ茶色の長ズボンを履いている。

 森の中に、ふらふらになりながらも駆けてくるリュアの姿が見えてきた。白いブラウスに、春らしいクリーム色のスカートを合わせ、春めいている清楚な桃色のポーチを肩から下げていた。
 ジーナは間髪入れずに、遊びに来た理由と目的を説明する。
「リュアが見つけて、テッテお兄さんの仕業って言い張るから。確かめたくて、急いで来ちゃったよ。ねぇーっ、リュアーっ!」
 最後はようやく追いつけそうなリュアに向かって呼びかけた。
「えっ? 僕の仕業……ですか?」
 他方、テッテはいぶかしげに口ごもった。すぐには心当たりが見つからない。ここ数日は水を撒いたり、不要な枝を切ったりするので忙しく、何か不思議な現象を起こした憶えは特にない。

 その時、息を切らしてやってきたリュアが二人の前で立ち止まり、話は中断する。ジーナよりも身体が華奢で、やや背丈の高いリュアは、両膝に手を置いて上半身を前かがみに倒し、苦しそうに呼吸を繰り返していた。月の光で編んだかのような麗しい銀色の髪も埃まみれ、汗まみれだ。背中も汗で湿っている。
「はぁ、はぁ……」
「大丈夫ですか?」
 心配そうにテッテが訊ねると、応えたのはジーナだった。
「あんまり、大丈夫じゃないと思うよ。ちょっと休憩だね」
 するとリュアは恨めしそうに顔を上げて、苦しげに指摘する。
「まぁたジーナちゃん、森に入ってから急に走るから……」
 他方、ジーナは悪戯っぽく笑い、ぺろりと舌を出すのだった。
「へへ……」

「ふふふっ。お変わりありませんね」
 テッテが言う。太陽が薄雲に隠れて、全ての彩りが一歩ずつ後退した。小鳥たちは今日も、高らかに楽しげに唄っている。辺りには陽の匂いと、森の匂い――木の幹や枝や、草や花や、虫たちや蝶の匂いが混ざっている――が、微かに漂っている。
「でも、リュア、あれを良く見つけたよね? ゆっくり歩くと、あんな発見があるなんて驚いたよ。あたしには絶対、無理だもん」
「ジーナちゃんが『すぐ行こう』って言わなかったら、リュアだけじゃ、テッテお兄さんに教える勇気が出なかったかも知れない」
 落ち着いてきたリュアは、親友のジーナを見つめて言った。
「まぁ、そうかもね」
 はにかんだジーナは、鼻の頭を人差し指でこするのだった。
「そうでしたか。リュアさんだからこそ見つけられて、ジーナさんの行動力で、ここまでいらっしゃったわけですね。お二人が見つけて、届けてくれたもの……それは一体、何なのでしょう?」
 テッテは好奇心にかられて、微笑みながら訊ねた。もしも、その品物が自分と関係ないと分かると、ジーナとリュアが落胆するのではないか、とほんの少しだけ不安な思いを抱きながら。

「リュア、早く見せてあげなよ」
 ジーナに促され、リュアは肩から提げていた桃色のポーチの入口を開けて中身を探り、すぐに一冊の茶色の本を取り出す。
「本ですか?」
 あまりに意外だったのでテッテが訊ねると、相手は軽く首を振った。リュアは不器用な手つきで、おもむろにページを繰り始める――せっかく見つけ出した〈宝物〉を壊さないよう、慎重に。
 テッテは時間の流れ方が遅くなったように感じていた。胸が高鳴って、どんなものを見せてくれるだろうと期待が膨らむ。たくさんの想像が頭の隅をよぎっては、次々と流れ去っていった。
 何故か無性に心臓の辺りが苦しくなってきた。まばたきの間隔が速くなり――テッテは無意識のうちにその回数を数えた。

「一二、三、四、五、六……七……」
 その間、リュアの手の動きは緩慢になり、ついに止まった。

 彼女はページの間に挟まっている〈もの〉を、華奢な人差し指と親指で注意深くつかむ。それを、そろりそろりと持ち上げる。
「これなの」
 リュアは腕を伸ばして、テッテの目の前にまで運んでゆく。

 一瞬ののちに。

 まるで新しい大地が、鮮やかな空が、生まれたかのように。
 どこかで見覚えのある色が、突如、彼の前に拡がった。

 自分の心臓の鼓動が、ずっと遠くに聞こえていた。
 表情が止まり、息さえもできない。
 彼はつばを飲み込んだ。
 眼を見開いたままで。

「これ、テッテお兄さんのお花……葉っぱ?」

 自信なさそうに、困ったように訊ねるリュアの無垢な言葉が、呆然と立ち尽くすテッテの魂へ直に響き――時が動き出す。

「え、ええ……僕の花です、確かに、これは、僕の〈花〉です」
 青年は途切れ途切れに、そう返事をするのがやっとだった。
 それを聞いたリュアは、まずはほっと胸をなで下ろしてから、やや頬を膨らませて親友のジーナの方に向き合うのだった。
「ほぉら、ジーナちゃん。やっぱり」
「でも、行こうって言ったのはあたしだから、二人の成果だよ」
 瞬間的にたじろいだジーナだったが、機転を利かせて調子よく誤魔化す。リュアは肩の力を抜いて、安らいだ顔になった。
「うん。でも良かった、本当にテッテお兄さんのお花で!」
「桃色の葉っぱなんて、不思議だよね。すごくきれいだし」
 ジーナが大はしゃぎする。リュアも顔を上げて、感想を言う。
「桃色の葉っぱ、本当に素敵だと思うよ。葉っぱがリュアを呼んだのかな? 風さんがちゃんと運んでくれて、すごく嬉しい!」

(これで良かったんですよね……)
 ――ありがとう。ジーナとリュアに対して。師匠に対して。風と太陽と水。そして何より〈話を聞いてくれた〉草に対して――。
 テッテはもう、他のことは何も考えられなかった。
 ありがとう、ありがとう。本当にありがとう。
 彼は自分を取り巻くもの全てに感謝して、立ち尽くしていた。

 研究は失敗したけれど、一つの小さな夢はこうして叶った。
 熱い銀色の涙の珠があふれ、揺れてかすむ視界の中には、待ち望んでいたジーナとリュアの弾けるような笑顔があった。

(了)



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