お掃除と水やり

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 街道から少し外れた野原で、草の色は優しく色褪せ、深まる秋を静かに告げている。土も空気も乾き、薄曇りの空は所々で青空が覗いていたが、陽はヴェールの後ろで鈍く光っていた。

 レイベルは漆黒の瞳を何度も瞬きし、まばゆい空を見上げて、友達のナンナの姿を追っていた。十二歳の小さな〈魔女〉のナンナが特製の古びたほうきにまたがって飛んでゆけば、その軌跡は真昼の流れ星になる――それはあながち誇張ではない。
 
 山の幸の焼き魚に切り込みを入れるがごとく、雲が開いて青空の河が細い筋となって拡がってゆく。他方、ナンナのほうきに運ばれた雲は、うずたかく積もり、濃い灰色に近づいていった。

「えっ?」
 突如、地上のレイベルは目を見張り、口を軽く開けたまま立ち尽くした。薄紫の縁取りのついた白いロングスカートの裾は柔らかな風にたなびき、足元ではシロツメクサの花が揺れている。
 その視線の行く先は、ナンナと自分を隔てつつも、もっと大きな所からつつみこんでくれているような〈空〉に注がれていた。
「すてき……」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 魔女のほうきで、まさに〈空の掃き掃除〉をしてきたナンナは、やがて一息つくために友のレイベルの待つ地上へ降りてきた。
 薄桃色の胡麻のようだった姿がだんだんと大きくなり、手前に近づきながら高度を下げる。これだけ広い野原ならば無理のある鋭角で急降下しなくて済むので、ナンナは多少左右に揺れながらも順調に降りてきた。高らかに、妙な叫び声をあげながら。
「ひょーお」
 最後は靴裏で草を擦り、土ぼこりをあげながら後ろに体重をかけてバランスを取り、精神力のブレーキを強めてほうきの速度をゆるめる。完全に止まる際どい瞬間、草の野原に足を着いて踏ん張り、腰を一気に持ち上げる。都会の学院の試験に合格できなかった落ちこぼれ魔女のナンナだが、とても高度な魔法である〈空を飛ぶこと〉だけは何故か職人芸の域に達する。

「ふぃー、のど乾いた」
 止まると、長い距離を全力で走り終えた時と同じように汗が噴き出してきて、薄桃色のシャツを湿らせた――長らくの精神集中のためだ。手の甲で額を撫でると、半透明の雫がこぼれた。
 少し眩暈(めまい)がしたが、ナンナはほうきを跨いで右手に持ち、杖のように地面についた。ゆっくりと辺りを見回していく。
 遠くには山々が連なり、近くには黄色や赤に衣替えを始めた北国のナルダ村の悠久の森が広がっている。馬車がやっと通れるほどの細くて頼りない街道は野原の緩い峠を越えていく。
 吹き抜ける風が、三つ編みにしたナンナの金の髪を揺らす。

 その時だった。
「ナンナちゃーん!」
 聞き覚えのある声を耳にしたとたん、ナンナの顔からは疲れが吹き飛んで頬がほころび、可愛らしいえくぼが左右に出た。
「レイっち〜! ここだよ〜」
 ナンナは右手で大切なほうきの柄を握りしめて、地面に立てかけたまま軽く寄りかかり、左手を大きく振った。視界の隅に広がる空には、幾筋もの青い線が引かれている。掃除した跡だ。

「おつかれさま。汗で風邪をひかないでね」
 レイベルは用意しておいた白い手ぬぐいを差し出した。綿の草の繊維で織られた厚手の布で、汗を拭くにはもってこいだ。
「ありがと☆」
 微笑みを浮かべて受け取ったナンナは、しばらく花の刺繍のある上品なタオルの中に顔を埋めていた。額と頬と首をこすった後、今度は秋よりも春にふさわしいような桃色の服の後ろをめくって背中の汗も上手に拭き取った。専ら黒髪族が住むこの辺りでは珍しい、金の髪を持つナンナには明るい服が良く似合う。

「どうだった?」
 待ちきれずに訊ねた村長の娘のレイベルは、ナンナの表情が曇ってゆくのに気づく。まるで、あの乾いた灰色の空のように。
「なかなか難しいねー」
 ナンナは左手を腰に当てて、息を吐き、あてもなく天を仰ぐ。魔女のほうきで掃除した雲は黒っぽくなって一箇所に固まっているが、少量で、今のところ雨の降り出すような気配はない。
「あっ、ナンナちゃん、あれ見て!」
 レイベルは急に〈いいこと〉を思い出して、人差し指を思いきり掲げて伸ばした。さっき、それにずっと見とれていたから、ナンナの出迎えが遅れてしまったのだ。レイベルは手首を回して、場所を示した。その声は快活で、しかも聡明な響きがあった。
「ほら、あそこ! えーと、ちょうどナンナちゃんの通ったあたり。ほんの少しだけ、下かな……。きっと、あのすてきな光を見れば、元気が出ると思うわ。もう少し右。うん、そう、その辺りよ」
「どれ〜? うーん……あっ!」
 空のかなたで、ナンナとレイベルの視線の焦点が重なった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「うわー☆」
 ナンナは大きな蒼い瞳を二、三度瞬きさせながら感嘆のため息をつき、思わず上半身を乗り出すようにして、目を凝らした。
 色とりどりに塗り分けられた明るく微細な〈光の果実〉たちが、そこに舞っていた。まぶしい赤や青がちらちら輝いているかと思うと、紫や黄色や緑が砂か煙のように渦を巻き、その合間に橙や水色も見える。あまたの子供の虹の橋が架けられて、いつか見た夢の中に吸い込まれてしまったかのようだった。それらの〈天の宝石〉たちは広がったり薄まったり、一つの形に留まらないで、絶えず〈夢幻の変化〉を繰り返している――生きている。
 もしも冴えた満月の光が夜風に飛ばされることがあれば、こんな雰囲気になるだろう。しかも今、灰色の雲と青空の河を背景に展開している奇跡では、めいめいの光は単色ではなく、ありとあらゆる彩りがある。じっと見ていれば、赤と橙の間の色、そしてその間の色と、無限に見つけ出すことができた。その中にはナンナの髪の金色や、瞳と同じ青も確かに混じっていた。
 再びうっとりと陶酔したまなざしを送っているレイベルの横で、ナンナは溢れるほどの好奇心を声に乗せて空に問いかけた。
「どうなってんの〜?」
 魔法の道具で巨大な虹の珠を作ったことがある二人だが、あれとは異なる、ささやかできらびやかな芸術もまた魅力的だ。
「虹の粉が……シャボン玉の中にいるみたい」
 レイベルの震えるささやき声が、彼女の感動を伝えていた。

ちょっと違うけど……虹の橋(2003/09/21)

 小さな魔女が薄く霞んだ乾いた空をほうきで掃き、とても掃除は終わらなかったけれど、一箇所に雲を集めて灰色に積もらせた。そのちりとりは、遙か下の方に広がっている野原全体だ。
 時たまパラパラと天気雨のように気まぐれな雨粒が降って、二人の髪を少しだけ湿らせる。やがてナンナが開いた青空の河は、西から流れてきた雲に押されて細くなり、だんだん消えていった。透明で光り輝く絵の具を散らしたような色とりどりの天の祭典も収束してゆく。レイベルはいつの間にか祈るように組んでいた手をゆるめて、横の友に向き直り、優しく語りかけた。
「ナンナちゃん。雨は降らなかったけど、とってもすてきだった」
「ちょっと悔しいけどね〜」
 宝石の彩りが弱まり、現実に戻り始めていたナンナは、地面に立てていたほうきの柄を握り直し、遠い雲の波を仰ぎ見た。

 と、その時である。
「ぴろ、ぴろ!」
 なじみのある鳥の声がして、十二歳の少女たちは振り返る。
「ピロ!」
 二人の声が重なる。
 一生懸命に小さな翼をはためかせてやってきたのは、雪よりも真っ白な天使、ナンナの使い魔であるインコのピロだった。最後の飛翔を続けたピロは息も絶え絶えに主人の肩に留まる。
 ピロは黄色いくちばしを開いて荒い呼吸を繰り返し、瞳を見開いて呆然としている。ナンナは驚いて訊ねるが、そのまなざしはわざわざ遠くまで迎えに来てくれた、か弱くも魂の美しい大切な小鳥のことを思って、湖よりも深い慈しみに溢れていた。
「どーしたの? こんなとこまで頑張っちゃって」
 その答えをまもなくナンナとレイベルは知ることになる――。

 ゴロ、ゴロ……。
 不吉で恐ろしい、低い音の空の太鼓が遠くの方で聞こえた。
 いつの間にか、明らかに黒い雲が西から進んできていた。
「雷雲(かみなりぐも)かな」
 レイベルがぽつりと言う。その声色は不安に彩られていた。
「恵みの雨かもね?」
 他方、ナンナは嬉しそうに言う。肩にとまっているピロは、その主人の首をくちばしでつつき、必死に見上げて何かを訴えた。
「ピロ、ピロ!」
「こらー、ピロぉ、痛いよ!」
 困ったように左手を伸ばし、ナンナは相手をつかもうとする。ピロは上手に避けて、今度はナンナの頭の真上に乗っかった。
「まあまあ。きっと知らせに来てくれたんだわ」
 冷静に判断して、一人と一羽の仲を間を取り持ったのは隣で見ていたレイベルだ。黒い髪の村長の娘はさらに提案をする。
「雲の掃除はお預けね……雨の降らないうちに帰りましょう」
「あたしが降らせる必要はなくなったもんね。帰ろっ」
 ナンナが軽くうなずくと、その弾みでインコのピロは主人の頭を離れ、器用に翼をはためかせてレイベルの肩に舞い降りる。

「ナンナちゃんが頑張ったから、天も味方してくれたんだわ」
「そ、そっかなー。えへえ☆」
「ぴゆぴゆ……ッチュッチュ」
 一人は肩に白い小鳥を乗せ、一人はほうきを抱えた少女たちの姿が、薄紫のアルメリアの花園の向こうに遠ざかってゆく。
 誰もいなくなった草原の色褪せた草は湿り気の混じった風に揺れていた。最近のすばらしい晴天続きで、雨を待っていた草たちも、今日は久しぶりにたっぷり飲むことができそうだった。

(了)



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