闇鍋と目玉焼き

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 気温はいつしか零度の境界線を下回っていた。大地の水分は今まさに凍りつき、霜柱がゆっくり立ち上がろうとしている。
 森の奥は背の高い針葉樹に星明かりも阻まれた漆黒の世界で、ミミズクさえ深い眠りにつき、外気は鋭く冷え切っていた。
 いわゆる〈丑三つ時〉を過ぎ、夜の峠はもう越えたはずなのに、きたるべき森の朝は終わらない冬のごとく遠いものとして、闇の粒子がいよいよ自らの時間を謳歌している。何ものも動かず、何ものも見えず、ただ変化するのは甲高い北風の唸り声だけであった。微かに白く夜空に浮かぶちぎれ雲はあっという間に吹き飛び、凍える星はその度に金や銀の瞳を瞬きさせた。
 その森の奥に古びた一軒家があった。もちろん今はその姿さえ闇の海原に溶けて沈んでいるが、もしもこの夜、不幸にも道に迷って近づいた者がカンテラを掲げたならば、その窓は固く閉ざされ、厚いカーテンが下ろされていることに気づいただろう。

 やがて、真の闇につつまれた、その内側で――。
 部屋の片隅のベッドがきしみ、何かが動く気配があった。
 そして限りなく皺がれた声が低く発せられたのであった。
「そろそろ、時間よのゥ……」

 パチン。
 突如として、人知れず軽い音が弾けた。
 誰かが指を鳴らしたような乾いた響きだ。
 すると天井から針金で吊るされている古びたランプの輪郭が一瞬だけ鮮烈に輝き、すぐに元の闇に戻った。と思うと、その雷を思わせるきらめきがじわりじわりと内側に染みこんだかのように、ランプ全体がぼんやりした黄蘗(きはだ)色に点り始めた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ランプの明かりが届くか届かないかの朧な境界線をまたぎ、部屋の片隅に置かれているベッドの枕元に、痩せていて血管が異様に浮き上がって見える皺だらけの二本の手が現れた。
 肌のひび割れたその手は、とても寝起きには見えない落ち着いた動作で上半身の布団を神経質に剥いだ。ついで、ひどく年老いて目だけを輝かせている一人の男がのっそり身を起こす。
 爪をランプの光にきらりと光らせ、軽く首を振りつつ呟いた。
「やれやれ」
 彼は柔らかな布地で編まれた漆黒の帽子をかぶっている。かなり長い帽子で、しだいに先は細くなり、その端には拳よりも少し小さいくらいの艶やかで謎めいた黒い珠が付けられていた。

 さて老人はベッドの脇に腰掛け、右脚を床に下ろそうとした。
 その寸前、さっきまで寝転がっていた黒い革靴――爪先が尻尾のように上向きに曲がり、先端は長く尖っており、見たところ何十年も使い込まれたようだ――が、さっと起き上がって、やはり痩せ細った男の足を従順に受け入れた。彼が腰を移動させ、後ろ手について左足を下ろせば、今度は逆の靴が従った。
 男はベッドに立てかけてある妙にクネクネと曲がった樹の杖を手に取る。彼が一つ一つの動作をするたびに、淡い輝きを受けて窓際にぼんやり映った薄く巨大な影も真似をして揺れ動く。
 だが、時折――口うるさい上司がいなくなって急に怠惰になる部下のように、動きを最後までやらず適当に済ませることがあった。面倒臭い、とでも言いたげな、やる気の無さを隠して。
「この馬鹿者めが。ちゃんと働かんと、消してしまうぞ」
 背後の出来事なのにも関わらず、老人はそちらの方向を見ようともしないまま目線だけをギョロリと横に動かして、吐き捨てるように言った。彼はベッドに左腕をついて身体を支え、足の裏に力を込めて右腕と杖に体重をかけ、難儀な様子でゆっくりと立ち上がる。ベッドは不気味に低く長い音を立ててきしんだ。
 少し腰の曲がった老人の、壁際に映るランプの光に揺らぐ影法師は、主人の厳しい一喝を受けてすくみ上がったようだ。今はもう、どこかぎこちない動作で相手を真似するだけであった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 男は慎重な足取りで、古めかしい彫刻の施された四角いテーブルを避け、吊り下げランプのほぼ真下を通り、暖炉の方に向かって歩いていった。灯火は老人の頬や額に刻まれた深い皺と、顎の右側に膨らむイボ、目の下の窪みを強調して照らす。
 下僕の〈影法師〉は老人がランプに近づくにつれて駆け足になり、色は濃くなった。それを越えてしまうと反対側に回り込む。
 灯火の色は一見、淡く儚く、優しく暖かそうなのにも関わらず――その裏側にはまるで鬼火を彷彿とさせる不気味さを伴っていた。ちらちらと妙にまたたきながら燃えているからだろうか、それは檻に囚われた動物の目のごとく、スキあらば抜け出して、大きくはびこりたいという野心を抑えているようにも思える。
 もしも森の一軒家に近づき、不吉な思いを抱きつつも助けを求めようと窓にカンテラをかざす迷い人が、カーテンの隙間から洩れいずる僅かなランプの光の妖しげに蠢動する気配に気づくことがあれば、そのとたん背筋の凍りつく思いをすることだろう。

 さて、その頃、部屋の中では――。
 腰の少し曲がった男は床の木の板をコツコツと革靴で踏みしめ、ゆったりとした一定のテンポで曲がりくねった杖をついて歩いていた。玄関の脇の衣文掛けで眠りについていた丈の長い黒のローブが、突然目を覚ましたかのように、コウモリを思わせるような形で軽々と宙に浮かんではためき、次の瞬間には目にも留まらぬ速さで老人のもとに舞い降り、一陣の風が吹いた。
 その刹那、老人は漆黒の長衣に覆われ、溶け合ったかのような状態になったが――僅かののち、男は上着を羽織っており、何事も無かったかのように靴を鳴らし、杖をついて歩いていた。
 やがて彼は煙突の下、暖炉のそばに到達し、足を止めた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 パチン。
 老人が再び指を鳴らすと、少し遅れて確かな反応があった。燃え尽きたはずの炭化した樹の棒がみるみるうちに生気を取り戻したのだ。黒ずんで粉々になった角材は寄り集まって、昨日の昼間に伐ったばかりのような本来の幹の色へと還ってゆく。
「ほれ」
 パチン。
 時期を見計らってなされた黒ずくめの老人の指の合図とともに、部屋の隅に赤い色が生まれた。暖炉に炎が灯ったのだ。
 暖炉には底の丸い鉄鍋が吊されており、赤い舌を思わせる炎が鍋底を舐めるように伸長しては、また引っ込めるのだった。

 炎の子の燃えはぜる音が静寂の夜の中で響き、炭化は不規則に進行する。ひどくしわがれた声が不吉な笑い声を上げた。
「これぞ本当の闇鍋じゃよ、ヒョヒョッ」
 それからしばらくの間、彼は見えない椅子に体重をかけて立ち尽くしていた。湯気が吹き出す頃合いを見計らって蓋についている紐を引き、老人は鍋の蓋を持ち上げる。その時に彼が見たものは、盛んに泡を膨らませては沸騰する漆黒の闇だった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 腐敗した沼地を彷彿とさせる大きなあぶくはゆっくりと一定の速度で膨らみ、極限まで達すると重々しく割れた。その間隔がしだいに狭まり、幾つもの泡が繰り返し弾け、音を響かせる。
 鍋は熱くなり、炎は燃えはぜる。しんしんと冷え切った未明の時間の中で、ぬばたまの艶やかな黒髪のごとくに渦巻いている中身とは裏腹に、鍋は盛んに白い湯気をあげている。今はまだ本当に朝がやってくるとは信じられぬほどの森の深更だが、蒲公英色のランプの明かりを微かに浴びた湯気は、夜の真っ只中にありながら澄みきった透明な朝の靄を遠く予感させる。
 暖炉の傍に立ち、鴉色の長衣を身にまとった老人は、いつの間にか簡素な丸い椅子に腰掛けていた――闇を凝り固めたような黒い椅子だ。そして彼は柄の長いお玉を手に、具がなく香りはなく色さえもない鍋の中身を丹念にかき混ぜるのだった。
 赤く染まる薪はパチパチと鳴り、光と炎を吐き出している。闇鍋の泡は次から次へと膨らみ、弾けて、勢いは強まる。さっきまで静寂に覆われていた部屋の片隅は活き活きとしていた。

「もういいじゃろう」
 椅子に腰掛けていた老人は、手にしていたお玉を適当に放り投げる。するとそれは短い放物線を描いて飛び、地面に激突する寸前で、ふっと消えてしまった――完全に、跡形もなく。闇という引き出しから持ってきた調理道具を、返却したかのようだ。
「ちゃんとしまっておくんじゃぞ」
 ひどく年老いた皺だらけの男が、不吉な笑みを浮かべて釘を刺したのは、天井から吊されたランプの灯火に薄く伸びた、彼自身の〈影〉であった。老人が椅子に座ったままだったので、しばらく気を抜いていた〈影〉は、ビクッと背筋を伸ばしてすくみ上がり、暗闇の裏の世界で一時、慌ただしく奔走するのだった。
 それが落ち着く頃、男はまた絶妙なタイミングで指を鳴らす。

 パチン――。
 すると、暖炉の薪に目に見える変化が起こった。
 巻き上がる炎は収縮し、炭化した角材が紅く染まるだけになった。つまりは火加減が、強火から弱火に変わったのである。
 煮えたぎっていた鍋の中身の漆黒は、しだいに泡の盛り上がる速度が緩やかになった。そのうちに泡はとても小粒になり、それさえも迫り来る夜気に溶けて失われ、艶やかな風のように不思議な無限の透明感が増していった。そして光り輝く砂粒のごとく、金や銀や、青白かったり赤っぽかったりする微細な結晶が、漆黒の鍋の中に数えきれないほど浮かび、瞬いていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 しばらくの間、年老いた男はじっと椅子に腰掛けていた。時折、炎が弾けるパチンという音がするものの、それ以外は森の一軒家は至って静かで、落ち着いた沈黙につつまれている。
 どうやら男の作業は準備はひと段落したようだった。深く複雑な皺が刻まれた顔の表情を幾分緩め、妖しく輝いている落ち窪んだ瞳を軽く閉じ、肩の力を抜いてうつむく。するとそれは池に落ちたひとしずくの波紋のごとく伝わり、辺りの緊張は緩やかにほぐれ、部屋の雰囲気に奇妙な安堵が混じりだす。ランプの輝きはわずかに弱まり、老人の〈影〉は思い切り伸びをした。
 もしもその時、目を閉じて微かな息を立てている老人に気づかれずに鍋を覗き見た者がいたとすれば――幾千、幾万、幾億もの光り輝く細かな宝石たちが、ほとんど止まっているかのような遅さで、それでも確実に周っていることに気がついただろう。
 冴えた彩りは永久(とわ)に続いてゆく鎮魂歌であり、優しいまばたきには、まだ見えぬ未来の不安と期待が入り混じる。

 鍋の中身を冷まそうとする冬の鋭い空気が絶えず入り込もうとしているが、それを相殺するだけの力を持った弱火の炎がちらちらと燃えている。艶やかな闇の表面には、もう泡は浮かばず、湖のように透き通っていた。ただ、鍋の中身の闇からいずる白っぽい湯気は、逆さにした滝か暖かくした粉雪のように上へ上へと拡散しながら進んで、少しずつ見えなくなるのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 おそらく数え切れぬほど長い年月を生きてきて、特殊な能力を持つ男は、魔法使いなのか、はたまた仙人とでも呼ぶべきなのか――そんな奇怪な者でも夢とうつつの境界線を彷徨うことがあるのだろうか。痩せた身体を漆黒の長衣で覆い、暖炉のそばの黒い丸椅子に腰掛けたまま軽くうなだれて、今や微かに寝息を立てている。実際に眠っているのかは判断がつかぬが、辺りの緊張感は男が目を閉じた時から、幾分緩んだ状態が続いている。老人の沈黙とともに、一軒家の内側は本来の夜が内包している特徴のうち、視界の利かない恐怖や寒さや妖しさが弱まり、良い部分――深い安らぎへと移り変わっていった。
 まだ朝の予感は東の空にさえ一握りほども現れぬ夜更けであるが、真に昏い外の森の様子や、獣の遠吠え、風のざわめきまでもが〈夜の仕事も交代まで残り半分を切った〉とでも言いたげに、目処が立ち始めた者に共通する内面の充実と期待、焦りとはやる気持ちのようなものが秘かに混じり始めている。
 峠というものは、確実に越えたと気づいたときは、実際にはだいぶ山を下っているものだ。それは夜についても、昼についても同じである。ただし夜明け前の冷え込みという観点で言えば、むしろこれから日の出までが最も厳しい時間帯になるのだが。

 軽くまぶたを閉じていただけと言わんばかりに男が迅速に瞳を開けるのと、しわがれた声で呟くのはほとんど同時だった。
「おっと、いけない」
 すると脚を組んで怠けていた老人の〈影〉は、反射的に形を取り繕い、その後は澄ましたように主人の動作の真似を始める。
 暖炉の弱火は、大きくなることも消えることもなく続いていた。薪は紅く染まりつつ、鍋底に限定的な熱のさざ波を送り込む。
「時間のかかる準備じゃな」
 老人が拳を結ぶと、頭の部分がこんがらがった糸のように曲がりくねっている古びた木製の杖の柄がいつの間にか握られている。彼は今一度、杖に体重をもたせかけて、難儀しながらゆっくりと立ち上がった。それから左側の窓辺に設えられた棚の方に向かって伸長に歩き出し、先が反り返って尖っている魔の靴で床板を鳴らし、進んでいった。壁には〈影〉が映っている。
「さてと、味付けじゃ」
 淡い微かなランプの明かりを背中に浴び、老人が黒いローブの内側から痩せた腕を棚の的確な場所へ伸ばし、その手につかんだのは――何かの液体が入っているらしい、掌におさまるくらいの高さと幅しかない、傍目には化粧品に見えるくらいの小瓶であった。彼は瓶の冷たさを手の触覚に感じ、耳元で軽く揺らして水音が聞こえるのを確認し、無表情のままうなずいた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 振り向いた老人の、血色の悪い肌色の皺深い横顔と、杖をつかむ掌だけが、朧に不吉に浮かび上った。天井から吊るされた蒲公英(たんぽぽ)色の明かりは微かにゆらぎつつ瞬いているが、やや弱まった感がある。どこか儚さを感じさせるその灯火の粒子を浴びても、先端に黒い珠がついている長い帽子と、やはり闇に溶け込んでいる影の色をした長衣は見えづらく、結果として老人の顔と掌だけが首の無い亡霊のように動いていた。
 辺りには古い油の匂いが漂っている。暖炉の弱火が燃えていても、部屋の空気は染み込んでくる冬の朝に浸されて冷たい。
「嫌な朝食じゃ」
 愚痴は言い飽きたけれど、なお言わずにはいられず、そして今となってはため息さえも出ないのだろうか――憤慨を通り越した諦めと、深く沈めた恨みの境地のようなものを何となく思わせる他意のありそうな言い方で、老人はぽつりと地味に独りごちた。気持ちを落ち着かせるかのように彼は一度瞳を閉じる。
 低血圧の若者が布団から這い出す時のごとく、いつものように繰り返される運命を受け容れたのだろう、男はすぐにまぶたを開いて意志の光をみなぎらせたが、それでいて妙に機械的で無表情だった。棚から取った調味料然とした小瓶を左手に持ったまま、その手を淡々とした仕草で長衣の内側に引っこめる。

 彼は落ち着いた足取りで、ゆっくりと歩みを進めていった。
 もちろん老人よりも遙かに大きくて色の薄い、壁に映った〈影〉も飄々と真似をする。明らかにさっきよりも緊張は解れている。
 やがて再び暖炉の傍に着いた奇怪な男は、棚から運んできた小瓶を持ち上げ、出来るだけ遠ざけながら蓋を回してゆく。
 ――突如として、鋭角の閃光が走った。
 闇や暗さや黒というものが支配する冬の夜の不気味な一軒家で、明らかに異質な輝きが、瓶の蓋の隙間からさらなる生息の場所を求めて洩れだしてきた。それは闇に生きる者たちの目を潰し、その存在を根底から揺るがしかねない、強烈なまばゆさであった。帽子や靴まで黒ずくめの男はわざとらしくむせた。
「エホッ、エホッ……」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 可能な限り直接見ないように気をつけながら、目を背けて皺深い顔をさらにしかめ、老人は小瓶を傾けてゆく。すると、そこを起点として部屋全体に爽やかな明かりが強く渦巻いていった。
「軽薄な奴めが」
 呪詛を込めて輝きに呟いた男は、小瓶から上澄みの液体が二、三滴、闇を煮込んだ弱火の鍋の中にこぼれ落ちるのを聞いた。そのたびごとにジューッと音を立てて雫は弾け、溶けて消える。老人が言うところの〈味付け〉は、こうして始まったのだ。
「ここまで!」
 老人は素早く瓶の角度を戻し、慣れた手つきで確実に蓋を閉めた。水飴のようにとろりとして、微細な泡を固体と液体の合いの子の状態になっている光り輝く黄色の物体が出かかっていたが、それはゆっくりと底の方に引っ込んでいったようだった。
 闇鍋には全くと言っていいほど変化は見られない。どうやら調味料の一種であるらしい輝く小瓶は、男が蓋を閉じるとその光を内側に隠した。再び森の一軒家に夜の闇と静寂が訪れる。

 壁にぼんやりと映る老人の〈影〉は、明らかに反対側を向いてしゃがんでいる。暗くてどこにあるのか判然としないが、どうやら自らの瞳に当たる部分を手に相当する所で覆っているようだ。
「こりゃ、いつまで隠れとる。全く、あの朝の光……その名を口に出しとうもないが、あれの方が何倍も明るいというのに。光が強ければ強いほど、影は濃く確かになれるんじゃぞ? のう」
 すると〈影〉はすっかりうなだれ、抑えた恨みがましさを発散させながらも、色が薄くて大きな図体をのっそり起こしていった。
「光が嫌いとは……さすが、わしの影と言わねばならんな」
 天井から吊したランプの不思議に淡い朧な灯火を受けて、圧倒的に〈影〉よりも濃い黒ずくめの、存在感のある老人は溜め息混じりに呟くのであった。そして軽く舌打ちをすると、彼は再び強烈な光の蜜を詰め込んだ調味料の小瓶の蓋に手をかける。
「また味付けをやるぞ。いつもながら、やれやれ、じゃな」
 今度は親切にも〈影〉に忠告をした老人の、不気味さはいつしかだいぶ和らいでいた。夜の衰えとともに彼の神通力が鈍ったのだろうか。それともやはり、全ての根底に居座っていた〈闇〉そのものが、これから少しずつ溶けていこうとしているからか。

 彼は小瓶を傾け、その底を軽く叩いて、今度は光の水飴の一部を暖炉の鍋に流し込んだ。ひととき、森の一軒家を爽快な輝きが辺りを充たすが、それはまた闇の渦に飲み込まれてゆく。
 目の錯覚でなければ、長い時間をかけて弱火で煮込んだ漆黒の鍋に、どうやらほんの少しだけ、変化が生まれたようだ。
 じっくり見ても気がつかないほどの些細な変化ではあるものの、これまでは全く色の無かった鍋の中身の表面が、限りなく黒に近い群青色へと、短いけれども大きな一歩を踏み出した。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ふう」
 男は暖炉のそばの椅子に腰を下ろしていったんは休んだが、鋭い目つきは緩めず、じっと闇の一点を見つめている。睨んだり、敵意を剥き出しにしている訳ではなく、かといって呆然とすることもなく、何か難しい問題を真剣に検討しているかのような趣であった。彼はもう眠気を覚えてはいないようで、今度はそれほど時間がたたぬうちに立ち上がり、文句を言うのも面倒になったのかほとんど機械的に小瓶の蓋を開け、やや遠ざけながら傾け、水飴状の目映い輝きの一部が鍋に沈むと蓋を閉める。
 それはまさに彼自身がほのめかしたごとく〈手馴れの料理人が味付けする様子〉にどことなく似ているようだったが、帽子から長衣から、爪先の反り上がった靴まで黒ずくめの痩せた皺深い老人が行う動作は、どうしても妖しげな秘薬の抽出やら、極めて穢れている不吉な呪術の儀式のようなものを想起させた。
 彼の〈影〉は諦めたのか、たまに洩れる強烈な光から反射的に目を背けながらも、割合とおとなしく主人の真似をしている。

 さて最初の方こそ光の先陣部隊の進入を受けても闇色で塗り潰していた鍋の中身であったが、しだいに少しずつ間隔を詰めながら輝きの素を流し込んでくる老人の波状攻撃に、そのうち対応しきれなくなってくる。老人の方は見るからに本意ではなさそうだったが、仕事と割り切ってやる――そんな悲哀感が漂っており、黙々とこなしていた。最初のうちはほとんど気のせいだろうかと思えるほどだった鍋の色の変化も顕著になってくる。
 漆黒は、ほとんど黒に近い暗い藍鉄(あいかち)色を通り、濃藍(こあい)色、青褐(あおかち)色、紺色、紺青(こんじょう)色――と確実に変化を遂げ、全体的に黒から藍色を経て深い青へと塗り替えられてゆく。老人が鍋に流し込む光の水飴の量は衰えず、追い立てられる夜闇は敗色が濃厚になってきていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 老人はしだいに押し黙ってしまったが、落ち着いて淡々と作業に勤しんだ。そのうち彼は座ることをやめてしまい、左手に握った杖で体重を支え、皺深い右手で〈鍋の味付け〉を続けた。
 彼は瓶を斜めに倒し、何故か尽きることのない光の蜜を鍋の闇に溶かし込んだ。小さな瓶の底では輝きが増殖しているようで、彼がしばらく手にしているとあふれそうになることもあった。
「こいつめ」
 老人は悪態をついたが、ぐっと堪えたのか、顔をしかめただけですぐに作業に戻った。彼は自暴自棄になり、面倒になったのだろうか――未だに暖炉の弱火で煮込んでいる鍋の上に手をかざすと、瓶を完全にひっくり返して、そのままの状態を保つ。
「早く出尽くしてしまえ」
 胡椒を振りかけるがごとく、黒ずくめの彼が瓶を小刻みに左右に振ると、きらびやかな黄金の明度を周囲に放つ水飴のような物質が、少し遅れて蛇の尻尾のように細く長くこぼれ落ちる。それは休むことなく、鈍(のろ)い滝のように連続して、闇を煮込んだ鍋に次々と襲いかかった。力強く、新鮮な〈輝きの行進〉だ。

 ついに、これまでで最も顕著な変化が現れる。
 先頃までは彩りの全く存在しなかった漆黒の鍋は、時間をかけて全体的に濃い目の蒼い色へと移り変わっていたが、その片側から――今や世界中の地上の黄金を集めたよりも圧倒的に豪奢でまばゆく、月影や星明かりよりも健康的で、心の底から生命力に満ちたゆるぎない橙の光が差し込んでいたのだ。
 老人の小瓶からは小川のせせらぎのように重みのある溶液状の金色が流れ出てきて、鍋の闇に注がれ、その彩りを変化させる。意志を持ち、ユーモラスな動きをもした老人の〈影〉はもはや魔力を奪われたのか、もはや何の変哲もない影である。
 カーテンを閉め切った夜の名残のような、あるいは異質な離れ小島を思わせる一軒家は、内側だけでなく外側からも危険にさらされていた。幕の隙間から外の光が浸食しようとしている。
 洩れてくる鮮やかで爽快な光を受けて、老人の黒ずくめの服はかつてのおどろおどろしさを喪失し、どこか古ぼけてみすぼらしく見えた。何もかもがいよいよ国境線を越えようとしている。
 境目を越える刻は、この場をもう間もなく訪れるはずである。

「来る」
 男は鍋の上に小瓶を掲げたまま目を細め、低くつぶやいた。
「朝が……来る」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 鮮やかな橙色は鍋の一方から、時間をかけて紙に染料が染みこんでゆくかのように広がっていった。今や鍋の全体は明るさを増し、夜とせめぎ合っていた蒼も澄みきった薄い空色と変わっていた。黒ずくめの老人は左手で杖にもたれかかり、右手で小瓶をひっくり返して鍋の上に掲げたまま、時たま疲れた肩を上げ下げする。期待の渦はしだいに鍋の中で強まっていった。
 闇の夜は駆逐されて、組織的な抵抗はほとんど終息した。

 突如――鍋に輝きがあふれた。
「うっ」
 老人は一瞬、うめき声をあげ、皺深い手を瞳にかざした。少し開いた扉の隙間からどっと明るさが流れ込んでくるように、これまでとは比較にならぬ力強さの光の本体が顔を出したのだ。
 それは極めてまばゆく、目を開けていられないほどの輝きだ。男は小瓶を持ち続け、早く終わらせたい――とでも言いたげに左右に振るのだった。水飴状の光はいよいよ強さを増し、小川のせせらぎのような止まらぬ流れとなり、瞳の裏に残像の残るほどのきらめきと鮮やかな朱に染まる鍋に飲み込まれてゆく。
 そしてこれまで夜の静寂につつまれていた部屋に、何かがジュウジュウと焼け焦げるような音が響きだした。それとともに輝きはいよいよ満ちあふれ、食欲をそそる匂いが広がり始めた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 それは溢れんばかりの光につつまれた目玉焼きであった。
 何の卵かは分からぬが、強い力を持った紅い目玉焼きは飛び跳ねるように弾けた。最後まで抵抗していた闇の志士たちを一気に溶解させ、名残となった黒っぽい油を燃やしながら、鍋底で踊る目玉焼きは良い香りを薄暗い部屋いっぱいに広げていった。カーテンの隙間から射し込んでくる朝陽は本物で、きっと家の外でも長い光の矢を射て、闇を駆逐していることだろう。
 ゆうべ暖炉にくべた薪はほとんど灰になり、弱火すら姿を消して今はくすぶる程度だ。森の一軒家にひっそりとたたずむ見えない空気の流れは冷え切っていたが、岩の間から清水が湧いてくるような新鮮な感覚は少しずつ止めどなく染み込んでくる。

 腰が曲がっていて不思議な杖に体重をもたせかけている老いた男からは、もはやかつての厳しい緊張感は感じられず、見たところ、もうどこにでもいるような一人の老人にすぎなかった。
 彼が持っていた小さな瓶から水飴のように零れ落ちていた光は急激に弱まり、雫状になって垂れ、ついにピタリと止まった。
 やや腰の曲がっている年老いた男は、左手でつかむ曲がりくねった杖にもたれかかりながらゆっくりと振り向き、部屋の中を歩き始めた。ランプの油は切れ、ひょうきん者の〈影〉ももういない。古びた床板をきしませつつ家主は歩き、戸棚に向かった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 黒い長衣と帽子と靴とに身を固めた男は戸棚の前で立ち止まり、あまり自由の利かない痩せた右腕を出した。長い年月が刻み込まれた横顔は憮然とした感じでほとんど表情の変化に乏しかったが、光の瓶詰めを元あった場所に置くため腕を精一杯伸ばした一瞬だけ、眉間に皺が寄り、苦悶がよぎり、呻いた。
「う……っしょ」
 同じように歩き、同じような仕草をしているはずなのに、カーテンの隙間から生まれたてのまばゆい光が入り込んでくる朝の中で、黒ずくめの老人は年相応――あるいはそれ以上にくたびれ果てて見えた。光の筋道には微細な塵が浮かび上がり、黒で塗り固められて不思議さと不気味さを演出していた男の衣装は、今となっては時期外れも甚だしかった。清らかな静けさと厳かな残忍さという二面性を併せ持つ重厚な夜の魔法は溶けてしまったのか、一軒家の中にあるもの全てが色褪せて見えた。天井からの吊り提げランプ然り、暖炉や椅子然り、鍋然りだ。

 部屋の片隅の暖炉で温めていた鍋からは、赤々としたまばゆさを辺りに投げかけて、輝く謎の目玉焼きに火が通ってゆく。ジュウジュウという音が聞こえ、食欲をそそる香ばしさが広がる。
 それは暖炉の炎ではなく――朝の光に燃えていたのだ。
 いや、それこそが朝の卵、一日の赤子、新しい太陽である。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ふう」
 老人は小さなため息だけを洩らすと、もはや朝に対して愚痴を言うことさえ諦めたような様子で、何も言わずに杖をつき、彼としてはやや足早に歩き出した。夜の間は絶大なる威圧感を放っていたが、明るさの狭間の中では腰が曲がっていることばかりが目立ち、その動きはくたびれた蟻が這うようにさえ見えた。
 外では明るさと希望に満ちた朝を頌えて、小鳥たちの唄が高らかに爽やかに鳴り響いている。彼が戻ってくると、誰が用意したのか、テーブルには白く輝く真新しい皿とフライ返しと、銀色の鈍い光を秘めたフォークがきちんと並べて用意されていた。
 彼はその脇に置いてあった白い手袋を厳しく睨みつけた後、ふっとそのまなざしの力を弱めると、最初は左手に、次に右手にはめた。黒ずくめの彼の服装の中で、手袋だけが雪のように真っ白く浮かび上がる様は、何とも似合わず違和感があった。

 老人はヒビだらけの唇を固く閉ざし、曲がりくねった杖に身を任せ、靴音を鳴らして床を軋ませながら暖炉に向かう。彼が君臨していた漆黒の夜は消えてなくなり、森と野原の境目が光に満ち溢れている。それは彼が目を背けつつも覗き込まざるを得ない、かつての〈闇鍋〉の中身が証明している。油ならぬ光の子が飛び跳ねる鍋をじっと見下ろし、おもむろに取っ手を握る。
 朝の陽の目玉焼きは、見る者を眩ませて残像を焼き付けるほどのありったけの輝きをばらまきながら、鍋の底で生まれたての歓喜に激しく身を震わせていた――決して焦げ付くことなく。

 年老いた黒ずくめの男は左手で重たそうに鍋を持ち、曲がった膝に今こそ踏ん張りどころと力を込め、右手に杖をついて、短い距離ではあるがバランスを取りながらゆっくりと時間をかけて慎重に移動していった。直視しないようにしているが、大いなる規模の暖かさと輝きは、鍋底から広がって投げかけられ、部屋の中全体に満ち足りる。あまたの埃が消えゆく星の名残を思わせてきらめき、老人の顔に谷のように刻まれた皺の深さがより誇張される。その香りは食欲をそそるが、男は無表情だった。

 こぼさずに戻り、杖をテーブルに預け、両手で鍋を置く。手袋を脱いでテーブルの脇に置き、フライ返しをつかむ。未だに勢いが衰えず、油に似た光の子を飛び散らせる目玉焼きの下に射し込み、持ち上げて、それを横に用意された白い皿に移した。
 純白の皿に横たわると、光の〈目玉焼き〉はようやく落ち着き始めるのだが、煙か霧のように大量の蒸気を噴きだしている。不思議なことに、テーブルには気がつかぬうちにスープの充たされた深皿が用意されており、細い湯気が立ちのぼっていた。
 老人は椅子に腰掛けて、軽く瞳を閉じる。どうやら彼に課された役目は、残り僅かなようであった。彼は目を開け、重く言う。
「では、朝食を頂こう」

 熱くて男が舌打ちをする破裂音、フォークの鳴らす微かな調べ、歯の合わさるリズム、とろける目玉焼きを飲み込んで喉が鳴る音、スープをすする響き――それらがしばらくの間、交錯した。その音楽の土台では、鳥の歓びの唄が鳴り止まず続く。

 男が無表情のまま目玉焼きを食べ尽くし、スープの残りが僅かになった頃、いよいよこの妖しの森にも明かりがさしてきた。
 とてつもなく大きな木の長い陰が森の一軒家を覆うと――。
 次の瞬間である。いつの間にか古びた家は影の中に没し、そこに存在していた痕跡さえ何一つ残さず、姿が見えなくなった。煙突も、窓も、ランプも、ベッドも、戸棚も、テーブルも、椅子も、鍋も、皿も、フォークも、そしてひょうきんな〈影〉も、黒ずくめの老人の姿さえも。それとともに夜空の最後の星が消え失せた。

 こうして、真新しい〈今日〉が本格的に幕を開けたのである。

(了)



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