麗しの芸術

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 北の都メラロール市の郊外、ラーヌ河の土手を二人は歩いていた。吐く息は白く、土には粉雪を思わせる霜がおりていた。
 タックは両手に空っぽの木桶をぶら下げている。リンローナは少し小さな水汲み用の桶を一つだけ、左手にかかえていた。
 どうやら二人は仕事の都合か何かで――おそらく仲間内の当番だったのだろう――河の水を汲みに行く途中のようだ。土手の左下には澄みきった青空を映したラーヌ河が、斜めに降り注ぐ朝陽を浴びて輝く。鳥たちは冬枯れの木々に留まったり、川面に浮かんで不思議に緩やかな水の筋を描いたりしていた。

「あ、待って!」
 とっさに鋭い声で呼びかけて、リンローナは相手を止める。
「どうしましたか?」
 その場でいぶかしそうに振り向いたのは、タックであった。
「ほら、これ!」
 リンローナが足元を指さすと、タックも視線を下ろしてゆく。

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朝の氷に咲いた花(2005/01/27)

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 ベレー帽に似た形をし、細く白い毛糸で丹念に編み込まれた帽子から、リンローナは草色の後ろ髪を少しだけ出している。
「ほら、氷のお花が咲いてるよ」
 寒さに頬をほんのりと紅に染めた彼女は、息を弾ませて地面を見つめた。上着も手袋も、防寒具はもちろん完備している。
「本当だ……花に見えますね」
 タックは感心して応え、しばし氷の芸術に見とれるのだった。
 それは轍の間の小さな穴に張った、ささやかな氷であった。

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 土手を降りて、丈の長い草の刈り込まれた所を進み、小石が敷き詰められた河原に着くと、二人は並んでしゃがみこんだ。
 凍りつくような冷たさのラーヌ河に木の桶を浸して、新鮮な水を汲みあげる――タックは二つ、リンローナは一つだ。桶の横側には、この地区で名高い葡萄酒醸造所の文字がつつましく、それでいてどこか誇らしげに書かれていた。リンローナは呟く。
「この澄んだ水が、美味しいお酒を造るんだね」
 ルデリア世界の中で最も高い文化水準を誇る都市の一つに数えられるメラロール市では、地下の下水道がかなり整備されている。無闇に河へ生活排水を流すことは禁じられており、河は澄んでいて、下流のため水量は豊かだ。石の間を逃げるようにして泳ぐ銀の鱗の小さな川魚たちの姿を見ることもできる。

 重荷をかかえて再び歩き出す前に一息ついていたリンローナは、ずっと動き続けながらもそこに留まっている長い鏡――青空色に染まっているラーヌ河を眺め、川の向こう岸の土手の向こうに連なっている家々の屋根や煙突を眺め、その向こうに果てしなく広がっている空を見つめて、やがて大きく伸びをした。
「うーん……まだ眠いなぁ」
「きっとケレンスたちも、別の手伝いでしごかれていることでしょう。給料は申し分ありませんが、やはり仕事はきついですね」
 タック少年が茶色の瞳をまばたきさせ、隣の少女の言葉に穏やかな口調で応じた。まぶしい陽の輝きを受けても、彼の眼鏡は光らない。レンズが落ちた、いわゆる〈伊達眼鏡〉だからだ。
「うん。腰とか腕とか、おかしくなりそう」
 少女はそう語ると、口元を押さえて清楚に、楽しげに笑った。
「ふふふっ」

 そして限りない空に心を馳せる。
 見ると吸い込まれてしまいそうなほど、空全体が磨かれた宝石になったような、薄い麗しの蒼色だ。頭に雪を戴いた遠くの山並みもはっきりと見えるし、白い月が西の空にかかっている。
「いろんなところに、芸術家がいたんだね」
 感性の受け取ったままの不定形の気持ちを、一つ一つ丁寧に似ている言葉に置き換えながら、リンローナは話し始めた。
「さっき土手で見た氷のお花とか、あの空にうっすらと描いた、白い雲とか。夕焼けの染め物屋さん、森の木々のしなやかな枝を作った……彫刻家さん。季節に咲くお花も、草も。自然だけじゃないよね、古い歴史が作ってきた、あの街並みも……」
 タックは話の邪魔にならぬよう、何も言わずにうなずいた。
 顔を寒さと感動で紅潮させたリンローナは、まさに彼女自身が冬空に花開く若いつぼみのように生命のきらめきを宿していて、その横顔はまだ見ぬ未来への期待と希望で朝の光よりもまぶしかった。少女は遠くの空にまなざしを送り、言葉を紡ぐ。

「あの氷のお花、本当にきれいだったなぁ。蟻さんのために作られた架け橋みたいに繊細で、不思議な模様が入ってて……」
 言葉が途切れ、リンローナはきつく目を閉じる。陽射しは優しいが、川辺を吹き抜ける朝風は頬に突き刺さるほど冷たい。
「素敵な芸術家になるには大変だけど……」
 少し蔭のある笑顔で言いながら、リンローナはタックの方を向いた。十七歳の少年にしては背の低いタックだが、リンローナもかなり小柄なので、彼女はタックを少し見上げる角度になる。
「でもあたしたち、観客なら、なろうと思えばいつでもなれるはずだよね? 氷の観客、森の観客、空の観客に……きっと!」
 少女の新鮮な捉え方と、素直で切なる願いを聞いたタックは驚いた様子で一瞬息を止めたが、彼らしく落ち着いて応える。
「ええ、そうだと思います。芸術に気づくことさえ忘れなければ」
 真っ直ぐな草色の瞳のリンローナは、深くうなずくのだった。
「うん!」

 だが、そこで少女は急にいたずらっぽい微笑みを浮かべる。
「……あたしって、変かなぁ?」
 さっきまでの真面目さとの落差に、タックは思わず吹き出しそうになったが、彼は軽く手を振り、紳士的に返事するのだった。
「そんなことはありませんよ、素敵な考え方だと思います」
「そう? ありがとう!」
 まだ恋も知らない十五歳のリンローナは、歓びをいっぱいに膨らませ、隣に立っている旅の仲間のタックに礼を言うのだった。

 話の収束を見計らって、タックは休憩の終わりを切り出した。
「では、そろそろ行きましょうか」
「うん。親方さんに怒られちゃうよね」
 二人はおもむろに、河の水を汲んだ桶を持ち上げる。そして霜に白く染まった冬枯れの草を踏み、北国の鋭い風を切って、短期の仕事で世話になっている醸造所へと歩き始めるのだった。

(了)



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