刻まれる季節(とき)

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 朝の風は冷たかったが、太陽が照った日中はぐんぐん気温が上がり、外に出る時に今年初めて上着が要らなかった。湾に臨むデリシ町から外れた森の向こうの丘に霜は下りず、水は温み、枯れ草は新芽を吹いていた。つくしの子が顔を出し、ツツジが甘い香りを振りまいている。冬眠していた蛙は目を醒まし、もぐらが顔を出し、リスは樹を登り、ウサギは駈ける。蜜蜂が羽音を鳴らし、蟻が這いだし、蝶は舞い、清流を銀の小魚が走る。
「もう、まもなく春ですね」
 古びた一軒家の窓を開け、どこまでも続く庭の片隅に干した洗濯物と、その向こうに広がっている薄青の空、そして深い蒼色の海を遠く見つめて呟いたのは、二十四歳のテッテだった。
 彼の言葉には、長い冬を乗り越えたという純粋で感覚的な歓びと、再び温かさを取り戻した風や光への心からの尊敬と感謝が含まれ、眼鏡の中のまなざしは優しく満足げに緩められていた。しかしながら、彼の師匠であるカーダ氏の感想は異なる。
「若いのう」
 テッテよりも三十歳年上にあたる初老のカーダ博士は、弟子と同じように眼鏡をかけており、木の椅子に腰掛けたまま体重を後ろにかけた。冬ならば奥まで射し込んでいたが今や引き潮になってしまった午前の光を、少し恨めしげに見つめていた。
 振り向いたテッテは、困惑気味の間の抜けた返事をする。
「はあ」
 すると白髪の目立ち始めたカーダ氏は、見るからに気難しそうな皺深い額へさらに険しい皺を寄せて、確信を込めて語った。
「お前にも分かる時が来るじゃろう」
 窓辺に立っているテッテは、椅子に腰掛けた発明家のカーダ氏を見下ろし、何度も瞬きをした。すると博士は説明を加えた。
「春が来る方が、わしにとっては秋や冬よりもずっと切ないものじゃ。花や草や樹の芽が出るが、わしは古い傷がうずくんじゃ」
「……そうですか」
 気の利いた台詞が思いつかなかったテッテは、小さな溜め息をとともに相づちを打つ。そして自らの物思いに沈むのだった。
「理解しろとは言わん。そのうち分かることじゃ」
 カーダ博士は床の辺りに視線を落として、秘やかに呟いた。
 風がそよいで二人の髪を揺らし、机の上の紙片を動かした。

 その日に書かれた博士のメモに以下の殴り書きがあった。

 ――命の始まりは、また別の命の終わりが近いことを意味する。秋や冬はそれと同じ流れだから、むしろ賛同できるが、希望に満ちた春や情熱の夏はつらいのだ。あと何度、春を見ることが出来るのか。幾度でも見たいが永久に見ることは出来ぬ。

 季節は樹の年輪のように、今年もまた、人の心に刻まれる。
 これからも、きっと――。

(了)



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