星降る午後

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


「ふぅーっ」
 盛んに湯気を上げている温かいスープを息で冷まし、すすりながら、家族四人で作った小麦の焼き菓子を頬張っている。暖炉の薪は小さな音を立てて燃えはぜ、木造の建物の一階を占めている酒場は優しい色合いにつつまれている。今は開店前の午後のひとときで、一家の安らぎとくつろぎの刻限であった。
「曇ってきたね」
 窓を見つめ、そう言ったのは次女のシルキアだ。さっきまで晴れて明るかったというのに、いつの間にか空は灰色に覆われている。山に囲まれた辺境のサミス村で、天候は変わりやすい。

「うん」
 シルキアの姉のファルナも、何気なく窓の外に視線を送ったように見えたが――その優しい茶色の両目があふれる好奇心に見開かれ、瞬きを繰り返しつつ風景を凝視した。その間も父のソルディと母のスザーヌ、妹のシルキアは談笑を続けている。
「それは、なかなか難しいな」
「でもさぁ、お父さん。夏場だったら買ってもらえるかも知れないかな、って、あたし考えたんだ。避暑の貴族の方々なら……」
「最初はもちろん、少量でもいいと思うわ」
 母がシルキアの提案を手助けしている時――ファルナの耳は話を捉えておらず、瞳は未だに窓の外へ惹きつけられていた。簡素な木の椅子を引き、魅せられたかのように立ち上がる。
「あれは……」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 三人の話をよそに、ファルナは彼女としては早足気味に部屋を横切り、寒さの厳しい冬場は中の暖かさを保つため二重のドアになっている玄関の方へと向かっていった。両親が顔をふと上げて娘の後姿を追い、妹のシルキアも顔を上げて訊ねた。
「どこ行くの? お姉ちゃん」
「ちょっとね、確かめたいのだっ」
 ――と言い残し、少し振り向いたファルナは不思議ないたずらっぽい微笑みを浮かべて、玄関に繋がるドアノブをひねった。
「変なお姉ちゃん」
 つぶやいたシルキアは、どこか落ち着かないような、気もそぞろな印象を受ける。立ち上がって窓に近づき、まずは姉が出ていった玄関の方を見つめ、それから曇り空をさっと見上げた。
「上着も羽織らないで、どこ行くのかしら」
 母が首をひねった。するとシルキアは振り返り、玄関へ続くドアの近くにある〈えもん掛け〉と、家族の上着類を視界に入れた。一瞬で決断したシルキアは、身軽に駆け出すのだった。
「あたし、届けてくる!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「外は寒いぞ」
 父親が短く語りかけたが、その口調は娘の行動を否定する感じではなく、むしろ〈暖かい格好をして寒さに気をつけなさい〉という思いが込められており、優しく響いた。シルキアはお気に入りのコートの袖に素早く腕を通して、姉の厚手の上着を器用に三つ折りにして抱え込みながら、父の忠告に相づちを打った。
「うん」
 そしてドアが開いて閉まり、少女の後姿は見えなくなった。

 外に出ると、自然のままの午後の空気が若い頬を浸した。息が白く、飲み込むと肺が冷やされるのは冬と似ている。澄んだ空気は冴えていて、透き通った氷を思い出させる。それでも最も寒かった頃に比べれば、厳しさは確実に緩んでいる。大地と同じように、風の中にも春の芽は少しずつ混じっていて、それが心に触れるたび、次なる季節への憧れと強い希望とを育てる。
 雪はようやく陽のあたる場所で溶け始めているが、この時期は地面がぬかるんで歩きにくく、荷物を多く積んだ町の馬車は来ることができない。それでなくとも未だあちこちに雪が残っているし、特に峠は除雪されていない。町に繋がる街道を何とか進めるのは犬ぞりか馬ぞりだ。芽月(三月)半ばでもサミス村では大雪が珍しくなく、村人には〈戻り雪〉と呼ばれている。また気温が上昇するので雪崩(なだれ)にも注意する必要がある。

 さっきまでは晴れていたが、空は雲に覆われ――その雲もまた今ははや消え去ろうとしている。山の天気は変わりやすい。
 開かれた雲間からは、細くて淡い光の帯が降り注いでいた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 雪を落としやすくするため、角度の急な切妻屋根が特徴的な村の家々が通りの反対側に並んでいる。はるか上にある雲の大地は、虫が脱皮をするかのごとく急速に割れて光がこぼれ、その後ろから真新しく清らかな、蒼い早春の空が覗いている。
 薄汚れてくたびれた雪が多く広がり、雪が溶けた場所からは荒地が覗いており、向こうの針葉樹の森は濃い緑の帯となって続いている。村のずっと東にそびえる〈中央山脈〉の銀の峰々は峻険で雄大で、見る者に畏怖の念を抱かせるのであった。

 姉のファルナは玄関から二、三歩進んだ場所に立ち、寒さを忘れた様子でうっとりと顔を斜めに上げて、天を仰いでいた。
「お姉ちゃん?」
 そう言って、傘の代わりになってくれる玄関の短い庇からシルキアが半歩だけ踏み出した時だった。彼女の靴の動きがゆっくりと止まり、その眼差しは自然と上に向かってゆくのだった。
「あっ」
 シルキアは頬をほころばせ、驚きと歓びの声を発した――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「気づいたのだっ?」
 半分だけ振り向いたファルナの横顔には無邪気な微笑みがこぼれていた。秘密がばれてしまった気恥ずかしさと、ついにそれを妹と共有できる楽しさ、また早春の風の厳しい冷たさで、若くつややかな柔らかい頬はほんのりと薄紅に染まっていた。
「天使の……羽根!」
 どこまでも尽きない広々とした大空を仰ぎ、愛嬌のある大きな瞳を何度も瞬きさせながら爪先立ちし、口を軽く開いて両手を後ろ手に組み、ほとんど無意識のうちにシルキアは叫んでいた。
 姉とよく似た琥珀色の髪の毛に、小さな白い光のかけらが舞い降りては、静かに消えてゆく。それは――幻ではなかった。

 冴え渡った青空から、光と氷の粉で作られた雪の宝石が次から次へとこぼれ落ちてくる。それは適度な間を置いて奏でられる一つの不思議な音楽の調べであり、瞳で感じ取る歌声だ。きらきらと輝く雪は、まるで真昼の星――銀の灯火とも思われた。サミス村では、青空に降る雪の名残を〈天使の羽根〉と呼んでいるのだった。それは枯れ草や木の枝、屋根や人々の肩に触れては、ほんのわずかな冷たさの記憶を残して溶けてゆく。
「早く教えてくれれば良かったのにぃ」
 素敵な天の贈り物から目を離さぬまま、妹が感嘆の溜め息混じりにつぶやくと、姉は優しげにはにかんで応えるのだった。
「ごめん。ほんとかどうか、確かめたかったんですよん」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 雲が開いて透き通った蒼に染まっている天からは、やみそうでやまない細かな雪が、まるで春の花びらのように、秋の落ち葉のように――風に乗って不規則にこぼれ落ちてくる。それは確かに、さっきまで冬空を駆けていた姿の見えぬ天使たちが、季節の渡り鳥としてどこか遠い場所へ越してゆく途中に落としていった、忘れ物のような淡く名残惜しい早春の雪であった。
「もうすぐだね、きっと」
 大地に両足を下ろし、落ち着いて語ったシルキアの目は細められ、一つの強い意思、期待――あるいは〈夢〉――を帯びて遠くを見やる。その瞳にはきっと赤や橙や黄色に塗り替えられた野原の斜面が映り、甘い香りを待ち焦がれているのだろう。
「うん」
 ファルナは小さくうなずき、冷たいガラスのかけらのようで、それでいて温かみさえ含んでいる光り輝く雪を見上げて立ち尽くした。午後の陽射しの中、それは新しい星空を形作っていた。

 煙突からは煙が立ちのぼり、一階の酒場の窓は薄く曇っている。そのそばに両親が立って、娘たちの様子を見守っていた。
 白く大きな淡い〈羽根〉が舞い降りてきたかと思うと、しばらくしてやんだり、再び曇り始めて雪が降ったりと、寒さと暖かさの交錯が続く。それはこの時期に非常に特徴的な現象だった。
「早く来ないかな」
 シルキアがぽつりと洩らす。それは村人の思いを代弁する。
 せめぎあう季節に、遠くない春を知る姉妹であった。

(了)



【この作品は"秋月 涼"の著作物です。無断転載・複製を禁じます】