春の便り

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 振り返ること半月――四月半ばのことである。最果てのマツケ町は、さすがに雪の姿は通りから消えたものの、ようやく春と呼べる季節が始まったばかりの頃だった。日によっては、曇り空の下で急激に気温が下がり、淡い白雪が舞うこともあった。

「おっ、これ菜の花っすよね。師匠、これどうしたんすか?」
 古びた木造の宿泊所の、窓際に置いてあった舶来の陶磁器の白い鉢植えを指さし、長い黒髪を後ろで無造作に結わえた十九歳のユイランが訊ねた。そこには見慣れた黄色の花が活けられていた――春本番を告げる鮮やかな黄色の菜の花である。
「もう咲いてるもんなんですかね?」
 まだマツケ町では、どこにも菜の花は咲いていない。
 普通は花壇や畑に咲く菜の花がわざわざ数本まとめられて、しかも陶磁器にきちんと活けられているのも、ユイランの興味を惹いた。彼女は格闘家であり、今は試合を控えてマツケ町に泊まっていたが、やはり女性である。古い大部屋の中、菜の花の咲いている窓際だけが上品に浮き上がって見えたのだった。

菜の花と藤の花(2005/04/30)

「いや、お嬢がもらってきてくれたんだよ。なあ、お嬢?」
 師匠――といっても、まだ二十六歳と若いセリュイーナ女史は、髪はやはり黒髪族らしい闇の色をした、背が高く大柄で度胸の据わった女性だ。師匠は、部屋の片隅で荷物の整理をしていた〈お嬢〉こと、弟子のメイザを、良く通る大声で呼んだ。
「はあい?」
 急に呼ばれたメイザは、鞄の中を探っていた手を休めて顔を上げ、速やかに立ち上がった。育ちの良さそうな穏やかな瞳を持ち、動きやすいズボンよりもドレスの方が似合いそうな顔立ちと、しなやかな体つきをしている。けれども彼女とて鍛錬を積んだ格闘家――試合ともなれば、漆黒の瞳は燃え上がるのだ。

 メイザは立ち上がると、まずは師匠を見つめ、それから窓際に立っている後輩のユイランを見た。ユイランは鉢植えを示した。
「これって〈お嬢さん〉が貰ったんすか?」
「うん、ユイちゃん。うちの親戚がね、船便で送ってくれたの」
 人によっては自慢に聞こえる可能性もある言葉だが、メイザの語りには嫌みがなかった。彼女の穏和な人柄ゆえだろう。
「船便って……どうやって?」
 ユイランは訊ねつつ、再び目線を菜の花に向けた。そしてメイザの返事を待たずに、一足早い〈春〉の感想を呟くのだった。
「きれいっすよねぇ、これ……」
「そう。喜んでもらえて、よかった〜」
 左右に可愛らしいえくぼを浮かべ、メイザは人の好さそうな笑顔になった。そして焦らず、ゆったりと説明を始めるのだった。

「わたし、前に外国に住んでたことがあって……」
「知ってますよ。デリシ町、でしたっけ?」
 早く知りたいユイランが話を引き取り、先を促すと、そばにいて二人のやりとりを聞いていたセリュイーナ師匠が軽く咎めた。
「まあ、ユイ。まずはお嬢の話を聞いてやれよ」
「へい、すんません。で、お嬢さん?」
 ユイランは素直に謝った後、すぐにメイザへと向き直った。
 さて特に気にした様子はないメイザだったが、まずはセリュイーナへ丁寧に謝辞を述べた後、再び話の続きをするのだった。
「お師匠様、大丈夫です、ありがとうございます。それでね、ユイちゃん……その帰りに都を通ったのだけれど、都でね……」
 彼女の言うところの都とは、公都センティリーバ町である。

 メイザは懐かしそうに、少し遠くを見つめる眼差しになった。
 ユイランは立ったままうなずき、育ちの良いメイザは続ける。
「都にも親戚の方がいるのだけれど、あちらの方がここより南でしょう。わたしが菜の花を気に入っていたら、次の年に咲いたばかりの菜の花を船便で送ってくれて……向こうで咲いたばかりだと、船がこちらに着く頃にはきれいな状態になっているの」
「へぇ〜。それで今年も?」
 ユイランが感心して訊ねると、相手は首を真っ直ぐに振った。
「うん、それから毎年送ってくださるの」
「人徳だねぇ」
 しみじみと呟いたのはセリュイーナ師匠だ。窓際の鉢植えの春らしい黄色に視線を集めて、思わず目を細めるのだった。
「お、お師匠様。そんなことありませんよ」
 恥ずかしさで頬を染めたメイザは、ユイランに冷やかされる。
「〈お嬢〉さん、真っ昼間からお酒飲んだんじゃないの〜?」
「もう、ユイちゃんったら〜」
 メイザが困惑気味に声をあげると、出発の準備をしていた同じ部屋の他の仲間からも、温かでさっぱりした笑い声が起きた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 古びた宿泊所の隙間風に、窓際の黄色の花びらが揺れる。
 試合が終わり、窓際の花が枯れ、彼女たちがマツケ町を離れる日が来ても――その頃にはきっと、菜の花はもっと身近なものになっていることだろう。畑で、家の庭で、街角の花屋で。
「これは、春の便りだから……」
 遠い国から海を渡って届けられた菜の花を目線の高さで見つめ、頬杖をつき、立て膝の体勢のメイザは愛おしそうに語った。薄雲の切れ間から暖かな陽が射し込み、窓辺に降り注いだ。
 そして二人は他の仲間たちとともに外へ出て、まだ冬の名残の残る空気を切り裂いて走り、直前に迫った格闘の試合に向けて最後の調整に励むのだった。春はもう、始まっている――。

(了)



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