夕焼けの気持ち

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


「今日は、かすかに……清楚に笑っていますの」
 暮れゆく春の淡い黄昏を見上げ、ちょっとした中途半端で未完成の節をつけてつぶやいたのはサンゴーンだった。その言葉は、例えるならば柔らかな音符のように――無駄な力みは削がれ、優しく儚げに、そしてどこか神秘的に響いたのだった。
「空が?」
 勘のいい親友のレフキルは、そう訊ねてから少しずつ歩く速度を緩め、ついに立ち止まる。足元で崩れていた砂も止まる。

 サンゴーンの長いスカートの裾が、優雅に爽やかにはためいている。その横を赤い小さな蟹の親子が横歩きで進んでいた。
 過ぎゆく優し風に、レフキルは銀色の前髪を軽く掻き上げた。
 時は永遠を奏で、波音は悠久を刻む――。

 ここは島国のイラッサ町の、広々とした砂浜だった。自分の心までが尽きぬ空と海に抱かれて、おおらかになれる気がする。
 昼間は雲に覆われて、雨が降りそうな気配もあった海岸線だったが、夕方になるとしだいに雲は角砂糖のように割れ、溶けていった。ヴェールのごとく薄く霞んだ天には橙の強い輝きが浮かび、全てのものを分け隔て無く、温かな光で照らし出している。柔らかで和やかな雲は澄んだ平穏な蒼空を漂っている。
 その空を西の方角に追えば、色は黄金(こがね)へと移り変わっていた。全ては連続しながら、いつしか確かに驚くべき変化を遂げている。それは河から海に至る道筋や、時の流れ、もしくは人の生い立ちにもどこか重なる深い夕焼け空であった。

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 確かに、いま真上に拡がっている空は〈かすかに清楚に〉笑っているようにも見える。澄んだ青空は少し大人びた少女の無邪気さとあどけなさを、金色(こんじき)の太陽は果てしない夢とまばゆいばかりの希望を、うっすらとかかっている霞は少女が秘めている不思議さや妖しさを表しているかのようにも思えた。
「ハイですの」
 この淡く儚い夕暮れに相応しい、円やかで味わい深い語り口でサンゴーンが応えた。彼女自身も、あの空につつまれているからだろうか――清らな、満ち足りた微笑みを浮かべていた。
「夕焼けも、十人十色ですわ」

「十人十色か……そうだね」
 相手の言葉を噛みしめるようにレフキルが語った。妖精の血を引くリィメル族の彼女は、やや長い耳をほんの少し震わせた。
「夕焼けの気持ち、か」
 レフキルがそう呟くと、サンゴーンも立ち止まり、返事をした。
「夕焼けにも、きっと気持ちがあるのだと思いますわ」

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 青緑の中でも最も爽やかで鮮やかな部類の色に抱かれた遠浅の珊瑚の樹海を抜けて、あまたの透き通った波と細かなしぶきは、うっすらと夕陽に染まる白い砂浜に近づく。行きつ戻りつする波音は、胸の鼓動のようにほんの少しだけ不規則な間隔でやって来て――それはごく自然な和声で心地良く響いた。
 橙の光が波間にちらちらと揺れて、流れる風は涼しかった。

 明るく開放的な南国の海であっても、黄昏時、波の囁きに重なり合う海鳥たちの啼き声は無性に情緒と郷愁とを誘う。薄い雲が広がっていて、色が赤みを帯びている。同じものは二度と見ることが出来ない、この瞬間だけの芸術に惹きつけられる。
 まぶしさよりも暖かさの方を強く感じさせる西の空のかなたに浮かぶ橙の夕陽を見つめ、二人の少女たちは季節の移ろいに適った色々な太陽を思い浮かべ、しばらく語り合うのだった。

「夏の昼の陽射しが残っている夕陽は、とても情熱的ですわ」
 きたるべき次の季節に期待をかけて、サンゴーンが言った。
「そうだね。で、秋は哀しいほど美しくて、優雅で品があって」
 相づちを打ち、レフキルは手を後ろ手に組んで軽く背伸びをする。夏を通り越し、今とは正反対に位置する成熟した季節に頭の中の時間を進めたレフキルの影が、砂浜に長く延びていた。

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 レフキルは軽く息をついて胸の古い空気を吐き出し、肩の力を抜き、安らいだ雰囲気で親友のサンゴーンの方に向き直った。
「それで、冬の夕陽は凛として、孤高っていう感じかな?」
 過ぎ去った季節を思い出し、レフキルはつぶやいた。大まかには雨季と乾季しかない亜熱帯のミザリア国では、紅葉や雪のような北国の季節の風物詩を見ることは出来ない。だが、海や空の色、波や風の具合、光の強さや柔らかさ、天候、咲く花や野菜類の実り、人々の装いなどが移り変わり――北国と同じ意味合いではないが折節(おりふし)を感じることはできる。
「わたしもそう思いますわ」
 相手の意見を認めたうえで、サンゴーンはさらに言った。
「ちょっと疲れているような気弱さを感じるけれど、どの季節よりも純粋で優しかった夕暮れもありましたの。泣きたいくらいに」

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「そうだよね、冬の夕焼けは」
 サンゴーンの言う〈泣きたいくらいの〉優しかった夕暮れを自由に豊かに思い描き、それを心の奥でゆったりと受け止めながら、レフキルは満足そうに頬を緩めて相づちを打った。日暮れの風はあの頃ほどには冷たくないけれど、蒼い波を越えて駆けてくる爽やかさは、時に襟元や袖から腹部や背中に染み込んで来て――不思議でほんの少しの妖艶さに充ちた春の夜がそう遠くないことを微かに軽やかに、そして秘やかに教えてくれる。

「透き通っていて、触ると溶ける魔法の氷菓子みたいですの」
 優雅な銀の髪を風になびかせ、夕陽に白い頬を染めて、サンゴーンが言う。年中温暖な亜熱帯のミザリア国で、天然の氷を見られることはまずない。無人のラミ島にあると伝えられる〈水の洞窟〉の最奥部でしか見られないだろう。一般的に見かけるのは、せいぜい魔術師が創り出した高価な氷菓子くらいだ。
「森が燃えたり、ユキに白く染まるって、どんな感じなんだろう」
 遠国の紅葉や雪を思い浮かべて目を細め、レフキルが呟く。

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「やっぱり春は、希望に満ちて笑ってるような感じだよね」
 翻って、レフキルは今現在の季節の空に秘められている〈夕焼けの気持ち〉に想いをめぐらせた。暖かさや眩しさが印象的だった冬の落日に比べると、春の夕暮れは太陽自体よりも昼間が長くなったことが記憶に刻まれる。だがこうして改めて見つめれば、明るく魅惑的な希望の女神アルミスを彷彿とさせる。
「ハイですの」
 うなずいたサンゴーンも、その隣のレフキルも――彼女らはまだ十六歳だ。夏も秋もいいけれど、二人には花咲き蝶の舞う春が似合った。白い砂浜はなだらかな起伏を描いて続き、海沿いの道に沿って続く背の低い木には、南国らしい鮮やかな赤桃色の牡丹に似た大きな花が咲いていて、花びらを落としている。
 潮風に煽られた漣(さざなみ)の切れ端が、若さにあふれた少女たちの艶やかな頬を、白いうなじをかすめて、消えていった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 淡く紅く燃ゆる空の遠くに、小さな銀色のきらめきが現れた。
「あっ、一番星」
 すぐに見つけたレフキルが指で指し示すと、サンゴーンは瞳を素早く瞬きさせて、それから眼を凝らし、左側に首をひねった。
「うーん、どこですの〜?」
「なんていうのかな、あの妙な、お皿みたいな形の雲の……」
 とレフキルが腕を伸ばして説明すると、サンゴーンは相手の指し示す方向を見るのでなく、話に聞き入って顔を覗き込む。
「お皿ですの?」
「ほら、あっち見ててね」
 親友のレフキルは嫌な顔ひとつせず、ごく自然な馴れた口調で、やんわりと相手を諭した。サンゴーンは素直にうなずいた。
「ハイですの」

 二つの影法師が砂浜に長く延び、横たわっている。波はいよいよ紅く染まり、満ち潮の渚は夕凪を迎えて静まり、陽は水平線に近づいていた。海鳥は虚空を渡り、郷愁を誘う声で啼く。
 そしてサンゴーンはしばらくの間、一番星捜しを続けていた。
「わからないですわ……」
「うーんと、もうちょい上かな」
 眩しい夕陽に背中を向けて、レフキルは的確に星のありかを教えた。東の空は、少しずつ明るさがほのかに和らいでゆく。
「あっ! ありましたの」
 とたんにサンゴーンは満足げに口元を緩め、始まったばかりの星明かりの宝石に浸りたいかのように、ほっそりとした白い両手を後ろ手に組んで背伸びをし、何度か軽く爪先立ちした。

「さあ、帰ろっか」
 夕陽が沈み終わるのを見届けてから、レフキルが語る。
 その瞳に映るサンゴーンが、小さく真っ直ぐにうなずいた。
 彼女の、うっすらと青みがかった銀の前髪がさらりとなびく。

 砂浜を離れ、二人が歩むその間にも、紅く染められた南の国の蒼と碧の海は紫色、藍色へと、驚くべき変化を遂げてゆく。
 冬のように張りつめてきっぱりと厳しく透き通ったわけでもなく、初夏のような清明さとも微妙に異なり、夏のように力強いわけでもない。豊かさでは秋にかなわず、秋の真ん中を思わせる芸術さとも違い、晩秋のように泣きたくなるような空でもない。
 だが、それでも春の夕暮れは魅力的であった。どこか曖昧さと不思議さ、未熟さを潜めて、夜の始まりを不確かに伝える。

 真砂は足元でくずれ、終わりのない砂時計となって悠久の時を刻む。サンゴーンとレフキルは西の海に背中を向けて、長い影法師を踏み、斜め上に連なる故郷のイラッサ町の方を仰ぎながら、明日に繋がっている小道を並んで歩いてゆくのだった。

(了)



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