〜リリアの海〜

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 年月の重みに歪んだ窓の下半分を慎重に押し上げると、きしんで呻くような音が広い部屋の中に響いた。何度も交換されたであろう止め金をかけて、開いた窓を固定させる。
 入り込んできた涼しい夜風に、テーブルの上のランプの炎がゆらぎ、闇に覆われた部屋の中に映し出された大きな影が、まるで幽霊であるかのように右へ左へと不安定に揺れ動いた。
 小さな堅い椅子――豪奢で華美な装飾と、当時としては最高級の品質の木を用い、良く磨かれていて艶が出ていたものの、今や古びて疲弊してしまった足の短い椅子――に腰掛けた皇女リリアは、ようやく人心地ついた。かつてその強大な魔法の力と統治力で世界に君臨したマホジール帝国の末裔、名門マホイシュタット家の嫡流の長女である。

「ふう……っ」
 細い窓枠に両腕で頬杖をつけば、唇の隙間から自然と深い吐息が洩れる。皇女としての責任と、この国家の行く末に対する悲嘆を抱え込んで生きてきた深窓の姫君は、十五歳としては随分と大人びた横顔をしていた。肌は麗しくても、皇女の魂の内部は、盛りをとうに過ぎたこの国のように年老いていたのかも知れない。
 どんな清めの魔法でも拭いようもない年月の積み重ねの醸し出す〈かび臭さ〉は、侍女が窓辺に置いた鮮やかな花から届けられる芳香の間を縫って確実に染み込んでくる。
 今や深い安らぎに満ちた夜は、触れると全てが砂のように溶けてしまいそうな妖しい諦めを伴って、秘やかに息をしている。全てはかりそめの平穏にすがっている。

 疲れた頼りなげな少女は、焦点の合わない目で、しばらく眼下の景色を茫然と見つめていた。
 細い三日月が既に西の空へ既に傾いた、暗い夜であった。山と森は圧倒的に荒漠と控え、マホジールの町は大海原の漆黒の闇にたった一人取り残されたよるべもない小島であった。
 マホル高原を越えて、平野部のリース町、その向こうの西海に面した港町リューベルに繋がってゆくマホジール街道も、あるいは〈時の神殿〉とルドン伯爵領に向かう北と南の二本の脇街道も、もはや暗闇に溶けて見分けることが出来ない。昼間は商人や馬車の行き交う街道も、そのレンガの間に生えた草とともに、今はひっそりと眠りについている。

(海――)
 この深い黒の波を越え、それほど起伏の激しくない野を越え、マホル高原を越え、峠を越え森を過ぎ、幾つもの町を通り抜けたずっと向こうに本物の海がある。それは内陸に位置するマホジール帝国の本国からはあまりにも遠かった。
「隔てる海……そして繋がる海」
 部屋のどこかでゆらめく灯火を背に、リリア皇女がつぶやく。あの街道を西にたどった先にあるリューベルの港町は、今やこの山奥の帝都マホジールと、世界を繋ぐ〈命綱〉となっていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 夜の帳がおり、闇は安寧を織る。谷間に沿って見えるマホジール町のかすかな灯は、頼りなげに暗かった。闇の領域に浸食されながらも、辛うじて立っているような印象を受ける。

 皇女の視線はとある一点に注がれていた。金色ほど華麗で美しいわけではなく、銀色ほど優美ではなく、黄色ほど明るくもない。それは金とも銀とも黄色とも違うけれど、それらの色を足し合わせて、しかも明るさを抑えたかのような三日月だった。
(あの細い三日月が、迎えに来てくれたなら)
 深い森は樹海となり、いつしか本当の海となって――。

 かつての大森林地帯のなれの果てである太古の森には、鈍い色の鱗を持つ魚たちが現れ、ゆっくりと呼吸するかのようにぼんやりと光りながら、不思議に静謐とした泳ぎ方で宙を漂う。その泳ぎ、あるいは〈舞い〉は、まるで海草を避けて海の重い水の中を泳ぐのと同じように、木々の枝先をかすめながら続けられる。闇と森、闇と海、森と海との境目は見当たらず、僅かな星明かりを浴びて、時折波が立っているのが見分けられる。
 平穏さと開放感に充ちる謎めいた樹海を、リリアはゆらゆら揺れる小舟に乗り、柔らかな月明かりの下(もと)、波間に漕ぎ出すのだ。やがて天と地は秘やかに入れ替わり、赤や白や青、金銀の星たちが手の届く水面で瞬くだろう。そうしてリリア皇女の傷つきやすい心は海に一人漕ぎ出でて、樹海をさまよう。
 地位も任務も、歴史の重みをも忘れて、気軽に、そして身軽に――どこまでも流れてゆける。

 降り積もった闇が、全ての嘘も偽りも汚れも隠してくれる。
 今ならば、全ての〈夢見ること〉は許されているだろう。
 軽い澄んだ夜風に吹かれて、静かに吐息を重ねて。

 その、刹那。
 リリア皇女は、華奢な肩を軽く震わせた。
「ん……」
 遙かな西から海を越え、山を越えてきた涼しい夜風が、この古びたマホジール城の皇女宮の塔に開けられた小さな窓にたどり着いたのだ。
 さっきまでの夢想があまりに現実とかけ離れたものだということには充分に気付いており――むしろ、だからこそ心を彷徨わせていた十五才の少女だ。心臓がちくりと痛み、優しい夢から目覚めるかのように、ゆっくりと視線を三日月から森へ、マホジール町へ、そして細い窓枠へと戻してゆく。
 それとともに瞳の輝きはくすんでいった。まだ全ての光は失われてはおらず、健気にも希望は宿っていたが、歴史の重みも皇帝家の血筋も背負わず〈普通の少女に生まれたかった〉という叶わぬ繰り言が頭をかすめたのであろうか、その口元はかすかな諦めに似た笑みが浮かんでいた。

 全てが夢と分かっていても、それでいてもなお、朝に目覚めた時、もしもあの碧の森が翠の海に変じていたら――という尊くも儚い望みを、下らないと切り捨てて一笑に付すことは、リリアには出来ないでいた。万が一にも、という真剣な想いが、彼女の内側に生きているのだ。まさにあの広大な森に広がった木々のように、諸々の根が複雑に絡み合いながら。
 明日の曙光が城壁を、町を、森を街道を次々と照らし出したならば、現実と向き合らなければならない。そのことはリリアには痛いほど分かっている。だからせめて今だけは、限りなく優しい夜とともに、夢のまた夢に想いを馳せたい。

 リリアは留め金を外し、馴れた丁寧な動作で窓を閉めた。そうして小柄な少女は束の間の休息を取るため、暗闇に沈む部屋の中を、足元を確かめながら豪奢な広すぎるベッドに向かう。
 もう一度、傾けた三日月の船に乗って、心の内を、夜空の果てを自由に流れる森の夜風を波とし、水面に星たちを映した大海原に漕ぎ出でる――という、あの夢の続きに溺れるために。
 横たわり、柔らかな毛布を掛けると、疲れ切った身体には急速に睡魔が襲いかかってくる。夢かまぼろしか、涼しい高原の夜気は、ほのかな汐の香りを含んでいるようにも感じられた。

(了)



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