光の舞台へ

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 淡く、しかもきらびやかな蒼空に、まぶしき白い雲たちが浮かんでいる。まるで波間を漂う果物か、遠い東の国の甘い綿菓子か――あるいはきれいに洗った羊の群れであるかのように、柔らかく砕けて天つ風の河に乗り、どこまでも長く連なっていた。
 
 六月の真上からの光に照らし出されて、数多(あまた)の生命の緑に充ちた高原の太古の森を越え、急峻な上流の河と渓谷を渡り、しだいに険しくなってきた山膚(やまはだ)に沿って登り、まぶしい雲の群れは穏やかに流れてゆく。
 さて、その山の中腹に、少し形の歪んだ一つの小さな丸い鏡があった。それは見た目には流れ込む河も流れ出す河もなく、地下水でのみ繋がっている、まことに不思議な湖沼であった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 どこか銀に似た色に染まり、聖らかに澄んだ〈野原の鏡〉は、しばしば山の斜面を流れゆく涼やかな風を受けて波紋を描き、それにより透き通った水がそこにあるのだと知れるのだった。
 風がやむと、再び池の水はほとんど空気と化して、水晶よりも透き通った。そこに映る白い雲の群れは限りなくゆったりとした時を刻みながら、まるで清らかな空の神殿の一部を野原の上に運んできたかのように、池の中の天国を通り過ぎていった。
「こっちのお花、ほら、かわいいよ、お母さん!」
 シルキアが立ち上がって振り向くと、いたずらな風が吹いて、森歩きに適した紺色のズボンのすそを、薄手の白い上着の袖口を、きれいにくしけずった琥珀色の前髪を軽くはためかせる。その日焼けした頬も、髪に似た茶色の瞳も明るく輝いていた。

「あら、まあ」
 白い帽子をかぶり、やはり娘と同じようにズボンをはいた母のスザーヌが近づいて、娘の指差した方を見下ろし、はにかむ。
「それは何のお花だったかしら? ええと……」
「シェラーベンだろう?」
 少し離れたところから正確に名前を言い当てたのは、父のソルディだ。口髭とあご髭を少しだけ伸ばし、灰色の日除けの帽子をかぶっている。体つきはしっかりしていて、前髪はやや乱れていたが服装は全般的にこざっぱりしており、いかにも高原の酒場と宿屋の主人にふさわしい出立ち(いでたち)だった。

「あ、そうそう。シェラーベンで間違いないわ」
 しっかりとうなずいた母は、なだらかな緑の斜面にしゃがみ、ようやく思い出した――とでも言いたげな様子で、子供のように朗らかに笑った。すぐに娘のシルキアも真似して腰をおろす。
 遠くない夏を予感させる、迷いのない陽射しに照らされた草の、いのちの賛歌のような強い匂いが間近な嗅覚に響いた。
「お父さん、すごーい」
 娘は額に手をかざし、近づいてきた父をまぶしそうに誇らしげに見上げた。汗もすぐに乾く、清々しい高原の夏の始まりだ。
 長い雪と寒さは全くの夢であったかのように、池を見下ろす森と野原との境目は光に満ちあふれ、黄緑や緑色の種類は無限通りもありそうだった。春と夏の間の野原にそれほど花は多く見かけぬが、この季節、シェラーベンは蚕のような白い綿の花を幾つもつける。それは遙か昔に溶け去った雪の精霊たちが束の間の花となって現れ出たかのようでもあり、あるいは搾りたての羊の乳、空に浮かぶ雲を思い出させる純白さでもあった。

 そして少し離れた木の下には日陰があり、その傍らには二つの良く似た麦わら帽子が重ねて置いてある。その帽子を枕に、シルキアの姉のファルナはやや湿った涼しい地面に横たわり、安らかに微かな寝息を立てていた。蟻はお構いなく靴の上を這い、ダンゴムシは避けて通る。ファルナの胸は緩やかな上下を繰り返し、ズボンの裾は爽やかな風に時折揺れ動いていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ごつくて堅いが、貫禄と深い優しさに彩られた両手――まるで樹の幹のような――を後ろ手に組み、ゆっくりと父は近づいてくる。そして彼はかつての若者時代を彷彿とさせる、どこか悪戯(いたずら)っぽい表情を浮かべ、そこへ四十歳を過ぎた男の安らぎと穏和さの年輪を加え、妻を眺めて相好を崩すのだった。
「御前が好きな花だったからな」
 すると母のスザーヌは最初、目を丸くして驚いた。やがて青空の下、しゃがんだままの姿勢で、夫を愛おしそうに見上げた。
「まあ。私のほうが忘れてしまっていたのに……」
 対する夫のソルディの返事は、言葉よりも気持ちが伝わる満足そうな顔と、口元に浮かんだ笑みだった。シルキアはふわりと立ち上がり、両親に深い感謝の念をこめて告げるのだった。
「よかったね、お母さん、お父さん」
「ええ」
 ほっそりとしてはいるが顔色は健康的で、毎日の酒場と宿屋の仕事からか、肩や腰は意外としっかりした作りの母は、日々の忙しい生活を久しぶりに忘れたのだろう、まだ何も知らぬ少女のような純粋な笑みを浮かべた。高原のサミス村全体が避暑客で混み合う本格的な夏を来月に控え、今日は酒場も宿屋もお休み、久しぶりに家族四人勢揃いの休息日だったのだ。

 バサッ、バサッ――。
 突然、辺りに大きな羽の音が響いて、親子三人は我に返る。
「あっ」
 首を後ろに傾けたシルキアはまぶしい天を指差した。それは豊かな辺境の森を越えてきた茶色の雄の鷹が、優雅に翼をはためかせ、今まさに上昇気流をつかもうとしていた所だった。
 その軌跡の、空というよりも地を駆けているかのようにさえ思えるほどの圧倒的な力強さと、意識しない自然のなりわいが得た生命の躍動する芸術性に、三人はしばし見とれるのだった。
 翼を広げてバランスを取った姿のまま、鷹の姿はなだらかな野の谷を越え、しだいに向こう側の尾根へと遠ざかってゆく。

 その時、また意思を持ったかのような風が吹き、父の前髪、母の帽子、シルキアのズボンと、一人離れてしっとりと涼やかな木陰で眠っているファルナの袖を次々と撫でて通り過ぎた。
 父と次女のシルキアは満ち足りた、そして気が抜けたのか少しだけ呆然とした表情で緩やかに見つめ合い、綿か雪を思い出させる白いシェラーベンの花の脇で、母は丘の中腹にきらめく〈野原の鏡〉――銀色に澄んだ神秘の池を見下ろすのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「お姉ちゃん、起きないね」
 シルキアはふと、向こうの樹の下で眠りに落ちている姉のファルナの方に眼差しを飛ばした。ズボンが土の湿気で染みるのも嫌がらぬ様子で、苔に覆われた樹の幹に布を敷き、そこに頭を乗せて、かすかに安らかな寝息をたてている。森の終わりと野原の始まりの空間に延びた広葉樹は森の木々に比べるとまだ若い。その下で、細切れになった陽射しを浴びて横たわり、家族に見守られて何の不安もないかのように穏やかに眠るファルナとは、これ以上望めぬほどふさわしい組み合わせに思えた。
 妖精が作ったかのような、木々と草と花の匂いをほんのり混ぜ合わせた香水をふりまいて、緑の大地は〈そこ〉にあった。
「ファルナもきっと、疲れているのね」
 母はシルキアを諭すでもなく、むろん命じるのでもなく、かといって娘に対しておじけづいたり卑屈になることもなく、ただごく静かに応えた。その言葉が終わるや否や、ファルナをつつみこむ樹の梢に飛んできた小鳥たちの、楽しげな唄が聞こえてくる。
「次の仕事を考えずに過ごす時間も、たまには必要だろう」
 父は、いまや遠い季節となった冬の太陽を思わせる柔らかな視線を少し離れたファルナに投げかける。そこには、いつも良く働いてくれている感謝と信頼の念がいっぱいに詰まっていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 普段、宿屋と酒場を営んでいるセレニア一家の仕事は多い。酒場は夜毎に農業や牧畜を終えた素朴な村人たちで賑わい、二階の宿は山奥にまでやってきた商人や旅人の疲れを癒す。
 七月も末になれば貴族の避暑客がやって来て、八月半ばのサミス村の夏祭りの頃、それは最高潮を迎える。長い冬と深い雪に悩まされるこの村で、遅い春と短い夏は、まるで全てのいのちが伸びをするかのように、一斉にきらめきを放つのだった。

 夏祭りのかがり火や人熱れ(ひといきれ)、音楽の調べがシルキアの脳裏をかすめた。皆が楽しい時期は、家族にとっての書き入れ時でもある。普段は空き部屋の多い宿も、その時期は奥の大部屋まで埋まる。 それを考えれば、今は休息の時だ。
「そうだね、寝かしといてあげよ」
 いつも朝の光の中で姉を起こす役割を担うしっかり者の妹だったが、今は丘の中腹にたたずむ〈野原の鏡〉の池のように澄んだ穏やかな心持ちで、四つ年上の姉の昼寝を赦すのだった。
 吹く風は、空気の流れの波であった。草はなびき、白い花はうなずき、樹の梢は揺れて、人々は満ち足りた解放間に浸る。

 よく茂った緑の葉は、一枚一枚が個性を持った幾千もの手のひらのように、虫たちのじゅうたんのように、あるいは不思議に立体的な一つの草原であるかのように、宙に広がっている。
 あたかも透き通って流れの速い、分水嶺にほど近い山の早瀬であるかのごとく、木の葉を縫って降り注いでくるのは――。

「光」
 両足で大地に立ち、父のソルディがはっきりした声で言った。
「光の、舞台だ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 確かに、それは〈光の舞台〉と呼ぶにふさわしかった。
 少し遅れて、シルキアは斜め上を仰ぐ。水底の魚が水面を見上げるのときっと同じように、憧れと望みを込めたまなざしで。
「うん」
 彼女の琥珀色の髪を揺らす風が吹けば、辺りの日陰の模様や雰囲気は、一瞬にして様々な人々や遠い街角を描き出す。

 木々の梢に遮られても、輝きの雫は絶えず降り注いでくる。風が木の葉を揺らせば、太さや流れを変じる細いきらめきの糸は、河の上流の小さな滝の一筋とも重なった。それは焚火や月明かりに浮かび上がる、夏祭りの舞台をどこか彷彿とさせた。
 もちろん、あの一晩限りの情熱と、心までもが飛び出してしまいそうな歓喜に彩られた夏祭りの舞台とは趣を異にし――六月の森の外れの〈光の舞台〉は、もっと清明なものだったけれど。

「一緒にいる……みんな一緒に」
 どんな貴族でも持ち得ないほどの素晴らしい宝石となって散りばめられた木洩れ日と、風の波に揺れ動く木の枝を見上げて、母は原初の感動に浸っていたのだろう、ほとんど無意識のような口調で語った。それは飾りのない〈気持ち〉に翼が生えて喉から飛び出してきたかのような、素直で明快な感想だった。
 娘と良く似た瞳は、今や感激で少し潤んでいるかのようだ。
「ああ。私たちも、木々も、風も、光の中で」
 父も、彼らを見下ろしている木を仰ぎ、光を浴び、その向こうに広がる青空に視線を投げかけた。蝶が舞い、虫は自由に歩き、鏡のように澄んだ池はそこに在り、蚕の繭に似たシェラーベンの可愛らしい真白の花は麗しの香りを奏で、長女のファルナは安らかに寝息を立てる。全ては何の差もなく、あるがままに。

 その時、まるで何かの挨拶であるかのように、一枚の葉がひらりひらりと落ちてきた。表と裏、光と影を交互に見せながら、それは母のスザーヌの白い帽子をかすめ、父のソルディの手をすり抜け、シルキアのズボンに触れて――最後はファルナの肩の辺りにたどり着いた。夏の迷いのない光が射し込んでいて、ファルナの服の飾りとして落ち着いた葉を浮かび上がらせる。
「まぶしいね」
 シルキアがはにかむと、それは母の表情と良く似ていた。
「うーんっ」
 一度大きく伸びをすると、次女は姉が眠っている木の幹に駆け寄り、上体を屈めて膝を曲げ、あっという間に腰を下ろした。器用に布を出すと苔むした幹に敷き、横たわる。
「すっごく涼しい……」
 姉の眠りを邪魔しない声量で、しかしその中にはたくさんの感銘を込めて、シルキアは呟いた。光と影の織りなす木陰は風通しも良く、ごつごつしているのに馴れれば最高のベッドだ。少女のまぶたはあっという間に、もう半分近くまで落ちてきていた。

「私たちも座ろうか」
 父の呼びかけに、母はうなずく。そこには恋人時代に戻った、セレニア家の夫妻の姿があった。その暖かい視線に見守られて、シルキアは夢の国との境目に足を踏み入れるのだった。

 水は皆を潤し、光はすべてを照らし出す――。
 いつまでもこのままでいてほしい穏やかな優しい休符は、微かな風の歌声とともに、その時をゆっくり刻んでゆくのだった。
 野原の鏡のような澄んだ池を構えた、光の舞台の真ん中で。

「ふ……ふふっ」
 微笑みながらファルナが寝返りを打つと、肩に乗っていた緑の葉が再び音もなくこぼれ落ちて、大地に舞い降りるのだった。

(了)



【この作品は"秋月 涼"の著作物です。無断転載・複製を禁じます】