夜風とともに

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 通り過ぎる涼しい夜風とともに、黒髪をなびかせて、四つの人影が坂を登ってゆく。その中から、若い女性の声が聞こえた。
「ここの晩ご飯、ちょっと少なかったっすよねぇ」
「あたしもそう思いますっ!」
「そうかな? 私はちょうど良かったけど」
「……」
 町の温泉に浸かって昼間の汗を流し、身体をじっくり温めた後、ひとときの夜の散歩を楽しみながら戻ってきたのは、対岸のメロウ島から試合のために渡ってきた闘術士たちだった。
 その中で、宿へ向かう坂を一番最後に登ってきた一団は、二十歳前後の若い女性たちばかり四人だった。道の左右に続く家々は深い闇に沈んでいるが、彼女たちの声は明るかった。
「さあ、もうすぐ着くっすよ」
 先頭に立って進んでいるのは十九歳のユイランだ。

「ん?」
 ユイランの一歩後ろを歩いていたメイザは、ふと足を止めた。彼女はちょっとだけ首をかしげ、とある一軒の家の窓をじっと見つめた。その窓は朧気にぼんやりと白く輝いていたのだった。
 一方、メイザと並んで歩いていた闘術士の後輩のキナは、メイザが止まってからしばらくして立ち止まり、首を後ろの方へ動かして先輩に関心を示した。二人に気づかず進んでいくユイランたちの方もちらりと確かめたキナは、特に迷ったそぶりも見せず、まだ動き始めないメイザの方へ何も言わずに降りていった。

 メイザは坂に背を向け、東の海の方を向いて立っていた。一度、ゆっくりと大事にまばたきをしてから、両目を細めている。
 背中で気配を感じたのだろう、彼女は振り向かずに言った。
「キナ。見て」
「……」
 キナは黙ったまま、表情を変えずに遠くを見つめていた。
 空と海の遙か彼方に、今宵の望月が浮かび上がっていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 はっきりと白く明るい満月が東の空の中ほどにいて、辺境の公都マツケ町を見下ろし、初秋の闇を淡く照らし出していた。
 それは上から見たランプのように、誰かの澄んだ瞳のように、あるいは夜の向こう側に開いた丸い窓のごとく、爽やかでささやかな乳白色の明かりを静かに投げかけているのだった。
「今夜はきれいね」
 可愛らしいえくぼを浮かべて、メイザは優しげに微笑んだ。闘技の鍛錬や試合の時に見せる真剣な表情とは異なっている。
 キナは口を動かさず、少しだけ首を動かして、うなずいた。
 
 先頭を歩いていたユイランが、後ろの二人が遅れていることに気づき、ふと振り返った。彼女は少し声を張り上げて訊ねた。
「何してるんすか〜?」
 メイザはこの四人の中では一番の年長者である。ユイランの呼びかけの響きの中には、メイザが先輩だから――というだけに止まらず、尊敬し、慕っている感情が自然と篭もっていた。
 
「お月様よ」
 何の迷いもなく、メイザが暖かな声色で、それでいて颯爽と答えた。その声は決して大きくはなかったが、高らかに響いた。
「お月……様?」
 ユイランの表情が和らいだ。それが魔法の呪文ででもあるかのように、大切な合言葉であるかのように、その言葉を初めて聞いた子供のように、ひそやかに不思議そうに呟くのだった。
「んっ?」
 ユイランの横にいたマイナが顔をもたげる。この中では一番幼い、十五歳になったばかりの黒髪のお下げ髪の少女である。
 
 冴えた月が抱く白金の輝きは、高貴な姫君の薄いヴェールのように空全体にかかっていた。少し高いところから見たメイザとキナの人影は、安らぎの闇に溶けて沈む海と空とを背景に、満ちた月の淡い逆光を浴びて、微かにおぼろげにゆらいでいた。それは厳かで、雅やかで、神秘的な雰囲気を漂わせていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 時折、耳の奥で夢のように聞こえる波の音は、どこからか風に乗って夜を渡り、切れ切れに運ばれてくる。それは浜辺に打ち寄せる海の波か、それとも夜空に伸びた天の河の漣(さざなみ)か――ユイランはほとんど無意識のうちに、秋の月の光とメイザの言葉に引き寄せられるかのように坂を下り始めていた。
「あっ、ユイさん」
 しばらくユイランの話し相手だったマイナも素早く後を追う。
 
 再び四人が集まったところで、年上のメイザは左右にいる後輩たちを一人ずつ見回し、微笑んだ。それから月の光が柔らかに降り注いでくる正面に視線を戻し、やや上を向いて語った。
「とっても明るい、お月様ね」
 ユイランがごく近くで見た、その時の先輩の横顔は、さっきまでの神秘的な雰囲気はかなり薄らいでいた。闘術のセリュイーナ師匠や仲間たちから〈お嬢〉さんと呼ばれて慕われている、いつもの上品で優しく穏やかなメイザそのものに近づいていた。
 それでも、普段はあまり表に出てこない二十二歳の大人の女性の色香や艶っぽさのようなものを残していたのは、澄みきった月の輝きの持つ秘められた魔力のしわざだったのだろうか。
 そんな事を思いながらも、ユイランは軽い口調で返事をした。
「そうっすねー」
「……」
 他方、目つきの鋭いキナは、じっと望月を見つめたまま黙っている。沼のごとくに奥深い〈静〉の果てに、雷のような〈動〉を隠し持つ彼女の雰囲気は、獲物を探している途中に足を止めた野良猫を彷彿とさせた。あるいは名だたる彫刻家が作り上げた、闇の色の瞳が生き生きと輝いている小柄な彫像を思わせた。

「ハイ」
 周りの雰囲気に飲まれつつ、少し遅れて神妙そうにうなずいたのはマイナだった。最年少の彼女は、やや戸惑いながらも、興味深そうに眺めている――その眼差しの行き着く先は、空の彼方の手が届かない世界ではなく、ごく身近な場所だった。
 お調子者であるけれど、いつも元気で力強く、修行場の先輩の中では最上級の実力を持つユイラン。セリュイーナ師匠や仲間から〈お嬢〉さんと呼ばれている通り、おっとりした雰囲気を漂わせつつも、基本に忠実で知的な戦略に定評のあるメイザ。
 面倒見の良い二人の先輩たちの、普段はなかなか見ることの出来ない大人びた面に、まだ幼さを残すマイナは心が惹かれている様子だった。今宵の満月の美しさより、むしろそちらに関心があることを、少女の視線の行く先が明瞭に示していた。
 この中では最も年齢の近い先輩であるキナは、取っつきにくさに変化がなく、今はマイナの興味から洩れているようだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 清らかな深更の闇から絞った染料を用いたかのような、東方民族〈黒髪族〉の彼女たちの艶やかな前髪が、軽やかに流れ去る涼しい夜風にそよいでいた。少しずつではあるが、しだいに天高く昇ってゆく満ちた月は、ますます明るく冴え渡っていた。
「光にも、色んな種類や温度があるのね」
 メイザがつぶやいた。他の三人は黙って続きを聞いている。
「春の日の、うららかな黄色の光。夏の日の、焼けるような暑くて白い光。秋の夕暮れの紅の光、朝焼けの橙。冬の午後の、部屋の奥の方まで差し込んでくる、優しくて温かな金色の光」
 一つ一つを想像するかのように、メイザはゆっくりとした口調でその都度考えながら例を挙げてゆき――最後に付け加えた。
「それから、銀の月光」

 それを聞いた刹那、ユイランの筋肉質の腕がぴくりと動いた。
 彼女たちを見下ろす星たちは変わらぬことなく、まばたきを繰り返している。それは音ではなく光を使った唄のように見えた。
「ふぅ〜」
 やがて短いため息をついたユイランは、両腕を腰に当てて胸を張ったまま、尊敬するような、半ば呆れたような声を発した。
「〈お嬢〉さん、さすが詩人っすねえ」
「ふふ。ちょっと、そんなことを思ってみただけ!」
 振り向きざま、メイザは少し早口で喋った。そして顔を火照らせながら、うつむきがちに、はにかんだ微笑みを浮かべた。今宵のお月様が、あまりに綺麗だったから、とでも言いたげに。

 その瞬間――。
 神秘的な時空を形作っていた魔法が解けて、場の雰囲気が一気に和んだ。それはまるで夜そのものが、緊張と安らぎという相反する二面性を孕んでいる証ででもあるかのようだった。
 マイナはほっと肩の力を抜くと、東の空の月を眺めだした。
「うん。ほ〜んと、綺麗な満月ですねっ」
 さっきまではメイザとユイランの世界に飲まれていた十五歳の少女は、ようやくいつもの調子の良さを取り戻し始めていた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 涼やかな淡い月の明かりは、秋の終わりの霧雨のように、細かく儚げに舞い降りていた。地上の海、そして空の海につながっている町外れの坂道には、時折、夜風が通り過ぎてゆく。
 マイナが腕を組み、ぶるっと震えた。修行で疲れた身体を休めるために町の温泉へ浸かったが、もうすっかり冷えていた。
 それに気づいた最年長のメイザが、仲間たちに語りかける。
「さあ、あんまり遅くなると師匠に叱られるわ」
「帰ろ!」
 ユイランが腕を挙げて同調し、マイナも瞳を輝かせた。
「ハイっ」
「はい」
 表情こそ変わらなかったが、沈黙のキナが低い声を発した。

 四人で歩き始めたとたん、ユイランが急に立ち止まった。
「どうしたんですか?」
 マイナが不思議そうに訊ねると、お調子者の先輩は真剣な顔で、冗談とも本気とも受け取れる真面目な口調でこう言った。
「あの月、あたしの拳の波動で割れないかな?」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ユイランは、そう言うと腰を低くし、実際に鋭く拳を構えた。
「ちょっとユイちゃん……突然、何を言い出すかと思ったら」
 メイザは苦笑し、困惑気味だった。マイナも驚いて聞き返す。
「えっ?」
 仲間の心配をよそに、ユイラン本人は望月を睨み据えた。まるで、その明るく丸い光源が、敵の瞳ででもあるかのように。
「意外と遠くないかも知れないじゃないっすか」
 その時、夜の彼方から風が吹き、四人の髪を強くあおった。

 ユイランの決断は早かった。決断を早くし、反射的に体を動かすことについては、闘術の訓練で日常的に叩き込まれている。
「やってみようっと」
 言うが早いか、ユイランはやや身体を引いて気合を入れた。
「フーッ……」
 彼女を斜め上から見下ろしている月に対峙して、肩を動かしながら呼吸を整え、筋肉に力を入れて、的確に狙いを定めた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ハァーっ……」
 夜への挑戦者――地上の黒い狼になったユイランは、気合いの咆哮をあげた。無謀な戦いを静かに待ち受ける満月は、力の差を見せつけるかのように、相手をさらに煌々と照らし出した。
 先輩のメイザと後輩のマイナは固唾を飲んで見守っている。仲間の風変わりで罰当たりな行動を心配している様子だが、唇の隅が僅かに笑っているのは、少しだけ期待しているようだ。
 キナは特に様子を変えていないけれども、ユイランのほうをじっと見つめている。穏やかな空気がしだいに張りつめてきた。

 ついにユイランが動いた。
 鍛えられた影の身体が、弓のようにしなった。
 次の瞬間――。
 雌の獣は、空高い獲物に襲い掛かった。
「ヤヤヤヤッ!」
 短い声とともに目にも留まらぬ速さで、連続して繰り出された数発の拳が夜を叩いた。高らかに鋭く風を切る音が響いた。
 メイザはまばたきをし、マイナは手抜きをせず全力で戦ったユイランの姿を見て肩をぴくっと震わせた。涼しい風は、軽くいなすかのように吹き渡った。夜風が徐々に強くなってきている。

「やっぱ、だめか……どのくらい遠いんだろ?」
 ユイランは腕組みをすると、あっさりと敗北を認めた。さっきまでの鷹や狼のごとき殺気は、驚くほど簡単に消えてしまった。
 駄々っ子に語りかけるかのような優しい口調で、その中に不安と戸惑いをいっぱいに込めた声で、メイザは後輩を諭した。
「ユイちゃん、何か悪いことが起きても知らないよ」
 一方、マイナは唖然とした感じでこう呟くのがやっとだった。
「さすがユイさん、切り替えがすごいです……」

「じゃあ、帰ろう」
 ユイランが言いながら歩き出すと、マイナとキナも続いた。
「ん?」
 歩きながら首をかしげたユイランは、何となく違和感を覚えていたようだった。気のせいか、辺りが一段階、暗くなったような印象があったのだ。それは実際には大きな違いではなかったのかも知れない。しかし、もともと暗い夜の奥底では、部屋のランプが消えたり、日が陰るような強い印象を受けるのだった。
「大変っ!」
 動かず月を眺めていたメイザが、突然、強い警告を発した。
「ユイちゃんの攻撃で、お月様がなくなったわ!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 耳を疑い、色を失ったユイランは慌てて振り返った。
「いっ?」
 大きく見開いた両目で、暗い夜空を凝視し、敵の姿を探した。戦った本人も簡単に月が倒せるとは思っていなかったようだ。
 しかし、空には宝石のかけらのような星たちしか見当たらなかった。秋の終わりの霧雨のような繊細な光を、さっきまで絶えることなく振りまいていた丸い月は、忽然とその姿を消していた。
「うっそ……」
 ユイランは絶句して立ち止まった。北国の公都マツケ町は、闇という名の黒い湖の果てに、息をひそめて暗く沈んでいる。

「ほら〜、悪戯しすぎたからだよ。あんな綺麗なお月様に」
 追い討ちをかけたメイザの喋り方にはどこか余裕が感じられた。月が輝いていた方角を見上げ、背中を向けたまま語った〈お嬢〉さんの表情は、後輩たちには窺い知る事が出来ない。
 その肩が小刻みに震え出し、抑えた笑い声が聞こえてくる。
「ふっ、ふっ……くっ」
 すると焦り気味のユイランは、語気を強めて早口に訊ねた。
「〈お嬢〉さん、何がおかしいんすか?」

 さて、ユイランを見たりメイザを見たりしながら事の推移を見守っていたマイナは、さすがにメイザの様子がおかしいと思って色々と考えを巡らしていたが、急にほっとしたように呟いた。
「あっ、分かった。分かりました」
 するとユイランは、近くのマイナにものすごい剣幕で迫った。
「何なの、月はどこ行った? どこまで吹っ飛んだの?」
「出てくる」
 突如として口を開いたのは、長いこと沈黙を続けていたキナだった。その声量は小さかったが、言葉には重みがあり、ユイランもメイザもマイナも一瞬にして動きを止めた。まるでキナの沈黙が他の三人に移って、時間を止めてしまったかのようだった。
「……」
 それ以上は何も語らず、キナは目を動かして示した。眼差しの行き着く先――遙かな天で、何かが変わろうとしていた。
 ユイランはキナに倣って、星の空をゆっくりと仰いでいった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 その時、四人の耳は風の音を捉えた。再び空の高みを闇の流れが吹きぬけたのだ。鋭い切れ切れの歌は、波打ち際に身を寄せる海鳥の啼き声に似て、物悲しい響きを帯びていた。
 風に煽られたのか、低く垂れ込んでいた雲が素早く横に動いていた。それは明らかに雲だった。暗闇の色をして、夜の中にひそんでいたから、ユイランは今まで認識できなかったのだ。
 細く開いたカーテンから朝日があふれ出すかのように、洞窟をふさいだ岩が開いて光が満ちてゆくかのように、あるいは今にもまどろみから醒めようとする少女の麗しい瞳のように――。
 雲間から白銀色の光がこぼれだし、優雅に広がり出した明るさは、わけ隔てなく空全体に投げ掛けられた。黒雲のヴェールの外される時が来たのだ。まばゆい金の切れ端が姿を現し、大きく膨らんだかと思うと、ついに満月が全貌を現したのだった。

 ユイランはあっけに取られていた。
「なぁんだ、隠れてただけ?」
 雲の隠し方が上手だったので、すっかり騙されてしまった実力派の闘術士は、まだ背中で笑っているメイザに駆け寄った。
「お嬢さ〜ん、びっくりしたじゃないっすか!」
 ユイランの声は、不満や怒りというよりも、むしろ深い安堵に彩られていた。月があって良かった――とでも言いたげに。
 他方、メイザはえくぼを浮かべ、悪戯っぽく微笑むのだった。
「だって、ちょうど良く曇ったんだもの」
「ふっ、ふっ、ふっ」
 マイナは口を押さえ、腰を曲げて耐えようとしていたが、あとからあとから湧き上がってくる笑いは止まらないようだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「さあ、帰りましょう」
 メイザが優雅に呼びかけると、ユイランは〈《お嬢》さんには勝てないな〉とでも言いたげに軽く胸を張って鼻から息を出し、気を取り直したようだった。彼女は坂道の先を指さして叫んだ。
「さあ、宿まで競走!」
 暗い足元も何のその、ユイランが勢い良く走り始める。迷いのない足音が、あっという間に暗闇の向こうへ遠ざかっていった。
「ちょ、ちょっとユイちゃん、危ないよ〜!」
 メイザが驚いて声をかけたが、後輩は意に介さなかった。
「これも修行の一環っすよ!」
 という叫びが、初秋の夜風に乗って運ばれてきたのだった。

「待ってくださいよ〜」
 ユイランに置いて行かれてはと、遅ればせながらマイナが後を追おうとした時――その横を黒い影が無言で駆けていった。
 一瞬、猫のように目を光らせて通り過ぎた影はキナだった。
「……」
「キナさん、速いっ」
 マイナは目を丸くして戸惑ったが、闘術の師匠から指導された成果か、落ち着いて状況を判断し直すと手を挙げて告げた。
「あたしも参加しま〜す」
 年下の後輩はそう宣言すると、両手を左右に伸ばしてバランスを取りながら、望月の銀色の月明かりを頼りにして走り出した。足元を不安そうに踏みしめつつ、次の一歩を探りながら。
「あー、これ、結構怖い」

「もう、しょうがないなぁ」
 取り残されたメイザは腰に手を当てて、軽く溜め息をついた。それから優しい目をして穏やかに微笑むと、こうつぶやいた。
「私も急がなきゃ。負けられないものね」
 温まった身体から発する湯気は消えかかっていた。メイザのやや慎重な足音が遠ざかり、辺りは再び静寂につつまれた。
 北国の若い闘術士たちを見守る満月は、まだまだ天の坂道を昇ってゆく。それは彼女たちの持つ夢や可能性のようだった。
 強い夜風が流れる間、道端の草の穂が首を垂れ、少しずつ起こしていった。月の光が揺らぎ、潮の音が微かに聞こえた。

(了)



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