まどろみの雨

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 早朝の通り雨が、山あいの町をしっとりと濡らしていた。
 空を映した冷ややかな灰色の雨は、人々のまどろみ――夜明け後の浅い眠りそのものであるかのように、緩やかに強まっては弱まる事を繰り返しつつ、しばらくの間、降り続いていた。
 日はすでに昇ったはずだが、新しい一条の光は雨雲に遮られている。薄暗さの消えない町は彩りが失われて、あらゆる境界線が曖昧になっていた。鳥の声は遠く、雨音は優しかった。
 雨は一見、単調に思えたが、実際は一粒ごとに全く異なっていた。落ちる場所も、粒の大きさも、形も。だから耳を澄ませていると、雨の調べは二度と演奏できない複雑な楽曲だった。
 僕は町役場の下で雨宿りをしていた。人のいない中央広場の石畳が雨を受けて、一段階深い色に塗り変えられていった。

 ふと気配を感じて、横を見ると、少し離れた場所に見知らぬ少女が立っていて、やはり僕と同じように雨宿りをしていた。彼女はやや顎を上げて視線を天に向け、何度かまばたきしていた。
 少女は長袖の服を着て茶系統の薄手の上着を羽織り、やや厚手の長ズボンをはき、豊かな髪を後ろで一つに束ねていた。
 じっと見ていると少女も僕に気づき、互いの視線が重なった。
「おはよう」
 先に挨拶したのは相手のほうだった。
 周りに誰も居ないのを軽く確かめてから、僕は答えた。
「おはよう」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「秋らしい朝ね」
 澄んだ声で、相手は明るく喋った。声は大きくないのに不思議と余韻は残った。確かに、通り雨なんて〈秋らしい朝〉だ。
「そうだね」
 言葉が途切れるごとに、降り続く雨音が合間の時間の橋渡しをしてくれた。僕はそっと右足を出して一歩だけ少女に近づき、今度はそちらの方は向かずに正面の雨を眺めたまま訊ねた。
「雨上がりを待ってるの?」
 相手はしばらく考えてから、やや視線を上げて返事をした。
「そう、待ってるの。君も?」
「うん。そうなんだ」
 僕はまず肯定してから、ちょっと首をかしげて付け加える。
「うーん。確かに雨のやむのを待っていることは待っているんだけど、待っていること自体を楽しんでるような感じかな……」
 薄暗い空が、ほんの少しだけ明るくなった。
 すると相手は微笑み、僕の方に向き直って一足歩み寄った。
「私も」
 はっきり同意した後、少女は初めて迷いをみせるのだった。
「でも、この時間が、ずっと終わって欲しくないような気もする」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ふふっ」
 僕が何も言えずにいると、少女はにわかに微笑った。それから視線を雨の方に向けて右腕を上げ、掌をゆっくりと広げた。
「あ、でもご心配なく。もうすぐ雨はやむと思うよ」
 僕は雨を見つめ、ちょっと考えてから、やや疑問形で応えた。
「そう?」
 雨音は続いていた。全体的な印象としては単調だけれども、その内側に一粒一粒のそれぞれの物語を秘めているのは、さっきも今も変わらない。こうして早朝に町を湿らせても、時間の経過とともに、午後になる前にはあらかた乾いてしまうだろう。
 灰色の世界の下、雨の唄う調べに乗せて、少女は語った。
「うん。まどろみの刻限は終わるのだから」
 僕は右を向き、距離の縮まった相手の方を見つめた。その表情に悲壮感はなく、全てをあるがままに受け入れるような、穏やかで優しく、それでいて力強さのある澄んだ眼をしていた。
 心なしか、僅かながら雨音が弱まったような感覚があった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「えーっと……」
 少女が長ズボンのポケットに手を突っこみ、何かを探った。すぐに目的の物に触れたのだろう、はにかんだ笑顔を見せる。
「あった」
 相手は〈それ〉を握り拳に収めて隠したまま、風のような素早さでこちらに駆け寄ると、僕の目の前に〈それ〉を突きつけた。
「はい。これ」
 予想はついたけど、やっぱり彼女がそうだったんだ――。
 一度まじまじと拳を見つめ、相手の目線を確かめてから、僕は緩やかに腕を伸ばしていった。向こうはしばらくじっとしていたが、やがて僕の掌が届く範囲になると丸めた拳を開いてゆく。
 ほんの少しだけ指先が触れた瞬間、心臓がちくりと痛んだ。
「よろしくね」
 少女はゆっくりと名残惜しそうに腕を下ろし、軽く胸を張った。
 僕はまばたきをしてから、まず掌を閉じてみた。僕が受け継いだ〈それ〉の堅い感触の奥底に、ぬくもりが微かに残っていた。
 次に手の力を抜いてゆく。指と指の淡い黄金(こがね)の輝きが垣間見える。それこそが月の番人の持つ〈月の石〉だった。
「ありがとう。確かに」
 僕が言うと、その子は安らいだ微笑みを浮かべるのだった。
「どういたしまして」
 相手の声が良く聞き取れた。気がつくと、いつしか雨は小降りになっていたようだった。東の空も僅かずつ明るくなっている。
「もういいの?」
 僕が訊ねると、目の前の少女は大きくうなずいた。
「朝はちゃんと迎えたから。今日は一日、楽しむことにするの」
「それもいいね」
 僕も口元を緩めて相づちを打った。九月の最後の日、ルデリア大陸の山あいの町は、だんだん目を醒ましてゆく所だった。
「雨はじきにやむから。その後は思いきり青空を楽しむつもり」
 少女はそう言うと、ふっと安堵のため息を洩らすのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 雨が霧雨になったので、またどこかでね、と言い合って僕たちはあっさりと別れた。少し離れた所で振り向くと、雨宿りの少女は遠い目をして、風に翻弄される霧雨をじっと見つめていた。
 鳥の声は少しずつ高らかになり、短いまどろみから醒めつつある人々の蠢動が感じられた。雲が薄くなって明るさが増し、灰色の町は彩りを取り戻して、いよいよ動き出そうとしていた。
〈まあ、わかんないけど。九月の空は気まぐれだからね〉
 別れ際のあの子の言葉と、達観したような笑顔が、印象深く心に刻まれている。少女は最後の朝を無事に迎えて次の月を僕に託し、僕は十月を見守る。僕の順番が回ってきたのだ。
 
 彼女は、今年の九月。
 僕は、今年の十月を司る――。

 霧雨は上がって、雲が離れ、早くも青空が見え始めてきた。明日からに備えて、僕も今日この日を楽しむことにしよう。青空の下、爽やかで気まぐれな九月をしめくくる、今日この日を。
 あの子に引き継がれた〈月の石〉を、僕は大切に握りしめた。

(了)



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