季節の雪

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


「寒っ」
 短く呟いたシーラの吐息が、酒場の窓から漏れる黄金色の光の中で朧気に白く漂い、消えた。北国センティリーバ町の夜を充たした澄んだ空気が、暖まった頬に突き刺さるかのようだ。
「雪でも降りそうだなァ」
 並んで歩くミラーが言った。すぼめた口と鼻の穴から銀の煙が立ちのぼっている。彼は裾の長い黒い上着の襟を立てた。
「この空じゃ、降りようがないと思うけど」
 シーラが歩き出しながら言った。空は満点の星空であった。
「天気じゃなくて、寒さについて語ったんだが……」
 ミラーが固い声で応じ、不服そうに口を尖らせた。他方、薄紅の顔で少し酒臭い息を発するシーラは、相手の不満を一挙に吹き飛ばすかのように、男の左肩を機嫌良く右手で押し出した。
「大丈夫! 分かってるって。揚げ足取りしてみただけ」
「ふーん」
 ミラーはやや不満そうに言った。会話が途切れて、静かな夜の港町に、しばらく二人の足音だけが幻のように響き渡った。
 
 東町の酒場通りを右に折れると、辺りはかなり暗くなった。シーラは少しずつ速度を落とし、立ち止まって空を仰いだ。秋の終わりが近づいている今の季節、晴れてさえいれば毎晩のように星が美しく輝いているので、普段は深く見つめ直すこともない。
「きれいな星空ね。改めて見ると」
 腕組みをし、二十五歳の女性が呟いた。彼女に合わせて歩みを止めた同い年のミラーが軽くうなずくと、シーラは続けた。
「あの星が、雪になって降ってきそうね」
 そして彼女は機嫌を取るかのようにミラーの方を見つめた。
「雪なら、明日にでも見せてあげようか」
 早くも機嫌を直したのか、幾分声を弾ませてミラーが答えた。空気は冷たいが、珍しく風のほとんどない晩秋の宵であった。
「黄金と、琥珀色の入り混じった雪を」
 向き合ったミラーが楽しげに付け加えると、シーラは訊ねた。
「もしかして、風の魔法で落ち葉掃除とか?」
「あ……」
 黒い上着の男魔術師は一言呟いて絶句した。その小さな淡い吐息の固まりが、夜につつみこまれて溶けていった。居座りかけた気まずい沈黙を吹き飛ばすようにシーラが取り繕った。
「あれ、もしかして図星だった? それだけ、私がミラーのことを分かってるって事じゃない? これって、ちょっとすごくない?」
「う〜ん……ま、そういう事にしとこうか」
 気持ちを切り替え、ミラーは歩き出した。シーラも後を追う。
 
「ねえ、あした見せてよ。落ち葉の雪を!」
 足を進めながら、シーラがミラーの右腕に抱きついた。
「貴女のお望みの通りに。夏の光の雪や、春の花吹雪でも」
 ミラーはわざと声色を変え、騎士であるかのように喋った。
 どこか道端で、微風に吹かれた枯れ葉が乾いた音を立てて笑った。二人の旅人が泊まっている宿屋はあと少しだった。
 恋人たちの吐息と足音が遠ざかってゆき、やがて消えた。
 後には静けさと、満天の星空が残された。

(了)



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