夢の名残

 

秋月 涼 


 一九八〇年代後半、北海道下別(しもべつ)町。この町を通るローカル線がついに廃止されることとなった。町はかつて炭坑で栄え、ピーク時には四万もの人口を擁した。だが炭坑は閉山されて久しく、過疎化した現在では一万人を大きく割っている。石炭輸送のために建設された「下別線」も石炭産業の斜陽化とともにその役目を終え、廃止対象路線に指定された。
 「下別線」は現在、一日に六往復しか走っていない。ダイヤは朝夕に集中している。石炭輸送の衰退後、この線は高校生の通学利用でどうにか成り立ってきたのである。
 森井幸介は地元の高校二年生で、この鉄道を利用している一人である。いや、していたと言った方がよいだろう。今は三月下旬、学校は春休みに入っている。
 この鉄道が運行されるのは三月限り。つまり、あと数日で「死刑」が執行される。今は、一歩一歩死刑台を上っているところだろうか。
 幸介はなんとなくかわいそうな気がしたが、しょせん「なんとなく」止まりであった。四月からはおんぼろなディーゼルカーに替わり、新造される町営バスで通学することができる。本数も倍増され、住民側からすれば便利になるのだろう。
 幸介は父親にこの話をしてみた。父親も彼と同じ様な考えだった。だが、一緒に住んでいる祖父の反応は全く違った。
「わしらが一生懸命働いて、働いて……そのおかげでやっと敷いた鉄道だのに……」
 祖父は炭坑の作業員だった。祖父がまだ若かった頃、石炭輸送の必要性から「下別線」が敷設された。あの世代には愛着があるようだ。彼らは下別の栄光の時代を知っている。その祖父がしつこく薦めるので、幸介は廃止前にもう一度だけ「下別線」に乗っておくことに決めた。
 だが春休み中にわざわざ出かけるのは面倒であり、彼は結局「明日乗ろう、明日乗ろう」と思いつつこの最終日を迎えてしまった。時間とは無情であり、時計はすでに午後四時を指している。四時三十一分に列車があるので、彼は重い腰を上げて下別の駅に向かった。
「信じられない……」
 駅には人が溢れ返っていた。ほとんどお祭り騒ぎである。鉄道会社は記念切符を売り、マニアはカメラを抱えて騒いでいる。臨時列車まで運行されるという。
(自分勝手すぎる)
 幸介はなんだか腹が立った。彼は駅に背を向け、線路沿いの道を歩き始めた。明日からはこの道を代替バスが走るのだろう。ひたすら下り坂が続いている。「下別線」が炭山の町・下別と平野の都市とを結んでいるためだ。
 ごうごうという低い音が響く。道路と並行している線路を、五両編成のディーゼルカーが走り去った。超満員である。
「あの列車、普段は一両編成でもがらがらだったのに……」
 今日は一段と夕日が赤く見える。山々の影が夕日を浴びていっそう濃く映し出されている。雪は溶けたが、風はまだ冷たい北海道の三月である。
 幸介は意地になって、線路沿いを終点まで歩こうと思った。あんな浮かれた連中と一緒にされてたまるか。
 かつて北海道の炭坑や鉄道建設には強制労働がつきまとい、「タコ部屋」と呼ばれる恐ろしい飯場(宿泊所)があった。そこでは頭(かしら)が暴力をふるい、賃金の上前をはねたりしたという。
 気がつくと、空は濃い青色に変わっていた。右手に小さな駅が見える。通学の車内からいつも見ていた駅だが、ホームに降りたことは一度もなかった。
 そのホームに今、立ってみる。前後には真っ直ぐなレールがひらすら続いていた。レールの表面は輝き、とても今日で廃止される鉄道とは思えない。
 午後六時二十三分。何分か遅れで、下別行き最終列車がこの小さな駅に停まった。満員である。この駅のホームは二両分しかなく、五両編成のうち後ろ三両のドアは閉まっていた。騒がしい列車が去ると、小さな駅は一段と寂しさを増した。辺りはすっかり暗くなり、崩れかけた炭住(炭坑住宅)の群れは黒い影となって遠くにかすんでいた。
 三十分も経たないうちに折り返し列車が来た。この列車が正真正銘、「下別線」としての最後の列車である。このレール上を列車が走ることは、もはやないのだ。この間ずっと、幸介は駅の待合室に腰を下ろし感傷にふけっていた。蜘蛛の巣が張っている、ぼろぼろな待合室である。
 七時過ぎ、空腹感を覚えて幸介が帰ろうと思ったその時、ふいに誰かが待合室のドアをたたいた。
「お客さん、乗るんですかい?」
 見ると、ホームに列車が停まっていた。幸介は待合室から飛び出し、その車掌風の男に尋ねる。
「どこ行きですか?」
「下別行きの、山登り列車です。もうそろそろ発車しますが」
「乗ります」
 幸介は列車に飛び乗った。ピィーという笛の音。ドアが閉まり、一度がくっと揺れてから、列車はゆっくりと走り始めた。木製の扉を開け、客室に入る。やけに薄暗い。
 座席は半分以上埋まっていた。幸介は空いている席に腰を下ろす。周りを見渡すと乗客は男ばかりで、格好はみな古くさい。突然、ポーッという汽笛の音。トンネルに入り、窓から白い煙が入ってくる。
 幸介は大事なことを思い出し、そして背筋が凍りつくのを感じた。
(この列車……いや、汽車は……一体何なんだ!)
「炭住から炭坑に通うための通勤汽車だ」
「え? あっ、爺さん! これはどういうことなんだ?」
 いつの間にか横の席に祖父が腰掛けていた。
「炭住? 炭坑? 爺さん、あんたはどうしてここに……」
「炭坑に働きに行くのだ」
「だって炭坑は閉山……」
 幸介の言葉を遮り、祖父はより強い口調で言った。
「炭坑だ。炭坑に行くのだ。掘って掘って、この鉄道で石炭を輸送する。この線はわしらが守る」
 その時、車内放送が鳴り響いた。
「まもなく終点の下別です」
「幸介、お前は次の駅で降りろ」
 祖父が言った。幸介はもう訳が分からなくなっていた。
「爺さんは? 爺さんも帰るんだろ? おい!」
「わしらは炭坑に行く。この列車に乗っている仲間たちと一緒にな。炭坑だ、炭坑、炭坑、炭坑……」
「ウワーッ!」
 幸介は恐ろしくなり、転がるように客室から飛び出した。ドアは開いており、そこは下別の駅だった。反対側のホームには石炭を満載した貨車が停まっている。
 幸介は走った。ひなびた駅舎を飛び出した時、彼は恐る恐る振り返る。息を切らして見たその風景を、彼は一生忘れないだろう。
 自分が乗ったあの汽車は白い煙をあげながらレールの無い方へと走っていき、だんだん透明になり、そして消えた。時を同じくして、石炭を積んだ貨物列車も空気に溶けていった。
 幸介は疲れ果て、家路を急いだ。帰宅すると、なんだか家の中があわただしい。幸介の母親は彼の姿を見るなり大声で叫んだ。
「幸介! どこに行ってたんだい!」
「『下別線』に……」
「爺さんが急に倒れたんだよ! 救急車を呼んで病院に連れてった。あたしらも今からその病院に行くところなのさ。ついてらっしゃい!」
 幸介が病院に着くと、祖父は昏睡状態に陥っていた。未明、祖父はついに帰らぬ人となった。

(了)



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