秋月 涼 


 ある町に、一人の男がいた。ずいぶん歳をとっていた。顔は皺(しわ)だらけで、くしゃくしゃだったが、何もかもを見通すような、澄んだ瞳を持っていた。
 男はごく普通の一軒家に住んでいた。どこにでもある、瓦(かわら)屋根で二階建ての家だった。子供たちは独立し、妻は数年前に先立った。というわけで、男はこの家に一人で暮らしていた。
 朝早く起き、家の周りを散歩した。昼間は、庭の手入れをした。小さな庭には、さらに小さな花壇があった。小さな花壇には幾つもの、小さな小さな赤い花が咲いていた。
 男は、その花を見ることが何よりの楽しみだった。花は時折、風に揺れた。それは、ささやかな赤い波だった。もしも風が強ければ、花はお互いに肩を寄せ合い、それが過ぎ去るまでじっと耐えていた。
 風がおさまると、どこからか蜜蜂がやって来て、花の中に顔を埋めた。食事を終えると、蜂は忙しそうに、再びどこかへ飛び去った。すると、今度は別の蜂がやって来た。入れ代わり立ち代わり、幾度となく繰り返された。さしずめ、花は蜜蜂の停留所だった。
 晴れた日、花は笑っていた。赤い色が鮮やかだった。曇の日は、沈んでいた。赤い色も沈んでいた。雨の日には、泣いていた。
 雨の日、男は花を見なかった。……いや、正確に言うと、一度だけ見たことがある。淋しく雨に打たれる、赤い花たち。男はその時、花の泣き顔を見て、心が痛んだ。以後、男は雨の日に花を見なくなった。縁側でじっとしているだけだった。何もせずに、ただ、雨の音を聴いていた。
 屋根を打つ音。雨どいを流れる音。水たまりに注ぐ音。はねる音、弾ける音。それらが合わさり、静かな合唱曲が生まれた。いつも違うメロディーだったので、決して飽きなかった。男はこうして、雨の歌を聴いていた。
 男は歌が好きだった。雲一つない晴天の日、気分のいい昼下がり。そういう時に、男は鼻歌を歌った。赤い花のそばで、花のために歌った。いつも違うメロディーで、花を飽きさせなかった。花はこうして、男の歌を聴いていた。
 陽が傾き、空が赤く染まる頃、花は最も美しく輝いた。空と同じ色だった。この花が、一日がかりで空を染めたのだ……。綺麗な夕焼けを見上げる度に、男はいつもこう思った。
 そして、淋しい夜がやってきた。軽い夕食を摂り、風呂に入ると、男は早めに就寝した。昼間に活動し、夜はぐっすり眠る。朝は再び早起き。まさに、太陽と連動した生活だった。
 男は、太陽の光を浴びていると安心した。太陽が、優しく男を見下ろしていた。それと同じ暖かい眼差しを、男は花に注いだ。男が鼻歌を歌えば、決まって風が吹いた。花は音もなく揺れて、感謝の意を示した。花は男の歌を聴いて、すくすくと育った。
 不思議なことに、花は枯れなかった。季節が一回りして男が一つ歳を重ねても、花はいつものように、小さく並んで咲いていた。春でも夏でも秋でも冬でも、変わることなく赤い花びらを輝かせていた。霜が降りても雪に埋もれても、決して枯れることはなかった。だから男は、一年中、花を見守り、そして鼻歌を歌った。男は歌が好きだった。花も、歌が好きだった。
 静かで平穏な男の毎日は、こうして暮れていった。この生活は、永遠に続くとさえ思われた。いつまでも続いて欲しいと願った。
 しかし、男は一年一年、確実に歳をとっていた。身体が弱り、動くのが億劫(おっくう)になると、いつしか朝の散歩をやめてしまった。代わりに、朝から晩まで赤い花を眺めるようになった。花は相変わらず、枯れることはなかった。
 ある年の秋、そんな生活に転機が訪れる。男は重い病気にかかった。熱が出て動けなくなり、頭がひどく重かった。呼吸は苦しく、気分が悪く、一日中寝込んでいた。暗い部屋の奥には、太陽の光は届かなかった。
 たまに小康状態になると、男は真っ先に庭へ出て、赤い花のために鼻歌を贈った。しかし、いくら力を振り絞っても、弱々しいかすれた歌になってしまう。それを聴いている花も、なんだか元気がないように思えた。以前の艶(つや)がなくなり、冬が近づくとともに衰弱していった。
 本当は、雨の降らない異常気象が原因だったのだが、男は自分のせいだと思い詰めた。自分が歌わないから、花は機嫌を損ねたのだ、と。男の中に残っていた、最後の精神的な強さが、こうして失われ、病気は本格的に悪くなっていった。病気は、男の身体を弄(もてあそ)び、蝕(むしば)んだ。
 そんな折。花が枯れ始めた。一輪、また一輪と。茶色くなり、最後は消え失せた。男には、そのことが全く信じられなかった。あの花が枯れてしまうんなんて……。全てには終わりが来る、ということを、男は改めて悟った。自分自身の終わりさえ、そう遠くない将来にやって来る。あの花のように、枯れて消えてしまい、あとには何も残らないのだろうか。男は言いようのない淋しさと不安に襲われた。
 看病のために自分の娘を呼び寄せても、男の孤独感は消えなかった。娘に全ての雑事を任せ、男は布団の中で寝込む毎日が続いた。
 そしていつしか木々の葉は落ち、本格的な冬が、この町にも舞い降りた。小さな赤い花は、男の生命力の衰えと歩調を合わせるようにして、次々と枯れていった。枯れたあと、新しい花は咲かなかった。ただ、枯れてゆくだけだった。男はその様子を自分の目で確かめることが出来ないほど、衰弱していた。娘に、弱々しい声で訊ねるだけだった。
 すると、娘の返事は決まっていた。――また一輪、枯れてしまいましたよ。それを聞いて、男は大きなため息をつくのだった。空は鉛色の雲に覆われていた。部屋に入り込むすきま風は冷たかった。こうして冬の日が流れ、男の頬は痩せこけていった。もう長くはなかった。男の生命は、まさに風前の灯火(ともしび)だった。
 それは寒い寒い冬の真ん中、とある夜のことだった。男は厚い布団の下で、独り、じっとしていた。細い月明かりが、ふすまの間から、部屋の奥まで差し込んだ。男はそれを浴びて目を覚ました。こんな深夜に起きたのは、本当に久しぶりのことだった。空気は冷え切り、辺りはぴいんと張った糸のような緊張感で満たされていた。
 男は突然、月の光に混じった、何かの音を耳にした。それは、差し込む月の光よりもか細い、誰かの声だった。病気の進行による幻聴だろうか、とも思ったが、その声は止む気配がなかった。耳に全神経を傾け、よくよく聴くと、それには旋律がついていた。雨の歌に似て、何か、ほっとさせる歌だった。同じ旋律は二度と現れず、いつも新鮮さで溢れている。今の男の生活と対照的だった。
 小さな歌は終わらない。それは、透き通った、よく響く高い声だった。男は眠れなかった。それが気になって気になって仕方がなかった。
 男は上半身を起こす。そして、痩せ細った両足で立ち上がった。身体は重かったが、足を引きずるようにして、どうにか歩いた。ゆっくり時間をかけ、縁側に出た。そのことに、自分自身、驚いた。今まで寝たきりだったとは信じがたい、沸き上がる生命力。奇跡としか言いようがなかった。そして、その素となっているのが、辺りに漂っている歌だった。
 縁側に腰掛け、耳を澄ませる。音は庭から聞こえた。下駄を履き、一歩ごと、確かめるように、男は闇夜の中を進んだ。大地を踏みしめて、歩いた。月の光を全身に浴び、小さな歌を全身で感じて。よろめきながらも、歌の一音一音をしっかり捕まえながら辛抱強く歩き続けた。歌声の主を求めて。たった、それだけの理由で。
 やがて、男は花壇にたどり着いた。疲れ果てた目で、よくよく眺めると、かつて親しんだその場所は、何とも無惨な姿をさらしていた。茶色く枯れてしまった、いたいけな赤い花たち。花壇は庭の周囲よりも一層暗く、枯れた花は立ち並ぶ墓標を連想させた。男は息苦しさを覚えた。これが、自分のなれの果てなのか……。
 しかし。歌はそこから聞こえてきたのだ。優しく、もの悲しい旋律。二度と繰り返されない、だからこそ心に染みる、懐かしい旋律。口笛のような、高い音。すぐに消えてしまう、儚(はかな)い音。男は目を細め、月明かりを頼りに、再び花壇を見つめた。
 いた!
 花が、いた! ……一輪。たった一輪だけ……闇の中で、赤い花が待っていた。枯れた仲間に囲まれて、その一輪だけが、静かに生きていた。最後の生き残りだった。男は目を丸くして、一歩だけ、歩み寄った。一歩分だけ、確実に、歌声は大きくなった。花は生命力を感じさせた。
 男は、右の耳に右手をあてがい、ゆっくりとかがんだ。そして、自分の耳を、赤い花の花びらに近づけた。……聞こえる。やっと見つけた、声の主。それは、世間から完全に忘れ去られた、この小さな、だが確かな、一輪の花だった。花が、静かに歌っていた。
 男は目をつぶる。心の中を、心地よいメロディーが流れていった。それは母親の、心臓の鼓動に似ていた。幼い日々の記憶が、今、鮮やかに蘇(よみがえ)る。それから、これまで続いてきた長い人生の思い出たちが、走馬燈(そうまとう)のようにパッパッと浮かんでは、少しずつ輪郭を失い、ゆるやかに霞(かす)んでいった。
 男に、安らぎの天使が舞い降りる。もう、何も怖くはなかった。やり遂げたという充実感と、果てしない安堵(あんど)感の中で、男はただ、花の歌声を聴いていた。迫りくる〈死〉さえも、男にとってはもはや恐怖の対象ではない。
 男は、かつて自分がしていたように、かすかな鼻歌を歌い始めた。男の歌と、花の歌。二人の歌はいつしか溶けあい、合わさった。やがて小さな合唱曲となって、天国まで届く。
 天はそれを聴いて、真っ白な雪を降らせた。雪は音もなく降り積もる。そして、全ての色彩を白一色に染めていった。全ては無色透明な唯一の物体に変わった。世界が一つの色で塗り替えられた。地上と天上とがつながった。
 男は目を開き、ゆっくり立ち上がると、部屋に戻った。そして、死んだように眠った。
 
 花の歌声は、果たして、本当に真実だったのか。それとも、昏睡(こんすい)状態の男が作りだした幻想か? ……その答えは、永久に、闇の彼方へと放り出されたままである。男の意識が、それきり戻らなかったからだ。
 雪の降り積もる冷たい朝、男は長い人生に終止符を打った。呼吸が止まり、ついに脈が打たなくなった。ご臨終です、と医師が告げた。娘は涙を流した。彼女は、単なる〈悲しみ〉のために泣いたのではない。父の死に顔が、あまりにも、あまりにも安らかだったからである。もし、神が実在するならば、こういう笑みを浮かべるのだろう……。そんな表情だった。
 男は死んだ。男の思い出がいっぱいに詰まった、家と庭だけが残された。主を失った家は、数ヶ月後に取り壊された。かつて家があった場所には、いつしか、幹線道路が走るようになった。舗装された広い道を自動車が行き交い、大量の排気ガスが吐き出された。
 ただ、花壇があった場所は、幸いにも、そのまま歩道の植え込みになった。生き残った一輪の赤い花は、今でも、そこで咲いている。男の、唯一の形見として、逞(たくま)しく生きているのだ。
 場所は忘れてしまった。もし、あなたが、冬でも咲いている小さな赤い花を見つけたら、思い出して欲しい。それが多分、男の残した花なのだから。
 この町のどこかで、それが咲いている。晴れた日には笑い、曇の日には沈み、雨の日には泣いている。男の鼻歌を覚えていて、淋しい夜に、それを歌う。……その花が、まだ、咲いているのだ。
 道端を、気をつけて見て下さい。間違って、それを踏んでしまわないために。世界で一輪しかない、たった一輪しかない、とても大切な花なのだから。

(了)



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