とっておきの魔法

 

秋月 涼 


「遅れてごめん」
 僕は右手をあげた。
「おう」
 Sが振り向いた。
 ちょうどそこに、ぎゅうぎゅう詰めの電車が滑り込んできた。ドアが開いて、紺のスーツをまとったサラリーマンたちが吐き出される。
 僕とSは目配せをして、行列の後ろにつき、すぐさま電車に乗り込んだ。これに乗り遅れると、一時間目の始業ベルに間に合わなくなってしまう。今日は危なかった、ぎりぎりセーフだ。……学校指定の、見栄えの悪い鞄を前に抱えて、人混みをかき分け、車内の奥へ奥へと進む。
 僕とSは、毎朝、こうして待ち合わせをしている。たいがい、どちらかが寝坊するので、結局ぎりぎりの電車になってしまう(寝坊を司る夢魔くん、今朝は残念ながら、この僕に降臨した、というわけ)。
 さて、なんとか余っている吊革に手を伸ばすと、ガクンと大きく揺れてから、新型の快速電車はゆっくりと動き出した。僕はまだ、完全に目が醒めていない。ぼーっと、天井を見上げていた。
 その時、Sがとある吊り広告を指さして言った。
「おい、これ見ろよ。『超有名ゲームの続編、発売延期騒動の裏側!』だってさ」
 よくある、週刊誌の宣伝だ。政治家や芸能人のスキャンダル記事に混じって、その題目が書かれていた。
 僕は、さも面倒くさそうに返事した。
「どうせ、興味本位で、いい加減な記事なんだろう」
 僕はそのゲームソフトをばっちり予約して、発売予定日を楽しみにしていた一人だ。ずっと待ちこがれていたのだが、開発が間に合わず発売延期となり、心底がっかりしていたのだ。
 そのことを思い出して不愉快な気分になった僕とは裏腹に、Sは明るく言う。
「そういえば今回の新作、今までのシリーズよりも、大幅に魔法が増えたらしいなぁ」
 Sの声は、割と静かな車内に、ひときわ響きわたった。
 そうなのだ。僕が好きな、いわゆる〈ロールプレイングゲーム〉には、よく〈魔法〉が登場する。魔法とは、特殊な〈魔法使い〉だけが使える不思議な技能で、ある一定の呪文を唱えることによって発動する。〈モンスター〉と呼ばれる敵との戦闘中で用いる攻撃魔法や、体力を回復させる魔法など、今ではこの手のゲームに欠かせない重要な要素になっている。
「魔法か……」
 僕は呆然と、流れる景色を見送っていた。小さな駅を全速力で通過する快速電車。今日も今のところ順調に走っている。
 しかし、逆に言えば、毎日毎日、同じ事の繰り返しだ。学校と家、塾とを決まった時間に行き来している。……常にわくわくした冒険を繰り広げる、ゲームの主人公たちが、心から妬ましい。
 僕はぽつりと一言、愚痴をこぼした。
「ゲームみたいに魔法が実在する世界なら、今よりずっと楽しいだろうなあ」
 すると、それを小耳に挟んだSは、突然、とんでもないことを言い出したのだった。
「魔法なんて、幾らでもあるじゃん」
「はぁ?」
 僕は驚いて大声をあげ、目を丸くした。すると、周りの乗客の視線が、一瞬、僕に集まった。僕は萎縮(いしゅく)し、目線を下げた。顔が真っ赤に火照って、さっきまでの寝ぼけも一気に吹っ飛んだ。
「どういうことだよっ?」
 小声で訊ねてみると、Sは、
「よし。……まずは、魔法の定義から考えよう」
 と胸を張り、いつも通り堂々と持論を披露し始めた。Sは理系の人間であり、こういうとき、数学的、論理的に説明してくれる。時々、うるさく感じることもあるが、僕は基本的に、Sの話を聞くのが好きだ。SもSで、そういう話をするのが好きなのだ。
 僕は再び訊き返した。
「魔法の定義?」
「そう。ある一定の文句、つまり呪文を口にすることで、ある一定の効果を及ぼす。この点において、ゲームに登場する魔法は共通する。これを〈魔法発動の大前提〉と名付け、これに当てはまる現象を、魔法と定める」
「ふむふむ」
 僕はしきりにうなずいた。興味はあるが難しそうな話だ。
 ただ、Sは、実際にはたわいのない単純明快なことを、必要以上にややこしく見せかけ、オーバーに話す癖がある。何度、それに騙されかけたことか。……注意しなければ、と、僕は心を引き締める。
 さて、Sは相変わらず得意げに話し続けた。
「現代に生き残った魔法は、火を起こしたり、筋力を増したりとかいう、そこまですごいことは出来ないが、精神操作系を中心として、かなり数々の呪文が存在する」
「そうなのか。知らなかった。じゃあ、具体的にどんなものがある?」
 僕は間髪入れずに質問した。まるで家庭教師とその生徒だ。しかし、そんなことはどうだっていい。僕は久しぶりにわくわくした。続きが気になって仕方がない。
「まあ、落ち着けよ。おいおい話してやるからさ」
 こんなとき、Sはわざと焦らしてくる。Sの、こういう変に大人びたところは、どうしても好きになれない。
「早く早く」
 僕は急かした。Sは苦笑いし、人差し指を立てると、
「よし。じゃあ、まず一つ目の例だ」
 と、本題に入る素振りを見せた。僕はうなずく。
「うん」
「……って、わざわざ例をあげないと、わかんないの? お前」
 Sは急に口調を変え、意地悪く言った。
(な、何だこいつ! なめやがって。ふざけんなよ!)
 僕は腹が立った。あんな言い方されれば、誰だって怒るに決まっている。周りを気にしながら、僕は小さく怒鳴った。
「早く教えろよ!」
「な、今、怒っただろ?」
 Sは笑った。僕は余計に腹が立つ。
「教えろって言ってるんだ! それとも、今までの話は全部デタラメだったのか?」
 僕は語気を強めた。Sは対照的に落ち着き払って答える。
「つまり、さっきの俺の言葉で、怒ったわけだろ? これが〈イライラ〉の魔法さ」
「な、なんだそりゃあ?」
 僕はすっとんきょうな声をあげた。わけがわからない。
 Sはゆっくりと解説する。
「俺は、お前の悪口を叩いた。そうしたら、お前は怒った。誰だって、悪口を言われれば怒るだろ? ある一定の呪文で、ある一定の効果を起こす。さっきの、魔法の定義に当てはまるわけだ」
「そんな、無茶苦茶な」
 僕はとまどった。魔法なんて言うから、もっと派手で神秘的なものをイメージしていたのに。僕の心を、あきらめと失望とが入り混じった感情が制圧し、やがて完全に支配した。やっぱり、魔法なんて存在しないのか……。
 Sは僕の落胆した様子を気にせず、持論を淡々と続ける。
「じゃあ、第二の例だ。マラソン大会を想像してくれ」
「うん」
 僕はもう、ほとんど夢を砕かれて、話に興味を持てなくなっていたが、暇つぶし程度に聞いておくことにした。
 その時だった。
 電車のドアが開き、人の移動があった。駅に着いたのだ。Sの話は中断を余儀なくされた。新しい乗客が乗り込んできて、僕とSは車内のさらに奥の方へと押し流された。
 辺りが落ち着いてから、Sは再び話し始めた。
「マラソンも後半で、疲れ果てているとき、お前の好きな子が、お前の名前を呼んで応援したとする。そうしたら、やる気が出るだろう? 普通の男なら、いいところを見せてやりたいと思うだろう?」
「たぶんね」
 僕は小さくうなずいた。
「そう。これが、現代版〈体力回復魔法〉さ」
「ふ〜ん」
 僕はすでに上の空だった。一時間目の授業に間に合うか、間に合わないか。その事が気になって、仕方がなかった。今日の一時間目は、かなり怖い先生だ。遅刻したら、何を言われるか分からない。
 しかし、Sはその後も、次々と、自己流の現代魔法論を述べた。面倒くさいが、僕は話の合間合間に、適当に相づちを打たねばならなかった。
 オオカミと羊飼いの童話を引き合いに出し、羊飼いが「オオカミだ!」と嘘をつけば、町の人が大慌てで駆けつける。最後には効果を失ったが、これも一つの魔法。しいて名付ければ召喚術だ……と。
 また、Sはこんな話もした。新幹線を止める魔法。僕は少し期待してしまったが、なんてことはない。Sいわく、鉄道会社に「新幹線に爆弾を仕掛けましたよ」と電話するのだそうだ。確かに、こんな電話が来れば、鉄道会社は安全のため一斉に新幹線を止めて、緊急点検を始めるだろう。それは、魔法というより、はっきり言って犯罪だ。こうして、僕の不安と落胆、そしてSの誇りをのせ、朝の快速電車はひた走った。
 魔法についての最後の例としてSが語ったのは、こんな話だった。Sは、僕に期待感を抱かせるように切り出した。
「じゃあ、とっておきの魔法だ。効果てきめん。現代人にとって、欠かすことの出来ない、必要不可欠の魔法」
「とっておきの魔法、ねぇ……」
 僕はまだまだ半信半疑だ。すると、Sは急に話題を変えた。
「モーセって知ってるか?」
 その質問に、僕は一瞬とまどったが、
「ああ。……キリスト教だっけ?」
 と、まゆをひそめて返事した。おぼろげな記憶の糸をたぐりよせる。確か、倫理の授業で習った気がするが、〈モーセの十戒〉という単語くらいしか思い出せない。
「そいつが、どうかしたの? 現代魔法と、どう関連するのさ?」
 質問されることが快感であるSは、得意げになって、自らの知識と思考を披露する。
「モーセが、イスラエルの民を連れてエジプトから脱出するとき。神に祈ると、海や波が真っ二つに割れ、道が出来た」
「あ、どっかで聞いたことあるな」
 僕がうなずくと、Sはさらに乗り気になった。瞳を輝かせ、続きを語る。
「そうそう。その魔法がある。波を二つに分けて、道を作る、という魔法が」
「へえぇ。それはすごいじゃないか」
 やっと、少しは魔法らしくなってきたな。僕はさらに説明を求めた。
「どういうことなんだい? ちゃんと種明かしをしてよ」
「まあ、もう少し待てって。俺が実演してやるから」
 Sは思わせぶりな口調で言った。気になる。僕は、Sの台詞を、頭の中で繰り返した。波を分けて、道を作りだす、か……。一体、どういうことなんだろう?
 しばらくして、電車はスピードを緩め、駅に止まった。Sはつぶやく。
「行くぞっ」
 その声は、音量こそ小さかったが、静かな気合いで満ちていた。
 そしてSは、今度は大声で、突然、現代版・モーセの魔法を唱えたのだった!
「すいませーん、降りまーす!」
 すると、すぐに人波が真っ二つに別れた。降りる僕たちのために、ドアへ続く、細い一本道が出来たのだ。僕らは、混みあう電車から脱出した……。
 
「で、これからどうするんだよ?」
 僕は腕組みして、不満げにつぶやいた。その横で、沈黙したまま空を仰いでいるS。
 僕らは、降りる必要のない駅で降りてしまった。次の電車を待つしかない。これでは、遅刻は確実だ。二人並んで先生に怒られる場面が、脳裏に浮かんだ。
「どうしよう……」
 僕がぶつぶつ文句をこぼしていると、Sは、
「仕方ないから、絶対に効く、弁解の魔法を編み出そう」
 と、自らの思考回路をフル回転させ、しきりに悪知恵を考え始めた。……僕は、Sのこういうところが好きだ。
 きっと、学校に着くまでには、急ごしらえの、素敵な魔法が生まれるだろう。

(了)



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