幸せをさがしに

 

秋月 涼 


 春の公園は太陽がまぶしくて、つくしの子はすくすくと育ち、オオイヌノフグリは青い花びらをかがやかせていた。
 木陰ではまどい吹く南風がさわやかで、犬の散歩をしている人も、それを先導する犬も、みんな立ち止まっては大きく息を吸いこむのだった。
 桜の季節がせまってきた、とある春休みの朝。四月から小学二年生になる麻里(まり)と、その母は、草のじゅうたんの上にならんで腰を下ろしていた。白い羽のチョウチョウ、黄色のチョウチョウ、ミツバチ……色々な生き物が目の前を横ぎる。足元には、まるで混雑した道路のようなアリの長い行列が続いていた。
「あ、クローバーだわ」
 母はそう言って小さな草を指さした。細い〈くき〉の上で三枚の葉が一生けんめいに手を広げている。麻里はひとみを見開き、新しい季節の訪れに心おどらせながら、優しくつぶやいた。
「まるで、緑のお花みたいだね」
「そうね」
 と、母がうなずいた。
 その時、あたたかな風が流れ、二人の髪をゆらした。風はどこからか菜の花の香りを運んでくる。
「……麻里ちゃん」
「なあに?」
 麻里は母の目を見つめ、ちょっと首をかしげた。すると母はほほえみをうかべて、ゆっくりとこう言った。
「四つ葉のクローバーって知ってる?」
「よつば・の・クローバー?」
 麻里は困った顔をした。すぐに母が説明する。
「うん。四枚の葉っぱがあるクローバーのことよ」
「え? でも、クローバーの葉っぱは、みんな三つでしょ?」
 そんな変なクローバー見たことない、と麻里は思った。おどろいて目を丸くしていると、母は麻里の顔をのぞきこんで楽しそうに質問した。
「葉っぱの数、みんないっしょじゃあ、つまらないよね?」
 少し間を置いて〈うん〉と麻里がうなずいたのを確かめてから、母は続けた。
「神様はそのことをちゃんと分かっていたの。だから四つ葉のクローバーを作った……幸せをたくさんつめこんでね。でき上がったら、それを普通のクローバーの中にほんのちょっとだけまぎれこませたの」
「……」
 麻里はだまったまま母の話を真剣に聞いている。母はすみきった青空をあおいで、最後にこう、つけ足した。
「もしも四つ葉のクローバーを見つけることができたら、とっても幸せになれるのよ」
 
 お昼ご飯がすんでから、お気に入りの白いぼうしをかぶる麻里。部屋にはやわらかな春風が流れこみ、窓ぎわの鉢植えに生えている小さな草花をなでた。仲良くゆれる草花は、まるで〈行ってらっしゃい〉と手をふっているかのようだった。
 麻里は階段をかけ降り、玄関で元気な声をあげた。
「行って来まーす」
「どこへ行くの?」
 心配した母がキッチンから顔を出す。麻里は一瞬だけ振り向き、こう言った。
「幸せをさがしに!」
 そしてドアがばたんと閉まった。
 
 住宅街は整然と区画されている。麻里は迷わずさっきの公園に向かった。家から一番近い、行きなれた公園。好きな歌を口ずさみながら、麻里は軽い足取りでずんずん歩いた。
「すごく、あったかい……」
 歌の途中でひとりごとをつぶやく。そして〈今日は半そででよかった〉と思った。いつの間にか、ひたいには汗のつぶがうかんでいた。
 しばらくすると目ざす公園が見えてきた。ベンチと、砂場と、水飲み場と、ブランコ……その程度しかない、とても簡素な公園だ。
 麻里はかけ足で入り口に向かう。
《ププーッ!》
 突然、警音器の音。
「きゃああ!」
 せまい道の向こうがわから、かなりのスピードで赤い車が飛び出してきた。麻里はおどろいて一歩下がり、思わず目をつぶった。あやうく、もう少しでひかれてしまうところだった。車は速度を落とさず、そのまま走り去る。
「もう。なんで、あんなに急いでいるんだろう? あぶないよ」
 麻里はほっぺたをふくらまして車の消えた方向をにらみつけたが、すぐに笑顔を取り戻し、
「ま、助かってよかった」
 一度ぼうしをぬいで、ひたいの汗をぬぐうと、閑静な公園の中に入っていった。
 
 春色の昼下がり。砂場では近所の小さな子供たちが遊び、そのそばに二、三人の母親がいて、みんな明るい笑みをうかべ、楽しそうに話をしていた。
「さっきのところに行ってみよう」
 麻里はわき目もふらず芝生に向かった。午前中、母といっしょに座っていた場所だ。あの時間帯は木陰だったが、今では陽の当たる方向が変わって、ほとんど日なたになっていた。
「光の満ち潮だね」
 言いながら、麻里はしゃがみこんだ。そのまま低い姿勢で目をこらす。雑草をかき分け、ていねいにさがした。
「いた、いた……」
 クローバーのむれを見つけると、麻里は慎重に一株一株を調べた。きっと、どこかに四つ葉のクローバーがかくれているはずだ。
 しかし期待とは裏腹に、お目当ての品にはめぐり会うことができなかった。全身から重い汗が流れる。
 時間はたっぷりあったが、麻里はだんだんひとりごとをしゃべらなくなり、かわりにため息が多くなった。
「あれぇ? ここもだめか」
 いくつかのクローバーのむれを確かめたが収穫はなく、麻里はあきらめて立ち上がった。同じ姿勢で集中していたのでつかれがたまる。体をひねったり、首を回したり、飛び上がったり。体育の授業を思いだして軽い体操をした。
 麻里はこの時、心を決めた……よしっ、四つ葉のクローバーを見つけるまでは、ぜったい、おうちに帰らない!
「別なところへ行ってみよう」
 水飲み場でのどをうるおすと、麻里は公園をあとにした。それから幸せのシロツメクサを求めて、行くあてもなく住宅地をさまよった。
「他に、クローバーの住んでそうな場所、ないかなぁ?」
 どこもかしこも道はアスファルトでかためられており、本物の地面はその下にかくされている。たまに雑草を見つけても、ごくわずかだ。クローバーはほとんどいない。
「やっぱり学校かな」
 麻里はいったん公園の方に戻ってから行き先を変え、小学校へ続くバス通りに出た。いつもの通学路……ゆるやかな坂を、とっとことっとこ、下ってゆく。
「学校なら広い校庭があるもの」
 誰に言うわけでもなく一人つぶやくと、少し間をおいてから、麻里は思いつく限りの色々な歌を唄い始めた。
 すると、通りすがりの風のおどり娘が、そのメロディーに合わせて身軽にステップをふむのだった。
「あら、春風さん。今日はどちらへ? 桜のつぼみをピンク色に塗りかえるの? それとも、まだ眠っている草を、優しく起こしてあげるのかな?」
 一瞬、強い追い風が吹いた……風の返事だ。麻里は自然と笑顔になる。そんな時の少女の表情には、どことなく母の面影があった。
「あたし? あたしは、遠くで待っている幸せをさがしに行くの!」
 信号が青に変わった。右手をまっすぐあげて横断歩道を渡り終えると、小学校は目と鼻の先だ。
 門を過ぎ、しき地に入ると、校内はひっそりしていた。ふだんの活気はない。広々とした校庭では見知らぬ男の子たちがボールけりに夢中だった。
「春休みが終わると新しい一年生が入ってくる。みんな学年が一つずつ上がるんだね」
 そんな当たり前のことでさえ、この季節が持つ独特の魔力にとりつかれると、むだなものはきれいさっぱり洗い流され、何もかも真新しい感情として生まれ変わってしまう。とてもふしぎだ。
「さあ、やり直し」
 校庭のすみの方に麻里は腰を下ろした。そばには手入れのされていない雑草が生いしげっている。その中にはクローバーももちろんいた。
「四つ葉、四つ葉、と……」
 目を細めて、さがす。見つからないので移動する。また、さがす。つかれると立ち上がって体を動かす……こういう単純作業を麻里は延々と繰り返した。
 校庭周辺をあらかた調べ終わり、裏庭まで範囲を広げたのに、緑の宝物は見つからない。ついに校舎の大きな時計が鐘を五回打った。空には夕やみがせまり、カラスたちが鳴き始める。
 その頃、麻里はさすがにつかれはてて、へとへとになっていた。
「だめだ……どこにもいないよ」
 水道のじゃぐちをひねって両手をていねいに洗うと、重い体を引きずるようにして麻里は家路についた。上り坂がいつも以上に長く感じられた。
 
「ただいまー」
 しずんだ声で玄関のドアを開けると、
「おかえり」
 母がふだん通り明るく迎えてくれた。
 しかし麻里はその言葉に何の反応もせず、だまって靴をぬいでいた。不審に思った母は、すぐに、
「元気ないわね。どこに行ってたの?」
 とたずねた。すると麻里は、
「あのね、お母さん。幸せは見つからなかったよ」
 とだけ答えたものだから、ちんぷんかんぷん。母はおどろいて聞き返す。
「え? 幸せって何?」
「……あたし、汗かいたから、今すぐおふろに入る」
 麻里はうつろなひとみで、ふろ場に向かった。その後ろすがたを母は心配そうに見つめていた。
 
 夕食時、ダイニングルームには小さな笑い声がこだました。
「あらあら、そうだったの。麻里ちゃんは四つ葉のクローバーをさがしてたのね」
 はしを動かす手を休めてほほえむ母。
「でも見つからなかったよ。神様ずるい。あたしの見えないところに全部かくしちゃって」
 麻里は本当に残念そう。大好きなサラダにも手をつけずに目線を落とした。
 父はそんな麻里を元気づける。
「大丈夫だ。そんなに一生けんめいにならなくても、必ずそばにある。きっと気づかないところで眠っている。だから安心しなさい」
「そうかなぁ……あんなにさがしたのに見つからなかったんだよ?」
 麻里は言い終わると、さめたお茶を飲みほして、それからかわいらしいため息をつくのだった。
 
 いつもよりも早く眠気がおそってきた。空気が麻里の体を地面におしつける。だるい、力が入らない。麻里は自分の部屋の自分のベッドの上で横になった。
 昼間はずいぶんあたたかかったのに、夜風は一変してすずしい。朝になってカゼをひくといけないので、麻里はベッドから降りて窓ぎわに向かい、ガラスをすべらせて風の入りこむすき間を細くした。
 その時だった。
 麻里はふっと顔を下ろし、しきりに何かゴソゴソいじっていたが、突然、大声でさけんだ。
 
「……あった!」
 
 窓辺に置いてある、いくつかの鉢植え。その中の一つに、しっかりと四つ葉のクローバーが根づいていたのだ。そしてただ静かに麻里の訪れを待っていた。
「すごい、お父さんの言ったとおりだ! こんな近くに、幸せがいた!」
 部屋に春風が迷いこみ、小さな草をゆらした。その風は麻里の心の中までとどき、生まれたばかりのささやかな幸せを心のすみずみへ運んでくれた。
 麻里はその夜、とても安心して眠った。夢の中に広がる終わりのない花園には、数えきれないほどの四つ葉のクローバーが、それぞれに白い花を咲かせていた。

(了)



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