カンシャノキモチ

 

秋月 涼 


「はるかちゃーん、もう七時半よ。学校いいの?」
 夢という名の元素(げんそ)で形作られた、何だかフワフワした空間に、突然、母の声が響きわたった。眠りは寸断され、頭の中はしだいに現実へと引き戻される。
 ……七時半?
「えっ!」
 言葉の意味を理解すると、吉見はるかは驚いて跳ね起きた。カーテンのすき間から差し込む朝の光が、思いのほか強い。寝ぼけ眼(まなこ)をこすり、一瞬、呆然としたが、すぐにさっと振り向き、右腕を伸ばして、枕元の目覚まし時計をつかんだ。心の中では悪い予感が渦巻いている。
「やっぱり……」
 針は、すでに時を刻んでいない。深夜の二時二十分過ぎで力尽きていた。はるかは布団から這(は)い出して、机の片隅に置いてある腕時計を見た。それは、紛れもなく、七時三十二分を指している。
「嘘っ」
 はるかは続く言葉を飲み込んだ。六時半に起きるはずだったのに……。ちょうど一時間の寝坊。最悪の事態だ。
「ふわぁー! 遅刻しちゃう!」
 大きな声で叫ぶと、はるかは大急ぎで準備を始めた。まず、洗面所で顔を洗い、お湯をかぶって髪をとかした。長めの髪には櫛(くし)が入りにくい。あわてているせいもあって、余計に手こずっている。
 なんとか髪をセットし終わると、次にタンスを開けて制服に着替え、胸元に赤いリボンをつけた。
 学校指定の色あせた鞄(かばん)に、今日の教科書を詰め込む。それを抱(かか)えて部屋を飛び出し、ドタバタと階段を降りる。
 ……とにかく急がなきゃ。
「あ、ハンカチ忘れた!」
 あと数段で一階、というところまで来ていた。立ち止まって、どうするか迷ったが、仕方なく、引き返すことに決めた。木製の階段を、今度は全速力で駆け上がり、廊下を通り過ぎて自分の部屋に入る。
 目的のハンカチを見つけて、鞄のポケットにしまった。そして、さっきよりも少しばかり注意しながら、階段を降りていく。靴下を履いていると、よく磨かれた木の床は、つるつる滑って危ないのだ。
 息づかいも荒いまま、はるかはダイニングキッチンに駆け込んだ。すると、母が鼻歌を歌いながら茶碗を洗っているところだった。
「ふン、ふン、ふぅ〜ン♪」
「ねえ、お母さん! どうして起こしてくれなかったの?」
 はるかは、鼓動の速まる心臓を抑えながら一息で言い切ると、冷蔵庫に駆け寄って扉を開き、麦茶のたっぷり入った透明な容器を取り出して、小さなグラスに注いだ。
 母は、はるかの方を振り返らず、楽しそうに皿洗いを続けながら、こう言った。
「だって、はるかちゃん。あなた、いつだって自分で起きてくるじゃない。今朝(けさ)は珍しくゆっくり寝てたから、学校自体がお休みなのかしら、と思ってたのよ」
 蛇口(じゃぐち)から朝の水が流れ出し、涼しげな音が部屋の空気を軽くする。時々、皿と皿とが触れあって〈かちんかちん〉と鳴る、まるで何かの楽器のような高い音が加わり、水のバックコーラスを彩(いろど)った。
「ふぅー」
 グラスの麦茶を飲み干すと、はるかは大きなため息をついた。額(ひたい)には汗の粒が浮かんでいる。それを、さっきのハンカチで拭(ぬぐ)う。
 母は洗剤だらけの手で、蛇口をキュッと締めてから、はるかに訊(たず)ねた。
「ご飯は?」
「いらない。もう出かける!」
 グラスを流しに置くと、はるかは玄関の方に走っていった。後ろで一つに結んでいるポニーテールのしっぽが、自動車のメーターのように、左右に振れた。
「はるかちゃん、落ち着きなさい。そんなに急いでも、いいことないわよ。……気をつけて行ってらっしゃい」
「はーい。行って来まーす!」
 革靴を履く音がして、ドアがばたんと閉まり、家の中には静寂が戻った。母は蛇口をひねる。再び、冷えた水が流れ出した。
 どこかで、うぐいすが鳴いていた。
 
 潮風を切って、自転車は走る。はるかは一生懸命にペダルをこいでいた。海辺の県道は、海岸線に合わせて蛇行(だこう)している。目前に横たわる太平洋は、朝日を一身に受けて光り輝き、揺れ動く水面(みなも)は刻一刻と変化して、とどまることはない。光の天使が海の上を気ままに飛び回っているかのようだ。
 春爛漫(らんまん)、四月下旬。はるかはこの季節が大好きだった。期待と希望に満ちあふれ、心の中で夢の風船を膨(ふく)らませる……。長い冬のあとでは、何もかもが解き放たれる。見上げた空までもが、とても優しい色をしていた。
(風たちも、ずいぶん暖かくなった)
 少しの間、片手運転をしながら、腕時計を覗き込むと、乗るべき電車はとうに出ている時間だった。はるかは、徐々に自転車のスピードをゆるめていく。
(もう、どうでもいいや)
 一時間目は国語の授業。〈春眠暁を覚えず〉とでも言って許してもらおう。……ここらでようやく、はるかの持ち味である〈のんびりさ〉が、心の奥底から湧き上がり、表側まで広がり始めていた。
「別に、急ぐ必要はないよね。どうせ間に合わないんだから」
 習い始めたばかりの先生に怒られたり、新しいクラスの友達に良くない印象を持たれたらどうしよう? という不安があって、絶対に遅刻するわけにはいかないと、とにかくあわてていたのだが、そういう心配はのどかな春の光を浴びているうちにすっかり溶け、跡形もなく全て消え去ってしまった。
(お母さんも言ってたよね。
「急いでもいいことない」って)
 はるかは、私立女子校に通う中学三年生。中高一貫教育なので、受験の心配はない。今の成績なら、何の問題もなく系列高校に進学できる。当分、気楽な学校生活が続いていく。……そう、言うなれば、あの穏やかな海のように。
 駅前の駐輪場に自転車を停めて、鞄から定期券を取り出す。自動改札を通過して、駅構内に入る。発車を待つ始発電車に飛び乗ると、席はまだまだ空いていた。前から二両目まで歩いていき、ちょこんと腰を下ろす。アナウンスが流れ、四両編成の各駅停車は順調に滑り出した。
 途中、二本の路線を乗り継いで、最後に大きな駅で下車する。改札を出て、徒歩数分。そこに、はるかの通っている学園がある。
 学園には、いつもより二十分ほど遅れて到着した。自分と同じ制服を着た女の子で溢(あふ)れかえっているはずの道が、通学時間帯を過ぎて、不気味なくらい、がらがらだった。校舎内の廊下も静まりかえり、教室の前を通りがかるたびに、先生の声だけが異様に大きく聞こえた。
 自分のクラスに入る時、緊張で身体(からだ)じゅうが熱くなった。中の様子をうかがうと、みんな一応は熱心に授業を受けているように見える。なるべく静かにドアを開け、足音を立てないように慎重に歩き、自分の席について、教科書と筆記用具を取り出した。
 授業が終わるまでは心配だったが、結局、怒られたりはしなかった。はるかはほっと胸をなで下ろす。
 それからはいつもの一日だった。
 しかし、授業中も休み時間も、お昼ご飯を食べている時でさえ、はるかには一つだけ、どうしても気になることがあった。
(目覚まし時計、どうして止まっちゃったんだろう?)
 
 授業が終わる。今日は部活動もないので、はるかは友達に別れを告げると、寄り道せず、まっすぐに家へ帰った。
「ただいまー」
「おかえり。ずいぶん早かったのね」
 居間から、母の声とテレビの音がした。
 靴を脱ぎ、そろえて並べると、はるかは階段を上がって自分の部屋に入った。鞄を置き、普段着に着替えてから、問題の目覚まし時計を調べ始める。小さな、赤い目覚まし。錆(さ)びついた銀色のベルが上についている。
 ところで、はるかは、もともと物持ちの良い方だ。この目覚ましも例外ではなく、小学校の入学祝いにもらってから、以来、ずっと大切に使い続けてきた。
「電池が切れたんだと思うんだけど……」
 母に聞いて、戸棚から新しい電池を持ってきた。それから、時計の背中をスライドさせ、心臓……古い電池を取り出した。次に、新しい電池をつかみ、プラス極とマイナス極を確認しながら、きちんと奥まではめ込む。
 背中の部品を元通りに戻して、さあできあがり。時計をひっくり返して表向きにすると、はるかは文字盤の様子をうかがった。……お願い、動いて!
 カチッ、カチッ。
「やったぁ!」
 一途(いちず)な願いが届いたのか、秒針が再び時を刻み始めた。はるかは飛び上がって喜ぶ。……まだまだ使えるよ、この時計。あなたが元気なうちは、いつまでも、ずっと使うからね!
 しかし、そう思ったのも束(つか)の間だった。
「ありゃ?」
 三秒ほど進んだだけで、秒針はすぐに動くのをやめてしまったのだ。その姿は、死に際の蝉(せみ)が、もはや力尽きて飛べなくなったのにもかかわらず、羽だけを虚(むな)しく震わせているのに似ていた。
 それからは、いくら電池を入れ替えても、針は一向に反応しなかった。かたくなに、動くのを拒(こば)んでいる。
「どうしてだろう。ご機嫌(きげん)ななめ、なのかな? それとも……」
 長針をぐるぐる回したり、自分なりに色々実験してみたが、何をやっても無駄だった。一時はネジを外して中身を確かめようかとも考えたが、素人(しろうと)が変にいじくるのは良くないと考え、
「時計屋さんで、直してもらおう」
 と、素直に諦(あきら)めることにした。
 机の片隅(かたすみ)で眠る動かない時計は、どこか寂しそうだった。いや、それを見る、はるかの心の方こそが寂しかったのかも知れない。何年間も毎朝起こしてもらった目覚まし時計には、いつの間にか、とても愛着を感じていたのだ。
 窓からは、時計の色と同じくらい赤い夕陽が差し込んでいる。その向こうに広がる海も空も、果てしなく真っ赤に染(そ)まっていた。
 
 夜の帳(とばり)がおり、家の中には灯(あか)りがともった。キッチンから、おいしそうな匂いがする。何かを弱火でぐつぐつ煮込んでいるようだ。
 そして母の声。
「みんなー、ご飯よー」
「やった、好物のシチューだ」
 はるかの弟が嬉しそうに手を叩いた。四人掛けのテーブルを前にして、家族はいつもの席に腰を下ろした。父の横に母、母の向かいに弟、その横がはるかの場所だった。つまり、はるかの向かいは父だ。
「いただきまーす」
 家族は一斉(いっせい)に挨拶(あいさつ)してから、行儀(ぎょうぎ)良く食べ始めた。テーブルの上には主食のご飯とシチュー、サラダ、それ以外にも細々(こまごま)としたおかずが載せられていた。
 食事の途中、はるかは母を呼んだ。
「お母さん。お願いがあるんだけど」
「なあに?」
 母は、自分のはす向かいに当たる、はるかの黒い瞳を覗(のぞ)き込んだ。はるかの横では、弟が、シチューにたかろうとする蠅(はえ)を追っ払っていた。
 はるかが言う。
「あのね、赤い目覚まし、壊れちゃったみたい。電池を取り換えても針が動かないの。修理に出しておいてくれない?」
 母はそれを聞いて大きくうなずいた。
「わかったわ。明日にでも、買い物のついでに……」
「はるか」
 母が言い終わる前に、お茶を飲み終わった父が、突然、二人の会話に口を挟(はさ)んできた。
「うん?」
 はるかと母は、父に注目した。父は、空っぽになった湯飲みを置いてから、ゆっくりと、はるかに訊ねた。
「あの時計、何年間使ったんだ?」
 はるかは指折り数えて、
「ええっと……八年ぐらいになるのかな? 北海道の時から使ってるから」
 と答えた。
 昔……はるかが小学校三年生になる直前まで、家族は北海道の小さな町で暮らしていた。それから、父の転勤で神奈川県のこの家に越してきて、現在に至る。
 父が言う。
「それほど長く使えば、充分に元は取ったろう。もうすぐ給料が入るから、そしたら新しいのを買ってあげよう。古いのは思いきって捨てなさい」
「う〜ん」
 父の言い分はわかるが、はるかは、どうもしっくりこなかった。頭を抱え、悩んでしまう。
 八年もの間、ずっと信頼して、朝を任せてきた時計だ。今さら新しいのに換えたいとは思わなかった。
 はるかは下を向き、蚊(か)の鳴くような小声でつぶやく。
「でも、直せば使えるかも知れないし……」
「そろそろ寿命じゃないのか?」
 父親は強い口調できっぱりと言い切り、それから一呼吸おいて、今度は優しくつけ加えた。
「寿命ならば、いくら直しても限界がある。いっそのこと、ここらで新しいのを買ったらどうだ?」
「ごちそうさまでした」
 弟が席を立ち、食器を持って流しの方に歩いていった。母は何も言わず、話の行方(ゆくえ)に耳を傾けている。
 当のはるかもしばらく黙っていたが、やがて意を決して顔をあげると、
「……うん、わかった。新しいのにする」
 と、ため息混じりに答えた。それから、壁に掛けてあるカレンダーに目をやると、父に訊ねた。
「今度の祝日、空いてる?」
「ああ」
 新聞の夕刊を広げながら、父が答えた。ページをめくり終えると、読みやすくするために、再び適度に折りたたんでいる。
 はるかは言った。
「じゃあ、車でデパートに連れてって」
「いいとも」
 父は、まっすぐにうなずいた。母が立ち上がり、残ったおかずに、食品包装用のラップをかけ始めた。はるかは、どこか遠くの空を眺めるように、焦点の定まらない瞳で、母の手馴れた動作をただ、ぼんやりと眺めていた。
 弟が隣の部屋でテレビをつけたので、家の中は急に賑(にぎ)やかになった。母はあっという間にラップをかけ終えてしまい、はるかの肩をぽんぽんと叩いた。
「はるかちゃん」
「え?」
「あの目覚まし、ずいぶん長持ちしたじゃない。きっと、時計も喜んでるわよ」
 母は皿を重ねると、冷蔵庫の方に軽い足取りで歩いていった。はるかは、母の後ろ姿に向かって、
「そうかも知れない。……ごちそうさまでした」
 と言い、立ち上がって食器運びを手伝った。母とはるかが皿洗いを始めても、父はまだ新聞を読んでいた。
 
 海はすっかり闇の中に沈んだ。夜風がしだいに涼しくなる。はるかは明日の用意をすませると、母の寝室へ行き、朝は必ず六時半に起こしてもらうように頼んでから、自分の部屋に戻った。押し入れから布団を引っぱり出し、それを広げながら、独り言を漏らす。
「時計も喜んでる、か……」
 机の上を見ると、役目を終えた赤い目覚まし時計が、手持ちぶさたながらも、きちんと座っていた。気配を消して、静かにたたずんでいる。
 その様子を見ているうちに、はるかは何だかとても罪悪感を覚えた。新しいのを買うのは、今の時計に悪い気がした。
(あなたは、いつも私の寝顔を見下ろしていたんだよね。小学校に入ったばかりの頃から、毎晩毎晩、ずっと……)
 冬の冷たい空気。窓からこぼれる、雪の反射光の明るさ。小さなランドセル。北海道に住んでいた頃の、幼い日々の思い出が、断片的によみがえる。
「あれから八年。本当に、長かったよね」
 はるかは、目覚まし時計をじっと見つめ、優しく語りかけた。丸い文字盤は、誰かの顔のようにも思えてくる。
「今まで、ありがとうございました」
 ぺこりとお辞儀をしてから、はるかは部屋の明かりを消し、ひんやりとした布団の中に潜り込んだ。
 目をつぶると、北海道の自然が、建物が、人々が……次々と浮かんでは消えていく。なつかしい。
(みんな、どうしているんだろう)
 果てしない銀世界で、一緒に遊んだ友達。木造の古びた校舎。親切な先生。校庭の霜柱。根雪、吹雪、厳しい気候。
 そして、遅い春。
(そろそろ、あの町にも春が来る頃かな)
 想像の風景に、いつしか深い霧が立ちこめた。半透明の霧は、ゆるやかに染(し)み渡り、遠い夢の世界へといざなう。はるかは何の抵抗もせず、穏やかに身を任せていた。
 出航を待つ〈心〉という名の船は、現実世界に停泊するための錨(いかり)をあげる。けがれなき純白の帆がしっかりと風を受けとめると、その小船は眠りの大海原を目指して、ゆっくりと滑り出した。

〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜

〈ジリリリリリ……〉
 鳴り響く、けたたましいベルの音。
「はっ?」
 はるかはすぐに目を覚ました。無意識のうちに目覚まし時計を探すが、見つからない。音に耐えかねて立ち上がると、ベルは急に鳴りやんだ。
 カーテンの外は、まだ真っ暗。真夜中の静寂が支配する、草木も眠る丑三つ時(うしみつどき)だ。
「ふぁ〜あ」
 大きなあくびをつくと、はるかはもう一度、布団の中に潜(もぐ)り込んだ。空気は、やけにひんやりとしている。
「……ん?」
 はるかは、その時はじめて、何か変だなと感じた。廊下に続くドアのすき間から、白い光が顔をのぞかせている。
 寝ぼけ眼をこすりながら再び立ち上がると、はるかは電灯から垂れ下がっている紐(ひも)を引っ張った。部屋の中が、一瞬にして明るくなる。
 その時、大切なことを思い出した。
「あれ? そういえば、目覚まし時計は壊れたんじゃなかったっけ?」
 とっさに、机の上を見る。赤い目覚ましは、忽然(こつぜん)と姿を消していた。一方、ドアのすき間からは、光だけでなく、冷たい風まで入り込んでくる。
「おかしい。さっきの音は、絶対に、目覚まし時計のベルだった。毎朝、聞いてる音だもん。間違いない!」
 ようやく思考回路にエンジンがかかり始める。目も覚めてきた。机の上に寝かせてある腕時計を確認すると、午前二時二十一分で止まっている。
「今度は腕時計が壊れた?」
 ……違う、とはるかは直感した。なぜだかわからないが、そういう確信があった。腕時計は絶対に正常だ。じゃあ、変なのは何?
 とにかく、目覚ましを探そう。
「どこに行ったの?」
 はるかは声をかけながら、部屋の中を見回した。ある程度、整頓(せいとん)されているので、探す場所は限られている。
「どこ?」
 枕元にもないし、木製の整理棚の中にもない。机の周りにもなかった。見あたらない。どこにも、ない。
 すると、やっぱりドアのすき間が気になりだした。
「ここにいるの?」
 はるかは薄手のパジャマ姿のまま、ドアノブに手をかけた。それから、手首にひねりを加えて、ゆっくりと右方向に回していく。
 カチャリ。金属質のいつもの音をたてて、ノブはいとも簡単に回りきった。はるかはいくぶん拍子(ひょうし)抜けしたが、ノブを握りながら、今度はドアを力一杯押してみる。
 ドアが勢いよく開いた。
「えっ!」
 まぶしい光と、冷たい空気の渦(うず)が、身体のすぐ横を通り過ぎて、はるかの部屋に勢いよく流れ込んできた。
 はるかは、目前の風景に絶句する。
「信じられない……」
 ドアの向こうは、いつもの狭い廊下ではなかった。あたり一面、ひたすら広い草原が広がっている。まるで映画館の客席から巨大スクリーンの中に紛れ込んでしまったかのようだ。土色の細い小径(こみち)が曲がりくねって、かなたへと続いている。
 よく見ると、草原の所々に黒っぽい雪の固まりが残っていた。足元では、顔を出したばかりのつくしの子が、一生懸命に背伸びしていた。
 またもや風が流れた。あまりに寒くて、両腕に鳥肌が立つ。はるかは一度部屋に戻って、洋服ダンスから、しまいかけた厚手のコートを取り出した。それをパジャマの上にしっかり羽織ると、再び、ドアの外へ飛び出そうとした。
 しかし、よく見ると、道が雪解け水でぬかるんでいる。
「どうしよう」
 靴はもちろん、靴下さえ履いていない状態では、足が泥だらけになるのは避けられない。地面は水たまりが多く、土はどろどろだった。
 それでも、はるかは慎重に、まず右足を踏み出した。泥が跳ねて、裾(すそ)が汚れ、ぬかるみに足を取られる……はず。
「あれ?」
 泥の感覚は全くない。やけに身体が軽い。はるかは両腕を伸ばして、バランスを取りながら片足立ちになり、さっき踏み出した右足の裏を見た。
 何ともない。
「変なの」
 一歩下がってから、今度は立ち幅跳びをするように両足をそろえ、自分の部屋から草原へ、ドアを越えて大きくジャンプした。
 しかし、何ごともなく水たまりの中に着地する。泥水のお返しはなかった。はるかは首をかしげる。それから自分の足元を見て、思わず微笑(ほほえ)んでしまった。
「あたし、まだ寝ぼけているのかな?」
 両足が、地面から十センチ程度、浮かんでいたのだ。これならば絶対に足は汚れない。
 が、どう考えても、現実にはありえない話だ。
「わかった。まだ夢の中なんだ。どおりでおかしいと思った」
 ぼんやりとした表情で風景を見つめながら、はるかは頬(ほお)をつねってみた。思いきり力を入れて、ひねる。
「痛っ!」
 驚いて、指を離した。すぐに、ほっぺたが熱くなってきた。痛みは確かに残っている。念のため、もう一度、同じことを繰り返す。やっぱり痛い。
「ということは……」
 現実? この風景は現実なの? そして私は、本当に浮かんでいるの? もしかして、重力に見放されてしまったのかな?
 もう、何が何だかわからない。はるかの頭の中は、次々と襲いかかる不思議な出来事に席巻(せっけん)され、翻弄(ほんろう)されて、ひどく混乱していた。疑問は数限りないが、それをぶつけるべき〈誰か〉がいない。
 向こうの山蔭(やまかげ)から顔を出した朝日が、余計にはるかの心を揺さぶった。空間だけでなく、時間さえもゆがんでいる。
「ここは、どこ?」
 自問自答しても、答えは出なかった。困惑するはるかをよそに、太陽は一定の速さで昇っていく。
 ……今、何時なんだろう? 
「あ、そういえば目覚まし時計は?」
 全ての始まりはそれだった。突然鳴り響いた、深夜のベル。あの時計は、一体、どこに行ったのだろうか?
「きゃっ!」
 はるかは尻餅をついた。急に、目の前の風景が動き出したのだ。言うなれば、立体映画。ゆっくり走る自転車並のスピードで、風景は移動していた。
 はるかは冷たい朝風を浴びながら、なんとか立ち上がった。倒れたはずなのに、やっぱりパジャマはどこも汚れていない。それどころか、痛みもない。
「あっ。あたしが動いているんだ!」
 乱れ舞う髪を抑えながら、後ろを振り返ると、はるかの部屋に続くドアが小さく見えた。それは、どんどん遠ざかっていく。
「……帰れない!」
 両足が金縛りになった。身動きがとれない。自分で、自分の進む方向が自由にならない。どうしようもないので、仕方なく前を向いた。
 はるかは、まるでリニアモーターカーのように、舗装されていないぬかるんだ道の上に浮かび、それをレール代わりにして、静かに滑(すべ)っていた。
(どこに連れて行かれるんだろう?)
 はるかは、抵抗するのを諦め、身体の力を抜いて、ただならぬ不思議な力に全てを任せることにした。
「いいもんっ。誰だか知らないけど、そっちがその気なら、私にも考えがある」
 ……旅を楽しもう!
 はるかは逆境を逆手にとって、物事を少しでも前向きに考えようと頑張った。孤独な気持ちを和らげるため、大自然の中に新しい友達を捜した。
 ぬかるんだ土の道は、いつしか水はけの良い砂利(じゃり)道に変わった。その道に並行して、木の柵(さく)が延々と埋め込まれている。
「牧場?」
 牛小屋らしき建物や、大きなサイロが視界に入った。草を丸めた牛のエサ……一見すると茶色いタイヤのような物体も無造作に置かれている。
(あれ? この道、どこかで見たことがあるような気がする)
 記憶の奥をさぐる。足元の砂利道は舗装され、やがて車通りの少ない町道につながった。
 はるかは突然、ぽんと手を打った。そして、顔全体に明るい笑みを浮かべ、
「やっとわかった」
 とつぶやいた。数学の難問を解くよりも、その時の達成感は大きい。道の両脇に続いている針葉樹の林が、はるかの自信を深める。
「間違いない……。あたしが住んでいた、北海道の、あの町だよ!」
 そう。小学校二年生まで暮らしていた、山の中の小さな町。年月が経って微妙に変わっているところもあったが、森や林は豊かな姿をとどめていた。
「あ、小学生だ」
 坂道をじゃれあいながら上っていく、三人の少年。そのうち二人は高学年のようだが、残りの一人は背が低く、背中にしょっているランドセルが重たそうだ。
 はるかはその横を、少し速めのジョギングほどのスピードで、相変わらず地に足がつかないまま、駆け抜けていく。
 三人の少年たちは、はるかに全く興味を示さなかった。普通なら、気づいてもおかしくないのに。
「お喋(しゃべ)りに夢中なのかな?」
 道の脇に積まれままの雪壁は、ずいぶん低くなっている。そこから大量の水が流れ出し、坂道を流れていく。
 はるかは後ろを振り向いた。遠ざかる少年たちの向こうに、草原と牧草地、牧場の大パノラマが広がる。頼りない民家は、緑の中にわずかに点在しているだけだった。
「そういえば、私もこの道を通って学校に通ったんだ……なつかしいな」
 振り返るのをやめて、進行方向に向き直る。すると、
「きゃっ!」
 はるかは突然、悲鳴をあげた。目前に迫りくる、白樺(しらかば)の樹。足が動かないから、避けることができない。
 ぶつかる!
 思わず目をつぶり、手で顔を覆った。
「……」
 しかし、いつまで経っても痛みはない。しばらくして、はるかはまず、顔を覆っている両手を静かに下ろした。ついで、ゆっくりと瞳を開いていく。
「!」
 信じられない光景を目(ま)の当たりにして、はるかは声にならない声をあげた。まるで透明な風のように、白樺の林をすり抜けていたのだ。たとえ樹にぶつかりそうになっても、存在を拒絶されたかのように、何ごともなく通り過ぎてしまう。
 はるかはその時、もちろん驚いたのだが、しだいに驚きよりも新鮮な好奇心でいっぱいになるのを感じた。
 これから、何が起こるんだろう……?
「気持ちいい!」
 涼しい風を受けて、森の中を渡っていく。陽の光が最後まで届かない、薄暗い森の中には、まだまだ雪の固まりが残っていた。
 きれいな毛並みをした野生の兎(うさぎ)の親子が、樹の陰からひょっこり現れ、はるかをじっと見つめた。こちらの様子をうかがっている。明らかに警戒していた。すぐにでも逃げ出しそうだ。
「兎さんには、私の姿、ちゃんと見えてるんだね」
 はるかの脳裏に、一つの単語が浮かんだ。それは〈幽霊〉。宙に浮かんだり、木々をすり抜けるなんて、人間のなせる技ではない。はるかの身体には、確かに、異世界の法則が働いていた。
 さて、白樺の林を抜けると、いよいよ小学校の校門が見えてきた。門は鉄で作られているが、その背後にそびえる平屋の校舎は、古びた木造建築である。
「なつかしい……」
 はるかは心底感激した。校庭の端に転がる丸太。休み時間に遊んだ砂場。まん丸の時計。花壇。あの頃と、ほとんど変わっていない。
 思い出の中にしまい込まれたまま、置き去りにされてきた過去の風景が、次々と鮮明によみがえる。
 移動する速度が落ち始めた。はるかはそのまま、校舎に向かって、まっすぐに進んでいった。……何らかの大きな力に引っ張られて。
 さっきから握りしめていたので、手の平に汗をかいていた。肩の力を抜いて、手を広げる。汗が微風(そよかぜ)に冷やされて、ひんやりする。
 校舎の壁が迫った。はるかは心配になって、再び目をつぶった。ところが、やはり何ごともなくすり抜けてしまうのだった。
 
 目を開けると、そこは木目の美しい廊下だった。左側にはいくつかの教室が並んでいる。はるかの移動スピードは、この時、人の歩く速さにまで落ちていたので、教室の中をしっかりと覗くことができた。
 先生が教卓の前に立ち、話をしたり黒板に書き込んだりしている。児童たちは、がらがらの教室の中に余裕を持って机を並べ、教科書を開いてノートを取り、時々手を挙げたりした。
 ごく普通の授業風景だ。
(昇降口から二つ目……ここだ)
 小学二年生当時、はるかが習っていた教室だった。廊下の掲示板には、児童の描いた絵が並べて貼ってある。
 いつの間にか、強制的な移動は完全に止まっていた。両足の金縛りも解けたようだ。はるかは後ろのドアに近づいて、中の様子をそっとうかがった。……昨日の朝、寝坊して遅刻し、緊張しながら教室を覗いたのと全く同じ仕草で。
 すると、はるかの顔が曇った。何度もまばたきしながら、教室の様子を隅々まで眺めている。しばらくそれを繰り返していたが、やがて、ため息をつき、
「ずいぶん減ったんだ」
 と言った。
 はるかが通っていた頃も、すでに各学年のクラスは一つずつしかなかった。その代わり、クラスメートは少なくとも二十人はいた。
 ひるがえって、現在。教室の児童は、当時の半分……十人程度しかいない。過疎化の波に、この町もすっかり飲み込まれてしまった。
 少し寂しいが、はるかは〈仕方ない〉と思った。自分だって町を出た一人なのだから。批判できる立場にない。
 確かに空気はいいし、夏は過ごしやすいが、豊かな自然は時に脅威となりうる。特に冬場は、雪と氷に閉ざされてしまう。実際に暮らすのは、想像以上に大変なのだ。
 色々なことを考えながら、しばらくの間、はるかは授業の様子をぼんやり見つめていたが、急に叫び声をあげた。
「きゃっ」
 身体が、再び動き始めた。今度は水平に進むのではなく、垂直に浮かんでいく。屋根を突き抜けて、高度は休みなく上がっていった。
「まるで、ジェットコースターの始まりみたい!」
 まっすぐ進む一本道、森の緑、草地の黄緑に土の茶色。まさに鳥の視点だ。はるかは夢見心地で、全てを解放して空の海に身をゆだねていた。風が強く、髪がくしゃくしゃになる。乱れ飛ぶ後ろ髪を、右手で抑えつけた。
「どこまで上がるの? さすがに怖いよ」
 ジェットコースターどころではない。観覧車の高さだ。はるかは、なるべく下を見ないようにした。足がすくんでしまうからだ。
 青い空、白い雲。腕を伸ばせば、太陽に手が届いてしまいそう。……ここに来て、ようやく身体の上昇はおさまり、今度はグライダーのように、静かに滑空を始めた。
「すごい!」
 普段は絶対に見ることができない風景。ヘリコプターにでも乗らないと、こんな俯瞰(ふかん)図は見られない。
 遠くに、河が流れていた。放課後、小さな黄色い自転車をこいで、友達と出かけたのを思い出す。男の子は魚釣りを、女の子は花摘みを楽しんだ。きれいな小石を拾い集めたこともある。
 中学校の屋上が見えてきた。
「みんな、元気かな?」
 当時の友達は、今、あの学校に通っているはずだ。もしも願いが叶うなら、会ってみたいな。話ができなくても構わない。せめて会うだけでも……。はるかは心の中で強く念じた。そして静かに目を閉じる。
 北海道の思い出は、セピア色の写真として記憶の奥底に長い間しまわれていたが、それら忘れ去られた色彩は、ジグソーパズルを作り上げるように少しずつ、だが確実によみがえった。
 総天然色を取り戻した静止画像は、記憶の殻(から)を破って、今にも映画のように動き出しそう……。はるかは思った。
 
 さて、目を開けると、そこは再び校舎の廊下風景だった。
「ここは?」
 お昼時のようで、可愛らしいお弁当箱を持った女子生徒たちが、何人かでグループを作り、笑いながら歩いていた。
 不思議なこともこれだけ続くと、何だか慣れっこになってしまう。はるかは、冷静に状況を分析し始めた。
 女の子たち、制服を着ていたから……。
「今度は中学校かな?」
 廊下は、小学校の木の床とは違って、味気ないコンクリート製だった。頑丈なだけに、転んだら痛そうだ。
「ん?」
 背後に人の気配を感じて、はるかはさっと振り向いた。教室のドアが開いて、一人の女の子が現れる。髪をお下げにしている、活発そうな可愛らしい子だ。セーラー服が、さわやかな笑顔に良く似合っている。
 少女は、パジャマ姿のはるかにはやはり気づかずに、自信に満ちた足取りで、廊下の反対方向へ去ってしまった。
 その動きを目で追っていた、はるか。どうも、心にひっかかるものを感じた。あの、特徴的な歩き方……かつて、どこかで見たことがあるような気がするのだ。
 彼女の顔と仕草を何度も思い浮かべ、はるかは必死になって考えた。
「誰だろう? 名前が出てこない」
 腕を組んで唸(うな)っていると、例の少女が戻ってきた。次の授業で使うのだろうと思われる大きな地球儀を、両手いっぱいに抱えていた。ずいぶん重そうだ。
 はるかは少女の正面に立ち、目を細めて、じっと顔を覗き込んだ。彼女ははるかをすり抜け、三年二組という札(ふだ)の出された教室の前で立ち止まった。
 地球儀をいったん置いてから、入口のドアをスライドさせる。それを無理な体勢で抑えながら、再び地球儀を抱えて、少女は教室の中に消えていった。
〈ウチダ、チエサン、デス〉
 突然、はるかの耳元で、機械的な声がした。それは奇妙に反響する。まるで長いトンネルの中にいるかのようだ。
「え?」
 はるかは驚いて、周りを見渡した。しかし、廊下には誰もいない。相変わらずの平穏な昼下がりだった。
 ウチダ、チエサン。はるかは、変な声が喋った言葉を、頭の中で繰り返した。
 
 それは、幼い日の夕暮れ。河原の砂利道にしゃがんで、何かを夢中で探している女の子が、ふっと顔をあげた。小さな手の平には、華奢(きゃしゃ)な白い花が載せられていた。
 女の子は口元をゆるめて、微笑む。
〈はるかちゃん、これ見て! きれいでしょう?〉
 
 瞬間。
 その子と、さっき通りがかった地球儀を運ぶ中学生……二人の笑顔が混じり、合わさって、最後にはぴったりと重なった。
「千絵ちゃん!」
 はるかは愕然(がくぜん)として、胸が震えた。
 小学校に上がる前から仲良しだった、唯一の幼なじみ。遊びに行く時は、必ず自分の横にいた。いつも一緒だった。
 小学校の、はるかのお別れ会では、涙を流しながら、クラスを代表してお別れの言葉を読んでくれた。
 一番の親友。内田千絵ちゃん。
「間違いない!」
 さすがに成長して大人っぽくなっていたが、幼い頃の面影は比較的残っていた。教室の中を覗いてみると、千絵は友達に囲まれてはつらつとお喋りをしていた。彼女がうなずくと、背中に垂らしている、お下げの髪が揺れた。
「元気そうで良かった……。今でも、あの町に住んでいるんだ」
 はるかの瞳に、思わず熱い涙があふれ出した。頬に二筋、細い河が走る。涙は止まらずに、どんどん流れた。まるで、疲れを知らない湧き水のように。
 涙の粒は、ついにはるかの頬を離れて音もなくこぼれ落ちた。コンクリートの硬い床を濡らしていく。
「千絵ちゃん。私のことなんて、もう、覚えてないよね……」
 違う世界に生きる千絵は、こんなにそばにいても、語りかけることさえできない。それどころか、彼女ははるかの存在に気づいてもくれない。
 過ぎ去った時間の遠さ、戻れない過去の重さ……はるかは、それを今日ほど強く感じたことはなかった。寂しくて悲しい気持ちが、心を覆う。一時は絶望しそうになった。
 しかし、元気にはしゃぐ千絵を見ているうちに、このままでは駄目だと思い直した。首を左右に強く振って、少しでも明るく前向きに考えようとする。
「私は、ちゃんと覚えてた。千絵ちゃんのこと! だったら、千絵ちゃんだって、絶対、私のこと、覚えてるはずだよ。そうに決まってる!」
 はるかは、パジャマの袖(そで)で頬を一拭きした。袖に、涙の染みができた。それから、鼻をすすったり、何度も両目を閉じたり開いたりした。
 涙でにじんだ、中学校の廊下風景。それが急に確固とした輪郭(りんかく)を失い、ぼんやりとして、霞(かすみ)の中に沈んでいった。
 
 そこは白い世界だった。ひたすら真っ白。白だけの世界。風と雪が吹き荒れ、全ては言葉を失う。この土地の冬は厳しく、とても長い。終わりはないように思えた。
 その時、突然。
 うぐいすの透明な鳴き声が、天の高みから暖かく降り注いだ。柔らかな音色が、冬の闇を切り裂いていく。雪は解け、久しぶりの地面が顔をのぞかせた。重苦しい灰色の雲は去り、まぶしい太陽が現れた。
 今ここに、新しい季節が生まれようとしている……。
 
 気がつくと、自分の部屋へ続くドアが、目の前にぽっかりと開いていた。はるかはそれに背を向けるようにして、ゆっくりと振り返る。
 雪解けで水浸しの草原。部屋から飛び出して、最初に降り立った場所だった。春の朝風が、優しく頬を撫(な)でる。
「やっぱり、あなただったのね」
 はるかは静かにつぶやいた。
 壊れたはずの赤い目覚まし時計が、はるかの目線とちょうど同じ高さに、ふわりふわりと漂(ただよ)っていた。
 はるかは、ここぞとばかりに疑問をぶつける。
「私の願いを、叶えてくれたの?」
 返事はなかった。が、目覚ましの達成感や満足げな様子は、はるかにも何となく伝わった。
 一歩歩み寄り、文字盤を覗く。無数の細かい傷が、流れた日々の長さを感じさせた。この傷は樹の年輪に似ている、とはるかは思った。
「そういえば、北海道に住んでいた頃から、私たち、ずっと一緒だったよね」
 時計の短針は六、長針は二十九を指している。秒針が一回りし、時刻はちょうど六時半を示した。
 カチッと小さな音がした。直後、目覚ましはけたたましいベルの音を、あたり一面に響かせた。
〈ジリリリリリ……〉
 音は風に乗って、どこまでも流れていく。朝の光に包まれて、今だけは音の奇跡が見えそうな気がした。
 はるかはにっこり笑って手を伸ばし、背中のスイッチに触れて、迷わずそれを切った。晴れの日も雨の日も、ずっと繰り返してきた朝の儀式だ。
 ベルはすぐに鳴りやんだ。すると、再び、静寂が降ってきた。耳が痛くなりそうなほどの静けさだ。
 はるかは、目覚まし時計に語りかける。
「もう、いいんだよ。疲れたでしょう。どうか、ゆっくり休んで。……これが、私からの最後のお願い」
 はるかは、役目を終えた赤い固まりをぎゅっと抱きしめた。あふれ出した涙が、時計の上にこぼれ落ちる。はるかの瞳は、時計と同じくらい真っ赤だった。
「もう、いいの。今度は、あなたが眠る番なのよ……」
 はるかは、何もかも忘れて、子供みたいに思いきり泣きじゃくった。もはや、はるかにとって、あの目覚ましは単なる機械ではない。かけがえのない大切な友達だった。
 しかし、一方で、別れの時は確実に近づいていた。そういう辛さや、数々の思い出が、はるかの涙を誘うのだった。
 しばらくして落ち着くと、はるかは急に頭痛を覚えた。同時に、強烈な眠気にも襲われた。立っていることさえできなくなり、時計を抱いたまま、がっくり膝(ひざ)をつく。
 迫りくる眠気を我慢して、苦しそうな表情のはるか。その耳元で、目覚ましの奇妙な声が、ゆっくりと呼びかけた。
〈ハルカサン、アリガトウ〉
 はるかは全身の力が抜けて、喋ることもできない。返事をする代わりに、安らかな笑顔を浮かべるのが精一杯だった。
〈イママデ、タイセツニ、シテクレテ、ドウモ、アリガトウ〉
 機械的な声だが、冷たい印象は受けなかった。むしろ暖かみがあった。目覚ましはただ、淡々と語った。
 対するはるかは、油断するとすぐにでも眠ってしまいそうな状態だ。それでも懸命に、時計の言葉を聞き取ろうとする。
〈カンシャノ、キモチデス〉
 闇の中で、秒針の動く音がした。カチ、カチ、カチ。心臓のように規則正しく時を刻むその音は、しだいに間が広がり、最後にカチッ、と軽やかな残響を残すと、完全に止まってしまった。
 一瞬、強い光が輝いた。……はるかが覚えているのはそこまでだ。
 
「はるかちゃん! 起きる時間よー」
 けたたましいノックの音と、母の声。目を開けると、光がまぶしかった。いつもの朝がやって来たのだ。
「……んー」
 はるかは、布団の中で思いきり伸びをした。まだまだ寝足りない気がする。眠い目をこすりながら、上半身だけ起こしてみる。
 すると、胸のあたりから、何やら硬いものが転がり落ちた。はるかは布団の中に手を差し込み、それを引っぱり出す。
「?」
 赤い目覚ましだった。はるかはそれを抱いたまま、寝ていたのだ。触ってみると、自分の体温で暖まっていた。
 はるかの頭の中は、ようやく動き出した。そして、ゆうべの不思議な出来事の一部始終を思い返す。夢だったのか、それとも現実だったのか……。
 冷静な心で常識的に考えれば、たぶん、単なる夢なのだろう。が、それにしては、あまりにはっきり覚えすぎていた。北国の風の匂いまで、鮮明に思い起こすことができる。
 はるかはつぶやいた。
「もし、夢だとしても……とっても素敵だったな。目覚まし時計の失われた時間の中で、空間を越えて旅したんだもの!」
 目覚ましを手の平に乗せて、はるかはさっと立ち上がった。文字盤を覗き込むと、やはり止まっている。
 確認のため、ちらりと机の上に目をやると、腕時計の針は短い朝を正確に区切って、とどまることなく前へ前へと進んでいた。六時三十三分。
 全ては、いわゆる普通の状態に戻った。はるかは、目の前の赤い目覚まし時計に向かって、優しく語りかける。
「ありがとう。長い間、本当にお疲れさま……。二代目が来ても、きっと大切にするから、安心して眠ってね」
 はるかは時計の重みを感じながら、それを静かに抱き寄せ、文字盤の表面に軽くキスをした。
「あたしからの、カンシャノキモチです」
 最高の微笑みを浮かべて、はるかは思いきり胸を張った。すると、時計の赤い色が、ちょっとだけ濃くなったような気がした。
 はるかは我に返り、目覚まし時計を机の片隅に戻して、学校に行く準備を始めた。顔を洗い、髪をとかす。制服に着替え、鞄の中身を確かめる。
「はるかちゃーん、ご飯よー」
 下のキッチンから、母の呼ぶ声がした。
 新しい季節、新しい一日。新しい朝の光に包まれて、はるかは、何かいいことがありそうな予感がした。
「うん。今行く!」
 窓を開けて、気持ちのいい空気をいっぱいに吸い込む。忘れずにハンカチを取り出し、鞄のポケットにしまった。
 そして、幸せな気分で、弾むような足取りで、はるかは階段を駆け下りていった。後ろ姿が小さくなる……。
 
 後日談。
 はるかの机の上に、ピンク色の可愛らしい封筒が置かれていた。口は、すでに開かれている。
 封筒の横には、それと同じデザインの二枚の便箋(びんせん)が、丁寧に重ねられていた。文面は以下の通りである。
 
 
「吉見はるか様
 
 この前はお手紙ありがとう。突然でびっくりしました。でも、あなたのことも、幼い日々もちゃんと覚えています。忘れるわけないよ。絶対忘れない。……だから心配しないでね。
 私は来年、地元の公立高校を受験するつもりです。はるかは高校受験がなくていいね。中高一貫教育なんて、ちょっぴり、うらやましいな。
 うん、うん。大丈夫。うちは、全然構わないよ。遠慮しないで、ぜひ遊びに来て下さい! 今年の夏でも、来年の春でもいい。冬は受験前だからちょっと困るけど……。うちでは、布団を一組み多めに用意して、楽しみに待っています。
 あの頃の思い出、本当になつかしいよね。私としては、はるかが神奈川に引っ越したあとの話を聞いてみたいです。
 それでは手短ですが、今回はこの辺で。本当にお手紙ありがとう。

内田千絵 拝」


 窓から迷い込んだ風にあおられて、便箋はふわりと舞い上がった。すると、便箋の下に隠れていた写真が現れ、初夏の光を受けて、静かに輝きだした。
 そこには、一人の少女が写っていた。髪をお下げにしている、活発そうな可愛らしい子だ。セーラー服が、さわやかな笑顔に良く似合っている……。
 その横で、真新しい白い目覚まし時計と、古びた赤い目覚まし時計が、まるで親子のように並んで座っていた。そして、昼寝をしているはるかの安らかな寝顔を、いつまでも見下ろしていた。

(了)



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