空の郵便局

 

秋月 涼 


 どこかでスズメが歌っていた。さしこんでくる朝の光はあたたかい。風がそよ吹くたびカーテンは白い波になり、窓ぎわの植木鉢に息づく雑草の葉もゆれる。
 目覚まし時計が鳴りひびくと麻里はベッドから飛び起きて思いきり伸びをした。口を大きくあけ、四月なかば……春のまっただ中の空気をいっぱいにすいこむ。
「うーん、気持ちいい!」
 きょうは新たな週のとびらがひらく月曜日。小学二年生になったばかりの麻里は、楽しい予感とひそかな期待とに胸おどらせていた。
 部屋の天井をあおぎ見れば、きのうデパートでもらってきた赤い風船がへばりついている。重たいものが水底に沈むのに似て、風船は天井に沈んでいる。
 とじこめられて逃げ場のない風船をなんだかかわいそうに思いつつも、麻里はふだん通りしたくを始める。顔を洗って着替えをすませ一階に降りると、背広姿で黒いカバンを持った父に出くわした。
「お父さん、おはよう」
「おはよう麻里。行って来るよ」
「行ってらっしゃい、がんばってね」
 玄関で父を見送ってから、母といっしょに軽い朝食をとる。トーストの香りが部屋じゅうにちらばり、熱い紅茶を飲みほせば身体のすみずみまでしみわたる。
 食後、歯みがきをして髪をたばねると、麻里ははりきって出発する。桃色の花びらをすでに落とした並木の桜は、急いで緑の夏服を作っていた。
 あまりのまぶしさに右手をかざしながら長い坂を下っていくと、向こうに校舎が見えてくる。門を過ぎ昇降口をぬけて、教室のドアをいきおいよくあける。
「みんな、おはよう!」
「おはよう麻里ちゃん」
 聞き慣れた声は、席がとなりどうしの和美だ。麻里の一番の親友で、仲良く図書委員をつとめている。
「和ちゃん、おはよう」
 明るく返事をして自分のいすにちょこんとすわり、授業で使う教科書やノートを用意していた麻里は、とつぜん和美の強い視線を感じた。
「どうしたの?」
 理由をたずねると、和美は麻里のおでこを指さした。
「前髪に変なのがついてる」
「変なの?」
「取ってあげるね」
「うん」
 麻里は頭を動かさないように気をつけて、不安そうにまばたきだけを繰り返す。和美はしばらくのあいだ麻里の髪をていねいにいじっていたが、
「取れた!」
 と短くさけんで、つかまえた〈変なの〉を手のひらにのせた。
 麻里の表情がゆるむ。
「あっ、これ綿毛だよ。たんぽぽの」
「ほんとだ、ちっちゃな種がついてる」
 和美も思わずほほえんだ。すると二人の吐息が風になり、綿毛をふわりと舞いあがらせる。教室内をただよった綿毛は最後に麻里の机の上へ着地した。
 それを注意深くつまんで窓辺へ歩み、きらめく光のうずに両腕をひたし、麻里はふっと指先の力をぬく。
 さわやかな朝の空気をとらえて再び自由になった綿毛は好きな方角へ飛んでいき、やがて見えなくなった。麻里は素直な心持ちで祈る。
「どこかで、すてきな花を咲かせてね」
 
 チャイムが鳴り、すべての授業が終わった。校門のところで和美にさよならし、ゆっくりと帰り道をたどる。小さな公園を通りぬけると家はもう目と鼻の先だ。
 その時、麻里は立ち止まった。
「かわいい!」
 公園のすみっこでたくましく咲きほこっていたのは、誰もが知っている春の花……たんぽぽだった。黄色の花びらはやさしくかがやき、まるで太陽の子どもたちだ。そばに寄ってのぞきこむと、ギザギサの葉っぱはじょうぶそうだった。
 朝のできごとがふっと脳裏をかすめる。
「どこにいるのかな?」
 ぶらんこのまわりや水飲み場の横、あるいはクローバーのじゅうたんをくまなくさがしたけれど、綿毛は見あたらない。
「いないね……」
 麻里は残念そうに言葉をにごしたが、あたたかい季節にだかれているうち、しだいに元気を取り戻す。
「さがしに行こう!」
 急いで家に帰り荷物を置いた麻里は、お気に入りの白いぼうしをかぶる。ちらりと確かめた部屋の天井には、朝のまま風船が浮かんでいた。
 準備がすむと階段をかけ降り玄関を飛び出し、希望をふくらませて綿毛さがしの旅におもむく。
「行ってきまーす!」
 住宅街をぬけバス通りへ出たら、学校とは正反対、長い坂を上っていく。きちんと歩道が整えられているので麻里も安心だ。ときどき学校帰りの中学生や、犬を連れた女の人とすれ違った。
「飼いたいなあ」
 うれしそうにしっぽを振る茶色の犬と、はしゃぐ自分の姿を想像しつつ、麻里は休まずにアスファルトをふみしめた。お目当ての場所が、だんだん近づいてくる。
「あと少し……」
 信号が青に変わって横断歩道をのんびり渡ると、大きな黒っぽい石にきざまれた〈桜善寺公園〉の文字があらわれる。
「着いたぁー」
 このあたりでもっとも広い、閑静で美しい公園だ。二本の桜の木がおたがいに枝を伸ばして作った入口のトンネルをぬけると日陰の散歩道はとても涼しく、ひたいの汗が冷やされる。
 古びた東屋の手前で道は三本に分かれ、左へ行くと見晴らし台、まっすぐならばザリガニ池、右へ折れると雑草のおいしげる原っぱだ。
 麻里はその十字路を迷わず右へ曲がって、足取りも軽く進んでいった。向こうでは幼稚園くらいの子どもが数人、おにごっこをして遊んでいる。麻里はそれをじゃましないように気をつけ、原っぱのへりで綿毛をさがした。
 するとたんぽぽの黄色の群れが仲良く風になびいている場所を、たいした苦労もせず見つけることができた。
「綿毛さん、いるかな?」
 直後、麻里は息を飲んだ。白い花とまちがえてしまいそうな、やわらかい毛のかたまり。小さな小さな落下傘。
「いた!」
 求め続けていたものに出会えたよろこびで思わずさけんだ麻里は、すばやくしゃがみこみ綿毛の球を観察する。
「おじいちゃんの髪の毛みたいにふさふさ……たんぽぽも白髪になるんだね」
 そうつぶやいてから麻里は黙って思いをめぐらした。にわかに頭の奥でひらめく、たった一つの素朴な夢。
「この綿毛、飛ばせないかな?」
 おもむろに手をさしのべたり、考え直して引っこめたり。何度かためらったのち、ついに決心した麻里は、
「さあ羽ばたいて!」
 と言いながら力強く綿毛のたばをつかんで、なでたりこすったり、むりやりぬいたりした。みんなでいっしょにしがみついていた綿毛たちはたんぽぽ本体をはなれ、やがてバラバラになる。
「がんばれ!」
 しかし懸命の応援むなしく、綿毛はちっとも飛ばず次々と地面へ墜落してしまう。麻里はあきらめないで別の綿毛をさがし、同じようにむしったが、やっぱりうまくいかない。
 頼りの春風は綿毛をまったく相手にせず、はるかかなたへ去ってしまった。
「どうしてだろう?」
 悩みつつも、さらに綿毛をむしろうと腕をさしだした瞬間。通りがかりのアゲハチョウが麻里の前を横切った。
「きれい……」
 目を奪われてしまった麻里は、たんぽぽのことをすっかり忘れてチョウの追跡を始めてしまう。
 
 ここは公園の見晴らし台。チョウとたわむれるのに飽きた麻里は、木のいすにぼんやり腰かけていた。
 どこかで鐘が五回鳴ると、かたく結ばれたくちびるから深いため息がもれる。
「綿毛さん、ぜったい飛べるはずなのに。あたしのやり方が悪かったのかな?」
 さっきの失敗を思い出し、どうも納得いかずに首をかしげてしまう麻里。遠くまで見わたせるいいながめも、真っ赤にそまっていく町の色さえ、その時の麻里にはひどくつまらないものに映った。
「あーあ、もう帰ろうかなあ」
 何もかも面倒になってまぶたをとじれば、視界を失ったぶん太陽のあたたかさや菜の花の香り、あるいは風の道すじをふだんよりも数倍はっきりと感じ取れた。
 日没まぎわ海の波が凪ぐように、丘の空気の流れも和らいでくる。きょう一番やさしい風がそよぎはじめて、あまりの心地よさにぱっと瞳をあけた麻里は、
「……すごい!」
 広がる絶景に自分の目をうたがった。
 降りしきる季節はずれの粉雪は、夕日を浴びてきらめく綿毛。急斜面を巣立った白い旅人たちは丘をこえ谷をこえ、暮れなずむ町へすいこまれる。
「きっと、ここの綿毛さんがずーっと飛んでいって、あたしの髪の毛までたどり着いたんだ!」
 うっとりした表情で彼らの船出を見送った麻里は太いエンジン音を耳にした。すかさず下を向くと、公園沿いの道路を郵便局の赤い車が走っていく。
 あたりにひびきわたるカラスの鳴き声に負けないよう思いきり声をはりあげ、天高くお願いする麻里。
「空の郵便局さん! たんぽぽの種をはるか遠くへ届けてください。幸せの花をたくさんたくさん咲かせるために!」
 
 夕食がすんでから、麻里は言った。
「ねえお母さんハガキちょうだい」
「何枚いるの?」
 食器を洗いながら母が逆にたずねると、麻里は矢継ぎ早に必要な道具を注文する。
「一枚でいいよ、切手はいらない。それと穴あけ用の千枚通しを貸して。そうそう、ハガキにはあたしの住所を書いておいて欲しいんだけど……」
 すると母は困った顔をした。
「麻里ちゃん、ごめんね。いっぺんに言われても今は用意できないから、お皿を洗い終わるまで待っててくれるかな?」
「うん」
 麻里は素直にうなずくと、落ち着かない様子で家の中を行ったり来たりしていた。すてきな計画に胸をときめかせ、ついつい笑みがこぼれだす。
 台所の母はふしぎそうに首をかしげた。
「麻里ちゃん、いったい何をするつもりなのかしら?」
 
 そして翌日のたそがれ時、麻里はきのうと同じ見晴らし台に立っていた。明るい夕空につつまれていると、天がとても身近に感じる。ちょっと背伸びをすれば頭をぶつけてしまいそうだ。
 きのうとちがうのは持ち物だった。麻里が大事そうに両手でかかえているのは、日曜日にデパートでもらってきた、あの赤い風船だ。
 木々の影は少しずつ長くなっていたがあせらずに、麻里は息をひそめて〈その瞬間〉が来るのをじっと待ち続ける。綿毛の乗客をのせてどこまでも飛んでいく透明な夢列車は気まぐれ運転だ。ここにはいつ停車し、いつ発車するのか、まったく予想すらできなかった。
 急に麻里の顔つきが緊張でこわばる。
「……来た!」
 限りなくやさしい風が吹きはじめると、たんぽぽの綿毛はゆったりと舞いあがる。麻里はだいていた風船を静かに放った。
「たんぽぽの綿毛さん、あたしの作った幸せの種も仲間に入れてね!」
 まるでしっぽのように風船からたれている糸、その先には一枚のハガキが取りつけられていた。ハガキの表にはおとなの字で麻里の家の住所が記され、裏面には子どもの字でこう書かれていた。
 
《わたしは立花麻里、二年生です。しあわせのたねをおくります。空のゆうびんきょくが、とどけてくれます》
 
 およそ十日が経った。ゴールデンウィークを目前にひかえた四月下旬の気温はいっそうあたたかく、昼休みに走り回ると背中にびっしょり汗をかいた。
 放課後、家に帰ってきた麻里がうがいをすませ顔や手を洗っていると、向こうで母の呼ぶ声がした。
「麻里ちゃんにハガキが来てるわよ、二つも向こうの県から……幸せの種をありがとう、ですって。何かしらね?」
「ええっ!」
 空の郵便局はきちんと約束を果たしたのだった。麻里はあわてて顔をふき、母が縫い物している洋間へかけこんだ。

(了)



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