どこかで

 

秋月 涼 


 二つの太陽が僕の頭上にきらめいていた。一つは大きく、一つは小さかった。まぶしいが、それほど暑くはなかった。
 僕は額に手をかざして歩き始めた。広々とした野原は、地をはう黄緑色の雑草におおわれていた。どこかで見たような草だったが、どこにもない草のようでもあった。そよ風が吹き、青い空を白い雲が流れた。そうして僕は歩いていった。

 
 新学期最初の木曜日だった。教室の窓から射し込む陽の光は暖かく、校門の辺りでは桜のつぼみがちらほらとほころび出していた。町の全てに、見えない春の力が舞っているようにさえ感じられた。そんな、うららかな午後である。
 初めての国語の授業の終わり際に、担当の泉先生が話していた。眠たそうな目をした二十代後半くらいの女の先生だ。
「では一つ、皆さんに課題を出します」
 間髪置かず、生徒たちからは不満の声が上がった。課題や宿題という言葉に、ほとんどの生徒は抵抗を感じる。遠野宏も、そんなごく普通の中学三年生である。
 教え子たちが静まってから、泉先生はゆっくりと、時折いたずらっぽい微笑みを浮かべながら、課題の説明を続けた。
「できるだけ誰も知らないような場所へ行って、そこをレポートして下さい。普通の作文でも、絵入りでも構いません。紙の種類も長さも自由です。色々と工夫してみて下さい。皆さんの個性が発揮された、楽しいレポートを待っています」
 提出の期限は今月の終わりまでです、と先生が言い終わるや否や、ちょうどチャイムが鳴った。号令がかかり、宏もあいさつをして教科書とノートを片付けた。
 
 はるか遠くの方に二本の樹が生えているのが見えた。その近くには切り株があった。その時ちょうど、何かが僕のほおを触れる。空を仰ぐと、たくさんの白いものが雲の切れ間から現れ、辺り一面で不確かに舞っていた。雪かと思ったが、良く見ると、それは桜の花びらだった。
 草原の向こうには緑の山脈があった。

 
 週末の土曜日は優しく清らかに晴れあがった。気温はぐんぐん上昇し、外ではうぐいすが、独特の高音を響かせていた。
 昼食の途中、母と姉が話していた。
「駅前の桜、満開できれいだったわ」
 その言葉を聞いた時、宏はなぜか、おとといの泉先生の課題を思い出していた。
 昼食後、セーターを脱いで身軽になった宏は、今日ならば面白いテーマに出会えるかも知れない、という確信のない予感を胸に、バス停へと歩き始めていた。やがて窓の大きい新型のバスが到着し、宏を飲み込んで春の空気の中へ出発した。
 バスの中は充分すぎるほど暖まっていた。道路は混んではいなかったが、かといって空いている訳でもなかった。こまめに停留所へ止まり、そのたびに乗客の何人かが入れ替わりつつ、バスは進んだ。
 二十分ほど過ぎた頃、宏は迷わずに降車ボタンを押した。桜なら、あの場所と決めていたのだ。懐かしい、あの場所。
 バスのステップを駆け降りると、すぐに公園の入口があり、その向こうには背の高い並木が続いていた。花は薄桃色に咲き誇り、静かな風にそよいでいた。
 まだ小さかった頃、しばしばこの公園に遊びに来たものだった。細かいことは忘れてしまったが、春の桜並木だけは、宏の中で強い印象を灯し続けていた。必要以上に整然としすぎていないのも、宏の好感を誘った。密かな桜の名所である。
 樹の根本には気の早い花びらが落ち、時々、かすかに舞っている。右の方に見える草の広場の片隅には簡素な遊具――ぶらんこや、シーソーや、古タイヤ――が設置されており、子供が戯れていた。広場の奥には楕円の池があり、黒い鯉たちが元気良く泳いでいるはずだった。
 ぶらんこの位置も形も昔と変わっていなかったが、ペンキだけ塗り替えられていた。そのペンキも、ところどころ、はげ落ちていた。幼い宏が〈大きい〉と感じた草の広場は、今は手狭に思えた。自分の体が大きくなると共に、広々とした世界はこぢんまりと収縮したようだった。
 宏は、普段よりも幾分ゆっくりとした足取りで、桜並木を歩いていった。どれも桜ではあったが、枝の伸び方や花の色は微妙に異なっている。新鮮だった。
 
 遠くに見えていた二本の樹の方へ向かって、僕は一歩ずつ草の感触を確かめるように歩いていった。いつしか桜の雨はやみ、空には相変わらず二つの太陽が、少しばかり西の方に移動し、輝いていた。
 ぐんぐん近づいてみると、二本の樹は〈ぶらんこ〉なのが分かった。二本の樹の間に太い綱が渡され、そこから茶色の小さな椅子がぶら下がっていた。

 
 舗装された桜並木を外れて、宏は土の脇道に入った。足下にはシダ植物が生え、うっそうと茂る針葉樹の梢の間からは細い光線が何本も射し込んでいた。木洩れ日は、見方によっては太陽が二つにも三つにも分裂したかのようだった。日陰は涼しく、宏は心地よさを味わっていた。
 再び、宏の頭の中に国語の課題が浮かび上がった。できるだけ他の誰もが知らない場所……どんなレポートを書こうか。
 この公園で見たものを、そのまま書いても構わない。ここは中学校の学区から遠く離れているし、ここでの出来事を書く生徒はおそらく他にいないだろう。
 しかし、それだけでは不満だった。あまりに素直すぎる。何の仕掛け、何の工夫もしないのはつまらない、と考えた。
 ヒントは転がっていないだろうか……草や木々の醸し出す独特の匂いを吸い込みながら、前後左右に気を配りつつ、宏は湿っぽい日陰の小道を進んでいった。
 
 そして〈ぶらんこ〉の横には切り株があった。さながら切り株のベンチだった。それ以外には誰もいない、何ものも存在しない、だだっ広い草原だった。僕は切り株のベンチに腰を下ろし、目の前にある〈ぶらんこ〉をぼう然と眺めていた。
 
 小道を抜けると、今度は別の広場に出た。広場の周りには整備された道が緩やかなカーブを描いて続き、そこを自転車に乗った女の人が遠ざかっていった。
 その道に沿って、ところどころに木製のベンチが据えつけられていた。ほとんどのベンチには誰もいなかったが、若い男女が朗らかに話していたり、イヌの散歩をしている途中の婦人がちょっと一休みしていたり、白髪の老人が斜めに腰かけて丹念に絵を描いたりしていた。
 老人の脇を通り過ぎる時、宏はそっと彼のカンバスを覗いてみた。するとそこには驚くべき風景が描かれていた。
 黒い闇に点在する白い粒。それらの間隔は均等ではなく、何かを形作っているように見える。大きさや明るさや色は粒によって微妙に異なっている。
 そう、それはまさしく星座――。
 宏はそのまま黙って通り過ぎた後、様々な想像を頭の中でめぐらし、ふと立ち止まった。そして、しばらく考える。
 老人は昼の空を描いているはずなのに、なぜカンバスの絵は夜中なのだろう……。
 やがて、きびすを返し、宏はまっすぐに老人のもとへと向かい始めていた。
 
 じっと見つめていると、目の前の〈ぶらんこ〉は気まぐれな春風に乗って、ゆらゆらと前後に動き出した。そのたびに種のようなものが飛び散り、それは赤や黄の花となって辺り一面に咲き誇った。どの花とも似ていて、どの花とも違う、まだ誰も見たことのない花だった。それらの花は野原に見事な星座を形作った。
 
「夜空……を描いてるんですか?」
 一心不乱に筆を動かす老人に対し、宏は遠慮がちに訊ねた。よくよく眺めると、老人の絵は、理科の教科書に出ていた秋の星座と似ていることに気付いた。昼と夜、春と秋……何もかもが逆転していた。
 宏は立ったまま老人の返事を待つ。涼しさを帯びた夕風がそっと広場の草を撫で、木々の小枝を揺らし、どこかへ流れ去った。時間がゆっくりと経っていった。
 老人は静かに筆を置き、宏の方をちらりと見上げてから、短く答える。
「昼間の星を描いているんじゃよ」
 太陽の光に隠されている昼間の星。
 宏の心の奥底で、何かがひらめく。
「ありがとうございました」
 宏が礼を言うより早く、老人の右手は再び快活に動き始めていた。宏は満たされた気分で公園の門を抜け、横断歩道をわざと大股で渡り、バス停へ向かった。
 国語の課題の方針は、すでに決まっていた。誰も知らない場所。そこをレポートする宏でさえ知らない、しかし宏の中に確実に存在する〈どこか〉である。
 
 僕は足下の星座を壊さないように気を配りながら、再び歩き始めた。少し進んでから振り返ると、例の〈ぶらんこ〉は大きく揺れていた。いつの間にやら子供が乗って、遊んでいたのだ。その後ろ姿は僕の幼い頃にそっくりだった。
 うぐいすの鳴き声を聞いて前を向くと、さっきまでは見えなかった小さな池が出来ていて、丸太の橋が架かっていた。木の看板が立っていて、そこには〈ソウゾウ〉と彫られていた。その橋の向こうには門があり、僕は門をくぐって、また別の世界へと新しい旅に出るのであった。

 
 宏は家に帰ってから、晩御飯さえ忘れ、真剣な顔で机に向かっていた。机の上には原稿用紙が置かれていて、宏は時々、思い出したかのように素早く文字を書き連ねた。それから部屋は再び長い静寂につつまれるのだった。結局、レポートが仕上がったのは、その夜の遅くだった。
 宏は最初、この文章に『どこでもない、どこかで』という題名を付けたが、消しゴムで抹消し『どこかで』と書き直した。
 
 誰も知らない、どこかへ。
 
 翌週になり、泉先生の国語の授業があった。終わった後、宏は例の課題を提出した。原稿用紙で三枚の作品だった。先生は、もう出来たの、と驚いた様子で、だがちょっぴり嬉しそうに受け取った。
 それから二、三日が過ぎ、宏は用事があって職員室へ行った。用が済んで帰ろうとすると、向こうから泉先生に名前を呼ばれた。宏が出向くと、いつも通りの眠たそうな瞳のまま、先生は語った。
「遠野君。課題、読ませてもらったわ」
 宏は少し照れた様子で、うつむきがちになる。先生は上目遣いで話し続けた。
「毎年、最初の授業で全く同じ課題を出してるの。中には一人くらい、ああいう不思議な文を書いてくる生徒がいるのよね。それが楽しみで、続けているのよ」
「そうですか」
 と簡単な返事をしたが、宏は内心、胸が弾けそうなほど嬉しく、また同じくらい恥ずかしかった。だが、どちらにせよ、今年の国語の授業は何だか楽しくなりそうだという予兆を、宏は強く感じていた。

(了)



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