だがしやっきょく

 

秋月 涼 


 それは初夏にしては妙に涼しい朝であった。
 折節の移り変わる狭間には四季を司る神がいなくなり、気候は不安定になる。先日の徹夜もたたって風邪をもらった青年は、朝起きてから喉の痛みを訴えた。出がけに常備薬を探したものの見つからず、慌ててネクタイを締めて黒い靴をつっかけると、周りには目もくれず、一散に坂道を駆け下りた。
 満員電車に揺られ、混み合った階段を押し合いへし合いし、三回目の乗り換えで三両編成の電車に乗った。短いホームに降り立ち、構内の踏切を渡り、熱っぽい体を引きずるようにして自動改札を抜ける。そこは緑の木々こそないものの、低迷していた気分が少し和むほど、甚だ人間味のある空間であった。
 駅名を冠した、なんとか銀座とかいう看板がしゃれた電灯の先端に掲げられている。花屋に八百屋、蕎麦屋に本屋、肉屋に喫茶に電気店。所々に銀行のATM、ファーストフード、コンビニエンスストアも見受けられるものの、そこは概して、かつては日本中どこにでもあったはずの〈古き良き商店街〉であった。
 後ろから鈴の音が響き、自転車に乗った中年の主婦がゆったり通過する。いつの間にか空気は蒸し暑くなっていた。
 
 左から右、右から左へと視線を彷徨わせれば、あわや向こうから来たベビーカーと正面衝突しそうになり、彼はふらつきながらも慌てて避ける。時計の針は九時を少し回ったところで、おおむね商店街のシャッターは降りている。贅沢は言わない、何でもいいから風邪薬が欲しい――彼の切羽詰まった願いとは裏腹に、やっとのことで見つけた薬屋はいまだ開店前であった。
 四つ辻を折れ、信号を渡ると、通りにひしめく店の数はだんだん減り始めた。ここを真っ直ぐ抜ければ普通の住宅街になる。
 諦めかけて歩く速度を上げようとした、その時だ。
〈処方せん承ります〉
 小さな白い旗に極太マジックで縦書きされた自己主張の激しい文字が、まるで砂漠の果てでたどり着いたオアシスのように、彼の心へ直に飛び込み、訴えかけて来たのである。
 立ち止まって軽く息をつき、建物を検分する。
 それは狭く、徹底的に使い古された木造二階建てであり、昭和三十年代のまま時の河の中州に置き去りにされたような、庶民の庶民による庶民のための商店であった。彼がよく利用するチェーン店のドラッグストアとはまさに正反対の風貌である。
 ゆっくりと顔をもたげる。看板には〈向山薬局〉と書いてある。
(この際、やむを得ないな)
 すがるような気持ちで、一歩を踏み出してみる。
 
 例えば大相撲の力士なら、立ち入ることすら困難ではなかろうか――それは後から考えたことだが、決して言い過ぎではない。店内はとにかく狭く、奥行きよりも幅の方がなお一層きつかった。普通の大人でも詰め込んで三人が限界だろう。
 一回り昔の素朴なたたずまいは彼の興味をそそった。鞄をぶつけないように注意しつつ、首だけを動かすと、四方を埋め尽くしている数段ずつの棚には様々な商品が所狭しと並べられている。全体としては雑然としているが、注意深く眺めれば丁寧に整頓されていることが分かり、汚さは全く感じない。ややもすると店の存在そのものがこの現代においては幻想的でさえあった。
 遅ればせながら彼は気付く――山と積まれた商品で半ば埋もれたカウンターに、姿こそ見えねども、確かに人の気配がすることを。
 けれど迎えの言葉はなく、それどころか何らの反応もなかった。ぱっとしない青年は、ふと我に返って喉の痛みと当初の目的を思い出し、名の知れた風邪薬を探し始める。
 
 眩しい太陽を見つめるかのように顔を上げて目を細め、棚の上方から下方に向かって、彼はざっと商品を物色していった。
 するとどうだろう、瞳に映る光景は、この店の〈不思議ぶり〉を弱めるどころか、ますます強めるばかりであったのだ。
 おまけつきのキャラメルの箱、キャンディーの入れ物、原色系のガム、ラムネ、何だか良く分からないが体に悪そうな食べ物――ざっと見回したところ、手に届く範囲に並べられているのは駄菓子のような代物ばかりであった。彼の生まれ育ったのは新興住宅街であり、駄菓子屋の文化はすでに消滅していたが、それでも目の前の品々は朝から晩まで遊び通した子供時代を遠く呼び起こし、胸には懐かしい温もりが咲いたようであった。
 他方、この店は何だろうという疑念も湧き出してくる。その回答を探して左側に首を曲げると、子供の手に届かぬような場所には確かに薬も並べられており、本来はここが薬局であることを雄弁に語っていた。
 とはいえ市販の薬は軟膏や胃腸薬の類が多く、大型のドラッグストアで大量に見かけるような大手調剤会社の大衆向け風邪薬はどこにも見当たらないのである。
 通勤中で時間がないことを思い出した彼は、にわかにしびれを切らし、電光石火、カウンターへ迫った。迫ったというよりは〈体の向きを変えた〉という方が事実に近いかも知れないが。
「すいません」
 喋るのに喉を意識するのはこんな時ぐらいだろう――独特の嫌な痛みを覚えつつ、彼は店に入ってから初めて口を開いた。
「あっ?」
 すぐにいらえがあった。びっくりして飛び起きたような女性の声である。次の刹那、駄菓子の間で白い髪が見え隠れした。
「何の、御用でしょう?」
 
 物と物の間からひょっこりと姿を現したのは、鷹のそれのように誇り高く澄んだ輝きを放つ双眸(そうぼう)である。おそらく七十過ぎであろう老婆の顔としてはやや引き締まった印象を受けるのは、あまたの平凡と僅かばかりの数奇な経験によって培った〈人間を正確に見定める眼光の鋭さ〉であり、幾つもの人生の修羅場を越えた後に得たのであろう〈血肉と化した優しさ〉であった。二つの湖とも見受けられる瞳は、険しい山脈のように皺深い肌の中で燦然と瞬き、乳白色の髪は残雪を示していた。
 老婆の圧倒的なまでの存在感に押され、かっきり二秒が経過するまでは何も喋ることが出来なかった青年であるが、まずはゆっくりと唇を上下に離し、遅ればせながら言葉を紡いだ。
「あの……風邪薬はありませんか?」
「風邪。ああ、最近流行ってるもの。喉が痛いんでしょぉ。今の風邪は喉から来るんです。早めに薬を飲めば治りますよ?」
 相手は表情を変えず、何もかもお見通しだぞと云わんばかりの自信に満ち溢れた口調で、堰を切ったように話し始めた。
「ええ、喉が痛いんです」
 強いて表現すれば、有力な占い師に自分の過去と現在とを見事に当てられた時の感情に似ていた。いわゆる〈キツネにつままれた〉ような気持ちになり、少し裏返った声で、彼は相手の言葉を追認するだけの非常に気の利かぬ相づちを打った。
 既にして場の主導権は、人生の先達を驚いたように見下ろすスーツ姿の青年ではなく、椅子に座るとカウンターから何とか顔が見えるくらい背の低い――老舗の老婆が握っている。
 その優位を逃す商売人ではなく、すかさず攻勢をかける。
「うちで処方してる薬、あるんですけどねえ。引っ越していった方から頼まれたり、区外の方からも注文を受けてるのね」
 はつらつとした語り口からは、狙った獲物を必ず仕留めるという余裕と、店の商品に対する深い愛着――何よりも自らが選んだ職業への信頼と誇りが感じられた。言葉の端々に漂うアクの強さは、人柄の芯が醸し出すオブラートにつつまれて和らぎ、ちょうど良い案配でもって直に聞き手へ訴えかけるのであった。
 相手の口車に乗ると分かっていても、そういう過程を素直に楽しめるケースがあるとすれば、まさにこんな時であったろう。折しも時間不足、背に腹は代えられぬ切羽詰まった思い、面倒くささ、老婆特製の風邪薬への興味を抑えきれぬ今となっては、彼のいらえは応える前から決まっていたも同然であった。
「じゃあ、それでお願いします」
「喉の風邪で良かったわね? 喉に効くのを出しときますね。熱とか咳が出始めたら、また別のがあるのだけれど……」
 喜びを顔に表すでもない。こんなのは当然の展開、日常茶飯事だ、とでも言いたげな冷めた表情に戻って相手は横を向き、薬を取ろうと細い腕を伸ばした。
 一方、青年は深く安堵する――これで治るかも知れない、と。老婆の語りには、確かな経験に裏打ちされた紛れもない説得力があったのである。
 
「毎食後に一包み飲んで下さいね。朝昼晩の五日ぶんです」
 病院の向かいにある処方せん受付の薬局でくれるような、店の名と薬の効能が大書された白い袋。ワープロで打ったものをコピーしたと思われるB5サイズの取扱説明書。それら二点を、彼女は戻ってくるなり狭いカウンターの上に並べて置いた。
 受け取った青年が特に興味を引かれたのは説明書の方だ。

 よく効く薬のご相談は向山薬局へ 風邪は万病のもと

 の名文に始まり、二行目には電話番号と営業日、三行目に営業時間が記されている。続く四、五行目には「この感冒剤は当店で調合し、胃腸に弱い方に好評である」ことが強調され、遠隔地からも注文があるという宣伝文句が謳われている。
 以下が圧巻であった。十六項目にも渡る箇条書きで、感冒の進行を抑制する秘訣と、禁止事項とが事細かに挙げられているのである。煙草や酒の我慢を強いたり、入浴回数を減らすことならまだしも、中には、おいそれと有給休暇の取りにくい会社人にはいささか守るのが難しいであろう養生法も書かれていた。
 例えば、

・ 38度以上の熱が有れば、外出しないで下さい。

 という一文である。彼はそれを黙読しながら頭の中で苦笑しつつも、最終的には苦笑した自分を苦笑せざるを得ないという複雑な心境に陥ってしまった。熱があり、本当に身体のことを考えるならば、外出を控える――間違いなく正論なのである。それが出来ない、またはやりづらい点にこそ根本的な問題があるのではなかろうかと思い、次第に無力感を覚えるに至った。
「はい、あとで読んでおきます」
 籠もりがちな声でつぶやいた彼をよそに、老婆はますます意気盛んとなり、愛想の良い微笑みで説明を加える。
「袋ごと冷蔵庫に入れておけば、二年くらいは持ちますから」
 得意がるわけでもなく、むしろ淡々とした口調で利点を告げる。いったい何十年間、こうしてここで客と向かい合って来たのだろうか。言葉遣いも仕草も取りたてて丁寧というわけでもないのだが、他人への敬いの気持ちが自然に染みついているようで、好感が持てるのだ。
 ややもすると、単なる〈自慢したがり屋のおせっかい〉になりかねないが、さすが経験の差。際どい境界線で踏み留まり、しかも最後の一線を越えることがない。
 彼女は現代に生きる年老いた魔女そのものであった。とても狭苦しい空間にしっくりと収まって、相手を見上げている。
 青年は再び説明書に視線を落とし、関心ありげに念を押す。
「じゃあ、余った薬はそうすればいいんですね。二年くらい?」
「そうねぇ、二年くらいはぜんぜん大丈夫ですね」
 聞かれても太鼓判を押すだけで、無理に売ることもなく、決して他製品の批判もしない。江戸っ子らしい粋な商人であった。
 名残は尽きぬが、さすがに彼の方は時間が気にかかっていた。ここで話を打ち切るべく、勘定を促す決まり文句を唱える。
「おいくらでしょ……」
「千円です」
 声は大きいが、特に耳が遠いという訳でもないらしい。彼が言い終わる前に、先手必勝の素晴らしい反応であった。
 彼が黒い鞄から色褪せた財布を取りだし、千円札を差し出すまで――日課として祈りを捧げる儀式の間の僧侶然として老婆は口をつぐみ、すべての動きを止めて、ただ待っていた。
「はい」
「ありがとう」
 代金を受け取り、薬の袋を前へ差し出しつつも、売り手はまだ話し足りなそうであった。自分の商品との別れを惜しむのか、はたまた町が動き始めたばかりの九時過ぎにやって来た珍しい話し相手をやすやすと逃すのが残念だったのか。もっと宣伝をして印象づかせ、再訪を促したかったのか。全部が当てはまる気もするし、全部が見当違いな気もすると青年は思った。
 だが彼は行かねばならぬ。
 歩き出そうと向きを変える寸前のことであった。カウンターの向こうの丸い老眼鏡がきらりと光り、老婆は相変わらずの自信と自分のペースを崩さずに最後の駄目押しを敢行する。
「まだ子供さんはいない年頃だろうけど……」
「はい?」
 意外な言葉に驚きを隠せぬ若いサラリーマンは、結局のところ足を休めて相手に向き直る。棚に並べられた駄菓子が目に入り、懐かしさを誘う。駄菓子屋のようでもあり、実際は薬局である。だがしやっきょく――という造語が脳裏をよぎった。
 薬剤師は続ける。
「袋のところに、十歳以下は三分の二だとか、十五歳以下は半分だとか、分量もきちんと書いてありますから」
 確かに記されていることを認めつつ、演説を聴き終えると、
「どうも」
 とだけ彼は応え、今度こそ決然とした歩みで一気に戸口を抜ける。その背中に届いた老婆の礼は、やり遂げたという満足そうな中にも、少しばかり寂しげな感じを秘めているようだった。
「ありがとう」
 外は蒸し暑く、日差しは明るすぎて眼が眩んだ。
 
 だるい全身を鼓舞して職場に到着し、薬を取り出す瞬間を待ち遠しく思いながら、彼は仕事の用意を進める。電源コードを繋いでネットワークのケーブルを接続し、スイッチを入れてコンピュータを起動させる。
 普段通りの準備を済ませて一呼吸ついたのち、いよいよ例の商品を取り出してみる。それは正月の福袋を開封するのに似て、何かしらの期待を抱かせる場面であった。
 森のリス穴を覗くような仕草で、そっと中身を検分する。
「ん?」
 所狭しと収まっている、幾つもの丸めた雪色の包み紙。
 次の刹那、彼は理解した。規格製品化された錠剤でもなく、使いやすく密封された粉薬でもない――それは一回の服用量ずつに分けられた、手作りの風邪薬に他ならなかった。
 直感で選択した栄えある最初の包み紙を持ち上げると、その重みを確かめながらテーブルに載せ、注意深く広げてゆく。南国の真砂を思わせる薬の粉が僅かにこぼれ、風に吹かれる。
 
 そして。
 白薔薇のつぼみは徐々に解放され。
 ついに花開く刻が来て。
 現れたのは――ミルク色の小さな薬の山だった。
 それを口元に運び、傾斜をつけて流し込み、包み紙を叩いて粉を落とし、水を注いで、ごくりと一気に飲み干した。
 
 服用したからと言って喉の痛みが完全に取れるわけではなかったが、それは市販の薬とて同じことである。ともかく老婆の薬は風邪を蓄えたダムの堰となり、何とか病気の進行を食い止めてくれたようだ。彼の朝の判断は充分に功を奏したのだった。
 その日の仕事を終え、夕焼けの光の名残を仰ぎつつ、本調子ではないため足早に最寄りの駅へ向かう。住宅街を抜け、自動車が通り過ぎるのを待って細い道を渡ると商店街が近づいた。
 しばらく歩いてゆくと、彼の脳裏に幾筋かの思考の支流が浮かび、少しずつ合わさって、ぼんやり一つの考えとなった。
 あの店は、まだやっているだろうか?
 方向的には道の左側に見えるはずである。彼はまず前方を確認し、目当てのものが見つからないと悟ると、首だけを動かして後ろを振り向いた。あのこぢんまりとした薬局があったと思われる付近を推定して凝視するのだが、オレンジ色の看板を掲げた新しくて大きなドラッグショップが見分けられるのみである。
 微妙に首を傾げ、彼は歩みを止めていた。こめかみの鼓動が速まっている。答えを知りたいという好奇心と不安は急激に強まり、意を決して、彼は身体の角度を少しずつ変えていった。ついには回れ右して逆向きとなり、元来た通りをじっと見渡す。
 じっと見渡す――。
 間もなく彼は自分の目を疑わざるを得なかった。
 今朝がた行って来たばかりの、あの古びた薬局が影も形も存在せぬ!
 もちろん最初はすぐに行って確かめようかとも考えたが、駆け出そうとした時、足の重さと、どうせ明日もまた通る道であることに気付く。風邪気味で疲れているだけかも知れないと無理に自分を納得させ、彼はそれ以上深追いせず、改めて帰途についた。横断歩道を越え、T字路を左に曲がれば駅前商店街だ。
 その間、頭の中では様々な縁起でもない筋書きが膨らみ、彼を揺さぶり続けていた。あの老婆はとうの昔に亡くなったのではないだろうか、そして薬局は崩され、跡地には大手のドラッグストアが建設され、それが辛抱ならぬ老婆の幽霊は病人を――。ありがちなホラーもののストーリーが浮かんでは消えてゆく。
(そんな馬鹿な。明日、確かめれば済む話じゃないか)
 心にそう誓って、彼は三両編成の電車に乗り込んだ。
 
 翌日も喉の痛みは引かず、朝食後にきちんと一包みの白い粉を飲み干すと、黒い鞄に薬袋を押し込み、彼は自宅を発った。
 今日もいつもと同じスーツを身にまとって同じ電車に乗り合わせ、見慣れた人々に囲まれ、一時間を越える〈通勤ならぬ痛勤〉を経て、いつもと同じ時刻にいつもと同じ駅に着く。それは何もかもが予め予定されたように思える習慣的な繰り返し――例えば線路の上から逃れられない電車――なのだろうか。
 そこまでの過程は確かに酷似していた、けれども自動改札を出た彼は明らかにいつもと違っていた。変わらないように見える街並みであっても、見ようと思って眺めれば違った部分が見えてくる。気付かなかったパスタ屋、玩具店、家具屋が次々と瞳の中に入り込み、記憶として刻まれてゆく。
 季節と天候によって光の差し方は変わるだろうし、気温や湿度の差もあるだろう。本人の体調も左右するだろう。どれも昨日と異なった要素ではあるが、最も大きな違いは何だったろう?
 とにかく彼には昨日の課題の置き土産として、勤務先に向かうまでの道中で、確かめなければならないことがあるのだ。
 右に折れ、信号が見えた。あれを越えれば、昨日の薬局があった辺りに着く。いつしか勇み足になっていたが、渡る直前に信号の黄色が点灯すると、彼は反射的に駆け出した。
 その時であった。
「おはようございます」
 誰も知り合いのいない勤務先の町でぶしつけに挨拶を聞き、いぶかしく思った彼は徐々に速度を増しながら振り返る。
 何と言う小さくも大きな偶然だったろう。白滝のような髪が、眼鏡の奥の二つの瞳が、背の低い老婆が遠ざかってゆくのだ。
「あっ!」
 挨拶を返す暇もなかった。その間に信号は変わり、自動車の列が動き出す。商売人の姿は車間距離に見え隠れして映画のコマ送りのようになり、ついには通りを曲がって消えていった。
 あっけにとられて立ちすくむ彼だったが、どうにか気を落ち着かせると、色々な事を頭の中で巡らせながら再び歩き始める。あの老婆はこんなに朝早くからどこへ行くのか、店番はほったらかしで良いのか、そもそも店はあるべき場所に存在するのか――様々な憶測、期待と不安とを織り交ぜつつ彼は進んだ。
 その答えは意外にもあっさりと出た。栄養剤や宅配便を取り扱っていると宣伝する〈のぼり〉、そして見覚えのある太いマジックで書かれた〈処方せん承ります〉の文字が、彼を安心させると共に、現代世界の不思議な物語が成立しない残念さを誘う。
 が、それは一瞬の迷いであり、考え直すまでもなく心の中で深く謝罪した。勝手な想像で生者を幽霊にしたのは失礼千万だ。
 こうして、つまらぬ疑いは晴れたかに思えた。駄菓子薬局は淡い夢の中の店では無い。それどころか現実世界の硬い土に根を張り、踏まれても踏まれても可能な限り根を張ってゆくタンポポに他ならなかったのだ。そのたたずまいは簡素で素朴で、通りの向こうからは見分けられないほどだったが、庶民にしか醸し出せぬ強靱な生命力と、個性的な魅力とに溢れていた。
 その理由は明確である。数軒も離れていない場所に、昨日の帰り際に目立っていたオレンジ色の看板の真新しいドラッグショップがきらびやかに建っている――あまりに近すぎるのだ。誰がどう見ても老舗の薬局には不利であり、よほどの努力をしないと経営を続けられないだろうと思われた。老婆のしつこいとも思える商品の宣伝も、今となってはうなずけるのであった。
 しかも薬局の向かいには名の知れたコンビニエンスストアがある。これでは駄菓子や宅配便の客も次々と奪われてしまう。
 彼はひどく胸を打たれ、熱いコーヒーを飲んだ直後のように胃のあたりが火照った。あの店の、営業面での四面楚歌の状況を哀れんだのではない。風邪のせいでもあるまい。悲壮感を全く感じさせず、あの年齢になっても決して諦めずに立ち向かう老婆の生き様に対し、心が震わずにはいられないのであった。
 
 日を追うごとに夏の色合いは濃くなり、商店街の雰囲気を塗り替えてゆく。大通りから裏の小道まで、古い店から新しい店まで。赤ん坊からサラリーマン、八百屋の親父から女子高生、主婦から老人たちの表情に至るまで。同じような毎日に思えても、目には見えぬ季節の衣替えは少しずつ確実に進むのだ。
 さて、欠かさず薬を飲み続け、仕事を終えると直ちに帰宅して安静に過ごしていると、三日ほどで彼の風邪は全快した。あの日以来、年老いた調剤師と挨拶を交わしたり、ましてや店に入る機会もなかったが、彼は駄菓子薬局のファンの末席に加わっていた。横を通り過ぎる度にカウンターの辺りを覗くのが日課となった。
 その晩、ちらりと店内に視線を送れば、件の女性と、客なのか近所の人なのか分からないが同年代と思われる男性とがカウンターを境に談笑していた。ほんの刹那だけ垣間見た老婆は、躍動感と、人間への限りない優しさと、生きる誇りと混ぜ合わせた素敵な笑顔を惜しみなく振りまいていた。うわべだけは感謝するものの態度はいい加減な店員や、それと大差ない自分自身と比べると、彼は尊敬の念を抑えられなかった。
 信号待ちをしていると主婦の声が耳に入ってくる。
「朝から早くから遅くまで……」
「おばあちゃん、ほんとに頑張ってるわよね」
 思い返せばあの朝も、他のドラッグショップが開店する前から老婆の薬局だけは営業していたのだった。営業時間はきっと九時からだろうが、何時までやっているのだろう。思わず鞄のジッパーを開いて、皺くちゃになった薬の取扱説明書を鞄から取り出すと、彼は貪るようにそれを眺め、答えを捜した。
 彼の黒い瞳が雷に打たれたように大きく見開かれる。
 にわかには信じられず、目をこするが、答えは変わらない。
 彼は青信号にも気づかず、その場で振り返り、愕然とした。
 
〈年中無休 朝7時より夜10時まで〉
 
 帰りの電車で、彼は繰り返し考えていた。
 風邪をひいたなら、あの駄菓子薬局へ行こう。
 そして、いつまでもお元気でいて下さい――と。

(了)



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