秋の味覚

 

秋月 涼 


 六十歳ほどだろうか――口の上に灰色のひげを生やした店の主人と目が合う。彼は黒い瞳で微笑み、穏やかに言った。
「いらっしゃい」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 とある秋晴れの土曜日、透き通るような青空に誘われて。
 黒いポシェット一つを肩に掛け、履き慣れたジーンズとスニーカーをつっかける。夕方に羽織る薄手のベージュの上着を片腕に、僕は日帰りの旅へ飛び出した。本当の所は〈旅〉と呼ぶのもおこがましいほどで、目的がなければ予定もない。あるのは、たっぷりの時間と、当面の予算だけという気ままな〈遠出〉だ。
 都会に向かうのと反対のホームから、何気なく普段乗らない電車に揺られていた。最初は目のやり場に困って文庫本を読みふけっていたが、しだいに反対側の長椅子の乗客は減り、車窓の住宅も減って、空が本来の割合を取り戻してゆく。駅間距離が広がり、電車でさえ開放的な気分となるのだろう、遺憾なく高速性能を発揮している。レールの継ぎ目をなくす都市部の工事で失われた〈ガタンゴトン〉という懐かしいリズムが自然に残っている。そしてまた家が増え、電車のブレーキがかかる。
 小さくもなければ大きすぎることもない、特急が停車する中規模の町だった。座席に腰掛けていた僕は、各駅停車のドアが閉まる瞬間に飛び降りた。目に見えぬ何者かが僕を呼んだのだろうか――いや、単にそろそろ町を歩きたくなっていた頃合いだったのかも知れない。ともかく僕は乗ってきた電車を見送り、ペンキは塗り替えられているけれど古びた跨線橋に向かった。
 家には夜に戻れればいい。明日の日曜日は寝て過ごそう。
 時間と場所の制約から解放されることに馴れていない僕は、つい先のことを考えてしまう。せっかくだから不安定を楽しもう。

 改札を出て、周辺の地図を無造作に眺めてから、橋上駅舎のコンクリートの階段を、町が栄えていると思われる方に下りる。
 小さなロータリーの隅にはタクシーが二、三台並び、暇そうな運転手たちが談笑しつつ煙草を吹かしている。その脇は商店街の入口になっていて、アーチ型の看板に名前が記されていた。所構わず自転車が置かれているのには閉口したが、どこの駅前にも必ずと言っていいほど存在し、雑草みたいに生えているパチンコ屋の姿を見かけないのは、大いに僕の気に入った。
 既に昼時を過ぎている。主婦や高齢者の姿が目についた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 朝は適当に済ませたので、さすがに小腹が空き始めていた。ハンバーガーや牛丼――自己主張の激しい匂いが僕を手招きするが、ここまで来てファストフード店に入るのもつまらない。普段よりもゆったりした速さで歩き、意識を持って〈見よう〉とする気持ちを高めれば、その裏に潜む事象まで見えてくるものだ。
 例えば古びた文房具店の入口の前に置いてある鉢植えで、人知れず枯れゆく季節外れの薄紫の朝顔に気づけば、すなわち秋の深まりという〈見えないもの〉が見えてくるという寸法だ。
 それなりに繁盛している商店街の床はタイル張りで、きれいに清掃されている。二つ目の曲がり角で自然と立ち止まった。

 角の花屋の横に『カフェ 四季彩』という喫茶店が見えた。それほど大きくない、こぢんまりしたガラス張りの店内はがらんとしている。色彩に〈四季彩〉という字を当てるとは、まるで避暑地のホテルにでも好まれそうな使い古された名称だが、この町の雰囲気を凝縮したかのように外見はこざっぱりしている。特別に垢抜けているわけではないが、安っぽさはなく誇らしげだった。
 僕の心はそれを見た瞬間に決まっていた、と言っても大げさではない。天然の木で作られた重厚なドアをためらうことなく押し開けると、カウベルに似た大きな鈴が頭の上で快く響いた。

 知らない町の知らない通りで、知らない店に入る時につきものの、独特の緊張感と高揚感がよぎる。通りの賑やかさから一転し、けだるいボサノヴァが流れる静けさの中で、僕は挨拶した。
「こんにちは」
 土曜日の昼時は緩やかに去り、それほど広くもない店内はがらんとしていた。腕時計を覗くと、細い針は二時を回っている。
 入ってすぐの右手がキャッシャー、正面にカウンターの席が十ばかり、左奥には通路を挟んでガラスの窓際と壁沿いにテーブル席がいくつかあって、その奥に化粧室の目印があった。テーブル席の一つには温かい紅茶を啜る若い男女の姿が見えた。

「お一人様で?」
 キャッシャーの後ろのカーテンが持ち上がり、見渡していた方とは異なる場所から男の声が聞こえた。そちらに視線を送る。
「ええ」
 人差し指を立てて同意する。心地よい叙情曲は続いている。
 六十歳ほどだろうか――口の上に灰色のひげを生やした店の主人と目が合う。彼は黒い瞳で微笑み、穏やかに言った。
「いらっしゃい」

 僕が手持ち無沙汰に立っていると、彼は軽い口調で言った。
「あ、空いてますんで、どこでもどうぞ」
「じゃ、カウンターに」
 僕が腰掛けるのと、向こうのテーブル席の男女が立つのがほぼ同時だった。店主はまず僕の前にグラスのお冷やとメニューを置き、それから彼らの会計を済ませた。客は僕一人になる。

「ありがとうございました」
 再びカウベルが鳴る。やがて男はカウンターの向こうに入る。
「ご注文はお決まりで?」
「ええ、サンドイッチセットのツナを。飲み物は温かい紅茶で」
「紅茶は、ミルクとレモンがございますが」
「じゃ、ミルクで」
「お食事の前にお持ちしますか?」
「そうですね」
「以上で?」
「以上で」
「それでは、ご注文を確認させて貰います」
 男はそらで繰り返す。客への軽い尊敬を込めて会釈し、メニューを回収すると、カーテンを押し上げて奥の厨房に姿を消した。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 雰囲気作りのボサノヴァは主張しすぎず、かといって静かすぎることもなく、適度に響いている。カウンターの木の椅子は脚が高かったが、四角い座板は広く作ってあり、長い時間いても疲れないように思えた。背もたれは少しひんやりして心が安らぐ。
 手持ちぶさたになった僕は首を動かし、店内を見回してみる。まず天井に目を移すと、幾つか並んだ黄色の白熱灯が暖かな色を一つの空間にちりばめている。そのまま視線を下ろしてゆくとガラス張りの窓際のテーブル席が見える。ビニールの素材を用いたソファー式の腰掛けは並べず、あくまで木の椅子とテーブルを使っているのは、店のこだわりなのだろうと察せられた。
 入ってくる時は気にしなかったが、窓の隅に置いてある小さな可愛らしい、紐付きの白い鉢植えが目についた。木目の美しいタイル張りの床は良く磨かれ、鈍い光を返している。店名となっている〈カフェ 四季彩〉という和風なイメージとは異なり、どちらかといえば西欧風のアンティークな調度品が持ち味のようだ。
 部屋の隅の棚の上には、おそらく素人が作ったのだと思われる焼き物の壷が置いてあり、壁には手編みのテーブルクロスが貼ってある。細長い色紙に何か書いてあるが、判読できない。

 やがて上質の紅茶が持つ独特の深い香りがどこからともなく漂ってきた。足音が聞こえ、僕が座っているカウンター席の右奥、厨房に繋がる通路から人の近づいてくる気配がある。ほどなく現れたのは、さっきの男の妻だろう――六十歳ほどの丸顔の小柄な女性で、落ち着いた穏やかな表情を浮かべていた。
「いらっしゃいませ。お紅茶のミルクで?」
「ええ」
 白い髪の混じっている初老の婦人は丁寧に盆からカップを下ろし、取っ手が僕の右側になるように回転させた。カタリ、と木のカウンターが重みのある音を立てる。薫り豊かな煎れたての紅茶は盛んに湯気を立て、近くに寄ると鼻に水滴がつきそうなくらいだった。彼女はおかわり用の洒落たティーポットを脇に置き、先が緩やかに曲がったミルク入りの器を次にバランス良く配した。最後は銀に輝く一点の汚れもない清潔なスプーンで、それを下ろすと、用意されたお盆は実に風だけを乗せていた。
「ごゆっくり、どうぞ」
 雰囲気を無粋に破らないほどの静かな、だが確かな声で言った店主の妻は、来た時と同じくカウンターの裏側の右隅へ立ち去った。先ほど店主が姿を消したキャッシャーの背後の通路とは異なる。向こうには薄水色のカーテンが掛かっており、物を運ぶのには邪魔なので、専ら受付や会計の際に使うのだろう。
 それからしばらく、僕はいつもの五倍ほどの時間をかけ、ゆったりとした心持ちで熱い紅茶を啜っていた。見知らぬ街で乾いた唇を潤し、空腹の胃に沁みる少し高級な紅茶は、僕が現在進行形で続けている〈遠出〉の趣旨にぴたりと合致していた。

 注文したツナのサンドイッチを、予想通りカーテンがない方の通路から運んできた髭の店主は、カウンター越しに僕の向かいに立つ。そうして遅い昼食にありついた僕に訊ねるのだった。
「お客さん、どちらから?」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「Kからです」
 僕が返事すると、店主は一瞬、複雑な表情をした。格別の思い出はなく、親戚や知人が住んでいるのでもない――それ以上話題を続けることが出来なかったのだろう。よくあることだ。
「へぇ。観光?」
 サンドイッチを頬張っている僕を見下ろし、親しみを込めて店主は言う。僕は顎を動かしながら、どう応えるか思案していた。
 口髭を生やし、それなりに良い品であろう薄茶色のチェックのセーターを着ている初老の紳士は、プレッシャーをかけるわけでもなく静かに待っている。僕は紅茶のカップを傾け、充分に喉を潤してから、この町に来た理由を自然体で説明するのだった。
「天気が良くて、ちょっと遠出をしたくなったもので、ぶらりと出ましてね。雰囲気が気に入ったんで、そこの駅で降りたんです」
「ほう……ところでお宅、おかわりは?」
 いつの間にか、カップの紅茶はほとんどなくなっていた。僕が頼むと、喫茶店の主人は年季の入った職人風の手さばきで脇のティーポットを持ち上げ、温かな音を立てつつ酌んでくれた。一見すると気難しそうだったが、話好きの気さくな人物だった。
「まあ観光するにしても、大したものはないですよ、この町は」
「うん、そうかも知れませんが……ただ、大したものと出会えるかどうかは、受け取る側の気持ち次第かな、と思いますけど」
 その回答を彼はいたく気に入った様子で、しばらくの間、僕は聞き手となる。主人は淡々とした口調で名所を教えてくれた。
「そこに温泉センターがあってね、三百円で入れるんだよ」

 主人と話し込んでいるうち、彼の妻である初老の婦人が、先ほどと同じカウンターの右奥の通路から現れ、椅子にかけた。
 その間、紳士は僕が出かけた理由を簡潔にまとめてくれる。
「ちょっと遠出して新鮮な秋に出会えればいい。そんな感じ?」
「まぁ、そうですね」
 僕が軽くうなずくと、男はすぐに妻の方へ向き直るのだった。
「おい、あれ、作れるか?」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「あれ、ですか?」
 知っていて、わざとはぐらかすような悠然とした口調で、初老の婦人は反対に訊ねる。店主の夫はやや語勢を強め、顔をしかめて、分かりきったことを説明するかのように言うのだった。
「あれに決まってるだろう。例の〈秋の味覚〉だ」
「そんなに大声で言わなくとも、聞こえていますよ」
 妻は軽い微笑みを浮かべ、静かに椅子から身を起こすと、再びゆったりした足取りで調理場に向かう。他方、店の主人は自らの耳を指し示し、苦々しい表情を取り繕って愚痴るのだった。
「いい年だからさ、耳が遠くなってるんだね」

 彼の説明は、結局のところ全く実証されなかった――間髪入れずに、厨房から嬉しそうな老婦人の声が届けられたからだ。
「何か言いましたかー?」
「何でもない、何でもない!」
 どうやら奥さんの方が一枚上手だったらしい。ひげの店主は滑稽に首をすくめ、顔をしかめた。暗黙の了解の上での、軽口の応酬――もとより意志疎通は図られていたようで、二人の態度や語調に刺々しさはない。それは彼らの円満さの裏返しで、微笑ましかった。雰囲気に釣られ、僕もつい吹き出してしまう。
「ふふふっ」
「まあこんな具合ですよ、この店は、昔から」
 恥ずかしそうにうっすらと頬を朱らめ、ズボンの後ろポケットから煙草とライターを引っ張り出し、箱から一本引き抜いて口にくわえた紳士は子供のように悪戯っぽく、可愛らしくさえ見えた。
 彼は手慣れた指先の動きで瞬く間に火を点け、カウンターの隅にあった店の名入りの灰皿を引き寄せながら僕にこう問う。
「あ、煙草吸っても大丈夫?」
「お構いなく」
 僕自身は吸わないし、煙草の煙はあまり好きではないが、今は彼の機嫌を損ねたくなかったので愛想良く笑顔で同意した。

「フゥーッ……」
 店主の鼻と口から吐き出された幾筋もの白煙が、独特のきつい匂いとともに少しずつ薄まりながら天井や店の遠くの方まで拡がり、浸透してゆく。掛け時計を見ると二時半を過ぎていた。
「よいしょと」
 と、その時――老婆の声が聞こえてきた。店主は火をつけたばかりの煙草を灰皿の中でもみ消し、慌ただしくも颯爽と立ち上がる。そのまま迷わずカウンターの右奥の通路へと入った。

「もう、すぐそこじゃありませんか」
「いいから」
 軽い押し問答の末、色あせた小さな段ボール箱を抱えて最初に入ってきたのは、ひげの老紳士だ。彼の後ろから、箱のほこりを拭いて黒ずんだ雑巾を片手に持ち、婦人が続くのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 段ボールを開き、店主が中身を持ち上げる。少しずつ半透明の姿を現したのは、長年使っていると思われる古びた形式のミキサーだった。ケースに野菜や果物を入れ、ふたを閉めて電源を入れると、磨り潰してミックスジュースを作る、例の機械だ。
 その簡素な細長い商売道具を丁寧な動作でカウンターの内側にある棚に下ろし、ひげの男は誇らしげに笑みを浮かべる。
「これだよ、これです」

 僕は多少の興味をそそられ、頬杖をついた。長い間、大切に使われてきたのだろう、何の変哲もないミキサーを見下ろす。
 薄いベージュの台の上部に、ジョッキに似た容器が座っている。電源と、磨り潰す強さを示すボタンが三つほど並んでいる。
「秋の新鮮な味覚ですか。楽しみだな」
 どんな品物をどれだけ使うのだろう。この地方で穫れたばかりのフルーツが出てくるのか、どこにも売っていない独自の健康的な飲み物を味わわせてくれるのだろうか。材料が用意されていないので、僕は想像力を逞しくし、考えるしか術がなかった。

 そういう訳で、しばらく僕は両眼をしばたたき、徹底的にミキサーを検分していた。しかしながらフライパンや鍋を見て出来上がる料理を当てるのが困難なのと同じように、トマトやニンジン、ピーマンなどが頭を掠めたけれど、そのどれも確証がなかった。
 男はコードを伸ばしてコンセントに繋いだり、段ボールを部屋の脇に片づけたりしている。他方、妻はゆっくりと歩き出した。
「奥からグラスを取ってきます」
 そして彼女は去り際に一つの不可解な言葉を残していった。
「……今日は、カゼの具合も良いようですし」

「え、風邪を引かれてるんですか?」
 厨房に消えた初老の女性の後ろ姿を目で追い、それから僕はそばにいる店長に訊ねた。彼が感冒にかかっているのか、もしくは婦人の方が体調を崩しているのか。咳や鼻づまりは皆無で、顔色も声も普通――二人とも元気そうなので意外だった。
 ところが相手の返事はひどく漠然として、妙な印象を受けた。
「んー、まあね。そのうち分かるよ」
「はあ。そうですか」
 僕はキツネにつままれたような気分になる。親切に種明かしを先送りしてくれたのかも知れないが、しょせん余所から来た旅人なのだと、彼らとの乖離に今さらながら気づく瞬間でもある。

 僅かに雰囲気がしらけかかったが、足音と食器が触れる響きが聞こえ、婦人が帰ってくる。透明なグラスを三点、丸い盆に載せて、にこやかに登場した。いよいよ次は材料のお披露目に違いない。僕は、婦人か店主が厨房に向かうのを期待していた。
 しかし彼らは動くどころか、スイッチを入れてミキサーの試運転を始める。店の中に、機械のモーター音が快く流れ出した。

 やがて僕は半信半疑で眉を寄せ、息を飲み、目を見張る。そうせずにはいられない神秘的な現象が展開されていたのだ。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ミキサーのモーターは軽い音を立て、羽は快く回転を続けていた。それだけならば単純な試運転なのだが、気のせいだろうか、僕の聴覚は僅かに水分を含んだ爽やかな響きを捉えた。
 静かな空間にいたので耳が慣れていなかったのかも知れないと思い、僕は店主の顔を見上げたが、彼は口ひげの似合う顔に勝ち誇ったかのような悪戯っぽい微笑みを浮かべるのみだ。
 困ったように婦人へ視線を送っても、相手は人差し指でミキサーを示し、古風な少女のごとく清楚に首をすくめるだけだった。

 そして僕は再び機械に焦点を戻す。普段は野菜や果物を磨りつぶし、果汁百パーセント、天然のジュースを作る目的で使用される旧型のミキサーにじっと目を凝らし、耳を澄ませていた。
「え?」
 僕の瞳は見開かれ、顔は硬直した。思わず身を乗り出す。
「だんだんと、絞れてきたようですね」
 婦人の言葉も頭まで届かず、僕はミキサー内の変化に引き込まれていた。さっきのささやかな水音――あれは空耳ではなかったのだと確信する。僕の様子を眺めていた初老の夫婦は互いに軽く目配せする。ミキサー越しに見た二人の表情と、醸し出す穏和な雰囲気は、深い安堵と歓びとに彩られていた。

 僕が微妙に位置を変えると、光の加減か、ほとんど透明と変わらないほど薄い青の液体がちらちらと光り輝く。薄めたブルースカイのジュースに見えないこともないが、伝わってくるものが決定的に違う。僕が見とれている間、それは少しずつではあるが量を増し、今は小指の第一関節ほどの水嵩になっていた。
 何も入っていないミキサーから、蒼天色の水が湧いてくる。
 こんなことがあるものだろうか。手品ではあるまい――僕は背中に鳥肌が立った。遠い町の人と束の間の出逢いを楽しみ、普段は味わえないものを体験する。まさしく旅の醍醐味である。
「動く宝石のような……中に何も入っていないのに!」
 僕は感嘆して顔をもたげ、やや早口で言った。他方、店主は僕を見下ろし、呆れたように手を振りながら質問を投げかける。
「いや、いっぱい入ってるじゃないのさ。分かる?」
「え? だって、ミキサーには空気しか……」
 訳が分からない、常識では考えつかない。しどろもどろになり、どう返そうかと言葉を飲み込んでしまった。そんな僕を店主は真っ直ぐに指さし、とても軽い声で――だが明瞭に応えた。
「当ったりぃ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「何だって」
 僕は愕然として聞き返した。野菜や果物ではなく空気を搾り取るミキサーなんて、生まれてこの方、耳にしたことさえない。機械のモーターは回転を続け、稀代な液体を作り出している。
 何も入っていないのに水が出てくるなんて、僕の目がおかしくなったのか、あるいは頭がおかしくなったのか、白昼夢でも見ているのか。それとも驚くべき手品のタネが仕込まれているのだろうか――あの口ひげの店主が、実は無類の手品好きで。
 どの仮説も有り得なくはない。だが、どれもがしっくり来ない。
 見当違いだと結論づけてしまうならば、やはり〈空気を絞る〉という可能性がにわかに現実味を帯びてくる。万が一そうなのだとしたら大変なことだ。僕は思わず唾(つばき)を飲み込んだ。
 最初はほとんど透明に近かったジュースは、かなり蒼みを増していた。クリームに似た白いものを浮かべている奇妙な液体には、何となく見覚えがある――そう、今日の秋晴れの空だ。

 その時、僕は感性の領域で、目の前に展開されている事象が嘘でも偽りでもない、言うなれば〈しごく普通の出来事〉であるのだと理解した。旅とは、いわば非日常を味わうためのステージだと思う。だったら、こんな不思議な非日常があってもいいのではないだろうか。十二時であるべき針が十二時五分を指している、ブラウスのボタンの掛け間違え、天気雨――そんな類の、日常と隣接したささいな異空間の一種なのかも知れない。
 僕は自分の感覚を信じたいと願い、さらなる裏付けを得るために老婦人へ向き直り、胸に緊張を走らせつつ訊ねるのだった。
「さっきの、カゼって……」
「ええ。お察しの通り、空の風の具合ですよ」
 店主の妻は首をわずかにかしげ、はにかんだ微笑みで応える。僕はほっと一息つき、今度は老紳士の眼差しを見つめた。
「驚きました。こんなことって、あるんですね」
 僕の声は隠しきれない興奮で僅かに裏返っていた。店主は黒い瞳をほころばせ、その横でうなずいたのは初老の婦人だ。
「そうよぉ、あるのよー」
「だからあれほど強調したのに。秋の味覚、ってさ」
 唇や顎とともに、灰色を帯びた口ひげまでくつろがせて、店主は穏やかな瞳でおどけたように語った。言い終わる前に腕を伸ばし、ミキサーのスイッチに指を載せる。カチッ、という大きな音がしてから、しだいにモーター音が収縮してゆき、羽が止まる。
「まあ気にすることはないですよ、お客さんは心が柔軟な方ですから。世間には頑としてこれを認めない人たちもいるからね」
「心も柔軟体操をしないと凝り固まるから、たまに解さないと」
 夫の言葉に妻が同調し、僕は軽く縦に首を動かすのだった。
「ええ」

 忘れていたボサノヴァの響きが店に、僕の耳に戻ってくる。
「とりあえず、こんなもんでいいだろう」
 店主が呟くと、妻は用意した細くて洒落たグラスを軽く持ち上げ、あうんの呼吸で滑らせるように運んだ。夫は惜しげもなくミキサーを傾け、軽やかな音を響かせて、グラスを充たしてゆく。
 一見するとブルースカイ味のジュースに見える――だが全く合成着色料の感じられない天然の青空のエキスは、流れる白い雲もそのままに、僕の目の前へ優美な姿を現したのだった。
「はい、出来上がり。紅葉しないうちに、どーぞ」
 紳士が差し出したグラスを受け取ると、思わず喉が鳴った。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「絞りたての秋ですか……」
 僕は恐る恐る右手を差し出し、グラスを近づける。僕の手の中に掌におさまってしまう空の水面が、微かに揺れ動いている。
「そう、このミックスジュースはなぁ、その名も〈秋〉と呼ぶのさ」
 店主はちょっと大げさに抑揚をつけ、往年の俳優気取りで語った。僕が多かれ少なかれ気に入られたのは間違いないが、あの口ひげのマスター、毅然とした外観とは裏腹に陽気でどこか飄々とした人物らしいことが分かってきた。喫茶店を切り盛りするくらいだから、人と話したり楽しませることが好きなのだろう。
 そういえば――この店の名前は『カフェ 四季彩』だった。改めて考えてみると、実に相応しく思える。特製のジュースは全て季節限定、その日の空の具合により、味も違えば色も異なる。

 そして僕の目の前には今日だけの〈秋〉がたたずんでいる。
 特段の匂いはないが、顔をそばに寄せると頬に僅かな空気の流れを感じ、睫毛が微細になびいた。透明なガラスの容器の内側を涼しく爽やかな風が吹き、突き抜け、廻っているようだ。
「それじゃあ……頂きます」
 天が持つ独特の不思議さ――吸い込まれてしまいそうな蒼に見とれつつも、僕は神妙な表情でグラスに再び手を触れる。
「どーぞ」
「季節を召し上がれ」
 店主とその妻はこの期に及んで一切無駄なことを喋らず、こうした客と語る時に用いるのだろう、カウンターの中にある椅子に腰掛けて、僕の様子を一握りの緊張感とともに見守っている。

 横から右手で抑えたまま左手を添え、指先に力を込めて徐々に持ち上げる。思ったよりも軽いことが僕の期待を高めた。やはり普通の液体ではない――頭の奥が震えるような歓びが生まれ、実際にはほんの刹那の刻をとても待ち遠しく感じさせる。
 口を見下ろす位置まで吊り上げた天の絞り汁が充たされた容器を、今度は傾けてゆく。こめかみの鼓動が速まり、もはや何も聞こえない。あらゆる心の窓が、口元の〈秋〉に向かっている。

 ついに空の第一陣が僕の乾いた唇の先端に触れた。それを合図に、ほんの少しだけ顎を下げて、相手を受け容れる――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 高級な冷酒を想起させる、濃密でしかもさっぱりした液体が口に注いできて粘膜を潤し、僕は心地よさに目を閉じた。これまで生きてきた中で、見落としていた幾つもの秋が魂の底辺で走馬燈のごとくよぎる。再生の暖色で華麗に充たされた春や、光が満ちたかと思うと強い雨の叩きつける熱情と移り気の燃え盛る夏、何もかもが色を失って収束に向かい、永い眠りにつく冬とも根本的に異なる――静謐で思慮深く、落ち着いたこの季節を。
 喉を通り過ぎて胃に達すれば、僕の頬が、身体が、最終的には心までもが丸みを帯びてくる。僕は広い空に何もかもを委ねた一粒の砂糖となってとろけ、透き通り、日常的な悩みは浄化され、世界の隅々に繋がる感覚が驚異的に湧き上がってくる。
 一口目は爽快さに始まり、波間に置き忘れた追憶、実りの豊穣に変化を遂げたのち、舌先に残る後味には儚さを漂わせる。

「ふぅ……」
 長い溜め息の後、僕は瞳を開いた。腕組みをして微笑みを隠せずにいる店主と目を合わせ、それから老婦人に向き直った。
 本当に良質だと思える出来事に立ち会った時、人はしばし言葉を失くす。いくら単語や言い回しを選んでも、それは電話口の向こうから流れてくる音楽に過ぎない。結局、つぎはぎだらけのデフォルマシオンされた低次元の感想しか伝えきれないから。
 そう言う時は、満ち足りた時間をもたらしてくれた相手と、貴重な機会に感謝するのが最も理に適ったやり方だと、僕は思う。
「ありがとう、マスター、奥さん。今日という日に旅に出て、この街に立ち寄って、この店に来て良かったですよ、本当に……」
「固くなりなさんな。手品も大概にしろと怒り出すお客さんもいるから、喜んでもらえて私らも安心したよ。とにかくまあ、この出会いに感謝ってとこかな。偶然か必然かは分からんけどさぁー」
「そうですね」
 僕は力強くうなずき、それから興奮を抑えるために〈秋〉を口に含んだ。グラスの中身はいつしか優しい黄色みを帯びている。
「たまにはいいこと言うのねぇ」
「何だい、馬鹿言え……」
 奥さんが感心して洩らした言葉に、口ひげの店主は大いに恥ずかしがって耳まで赤面し、蜘蛛の巣を激しく振り払うように右手を動かした。婦人は僕の顔を覗き見て肩をすくめ、困惑気味の表情を浮かべる。僕も久々に心の底から気持ちよく笑った。
 そして一段落した僕らは〈秋のミックスジュース〉を肴に、次のお客さんが来るまで、しばしの世間話を繰り広げたのだった。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 店を出る頃、グラスの底の方に溜まっていた残りは、色づいた楓のように赤く染まっていた。たぶん味も変わっているだろう。
 それを思い起こさせる夕晴れの空の下、僕は駅を目指し、軽い足取りで歩き始める。高校生の制服姿や買い物の主婦の姿が目につき、商店街は華やいでいた。影はしだいに長くなる。

 駅員の笛が鳴った。ドアが閉まり、電車が動きだす。暗くなる車窓の彼方に遠ざかる街並みを見ながら、僕は考えていた。
 この町にまた来るかも知れないし、もう来ないかも知れない。
 二度と会えないかも知れないし、また会えるかも知れない。
 全てを紅葉させるまぶしい夕陽を浴びて、ただ一つだけ分かるのは――僕はまた旅に出て、知らない何かと出会うことだ。

 別れはやがて想い出へと昇華してゆく。口の奥には、絞りたての〈秋〉が残した深い味わいが、まだ微かに息づいていた。

(了)



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