すずらん日誌

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 



【第四話・風をさがして】


「風の色?」
 姉妹は顔を見合わせた。
 
 ファルナとシルキアは仲良し姉妹である。姉のファルナはのんびり屋。妹のシルキアはしっかり者。彼女たちは〈すずらん亭〉を経営するセレニア家の娘で、この酒場は辺境のサミス村にある。
 今は五月。高原の村・サミスもようやく遅い春を迎えた。雪は過去のものとなり、草が伸びて鳥がさえずる。何もかもが解放される、歓喜の季節がやってきたのだ。そんな、ある夜のことだった。
 若い女が〈すずらん亭〉を訪れた。ウエイトレスとして店内を忙しく駆け回るファルナを呼び止め、彼女は言った。
「ファルナさん、ちょっと用があるんだけれど、今いいかしら?」
 ファルナはすぐに振り返り、息を弾ませてこう答えた。
「あっ、オーヴェルさん、今日はどうしたのだっ?」
 オーヴェルと呼ばれたその女の胸には、賢者の証(あかし)である銀色のブローチが静かに、だがしっかりと輝いていた。
 彼女は言う。
「春が来たから、そろそろ森の別荘に移ろうと思って。ワインを何本か注文したいんだけれど……」
「ありがとう、ですよん!」
「うん。それで、ファルナさんに一つ相談があるの。もしよければ、そのワインを別荘まで運んでくれませんか? 私は自分の荷物があって辛(つら)いから。引っ越しは明後日(あさって)の予定なんですけれど……どうかしら?」
 ファルナは額の汗を拭(ぬぐ)い、少し考える。
「えーっと……。明後日は、ちょうどお店の定休日なのだっ。大丈夫、了解ですよん!」
「本当?」
「でも、今は忙しくて打ち合わせが出来ないから、明日の午前中にもう一度来て欲しいのだっ。詳しい話がしたいですよん」
「ありがとう。……スープを一杯」
「はい、只今お持ちします。……シルキア! スープをいっぱい持ってきて!」
「スープをいっぱい?」
 奥の厨房で、シルキアが怪訝(けげん)そうに答えた。
「ファルナさん、一杯でいいですよ」
 とオーヴェルが訂正した時には、すでにファルナは他のテーブルに呼ばれて、注文取りをしていた。オーヴェルは、一生懸命に働く彼女の後ろ姿を見て、優しく微笑んだ。
 
 翌日の午前中、ファルナとシルキアが店の掃除をしている時間に、約束通りオーヴェルがやってきた。……トントン。ノックをして木製のドアを開け、隙間(すきま)から顔を出す。
「おはよう」
「待ってたのだっ! こちらへどうぞ、ですよん」
 ファルナはオーヴェルを近くのテーブルに案内し、自分はその反対側にちょいと腰を下ろした。
「さっそくですけど、ワインのご注文は何本にするのだっ?」
「五本にします。銘柄は〈北の故郷(ふるさと)〉がいいな。それを森の家まで一緒に運んで欲しいんです」
「もう行っちゃうんだ」
 と、シルキアが駆け寄ってきた。オーヴェルはこくりとうなずく。
「ええ。雪が解けたから、また森の一軒家で魔法の研究を始めようと思っているの。夏になれば貴族が避暑に来て、村は騒がしくなりますからね。向こうの方が落ち着くの。……それでも、寂しくなったら時々はこのサミス村に戻ってくるつもりです」
「〈すずらん亭〉ではいつでも一人分、ちゃんと席を空けて待ってるのだっ!」
 ファルナのその言葉を聞くと、オーヴェルは目を輝かせた。
「ありがとう。村に戻ってきたら、真っ先にここに寄ります。……ファルナさんもシルキアちゃんもお掃除で大変そうだから、今日はそろそろおいとましますね。明日の朝、出発前にまた来ます。せっかくの定休日で悪いけど、よろしくね」
「もちろんですよん。だって、当分会えなくなっちゃうから……」
 ファルナの顔が曇った。オーヴェルはうなずく。
「そうだよね……。うん。明日、私の研究室を見せてあげるから、ゆっくりしていってね」
「はい、なのだっ!」
 オーヴェルが店から出ようとした、その時。二人の話を少し離れたところで聞いていたシルキアが、突然叫んだ。
「オーヴェルさん、あたしも連れてって!」
 オーヴェルは、一瞬間をおいて、こう答える。
「私は構わないけど……お母さんに、行っていいかどうか訊(き)いてみた方がいいわね」
 そして、入口のドアがゆっくりと閉まった。
 
 明くる朝。ファルナとシルキアが、ワイン瓶(びん)を詰め込んだ大きな革袋を点検していると、それよりもさらに一回り大きい荷物を背負った、オーヴェルが現れた。
 シルキアは顔をほころばせ、報告する。
「オーヴェルさん! あたし、お母さんの許可を取ってきたよ! オーヴェルさんと一緒なら、構わないって」
 姉妹の母が現れ、
「すみません。娘たちをよろしくお願いします」
 と言って軽くお辞儀をした。
「とんでもありません。わがまま言って、ワインを運んでもらうように頼んだのは私の方ですから……。シルキアちゃん、よかったわね」
「うん!」
 うなずくと、シルキアの茶色い髪の毛が、上下に大きく揺れた。
「じゃあ、そろそろ行きましょう」
 こうして、オーヴェルとファルナ・シルキアの姉妹は〈すずらん亭〉をあとにした。
「行って来まーす!」
 
 山沿いをひた走る河は、最後の雪解け水をたたえて、いつもより速さを増していた。針葉樹林は緑色を濃くしているが、落葉樹はようやく葉をつけてきた頃である。かすかな風が気持ちいい。
 小一時間ほど歩き、三人はオーヴェルの研究所に到着した。丸太作りのこの家は、質素で落ち着きがある。近くには小川が流れており、飲み水には困らない。
「重かったでしょう。どうもありがとう。上がって」
 オーヴェルは荷物を下ろし、手招きした。小さな家の中に入ると、ファルナは茶色の瞳を大きく見開いた。
「本、本……。本だらけなのだっ……」
 至る所に、魔法の書物や神話の本が積まれていた。部屋は、それらの独特な匂いで満ちていた。机の上にも、巨大な本の山が出来上がっている。
 あまり字の読めないファルナは、これだけの本に囲まれた経験はなく、何とも言えない、とても不思議な気分に襲われた。本が、自分を見下ろしている……。
「部屋の中、整理してなくて、ごめんなさいね」
 オーヴェルは頬を赤らめ、ちょっと照れた。
「これは何ですか?」
 シルキアは、床に置かれた奇妙な花に興味を抱(いだ)いたようである。フォークの先っぽが銀色の茎(くき)となって伸び、同じく銀色の、かわいらしい花が咲いている。
 オーヴェルはゆっくりとした動作で窓を開けた。風が、本に積もった埃(ほこり)たちを舞い上がらせる。
 彼女は静かに語り始めた。
「私は夏の間、ここで魔法の研究をしているの。魔術とか聖術、妖術といった枠(わく)にとらわれず、大きな視点で魔法一般について考えているのよ」
「うん」
 姉妹は、流れ込む陽の光に目を細めながら、賢者の講義に耳を傾けていた。オーヴェルは続ける。
「もともとは神が妖精族に与えた魔法の力。どうして人間がそれを使うようになったのか。古代文明の発展と崩壊、魔法の進歩、反省……。今は、人間の存在意義や環境との関わり合いについて、〈魔法〉を軸に研究しているのよ」
「何だかよく分からないけど……すごいですよん。さすが賢者様なのだっ!」
 ファルナは心から感嘆した様子。自分とは違う世界があることを思い知らされ、心の中は期待と好奇心とで満ちあふれていた。
「具体的にはどういった研究なんですか?」
 シルキアも興味津々(しんしん)である。窓の外、遠くの野山を見つめながら、オーヴェルは穏やかに答えた。
「例えば、この窓から入ってくる微風(そよかぜ)。風にはそれぞれ色がついているんだけれど、見たことある?」
「風の色?」
 姉妹は顔を見合わせた。
「だって、風というものは透明ですよん」
 ファルナは当惑していた。その様子を見て、オーヴェルは微笑(ほほえ)む。
「あなたたちは今、私のことを、変だなあ、と思ったでしょう。風の色なんて、あるはずない、と。でも、確実に、風には色があるのです」
「……」
 オーヴェルは語調を強める。
「見えないからといって、ないと判断するのは誤りよ。見えないけれど、あるんです。私たちに見えないだけで、このルデリア大陸じゅうを探せば、風の色を見ることが出来る種族がいるかも知れませんよ」
「そうですけど……」
 シルキアはそれきり口ごもってしまった。オーヴェルは姉妹の方を振り向き、今度は優しく言う。
「つまり、魔法もそういうものなんですよ。魔法の原料である魔源(まげん)物質は、目には見えないけれど、確実に存在するもの。そこから無限の力が生み出されているの。素敵だと思わない?」
「そうかぁ……」
 姉妹は目を輝かせた。オーヴェルの言いたいことが、なんとなく伝わった……ような気がした。しばらくの沈黙。辺りには鳥のさえずりが心地よく響いている。
 突然、オーヴェルは両手をいっぱいに広げ、深呼吸をした。
「すぅーっ……はぁーっ。こうやって森の自然に囲まれて生活すると、いつか私にも、風の色が見えるような気がするの。その時にはきっと、魔法のしくみや、私はどうして今ここにいるのか、といった大事な問題が解決すると思うんです」
「……」
「風の色を見る。光の歌を聞く。雲を味わう。虹の香り。霧の手触り。そして、森のいのち。これらはすべて、とても大事なものです」
 姉妹は、背中に鳥肌が立つのを感じた。
「オーヴェルさん……本当にすごいよ」
 シルキアは立ち上がり、目の前の賢者と握手をした。
「いい話をありがとうですよん!」
 と言ったファルナは、オーヴェルと当分会えないと思うと、急に寂しさでいっぱいになった。それに気付いたオーヴェル。
「時間があったら、この家に遊びに来るといいわ。私も一人で寂しいから。こんな話でよければ、いつでも聞かせてあげます」
「はい!」
「今日は本当にありがとう。……さあ、明るいうちにお帰りなさい。気をつけてね」
「ありがとう。また来ます!」
 姉妹は、オーヴェルの研究所をあとにした。そして、心から、こう思った。
(いつの日か、風が見えるといいな)
 
 五月も下旬となったある晩のこと。〈すずらん亭〉は今夜も活気づいている。陽気な村人たちはグラスを片手に、メラロール王国の国歌を歌い始めた。それはいつの間にか大合唱になる。

 長い冬が明け 新しい春が来て
 小鳥たちの歌が響く 森に空に街に
 人は喜び合い 街が動き始める
 偉大な王 優しい王妃 暖かい人々
 ああメラロール 北の大地 平和な国
 ああメラロール いつまでも永遠に
 
 その脇で元気に働いているファルナとシルキアの仲良し姉妹。……夏はそう遠くない。

(了)



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