すずらん日誌

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 



【第三話・おつかいと恩人】


 なごり雪が去って、サミス村に降り注ぐ陽の光は日増しに強くなってきた。雪の間から現れる、春の芽吹き。森には鳥たちの美しい鳴き声が響く。花月(四月)の中頃、動物はそろそろ冬眠を終えようとしていた。それは人々も同じだ。
「あったかいな……眠くなっちゃう」
 床掃除をしていたシルキアはやさしい光に目を細める。
「ん? ちょっと、お姉ちゃん?」
 姉のファルナは椅子に腰掛け、早くも船を漕いでいる。
「お姉ちゃん! 『手伝って』って言ったのはお姉ちゃんでしょ! 起きて!」
「ふにゃ」
「起きた?」
「もう朝ですよん?」
「お姉ちゃんの寝ぼ助っ!」
 シルキアは笑った。だが次の瞬間、ファルナは何事もなかったかのように目を閉じると、再び夢の中へ……。
 
 姉妹の家は〈すずらん亭〉という酒場を経営している。夜になると二人はウエイトレスとして働く。閉店間際、父親が言った。
「ファルナ、シルキア。お願いがある。明日、例の水を汲んできてくれないか」
「うん、わかった」
「わかりましたですよん」
 姉妹は二つ返事で了承した。ほくほく顔で自分たちの部屋に戻る。
「お姉ちゃん、やったねっ!」
「久しぶりに村の外で遊べるですよん」
「店の掃除もしなくてすむし」
「明日が楽しみなのだっ」
 二人の嬉しそうな声を聞いて、両親も一安心。
「たまには子供たちを休ませてあげないと」
 母の言葉に、父は黙ったまま軽くうなずく。
 
 翌朝、姉妹は革袋を背負い水袋を手にし、山へ入った。まだ根雪が残っている。ファルナは言った。
「滑らないように気をつけるのだっ」
「うん。溶けだしたところはぬかるんでるね。どっちにしても歩きにくいな」
「草や樹の回りは溶けるのが早いですよん」
「水分補給かな? みんな生きている証拠だよね」
 シルキアは言い終わると急に足を止めた。
「……お姉ちゃん、何の音だろう?」
 ごうごうという音がかすかに響く。
「あっちの方から聞こえるのだっ」
「急ごう!」
 シルキアは駆け出した。
「待って!」
 ファルナも後を追う。だが、軽やかに山道を下って行く妹との距離は広がる一方。慌てたファルナはぬかるみに足を取られ、派手に転んでしまう。
「きゃっ!」
 服が泥だらけになる。それでも走った。音は次第に大きくなる。曲がり角の向こうにシルキアが立っていた。
「お姉ちゃん、遅いよ」
「やっと追いついたのだっ」
「お姉ちゃん。音の正体はこれだよ」
「……」
 ものすごい濁流。雪解け水を集めて、川はより太く、より速く流れていた。
「どうする? 川の向こうに例の場所があるのに」
「困ったですよん」
 何かいい知恵は? ……二人はしばらく考える。
「思いつかないね。とりあえず一休みしてから、どうするか決めようよ」
「ファルナもそう思ったところなのだっ」
 さすが血のつながった姉妹。妙に意気投合し、川辺の岩に腰掛けた。
「ところでお姉ちゃん、その服どうしたの? 汚れてるよ」
「さっき転んだんですよん」
「気をつけてって言ったのはお姉ちゃんなのにね〜」
「だって、シルキアが走るんだもん」
 ファルナはむくれた。立ち上がり、違う岩によりかかろうとした、その時。
「えっ?」
 ふにゃり。変な質感。
「何これ?」
 ファルナはそれを手で触ってみる。岩だと思ったのだが、ぶにょぶにょして柔らかい。
「どうしたの?」
 シルキアが駆け寄り、好奇心あふれる目を輝かせた。
「あ、それ、ドロネイルだよ!」
「ドロネイル?」
「そう。スライムの一種だけど、とってもいい子なんだ」
「ふうん」
 ドロネイルは茶色っぽく、見栄えは良くない。気持ち悪いと言うほどでもないが、少なくとも好感は持てないファルナだった。反対に妹は興味津々、顔がほころんでいる。
「やだ!」
 突然、ファルナが叫んだ。ドロネイルがゆっくりと動き出したからだ。何かを形作っていく。
「ドロネイルは春先、泥を食べて大きくなるんだよ」
 シルキアは得意そうに言った。その間もドロネイルは変化を続ける。どうやら人間のようだ。胴体から手足が飛び出し、上には丸い頭が乗っている。目も鼻も口もない、まん丸の頭。茶色の影法師が立体化したみたいだ。
 ドロネイルは腕を伸ばし、握手を求める。
「よろしくね、ドロちゃん」
 シルキアは彼の手を握る。ファルナは心配そう。
「大丈夫ですよん?」
「平気平気。他のスライム属と違って、ドロちゃんには害がないんだよ」
「でも、泥だらけになりそうなのだっ」
 ファルナはさっきの事もあり、今日は泥に対して敏感になっている。
「大丈夫だってば。ほら」
 シルキアは手の平を広げた。
「本当だ」
 ちっとも汚れてなんかいない。ドロネイルはファルナの前にも右手をさし出した。
「よ、よろしくですよん……」
 柔らかいドロネイルと握手するファルナの表情は複雑だ。
「ウゥー」
 突然のうなり声。背後からだ。姉妹は振り返り、そして硬直する。
「ウゥー……ウウ」
 大きな熊が唸っている。冬眠明けでお腹がすいているのであろう、姉妹を見おろすと一歩一歩、確実に寄ってきた。鋭い、獲物を狙う目つきだ。
「やだ……」
「助けてですよん!」
 思いに反して、身体は極度の緊張のせいで動けない。熊はそばに来て、飛びかかるタイミングを伺っている。
 ファルナは震える手で、背中の革袋からナイフを取り出そうとした。もはや絶望的な抵抗を試みるしかない。
 熊が動いた。姉妹はとっさに目をつぶる。 (もう駄目だ!)
 次の瞬間、大きな音がした。二人はこわごわ目を開ける。倒れたのは熊の方だった。
「……ドロちゃん!」
 姉妹は同時に叫ぶ。ドロネイルが熊の目に飛びつき、視界を奪っていた。しだいに薄く広がり、鼻や耳の中に入り込む。
「ウーウガァ!」
 熊は暴れた。その間に姉妹は逃げ出す。
「ドロちゃん、がんばってーっ!」
 ドロネイルが熊から離れた。熊はよろよろ立ち上がると、森の中へ帰っていった。
「やったあ!」
 シルキアは大喜び。
「ドロちゃん、ありがとうですよん!」
 ファルナも大感動、ドロネイルを見直した。
 
 三人は河原で遊ぶ。まずは追いかけっこ、そして石投げ。
「行くですよん、えいっ」
「やった! お姉ちゃん、おみごと」
 ファルナの投げた小石は、向こう岸の樹に命中。シルキアはパチパチと、ドロネイルはペタンペタンと拍手をした。その時、シルキアのお腹が鳴る。彼女は赤面した。
「お姉ちゃん、そろそろお昼にしない?」
「賛成なのだっ!」
 二人はお弁当を広げた。時折、山から吹き下ろす風は冷たいが、陽の光はおだやか。本格的な春はすぐそこまで来ている。
「もぐもぐ……ん? どこ行くの、ドロちゃん?」
 ドロネイルが立ち上がったのを見て、シルキアは首をかしげた。彼はふらふら森の方へ歩いていくと、しばらくして帰ってきた。
「ドロちゃんもお昼だったんだ」
 ファルナは微笑む。ドロネイルは新しい泥を食べ、さっきよりも大きくなっていた。ファルナを超える背の高さだ。
 姉妹はお弁当をしまう。そして、急に深いため息をつく。
「お姉ちゃん、これからどうしよっか?」
「困ったですよん」
「川の向こう岸に、あの場所があるのに。流れが速すぎて……」
「お店に注文が殺到している人気商品だから、なんとかして方法を考えるのだっ」
 二人がウンウン唸っていると、シルキアの肩をドロネイルが叩いた。
「どうしたの?」
 振り向くと、彼は自分を指さして胸を張っている。
「助けてくれるの?」
 ファルナはすがりつくような目で、彼を見上げた。すると、人型のドロネイルはだんだんと崩れ、変形していく。
「あっ!」
 今やドロネイルは、ちょっと不格好な小舟になりつつある。完成した舟を、姉妹は川に浮かべた。相変わらず大音響で流れている川だが、ドロネイルは流れず、なんとかその場にとどまっている。
「お姉ちゃん!」
「うん!」
 狭苦しい舟に乗り込んだ姉妹。重みで一瞬、沈みそうになったが、ドロネイルはなんとか持ち直し、向こう岸をめざしてゆっくりと動き始める。冷たい水が激しくぶつかっては転覆させんとする。
「あと少しだよ。いち、にぃ、さん……もうちょっと!」
 姉妹の応援にも力が入る。真剣そのものだ。
「……やったぁ!」
 舟から飛び降りる二人。
「うんしょ、うんしょ」
 ドロネイルを陸に下ろし、一件落着。自然と安堵の表情が浮かぶ。
「ドロちゃん……また助けてもらったのだっ」
「本当にありがとう!」
 ファルナもシルキアもしばらくはお礼を言い続けだった。ドロネイルは身体をぶにょぶにょと震わせ、喜びを表現した。
 
「さあ、着いたですよん」
 ファルナが言った。独特の硫黄の薫りがただようこの場所は、森の温泉。
「この温泉水を飲むと、風邪に効くんだよね〜。村人から注文が殺到して」
 そう言うとシルキアは水袋を取り出し、温泉水で満たした。ファルナも妹と同じ動作を繰り返す。
「あったかい……」
 ファルナは自分の顔が泥だらけだったことを思い出し、温泉で洗った。
「ふ〜ぅ。とっても気持ちいいですよん!」
「ドロちゃんも洗う?」
 シルキアが訊ねると、ドロネイルは嫌がって逃げ出した。
「へーえ。ドロちゃん、お風呂嫌いなんだ」
「せっかくだから、ファルナたちはあったまっていこうですよん」
「そだね」
 姉妹は温泉につかり、しばしの休息を楽しむ。熱めのお湯が身体の芯まで温めてくれる。疲労を忘れることが出来る、最高の瞬間だ。
 
「そろそろ陽が傾いてきたのだっ」
 姉妹はあがる。風は相変わらず冷たい。
「帰ろうか」
 ドロネイルを引き連れ、もと来た道をたどる。さっきの川を渡り終えた時には、夕陽があかあかと燃えていた。茶色っぽいドロネイルが、赤茶色に見える。
「今日は色々とありがとうなのだっ!」
 ファルナは、再び人型に変形したドロネイルの右手を握った。
「ドロちゃん、元気でね!」
 姉妹は森の小道に入った。振り返るとドロネイルは遊び疲れ、岩になりすまして眠っていた。こうしていつまでも、子供たちが遊びに来るのを待っているのだろう。
 
 ファルナとシルキアは無事に帰り着く。温泉水も手に入れ、すべては上手くいった……はずだった。
 が、姉妹はひとつ大きな失敗をやらかす。湯冷めをし、自分たちが風邪をひいてしまった。〈すずらん亭〉で売り出す前に、温泉水はほとんどなくなってしまったのである。
「ハ、ハ、ハックション! ですよん……」

(了)



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