海モグラ

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 


 マホジール帝国の南部、エメラリア海岸沿いにミラス町がある。温暖な気候に恵まれ、商業・文化が発展している。高級な観光地として有名で、各地の貴族が保養のために訪れる。
 クリオス家の屋敷も、そんな貴族向けの別荘として貸し出されていた。莫大な収益が入り、それによって調度品・美術品を充実する。さらに評価が高まる。経営は至って順調だった。
 かと言って、近所から妬(ねた)まれているわけでもない。この町には金持ちが集まる一角があり、クリオス家のような別荘や高級な酒場、学院、劇場といったものが余裕を持って建ち並んでいる。ほとんどが、保養の貴族向け施設である。
 クリオス家の娘、レイヴァはこのような恵まれた環境で育った。両親、兄、祖父、お手伝いの下女と一緒に生活している。
 
 常連の貴族が休暇を終え、屋敷を去った。次のお客が来るまでには数日ある。レイヴァたちは家族総出で部屋の整理整頓や模様替えに追われていた。
 その日も、朝食をすませると父親の指示があった。
「シャンとレイヴァ。君たちには書斎を整理してもらうよ」
「はい」
 レイヴァの兄、シャンが返事をした。レイヴァもうなずく。
「わかりました、お父さん」
 
 書斎の本は年々増え続けている。この屋敷を利用した貴族が、自分たちの持ってきた本を寄贈してくれるのだ。今では相当な量に膨れ上がっている。定期的に整理をしなければならない。
「今回もたくさん寄贈してくれたんだね、アトゥリ家の方」
 レイヴァがのんびりと言った。お客の貴族に対しては敬語を使うが、家族や友達に対してはくだけた言葉遣い。ちゃんと使い分けが出来るのだ。
 シャンが答える。
「そうだね。これを種類別に分け、棚に整理するのが僕たちの仕事だよ」
「お兄ちゃん、重たい本はお願いね」
「うん。うまく分担してやれば、早く終わるはずだぞ」
「そうだね」
 暖かい陽(ひ)の光が差し込んでいる。南向きの書斎には、本棚だけでなく大きな椅子と高級な机が置いてある。当然、お客の貴族用だ。
 兄妹(きょうだい)は額に汗を浮かべ、本を抱えて行ったり来たり。レイヴァは美しい金髪をしとやかに掻き上げた。彼女が動くたびにロングスカートがゆれる。
 時間が経ち、山積みだった本も目に見えて減った。部屋の中は蒸し暑い。シャンは窓をあけた。爽やかな微風(そよかぜ)が入り込んでくる。
 
 その本は水色の表紙だったが、レイヴァは別段気に留めなかった。しかし、本棚に載せようとした時、挟まっていた一枚のカードがひらひらと落ちた。
「何だろう?」
 しゃがんで、それを手に取る。長方形の厚紙の両面に、古代語が書かれている。
「細かい字だなぁ」
 レイヴァは知的好奇心で目を輝かせ、書棚から辞書を持ち出した。
「えーっと……」
「レイヴァ、どうしたんだい?」
 シャンがやって来た。
「お兄ちゃん、この文、わかる?」
「何だこれ?」
「ちょっと気になったから、調べてるの」
「そうだったのか。僕も手伝うよ」
「お願い」
 シャンは二歳年上で、レイヴァよりも古代語に詳しい。
「これは形容詞で、この語に係るんだ」
 二人でやれば早い。意味が次第に明らかになる。陽が高く登り、正午近く。
「お坊ちゃん、お嬢様、お昼にいたしましょう」
 お手伝いの下女が呼びに来る頃には、おおよその内容が明らかになった。
 
【海モグラの素】
 この紙を海水に浮かべて下さい。海モグラが生まれます。効果が持続するのは日没までです。どうぞ、お楽しみ下さい。
 
「ごちそうさまでした」
 クリオス家の面々は広い居間で食事を摂(と)る。お客の貴族がいれば賑やかだが、今日は空席が目立つ。
「お父さん、これから出かけてもいい?」
 食後、レイヴァが言った。
「どこに行くんだ? 遅くなるのか?」
「海岸に行こうと思って。お夕飯までには帰ってくる」
「僕も一緒に行くから、心配しないで」
 シャンが口を挟んだ。父は訊ねる。
「本棚の整理は終わったのかい?」
「まだだけど、続きは明日やる」
「……急ぐ作業ではあるまい。子供たちに遊ばせてやりなさい」
 そばで聞いていた祖父が、静かにつぶやく。
「わかった。気をつけて出かけるんだよ」
 父親が言った。
「シャン。レイヴァを頼むわね」
 母親は優しく微笑んだ。
 
 レンガ造りの大通りを、二人は海岸めざして歩く。長い下り坂が続き、その向こうには白い砂浜と青い海が広がっている。
 潮風はすがすがしく流れている。
「お兄ちゃん。とっても気持ちがいいね!」
「うん、そうだね」
 限りなく平和な風景である。
「あ、ルーユちゃんだ。おーい!」
 シャンが手を振った。向こうから歩いてくるのは、ミラス町の領主・エスティア伯爵の一人娘であるルーユ。
「あっ、こんにちは!」
 ルーユも手を振り返す。白い帽子が良く似合っている。彼女は訊ねた。
「二人でどこ行くの?」
「ちょっと海岸まで。あ、そうだ、ルーユちゃんも一緒にどう?」
 シャンは海モグラについて説明した。ルーユは顔を曇らせる。
「ごめんね。今日、これからお勉強なの」
「そっかあ。じゃあ、また今度ね」
 レイヴァとルーユは同じ十三歳。家が近いこともあり、大の仲良しだ。
「うん。じゃあね」
 ルーユと別れ、二人は再び海を目指す。
 
 寄せては返す、波。静かな渚。砂はだいぶ熱くなっていたが、二人は靴を履いているので問題ない。
 海岸で貴族を見かけた。いつもよりは少ないようだ。シャンは誰もいない方を指さした。
「向こうに行ってみようか」
「うん」
 観光や保養中の貴族を邪魔するわけにはいかない。この地区に住んでいる人は、小さい頃からそう教え込まれている。
 レイヴァが言う。
「お兄ちゃん、この辺りにしようよ」
「そうだな」
 シャンはポケットから例のカードを取り出した。
「じゃあ、水の上に置くよ」
「うん」
 丁寧にカードを浮かべる。二人は息をのみ、様子をうかがう。すると、水色の煙がもくもくと吹き出した。
「エヘン……ゴホゴホゴホ」
 レイヴァは咳き込んだ。シャンは妹の手を引っ張り、数歩後ずさり。
「もう大丈夫かな?」
 煙がおさまったころ、そこにはカードの代わりに巨大なモグラが浮かんでいた。
「やった、やったぞ!」
「大成功だね、お兄ちゃん!」
 ひょうきんな顔をしている、海モグラ。色は茶色で、とにかく巨大である。
「乗ってみようか?」
 レイヴァが言った。シャンもうなずく。
 
 二人がまたがると、海モグラは「キィ」と高く鳴いた。
「かわいーい!」
 レイヴァは大喜び。二人が乗っても、背中にはまだ余裕がある。
「動き出すようだね」
 シャンも嬉しそうだ。ついに、海モグラは海面をゆっくりと歩き始める。次第にスピードを増す。海面を滑るように進んでいく。
「すごいなあ」
「あっ!」
 前側に乗っているシャンが叫んだ。目の前に大きな波が迫る。
「ぶつかる!」
 すると、海モグラは波の山を全速力で駆けあがった。
「きゃあ」
 水しぶきをあげ、海モグラは無事に登り切る。一瞬、空が下に見える。今度は下り坂だ。
 早まる鼓動。肌にぶつかる風の帯。海鳥の鳴き声。レイヴァは叫んだ。
「こんなスピード感、初めて!」
「また来てるぞ! どうする?」
 さらに大きな波が近づく。
「頑張ってー!」
 海モグラはまん丸の瞳を輝かせ、大波の中に突進する。思わず目をつぶる二人。
「……あれ? 息ができる」
 恐る恐る、目をあける。
「あーっ!」
 そこは天然の水族館。赤い魚、黄色い群れ、緑の珊瑚礁……。大きいのも、小さいのもいる。
 海モグラは、その間もせっせと水の中に穴を掘っていた。人が歩く程度の速さだ。普通のモグラは土に穴を掘るが、海モグラはその名の通り、海中に空気穴をあけることができるのだ。
「レイヴァ、あれを見てごらん」
「すごい。アカミアだ!」
 調理されたものしか見たことがなかった白身魚のアカミアが、きらめく鱗(うろこ)を誇らしげに、揺れながら泳いでいる。それは二人にとって新鮮な驚きだった。
 レイヴァは左右を見渡す。
「海って、上から見ると青いのに、本当はこんなに透明なんだね!」
「まるで水晶だ……」
 シャンはあまりの美しさにため息をついた。そうこうするうちに海底にたどり着く。海モグラは、今度は横穴を掘り始める。海底散歩だ。シャンが言う。
「お日様がゆらゆらしているね」
「うん。下から見る海も最高!」
「この辺で少し休憩したいな」
「そうだね」
 すると海モグラはそれを察知したのか、渦巻き状にぐるぐると回りだした。水の中にちょっとした広場が出来ていく。
「モグちゃん、賢いねー」
 レイヴァが頭を撫でてやると、海モグラはまた「キィ」と鳴いた。
 
 兄妹は海底に寝転がる。
「お兄ちゃん。こうして、ただお魚の動きを眺めてるだけでも飽きないね……」
「海の中にはこんな綺麗な世界があったんだ。知らなかったよ。学院ではぜんぜん教えてくれなかった」
「モグちゃんのおかげだね」
 張本人の海モグラは、時折水の中に前足を突っ込んでは、通りがかる小魚をつまんでいた。
「ここにいると、時間が経つのを忘れちゃうなぁ」
 そう言ったレイヴァの額に、ぽつりとひとしずく。
「……いけない! モグちゃんの期限は日没までだった!」
「そういえば、説明書に書いてあったね」
「とにかく急ごう!」
 二人は海モグラに飛び乗る。
「お願い!」
 海モグラは自分の掘った穴を登り始める。水面に出るまでは長い長い上り坂。二人を乗せていることもあり、そんなに早く走れない。
「頑張れ!」
 空気穴は頑丈で、決して水もれしなかったのに、今やあちこちにひびが入り、そこから海水が吹き出している。このままでは落盤する危険がある。
「日の入りが近い……」
 見上げると、海面が赤く染まっていた。二人は焦る。が、海モグラは相変わらず苦戦している。
「あとちょっとだよ!」
 レイヴァが思わず悲鳴をあげた。
 海モグラは力を振り絞り、全速力でなんとか穴から抜け出る。
「すごいぞ!」
「よくやったね、モグちゃん!」
 レイヴァはまた、海モグラの頭を撫でてやった。シャンは言う。
「さあ、もう一息。出発した砂浜まで運んでおくれ」
 海モグラは快調に走り出した。太陽はすでに半分くらい沈んでいる。
「夕陽がきれいね」
 レイヴァがつぶやく。空も海も、美しい赤に染まっている。
 浜辺に着く頃には、太陽はほとんど沈んでいた。
「モグちゃん、今日は本当にありがとう。貴重な体験をすることができたよ」
 シャンがお礼を言った。
「あなたのこと、絶対に忘れない!」
 レイヴァは今にも泣き出しそうだった。海モグラは相変わらず、まん丸い目を輝かせているだけ。
 海から出ている太陽が、先っぽだけになる。次の瞬間、まるで湯を浴びた雪のように、海モグラはジュッと消えてしまった。
「モグちゃん!」
 レイヴァは涙声だったが、それに応(こた)えるものは、もういない。
 
 夕食が終わって部屋に帰る途中、廊下で声をかけられた。
「レイヴァ」
「あ、おじいちゃん」
「今日はいい顔をしているのう。何か楽しいことがあったのかい?」
「うん!」
「それはよかった。子供のうちに、思いっきり遊んでおく事じゃ。いろんな経験をしておくといい。何よりの宝物じゃよ。……例えば、海の中を散歩するとか、な」
「えっ? どうしてわかるの?」
「ほっほほ。あとはぐっすり眠るだけじゃな」
 祖父が笑った。首をかしげ、レイヴァは指さす。
「ん? おじいちゃん、それなあに?」
「これか? ああ、大したものではないわい」
 祖父は水色の本を後ろ手に隠した。それは気のせいか、海モグラのカードが挟まっていた、あの本に似ていた。

(了)



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