(一)
これは、ルデリア大陸の南に浮かぶ小さな島の大きな都市――ミザリア市を舞台とした物語である。
とある休日、二人の女の子が通りを歩いていた。片方は背が低く、もう片方は普通くらい。二人とも額に汗の珠を浮かべていた。
世間一般に〈秋〉と呼ばれる季節だが、この南国ではまだまだ太陽が頑張っている。日差しは思いのほか強かった。
「この辺で終わりみたいね」
黄金色の髪を揺らし、背の低い方の少女がつぶやいた。彼女の名前はウピ。今は雑貨店勤めだが、ゆくゆくは独立して商人になるだろうと期待されている、いつでも元気印の頑張り屋さんである。
彼女は額の汗を拭い、そして言った。
「一旦、戻ろうか?」
「そうですね」
と、丁寧に応じたのはレイナ。眼鏡の奥にひそむ澄んだ両眼は知的好奇心で満ちあふれ、いつも落ち着いていて滅多なことでは取り乱さない。頭脳明晰な彼女は、十七歳の若さにも関わらず、抜擢されて国の研究機関に勤めている。
ウピとレイナ。性格の系統は全く違うように思われるが、実は学院時代からの大の仲良しである。性格は多少違うくらいの方が友人関係は案外上手くいくものだ。
「この地区、大したことなかったわね。相変わらず」
というウピの愚痴に同意するレイナ。
「ええ」
「ルヴィルだったら、いいお店を知ってるかも知れないのに……」
「残念です」
ルヴィルというのは二人の共通の友人である。学院時代、ウピ・レイナ・ルヴィルはいつも一緒だった。就職してからも暇を見つけてはこうして買い物に出かけている。今日は三人そろうはずだったが、急用のためルヴィルは来られなくなってしまったのだ。
「やっぱり全員いないと物足りないな」
ウピがため息をついた。こうなると雲一つない天候までが恨めしく思えてくる。
「引き返しましょう」
言いながら、レイナはくるりと回った。そうして再び華やかな地区に向かって歩き始めた二人。
海の方から流れてくる微風は潮の香りを含んでいる。煉瓦で舗装された通りには、暑い中でも元気な子供たちが数人はしゃいでいるだけだった。彼らの妙に甲高い笑い声がウピとレイナを疲れさせた。
そんな平穏な昼下がりに、あるいは平穏すぎるからこそ、事件は起こった。
「お前たち、ちょっと来なさい!」
日陰になっている狭い路地から、突然、若い女の子の声がした。
「え?」
ウピとレイナは顔を見合わせた。とりあえず足を止め、その人物に訊ねる。
「あたしたちのこと?」
「他に誰もいないじゃないの。早く来なさい!」
声の主は早口でまくし立てた。語尾になるに従って声の調子を強める。察するに、相当いらついている様子だ。
ウピは顔をしかめ、眉間にしわを寄せて反論した。
「なんで知らない奴に命令されなきゃいけないのよ」
そしてレイナの腕を引っ張る。
「レイナ、行きましょ」
「ちょっと待って下さい」
レイナは路地をのぞき込んでいたが、しばらくして、
「ララシャ王女、ですか?」
と、自信なさげに訊ねた。レイナは古い記憶をたぐり寄せる時の、独特の遠い目つきをしていた。
「なんで知ってるのよ? とにかく早く来なさい! 不敬罪で捕まえるわよ!」
路地の声が叫んだ。家と家に挟まれた狭い路地は見ただけでも息苦しそうだ。少なくとも人間のための道とは思えない。野良猫用に作られたのではなかろうか。
「すみません」
ぺこりと頭を下げると、レイナは躊躇せず、問題の路地へ入っていった。
「……ララシャ王女? 不敬罪?」
暑さで機能が低下していたウピの脳味噌が事態をきちんと把握するまでには、それから数秒を要した。
鼻をつく焦げ臭さが漂った。どこかで誰かが魚を焼き始めたようだ。
美しく長い金髪に輝く銀の髪飾り。薄い水色のドレス。ダイヤモンドの指輪。そして強情そうな瞳……まさしく噂に聞くララシャ王女その人だった。
「本物の王女様なんですか? こんなところで何をしてるんです?」
ウピはダイヤモンドの輝きを確認すると、すぐ敬語を使うようになった。本物にせよ偽物にせよ、少女が相当の金持ちであることに変わりはないからだ。
尊敬のまなざしを受けたララシャは鼻で軽く笑い飛ばした。
「ふん。あんな狭苦しいお城にいるの嫌なのよ、不自由でたまんないわ。時々こうして息抜きをしないと、おかしくなっちゃう」
「狭苦しいお城……」
ウピとレイナは顔を見合わせて一瞬、絶句した。その刹那、二人は目の前の娘が本物の王女であると信用した。
二人は未だかつて王宮ほど大きな建物を他に見たことがない。その王宮を、いとも簡単に〈狭苦しい〉と表現するのは常人の感覚を逸脱している。そう思うと、大威張りで命令口調を繰り返していた幼さの残る少女が、格式の高い貴婦人に見えてくるから不思議だ。
次にウピは、あえて言わなかったものの、王宮よりもこの細い路地の方がよっぽど狭苦しいと素朴に思った。が、そもそも王家というのは一般庶民と感覚がずれている、としつこく親から聞かされていたことを思い出し、勝手に納得する。
さて、そういう特殊な存在である王族の中でもララシャは特にいわく付きの王女だ。おてんば・わがまま・気が短い、という不名誉な性格で天下に知れ渡っているのだ。
「ちょっと!」
ララシャが叫ぶと、ウピとレイナは驚きでびくっと身体を震わせた。心臓が鼓動を早め、二人の周りだけ気温が二、三度上がったかのように顔がほてった。
そんな状態の二人を尻目に、ララシャは相変わらず良く響く高い声で言った。
「何ボーっとしてんのよ! お前、あたしにボロ服をよこしなさい!」
ララシャはレイナの服を指さした。ごくありふれた白いブラウスである。
「え?」
レイナは目を丸くした。王女の行動パターンがつかめないので、あっけにとられている。
一方のララシャは見るからに不満そう。
「よこしなさいって言ってるの! こんなドレスじゃあ町中を歩けないでしょ、すぐ警備兵にバレちゃうわよ。だからお前の服と交換するの。そしたら町を自由に歩けるでしょ? 分かる?」
「は、はい」
細い路地には人通りが全くない。それをいいことにララシャとレイナは服を脱いで交換した。じっとり湿った冷や汗が風に吹かれて気持ちいい。
「ぴったりね」
ララシャは満足そうにうなずいた。
「こうでしょうか?」
と慎重に腕を通すレイナは、かつて着たことのない高級なドレスに正直とまどっていたが、こんな服を着る機会は一生に何度とない。せめて今日だけでも王女様気分を味わいたい、とひそかな期待を抱き始めていた。
ドレスの生地はとてもなめらかな手触りだ。王家用の特注品なのだろう。住む世界が違うな、と改めて感じたレイナだった。
ララシャは何とも軽快な口調で言う。
「さ、準備ができたら町に繰り出すわよ」
「町は危険かも知れませんが、大丈夫ですか?」
ウピはできるだけ丁寧に訊いた。が、おてんば王女様の回答は以下の通り。
「あたしがついてるから心配しなくていいわよ。敵はぶっ飛ばすから!」
「は、はぁ……」
ウピは後ろ頭をかいた。ララシャ王女の趣味が格闘というのは全くのデマだと信じていたのだが、どうやら真実味を帯びてきた。予想以上にとんでもない王女様だ。苦笑せざるを得ないウピ。
「何やってんの。早く行きましょ」
ララシャはすばしっこく飛び跳ねると、路地裏を抜けて通りに出た。
振り返って一言。
「先に行ってるわよ」
「ま、待って下さい〜」
急いで白いブラウスを追う。
海鳥の啼き声が奇妙な輪唱となって遠くから聞こえ始める。見上げた空は相変わらずの晴天だった。
ララシャ王女はわがままぶりを遺憾なく発揮した。
「まずは自由に買い物がしたいわ。町中を案内してちょうだい」
彼女は自分の召使いに命令するのと同じ口調で、ウピとレイナに言った。
「はい、ご案内します」
二人にはこう答えるしか道は残されていなかった。気に障ることを言ったら本当に不敬罪で訴えられるかも知れない。この王女ならやりかねない……二人は直感した。とにかく、おべっかを使いまくって、早くこの状況から抜け出せるように祈るしかなかった。
「あっちに行くわよ」
ララシャは意気揚々と胸を張って歩き始めた。
案内しろって言ったくせに……ウピは王女の矛盾を不満に思ったが黙っていた。
ウピは十八歳、ララシャは十五歳。身分が違いすぎるとはいえ、年下に命令されるのは決していい気分ではなかった。必要以上に威張りくさっているララシャの態度に、ウピは我慢ならなかった。
レイナはそういうことを気にしない性格なので気分を害することはなかったが、王女のわがままにつき合うのはさすがに疲れる。みるみるうちに精神力を浪費させられ、表情が曇っていった。
そんなことは心の奥に隠して、何事もなかったかのようにレイナが言う。
「お買い物なら向こうの地区がいいのではないかと思います」
ララシャを真ん中にして左右にウピとレイナが陣取り、三人は並んで歩いた。言葉数の少ない二人と対照的に、ララシャだけが妙にはしゃいでいた。
「あっちね!」
太陽が少し傾き、さっきよりも家々の影が伸び出したので三人はなるべくその中を歩いた。湿度は低いものの、とにかく気温が高い。
庭の木の下にテーブルと椅子を持ち出して昼食を摂っている金持ちの家の前を通り過ぎた。一家団欒である。
ララシャは、あの金持ちなんか足元にも及ばない優雅な生活をしている、という事実をウピはどうしても信じられなかった。目の前の王女の言葉遣いや仕草があまりに大衆的だからである。
黙ってさえいれば結構かわいいのに……ウピは、ララシャと並んで歩くその歩数ごと、なぜか彼女に対して親近感を覚えるようになった。
「ララシャ王女様、一つ質問してもよろしいでしょうか」
道すがら、レイナは小声で訊ねた。
「何よ」
王女は鋭い視線をレイナにぶつけた。降り注ぐ午後の太陽の日差しよりも鋭かったのでレイナは一瞬どきりとしたが、自らの疑問を解消するため意を決して話し始めた。
「王女様は、どうしてあんな暗くて狭い路地にいたのですか?」
「追われていたのよ。近衛兵にね」
ララシャは面倒くさそうに言った。レイナが不思議そうな顔をしていると、王女はまゆをひそめた。
「馬鹿ねえ。分かんないの? あたしはお城から脱走したのよ? 当然、近衛兵たちはあたしを連れ戻すために必死の形相で追ってくるわけでしょ。それをやり過ごすために隠れてたのよ」
「そうなんですか、分かりました」
レイナの表情に安堵の色が広がった。逆にウピは再び額に大量の冷や汗が浮かんできた。彼女は表情を堅くし、思いをめぐらす……城から脱走? どうなってるの、この王女様。普通じゃないよ!
「ふん」
ララシャはまたもや鼻で笑った。透明な風に吹かれて、彼女の長い金髪がさらさら、さらさらと揺れ動いた。
それから何区画か歩くと、だいぶ華やかな地区に出た。太った陽気なおばさん集団が井戸端会議を展開し、その周りで幼い子供らが騒いでいる。賑やかな笑い声で満たされた町の商業地区。南国の暖かさと相まって、ひたすら明るい空間を醸し出している。
「そこのお嬢さん! ちょっと寄ってってくれよ。お安くしますぜェ」
「え? 私ですか?」
レイナに呼び声がかかり、彼女はちょっととまどいを見せた。こんなに自分ばかり声をかけられたことは今だかつて経験したことがなかったのだ。
「行くわよっ」
ララシャが手を引き、人波を右へ左へ切り裂きながら堂々と歩いていく。ララシャの歩いたあとに道ができるといった感じだ。その間にもレイナにばかり呼び声がかかった。大衆街に不釣り合いな高級ドレスを着ているので、たぶん金持ちだと思われているのだろう。
水色のドレスは今やレイナの雰囲気とすっかり溶け合い、全く違和感がなかった。ララシャが着るよりレイナの方がお似合いみたい……ウピはひそかに思ったが、ララシャの手前、口に出すことはできなかった。恐怖でぞっとし、首を振る。
「そこのお嬢さん!」
レイナはまた声をかけられた。彼女はその方向を見ずに軽く会釈をすると、ララシャに引きずられるようにして店の前を通り過ぎた。ララシャは、自分には声がかからないのに、自分のドレスを着ているレイナにばかり声がかかるので腹を立てている様子だった。ウピはいち早くそれに気づき、誰か王女様に声をかけて! ご機嫌をとってあげて! と心の中で叫んだが、その願いが聞き届けられることは、ついぞなかった。
とにかく。さっきから道の両側には数々のお店が建ち並んでいる。髭を生やし地味な服を着た中年親父が奥のカウンターで本を読みふけっている狭い駄菓子屋。親を手伝う若い娘がヘマばかりしている、微笑ましい薬屋。いかにも妖しい老婆が黒いローブの中で薄ら笑いを浮かべている魔法雑貨屋。その他、独自のアクセサリーを売っている宝石店や、妖精の血を引くリィメル族の娘が神妙な顔つきをして座っている占い屋、などなど……。
お店ではない一般の家の前にあるテラスにはいくつかの白い椅子が置かれ、家族の憩いの場所となっている。
その時だった。ララシャは急に歩みを止め、しきりに鼻を動かした。
「どこからかいい匂いがするわね」
「きっと中央広場ですよ。食べ物系の露店があるんです」
ウピが説明するや否や、
「お腹減ったわ。行くわよ」
それだけ言うとララシャは何の前触れもなく走り出した。通りはだんだんと買い物客でひしめいていったが、その人波を器用にかわしていく。
「はぁはぁ……待ってぇ!」
ウピとレイナは必死の形相で王女を追った。呼吸は苦しく、大粒の汗が噴き出す。それでいてララシャを見失わないのがやっとだった。レイナはドレスを着ているので特に走りにくい。
王女のとっぴな行動は先の予測が極めて困難なので二人をさらに疲れさせた。彼女の行動は天災と大差ないのである。お願い、早く止まって! ウピは心の中で呪文のように幾度となく繰り返した。
奇妙な取り合わせの三人組は走り続けた。道行く子供を吹っ飛ばすと、その子は勢いやまず露店へつっこみ、店の売り物をひっくり返す。子供は泣きわめき、店主は怒鳴り散らした。
はっきり言って大迷惑であるが、当の三人は全く気づいていなかった。ララシャは走るのに夢中だし、ウピとレイナは追うので精一杯だからだ。呑気なものである……ここらへんはさすが南国、ミザリア国。この国に住む人々の多くは、おおらかな南方民族・ザーン族の出である。日光を浴びてきらめくザーン族の髪の色はだいたいが美しい金か銀だ。
「はぁはぁ……ちょっと、お願いします、はぁはぁ、止まって下さい」
レイナは体力的な限界を感じ、珍しく弱音を吐いた。
「速すぎるよ〜」
ウピも同様である。
確かに三人とも自分たちがどれほど周りへ迷惑をかけているのか全く気づいていなかった。が、だからといって三人とも呑気というわけではなかった。正真正銘の呑気者はララシャ王女だけのようだ。
レイナとウピは王女を見失わないように細心の注意を払ったので、呑気とはほど遠い精神状態だった。ウピはしだいにおぼろになる意識の中で、どうしてあたしは走っているんだろう……と考えた。
その点レイナには目的意識があった。王女を見失ったら自分のブラウスを返してもらえなくなるからだ。どうしても返して欲しい……こんなドレスじゃ困ります。町中を歩けません!
実際にはほんの数分間の出来事だったが、途方もなく長い距離を走っているように感じられた。地面を蹴るたびレイナの眼鏡が縦に揺れた。
通りにたむろする人々は驚きの目で変てこな三人組を見つめ始めた。好奇心旺盛なのもザーン族の特徴である。
「おい、あれ王女じゃないのか?」
誰かが言いだしたのを機にざわめきが沸き起こり、それは最後にどよめきと化した。
「行ってみようぜ」
ララシャ、ウピ、レイナを野次馬が追う。人は人を呼び、集団はしだいに大きくなった。川が山から海へ流れるように、斜面を転がる雪玉が大きくなるように、野次馬集団は膨らむ一方。
「お姫様ぁ〜」
その声がついにレイナの耳へ届いた。
今日は何かのお祭りでしたか? 変ですね、何の騒ぎでしょう……念のためと思って後ろを振り向いたレイナは、
「え、え、え〜?」
と仰天した。目がまん丸になる。
「な、何なのですか?」
「ララシャ王女様〜!」
そう叫びながら、野次馬たちはレイナに向かって一斉に手を振った。もともと落ち着きがあり、知的だし気品もあるうえ、今はドレスを着ている……人々がレイナを王女と勘違いしてしまうのも無理はなかった。いくら、おてんば王女という噂が広まっているにしろ〈王女イコール清楚〉と考えてしまうのは一般大衆として当然であろう。
「ララシャ様、握手してぇ!」
飛び交う叫び声。一般的に、無名人ほど有名人に会えたことを自慢したがる傾向がある。残念ながらミザリア国民も例外ではなかった。
「怖いですよ〜」
レイナは悲鳴をあげた。口調こそのんびりしているものの、彼女の顔はゆがみ、かつて見たことがないほどひきつっていた。
「待てっ、何の騒ぎだ? 止まれ、止まらんかっ!」
レイナの悲鳴を聞きつけて警備所の騎士が飛び出してきた。が、状況が悪かった。全くの逆効果、よけい野次馬たちの興味をあおってしまう。
「お前たち、止まれ!」
彼は野次馬集団の前に立ち、手を大きく広げて混乱を収拾せんと画策するが、
「どいたどいた!」
「邪魔よ!」
騎士の責任感も野次馬根性には到底かなわない。
巨大な地響きが去ったあと、擦り傷・切り傷だらけの騎士が、騒動の忘れ形見として取り残されていた。
「お、お前ら……全員逮捕……」
その声を最後に、勇敢きわまる無謀な騎士は泡を吹き、完全に気を失った。
「やっと着いたわね」
町の中央付近にある、その名も安易な〈中央広場〉。お昼時は過ぎていたが景気は上々。食べ物屋が集中する広場に人々の姿はひときわ多かった。魚屋を筆頭に、肉屋、果物屋、パン屋、麺類の店、果ては氷菓子屋まである。
氷菓子は亜熱帯のミザリア市では人気商品だが、専属の魔術師が氷の魔法を唱え一個一個丁寧に作っているので、えらくコストがかかる。もちろんそれが値段に反映しているので、氷菓子は庶民にとって贅沢品である。
食べ物を焼く香ばしい匂いが辺りに充満している。あちらこちらから煙が立ちのぼり、賑わっている。空腹のララシャを誘惑したのは、まさしくこの煙である。
雲と同じ色をしている白い煙。この煙が雲となって、今すぐ雨を降らせ、べとつく汗を洗い流して欲しい……ウピは真剣に願った。
「ふぅふぅふわぁ。王女、速すぎます」
ようやくララシャに追いついたウピは呼吸が苦しく頭が朦朧とする。しまいにはがくんと片膝をついてしまった。
「だらしないわねぇ。さ、お昼にするわよ。あたし運動したから、猛烈にお腹がすいたわ。ほら、変な連中が来ないうちに、早く」
ララシャはそう言ってせかした。
「変な連中って? げぇっ!」
今度は腰を抜かしたウピ。その時やっと知ったのである……こちらへ向かって一目散に走ってくるレイナと、あのすさまじい野次馬集団とを。
レイナは、
「助けてぇ!」
と大声で叫んでいるが、これも残念ながら逆効果。よけいに騒ぎを大きくするだけである。普段の冷静なレイナなら気づくはずだが、取り乱した今となっては、そこまで考えが及ばない。
噂は噂を呼び、
「恒例の競走大会か?」
と言って集団に加わる筋肉質の男もいれば、
「何なの? 悪徳犯人逮捕劇? 捕まえたら報酬が出るのかしら?」
と早合点した若奥さんもいる。
「大変だ、向こうで大火事が発生したらしい!」
「違うわよ、津波よ。この島は沈没する運命なの!」
「いや、どうやら戦争が始まるらしいぞ。マホジール帝国と南ルデリア共和国の連合軍が海を渡って……」
「最終戦争だわ。もう終わりよ!」
「そうなのだ。冥界と地上界がつながり、悪魔が攻めてきたらしい」
「みんな食われるぞ」
「魔王の好物は、人間の血を垂らした氷菓子らしいぞ!」
「ええ。向こうの町はやられたんですって。早く逃げないと、みんな氷菓子に変えられちゃうわよ!」
民衆の混乱は誰にも止められない。騒ぎは収拾する気配を見せないどころか拡大する一方。ここまで来ると暴動といっても過言ではないだろう。
「人々よ、今こそ祈るのです! 夏の神スカウェル様のもとで雌伏の時を……」
しまいには宗教家まで現れる始末。
こうして短時間で膨らんだ大集団の先頭はレイナだ。この町にこれほど多くの人が住んでいたのかと不思議に思えるほど集団は大きかった。騎士以外に怪我人が出なかったのは奇跡であろう。のちに語る運の悪い一人の男を除けば……。
さて可哀想なほど顔面蒼白しきったレイナは、ようやくウピに追いつき、ささっと背中に隠れた。南国の太陽は熱く、額から汗が噴き出す。心も体も限界だ。
「どうしたのよ? 何よ、あれ? 説明しなさい!」
ララシャは強い口調でレイナを詰問した。腕組みをして口をとがらせ、見るからにいらついている。
「はぁはぁはぁ……私が王女様だと、みんな勘違いしているみたいなんです」
レイナは息も絶え絶えに語った。その返事を聞くとララシャは顔を真っ赤にさせ、不機嫌の極みに至った。
「馬鹿にするんじゃないわよっ!」
硬く唇を結び、こぶしを固めてサッサッと拳を繰り出し、準備運動を始めたララシャ。その間に野次馬が四方を取り囲む。逃げ道はもはや存在しない。
ウピは自分とレイナの今後を憂い、真剣に悩んでいた。これほど本気で悩むのは三年に一度くらいのものだ。
他方、レイナはウピにしがみつき、小刻みに震えていた。気の毒なことに彼女は思考能力が一時的に停止していた。
いくらウピが、
「レイナ、大丈夫?」
と声をかけても、しばらくの間、全く反応がなかったのだ。その様子を見るにつけ、ウピもさらに不安が増し、青ざめたレイナの両手をぎゅっと握りしめた。
「王女様ぁ〜!」
比較的、前の方に陣取る野次馬……つまり特に好奇心旺盛な無名人たちは、レイナに向かって明るく手を振った。
長蛇の列は後ろに行くに従って顔が険しくなり、最後尾は表情が消えている。
「氷菓子を司る死神が近づいているんですって! 避難しないとやられるわよ! ちょっと、あんたどいてよ!」
噂の飛躍とは恐ろしい。
翻って最前列。
「王女様、かっわいーい!」
「思ったよりも大人しいじゃない」
そんな台詞を聞いて、ララシャが黙っているはずがない。
「とんでもない誤解だわッ!」
放心状態のウピやレイナに比べると、比較的落ち着いているかに見えたララシャがついに暴走を始める。
「あんた、誰? お姫様の侍女か?」
運が悪いというか、頭が悪いと言うべきか……もしやその両方か。最前列のとある中年男がララシャを小馬鹿にした。
「何ですって!」
ララシャが怒ると野次馬の中で下品な笑いが起こった。そんなのには目もくれず、耳もくれず、ララシャはさっきの中年男のもとへずかずか歩いていった。
「ララシャは私よ!」
と、辺りに響きわたる大声で叫ぶ。そして今度は白い雲の漂う南国の空へ向かって、さらに大きな声で怒鳴った。
「お前たち覚えておきなさい! ララシャは私よ!」
しかし民衆は以前にも増して大爆笑。
そのころ野次馬の後ろの方では、例によってまたまた変な噂が流れ始めていた。
「どうして向こうの人は笑っているのかしら?」
「悪魔が去ったらしい」
「違うわよ、悪魔が呪術を唱えて、みんな狂ったのよ」
「いや、笑い病だ」
「向こうに行くと病気がうつるんですってよ、早く帰りましょう!」
今度は逆流現象だ。大集団は後方から少しずつ解散しだした。
さて最前列。
「嘘つけ。たわごとを言うなってんだ、侍女さんよ。奥に隠れてるのが王女様に決まってるだろ?」
観衆の笑いの渦の中で、よせばいいのにさっきの男が再びララシャを馬鹿にした。顔を真っ赤にするララシャ。
「何ですって! ふざけんじゃないわよっ!」
王女らしからぬ言葉だが、実は彼女の決め台詞。それを聞いた野次馬の大部分は状況が良く分かっていないくせに、
「おおーっ!」
と、とりあえずどよめいてみた。
誰でもいいから、あたしらを助けて……ウピの切なる祈りが天に届いたのか。その時、おてんば王女はついに本領を発揮し始めたのである。
疾風怒濤。一瞬にして男の目の前に立ちはだかったララシャは、
「え?」
と男が言い終わる間に、背伸びして男の襟首をつかみ、つかんだまま跳ね上がり、筋肉質の細い腕で力まかせ軽々と持ち上げ。太陽光線を浴びて〈きらり〉輝くと、今度は腕を振り下ろし、つかんでいた襟首を放し、男を地面に叩きつけた。
ドドーンという、まるで地震のような重苦しい音。男は思いきり石畳に腰を打ち、悲鳴もないまま気を失った。
次の刹那、ララシャは両腕でバランスをとり、きれいに着地する。騒いでいた聴衆はとたんに静まり返った。誰も微動だにしないし、一言も喋らない。
ウピは開いた口がふさがらなかった……あの子、お城で、どういう教育受けてんの? まるで歴戦の闘術士じゃないの。
ララシャはまだ怒り心頭といった目で、きつくレイナを睨んだ。
「何ボーっとしてんのよ。行くわよ!」
「は、はい……」
レイナは力無く答えると、ゆっくり首を動かし、今度はウピに向かって告げる。
「行きましょう」
「うん」
ウピとレイナはふらつく身体をお互いに支え合いながら、なんとか歩き出した。疲労はとっくに限界点を超えている。
「お前たち、ララシャ様のお通りよ! 道をあけなさい!」
ララシャが怒鳴ると人波は二つに別れ、目の前に長い回廊地帯ができた。彼女は軽く手をはたき、ウピとレイナに命じた。
「小娘。早く来なさい!」
「はい、今行きます」
ウピとレイナは小走りになる。もはや小娘と呼ばれようが何と言われようが〈年下のくせに〉などとはこれっぽっちも思わなくなっていた。ララシャを先頭に一列縦隊を組み、細い道を過ぎ、人波を抜け出した三人。
野次馬集団はお互い近場同士でこそこそ相談し始めたが、まるで雨が降り終わるように、気持ち悪いくらい静かに、さぁーっと引いていった。
終わったわね……ウピはひとまず安心する。広場には再び午後の平和が訪れたかに見えた。
少なくとも見かけ上は平穏が戻った。
しかしながらララシャの行くところ寄るところ、騒ぎは続くのであった。そして相変わらずウピとレイナはそれに翻弄され続けるのであった。
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