(三)
「ちょっと、お邪魔するわよー」
挨拶も早々に道場へ乗り込んでいくララシャは、やる気満々・気分上々といった感じだ。本物の闘術士と戦うことに対する恐れはなく、むしろ自分の力を試せると期待を抱いているようで、わずかに武者震いしていた。
南国名産である香辛料のようなピリリとした緊張感が加わり、ララシャの表情はやや引き締まっている。その背中を追い、ウピとレイナも足を踏み入れる。
そこは正方形に囲われた土間だった。奥にドアが目につく他は何もない、がらんとした狭い部屋である。天井近くの明かり取りから斜めに夕陽が差し込んでいるものの、ひどく薄暗い。単なる玄関だろうか。
「いらっしゃらないんですかねぇ?」
レイナは右親指をあごに当て、ひそひそ声で訊いた。
「こっちから捜してやるわよ」
王女は全く躊躇せず無遠慮に歩いていき、赤錆びた鉄製のドアノブに手をかけた。彼女が思いきり力を込めて回すと、ノブはドアから外れてしまった。
「あ……」
レイナとウピは同時に絶句する。
「何よ、このオンボロ!」
ララシャは不機嫌になり、ノブを持ったまま、白く塗られた木製のドアを勢い良く蹴っ飛ばす。
バン。
するとドアは一瞬にして開き、反対側の壁に思い切りぶつかると、反動で戻ってきてバタンと閉まった。そして今度は、ぎーぃという嫌な音をあげながら、ゆっくりと開いていった。耳をふさぐレイナ。
次の部屋はだいぶ広く、闘術の練習場と試合場とを兼ねているようだった。ここも相変わらず土間である。
ウピが短く叫んだ。
「あっ」
人がいる。
体格の大きな男たちが合計三人いた。そのうちの二人は若く、二十代前半……もしくは十代後半かも知れない。残りの一人は立派な髭を生やした三十過ぎの男である。三人とも上半身は裸で、ありふれた黒い長ズボンをはいている。
ちょうど練習中だったのか、青年同士が四つに組んでいた。片方は痩せていて、もう一人は背が低かった。そのそばで指導者らしきヒゲ男が様子を見ていた。
彼らは動きを止め、珍妙な乱入者集団をさも怪訝そうに見つめた。
男たちは胸板も腕も足も恐ろしく筋肉質だったので、ウピはさすがに不安を覚えた。いくらララシャといえども、本格的な闘術の修行を積んでいる男たちに勝ち目はあるのだろうか? 王女の細い腕では肉付きのいい彼らに力負けしそうだ。
レイナも鼓動の速まる心臓を押さえて微動だにせず、これから始まる出来事をただ心配そうに待ち構えていた。
二人の懸念をよそに、ララシャはひときわ甲高い声で訊ねる。
「試合中なの?」
……なの……の……。
声が部屋じゅうにこだまとなって響きわたる。空気はよどみ、男たちの体臭と闘技場の土の匂いが入り混じる非常に不愉快きわまる場所だ。きれい好きのレイナは遅ればせながら鼻をつまみ、顔をしかめた。
中年のヒゲ男が王女の質問に応える。
「いや、試合ではない。稽古中だ。お嬢ちゃんたち、何か用かね?」
「あんた、所長さん?」
ララシャの唐突な発言を耳にすると、ヒゲ男は眉間にしわを寄せた。その様子を見て心底ぞっとするウピ。
組み合っていた二人の若い男はお互いに目配せして手を離すと、不思議そうにララシャを見た。
うなずきながらヒゲ男は自己紹介する。
「いかにも、俺はここの所長を務めている者だ。名をクノッブという」
彼は落ち着いた口調で続けた。
「もう一度聞こう。君らのような嬢ちゃんが、こんなところに何の用かね?」
「てめえらの来るところじゃあねえぜ。へへへへ」
若い男の片割れ、比較的痩せている方が品なく笑った。
めげないララシャは思いきり胸を張り、
「道場破りよ!」
と、ひときわ大きく叫んだ。
「あん?」
男たちはすっとんきょうな声をあげた。
無理もありません、華奢な女の子が道場破りなんて、そりゃあ驚きますよね……レイナは自分たちがずいぶん無謀なことをしているんじゃないかと、今さらながら後悔し始めていた。
男たちは再び、
「あぁん?」
という気の抜けた声を発し、ぽかんと間抜け面をした。彼らの周りだけ時間が止まったかのようだ。
一方、ララシャは薄ら笑いを浮かべると同時に、相変わらずの毒舌ぶりを遺憾なく発揮する。
「聞こえなかった? 何、ボーっとしてんのよ。道場破りよ、どーじょーやぶり! あんたたちの実力を知るため、そしてぶっ飛ばすために、遠路はるばるやって来たわけ。感謝なさい!」
遠路はるばるかなぁ、という素朴な疑問を抱いたウピだが、当然のことながら口には出さない。
さて、その宣言を聞いた格闘家らは一様に困惑した。みな同じ角度で大きく左へ首をかしげ、顔を見合わせる。
「おいおい。所長、どうします? なんか変なこと言ってやすぜ、あのガキ」
「頭、いかれてるんじゃないスか?」
二人の若い男がクノッブ所長へ耳打ちする。怒るというよりも、面白い・謎めいている・わけが分からない・あきれた・おかしい……等々、あまたの感情が錯綜し、その処理に迷っているようだ。
「ちょっと、君」
クノッブはララシャへ呼びかけたが、相手の返事は素っ気ない。
「何よ。勝負すんの、しないの? 不戦敗なら、看板、勝手に持って行くわよ」
「まあまあまあ、落ち着きたまえ、待ちたまえ」
そう言ってご自慢のヒゲを撫でた所長は未だに冷静さを保っている。
対するララシャは、とにかくいらついていた……狭い穴へ避難した鼠が出てくるのを狙っている野良猫のように、今にも飛びかかりそうな剣幕だ。
「何よ、どうすんの!」
せかされた所長はララシャの右手を指さし、ぼそっと一言。
「それは何だね?」
彼の語尾には、侵入者に稽古を邪魔された怒りがあらわになりかけていた。爆発の寸前で、どうにか留まっている状態。
所長の変化に気づいたウピとレイナは肩を寄せ合い、青ざめた顔で震えあがった――さすがのララシャ王女も、あの人たちにはかなわないよ、だって一対一ならまだしも相手は三人もいるんだ。
ララシャがやられたあとはどうしよう、聖術師を呼ぼうか王家に連絡しようか、それとも黙って逃げ出すか。考えをめぐらし、ひたすら悩む二人だった。
「はぁ?」
所長に指摘され、ララシャはじょじょに目線を下げていった。視線の中に自分の手が映り、
「あ、これね?」
彼女は手にしていたものを無造作に投げ捨てた。赤みがかった灰色のそれは、カラン、コロコロという軽い音を立てて幾度か回り、少しずつ止まった。
「さっき、ぶっ壊れたドアノブよ。普通に開けただけで壊れたわ、ずいぶんと安っぽい部品使ってんのね。あんたたちが弱いから、こんなひどい練習場しか持てないんでしょ? 闘術大会で賞金を獲ったこと、あるの?」
ララシャは嫌みったらしく思いつく限りの罵声を浴びせかけ、わざと相手を挑発した。
効果はてきめん。
「何だと!」
若い男のうち、背の低い方が怒鳴った。さらに厳しく追い打ちをかける王女。
「ふふふふ、どうせ図星なんでしょ? 答えなさい!」
「チッ!」
所長は舌打ちをし、かあっと目を見開いた。残念ながら図星らしい。みるみるうちに彼の瞳の奥が怒りで燃えたぎり、火照った顔は赤く染まった……夕陽のせいだけではあるまい。
「うぐぬおおっ!」
奇声を発し、今にも飛び出そうとする所長を、若い男たちが抑えつける。
「所長、あれは奴の作戦です。我慢して下さい!」
「む、むうぅ……」
腰を低く構え、戦いの準備が整ったララシャは、男たちの様子を見て、
「これほど勝負を挑んでるのに、受けてくれないわけ? 弱虫!」
と、きっぱり言い放つ。ララシャは落ち着いており、今度は所長の方が危なっかしい。いつしか精神状態は逆転していた。
「黙れ!」
鋭く叫んだクノッブは、ほどなくして片方の男の肩をトントンと叩いた。
「お前、行って来い」
選ばれたのは背が低い男である。体格はがっしりしており、金髪を短く刈っている。見るからに強そうだ。
男は低い声で指示に応じた。
「はっ、所長の手を煩わせることもありません。変な奴をブチのめして来ます」
「せいぜい手加減してやれよ、へっへ」
もう一人の若い男、痩せていてヒョロヒョロした方が相変わらず下品なしゃべり方で言い、それから拳を掲げて戦う真似をした。
「やっと勝負する気になったようね」
最悪の事態。まずいよ、ララシャ王女は本当に戦うつもりなんだ……ウピは気が気ではない。
他方レイナは、おぼつかない足取りで歩き出すと、ララシャのそばに転がっていたドアノブを拾い上げた。
「ちょっと失礼」
「何やってんのよ」
とたんに顔をしかめる王女。
レイナはノブを握って古ぼけたドアに近づき、もともとそれが差し込まれていたはずの空洞へ無理矢理つっこんだ。
が、何度入れても落ちてしまう。
「駄目ですね」
「そんなん、どーでもいいじゃないの」
「気になったものですから」
諦めたレイナはウピの近くへ撤退した。
その時だ。
彼女たちの背中方向――つまり道場の玄関から、耳に覚えのない男の声がした。
「私は近衛兵だ! この近辺で不審な少女を見なかったか?」
ウピとレイナが対応に苦慮し、黙っていると、鎖の鎧を鳴らしながら騎士が近づいた。
ドアの隙間からひょっこり顔を出すと、兵は喜びで目を丸くし、
「ララシャ様だ、ララシャ様がいらっしゃったぞォ!」
と叫びながら大慌てで走り去った。ウピとレイナは突然の出来事にとまどう。闘技場の男たちもあっけにとられている。
一方、王女は小さくため息をついたかと思うと急に瞳をぎらりと輝かせ、格闘家らを厳しく睨みつけた。普通の人がこんな目で見られたら、たちまちたじろぐだろう……ララシャの視線には、そんな威圧感があった。
「とにかくあんたたち。戦うの、戦わないの? さっさとしないと陽がくれちゃうわよ!」
「俺が相手になってやる。所長は横でご覧下さい。よし来い!」
背の低い男が言った。クノッブと、もう一人の痩せた弟子は練習場の角まで歩いていき、土の上へしゃがみ込んだ。所長は腕を組んで憮然とし、弟子はニタニタ不敵な笑みを浮かべている。
練習場の真ん中に一人残された男を目指し、軽やかな足さばきで駆けていったララシャは、男の目の前に立つと、
「よろしくお願いしまーっす」
と言って、ぺこりとお辞儀をした。
ウピはいつしか手の平に脂汗をかいていた――ああ、ついに始まっちゃうんだ。もしも大怪我したら、どうするの? 無謀だよ王女様は。何もせず傍観していた私とレイナも共犯? どうしよう。
レイナも心配そうな顔をしているが、気になるのか、しばしば横目でドアを確認していた。少しでも早くノブをはめこみ、直したくてたまらないようだ。
「さあ来い!」
対戦者の青年が王女と同じ目線で言った。男としては低めの身長だけれど、もちろん体は筋肉質である。
男とララシャは互いに構えた。
そして、ついに戦いの火蓋が切って落とされたのである。
しばらく睨み合いが続く。二人とも間合いをはかっていた。
先手を打ったのはララシャだった。まるで魔法のような得意の素早い動きで男の背後に回り込む。
「えいやぁ!」
「おーっ!」
ウピは思わず身を乗り出した。もしかしたら、王女、勝てるかも……。心の中に沸々と希望が涌いてきた。
「頑張れー」
レイナも真剣に応援する。
「何だと?」
驚きで顔をゆがませるクノッブ所長は言葉を失った。信じられない、信じたくないという様子だ。
「とんでもねえガキだ!」
痩せている弟子が悔しそうに叫んだ。
「くっ!」
一方、王女に背中をとられた相手の男は振り向くことができず、戦う構えをしたまま動かなかった。返し技を模索しているようだ。
「何よ、」
ララシャは一歩下がり、
「だらしないわ、」
大きく右足をあげると、
「ねっ!」
強力な蹴りを男の腰にくらわせた。
「か……」
男はうめき声をあげる暇もなく、一瞬にして前のめりに倒れた。ここでほっておくような、そんな甘いララシャではない。さっきと同じ腰の一点へ肘で何度も打ち込む。右肘で打ち込むと次は左肘、右、左と律動的に、全体重をかけて連続攻撃を繰り返す。
「えいや、えいやっ、ほいっ!」
「うがっ、うぎゃっ、うげっ!」
耐えきれず、男は悲鳴をあげた。
「何だと!」
所長はあまりのスピードに目を丸くし、思わず立ち上がった。王女にやられている男は、一向にやむ気配のない連続攻撃を受け、痛みで動くこともままならない。肘で打たれる一回ごと、びくっ、びくっと身体を大きく震わせた。切れたトカゲのしっぽを想起させる。
「やっちゃえ!」
さっきの不安はどこへやら。勝てば官軍という心境で、気勢をあげるウピ。
「さあ、とどめよ」
ララシャは額に汗を浮かべながらも嬉しそうにつぶやいた。へたばっている男の足首をつかむと、つかんだまま、
「えいやぁ!」
と、ぐるぐる高速回転を始めたのだ。遠心力にまかせて男を振り回す。
頃合いを見はからって足首を離すと、彼は虹の橋を描きつつ飛んでいった。
ドカーン。
ものすごい音を立て、男が腰部から壁に激突すると、道場全体はまるで地震のように揺れた。
男はそのまま地面にずり落ち、気を失う。それ以後、何の反応もなかった……完全にのびてしまったのだ。
「やったぁ!」
「すごいすごい!」
ウピとレイナは大はしゃぎ。
「オエッ。さすがに目が回ったわ」
ララシャはふらつき、口元を押さえてがっくりと片膝をついた。
と、その時。
「危ないっ!」
だしぬけにウピが叫んだ。こてんぱんにやられた同胞のかたきを討つべく現れた、下品な笑い方をする痩せた男がララシャに近づいていたのだ。
ウピに言われるまでもなく、王女は背後に殺気を感じていたらしい。依然、目は回っていたものの、とっさに状況の変化を判断して後ろへ大きく蹴り上げた。
「あっ!」
強力なララシャの蹴りは、しかし、むなしく宙を舞った。素早く引っ込めようとした右足を痩せ男がしっかりと握る。
「油断も隙もありゃしないお嬢さんだな、へへへ」
「ふふ、やるわね。そうこなくっちゃ」
不適な笑みを浮かべるおてんば王女はピンチさえも楽しんでいるようだ。一転し、苦境に立たされるララシャ。
「きゃあ!」
観戦者のレイナはしきりに瞳をぱちくりさせ、刻々と移り変わる戦況についていくのがやっとだった。
「おっととと」
ララシャは前のめりに倒れる。右足を男に引っ張られた結果、左足だけで立っていた彼女はバランスを崩したのだ。なんとか両手で身体を支える……ついに腕立て伏せの体勢になった。こうなっては明らかにララシャが不利だ。
男は勝ち誇った声で宣言する。
「今から部屋じゅうを引きずり、充分に疲弊させてから、ゆっくりと料理してやるぜ。絶対に瀕死の重傷を負わせてやる。壁際でぶっ倒れてる男のように俺はヤワじゃねえからな。覚えとけよ、ケケケケ……」
言いたいことを言い終えると、男は集中したままクノッブに呼びかけた。
「所長、良く見ていて下さい!」
「ああ。思う存分やるがいい!」
所長は腕組みし、大声で怒鳴った。
「嘘、嘘……お願い、頑張ってよ! どうしちゃったのォ?」
ウピが悲痛な声をあげた。
「へっ、応援団が泣いてやがるぜ。馬鹿なガキどもだ」
痩せ男はそう言うと、ララシャの足を持ったまま予告通り引きずり始めた。ララシャは自由な左足をばたつかせるが、上手い具合に攻撃ができない。後方に引きずられた王女は、手で身体を支えるのも困難になった。
すると、さっきよりも後ろに手をつき、何とか体重を支える。男に引っぱられるごと、王女はせわしなく地面へ手をつき直す……手の平が汗まみれ泥まみれになったのも気にせずに。
歯を食いしばり、ララシャは途切れがちに不満をあらわにする。
「あたしの、大切な友達を『馬鹿なガキ』って、言ったわね」
「ああ。だが、その中でも、もちろんお前が一番の大馬鹿だな。命知らずめ、ひゃっひゃひゃひゃ」
男が罵ると、ついにララシャの堪忍袋の緒がブチ切れた。
「ふざけんじゃないわよおっ!」
両手で地面を叩くと、反動で一気に起きあがり、秘密兵器の石頭で男のあごに思い切りぶつかったのだ。
「ぎゃあっ! あが、ががが……」
男はあごを撫でながら涙をボロボロ流した。衝撃による痛みだけではなく、舌を噛んだのが辛いようである。情けないうめき声を発し、男は辺りを彷徨う。
「あたたた、頭が悪くなりそうだわ」
王女は脳天の出来立てのこぶをいたわる。それは噴火した山のように盛り上がり、やや熱を帯びていた。
「でも、これで自由に動けるわけね」
さっきの頭突きの拍子に、男は、つかんでいたララシャの右足をうっかり離してしまったのだった。無理もないだろう。
「ララシャすごい!」
ウピが盛んに拍手を送ると、
「ん? 今、呼び捨てにしたわね?」
足の屈伸運動をやめ、王女はウピに向かって厳しい視線を投げかけた。
「え、ごめんなさい、ごめんなさい。つい、うっかりして……」
ウピは青ざめた顔で平謝り。王女の実力を知ったあとではよけいに恐ろしい。
意に介さず、ララシャは叫んだ。
「不敬罪よ!」
と同時に、涙を流してふらふら動き回っていた男のみぞおち深く、痛恨の拳を食らわせた。相変わらずの素早い動きだったので、レイナは一瞬、何が起こったのか分からなかったほどだ。
「がっ」
男の悲鳴を聞くにつけ、ララシャが何らかの攻撃をしたのだとようやく気づく。
「あたしは!」
と言って、再びみぞおちに一発。今度は左手で、打つ速さはそのままに。
いくら筋肉質といえども痩せぎみの男に、たび重なる打撃はかなりの威力を発揮していた。
「王女よ!」
さらに一発。品のない若人はもはや行動不能だ。目を見開き、口を大きく開けたまま微動だにしない。
「不敬罪よ、」
「不敬罪よ、」
「不敬罪だわ!」
言いながら、三発の拳を打ち込む。
「……」
壁際で様子を見ているクノッブ所長は茫然自失状態だ。うら若き少女に自分の一番弟子がやられ、まるで夢の世界へ堕ちたかのような遠い目つきをしていた。
「申し訳ありません、ごめんなさーい! ララシャ王女様、お願い、許して下さい! ええ、私が悪うございました!」
王女が怒った原因は自分の失言だ、次の標的は私かも知れない……ウピは恐怖の深淵に引きずり込まれ、あらん限りの大声で陳謝し続けた。
ララシャは腰を低くして構え、意識を失いかけている痩せ男へ向かって、またもや強烈な拳を食らわす。
「でも、」
「本当は、」
「全然、」
「気にしてないのよっ!」
みぞおちに四発。特に最後の一発は強力で、白目をむいた痩せ男は壁に吹っ飛んで止まった……その身体がゆるゆると崩れていく。先鋒をつとめて伏した背の低い男の上に、今やられた痩せ男が覆い被さるようにして倒れた。
「ああ、二人目も倒しちゃいました!」
レイナは驚きを隠さず、心からララシャを誉め称えた。幼さの残る少女が鍛えられた男たちを次々と破っていく図は、まさに壮観だった。先ほどの心配――たった一人で三人の男を相手にするなんて無謀じゃなかろうか――は、全くの杞憂に終わりそうだと確信する。
ウピはそれよりも最後のララシャの言葉が気になった。疲れきった頭で、思いつく限りの疑問を並べ立てる。
「本当は全然、気にしてない? 怒ってないの? あたしを許してくれるの? 不敬罪じゃないの? どういうこと?」
「ちょっと、いっぺんに質問しないでちょうだい。分かんないじゃないの!」
ララシャは荒い呼吸を繰り返し、肩を大きく震わせていた。激しい運動後だから、さすがに疲労の色が濃い。
急にそっぽを向き、がらりと変わった穏やかな口調で、王女はこう言った。
「ええ。ウピのこと、気にしてないわ」
「本当? ありがとう!」
ウピはほっと胸をなで下ろす。
今度は振り向き、ウピとレイナとを交互にしっかりと見据えながら、ララシャは恥ずかしそうにつぶやいた。
「怒るはず、ないじゃないの。本当は、ちょっとだけ、嬉しかったのよ……」
ララシャは頭を掻きむしる。整った長い金髪がくしゃくしゃになっても、ララシャは気にせず頭を掻きむしった。
「あー、あたし、何言ってんのかしら。本当に馬鹿みたい。でも、なんでだろ、なんでこんなに嬉しいんだろう。変なの。変なあたし!」
いつしかララシャは泣いていた。ダイヤモンドよりも澄みきった透明な液体……こぼれ落ちる涙を腕で拭く。
「ララシャ!」
呼んだのはレイナ。彼女も目を真っ赤にし、その中に熱い水をため込んでいた。
「何?」
王女はかすれ声で訊いた。
訊かれたレイナは、森の泉のようにこんこんとあふれる涙をそのままに、はっきりと響きわたる声でこう叫んだ。
「ララシャは、いつまでも友達だよ!」
「ひっ!」
突如、ララシャは泣き崩れた。目を押さえ、片膝をついたその姿は、まるで聖守護神ユニラーダに祈りを捧げる信心深い神官のようだった。純白な想いが透明な風となって天界へ昇っていく……。
ララシャをこてんぱんに倒し、完膚無きまでに打ちのめしたのは、怒りに燃える闘術家の拳でも、訓練された近衛兵の体当たりでもなかった。
レイナの、とても短い、本当に短い、あの言葉だったのだ。
ウピもなんだか泣けてきた。色んな感情が入り混じって錯綜し、もう何が何だか分からなかったが、今だけは思いきり泣いていたいと思った。
涙で揺れる視界の中で、ウピは気づく――ララシャは友達が欲しかったんだ。同じ年代で、同じように話ができる、本当の友達が欲しかったんだ。自分の気持ちを素直に表現できないから、普段はおてんば装って。お城に戻っても、わがままばかり言って。だから彼女を取り巻く侍女たちも一歩引いてしまって……。何でも言い合える本当の友達が、周りに誰もいなかったんだ。一人で闘術の修行して身の安全を確保したあと、こうして町に繰り出し、自分の友達になってくれる女の子を捜していたんだ。そうだ、そうに決まってる!
ララシャはむせび泣きをしていたが、よろよろと立ち上がり、服の袖で両眼をこすった。なめらかな頬に幾本も細い滝が走り、光にきらめいている。涙の川は口の中にも入り込んでいた……きっと海の味がするのだろう。青く美しい瞳は真っ赤に腫れあがっていた。
直後、王女はとげとげしく叫ぶ。まだ半分、涙声だ。
「ちょっとあんた、どさくさに紛れて、何やってんのよ?」
「げっ!」
背中を丸め、忍び足のクノッブ所長が、ぴくりと動きを止めた。
弟子二人がやられてしまい、次は自分の番……という恐怖に耐えられなくなったのだろうか。彼は、何と逃げ出そうとしていたのである。
ララシャは抜け目なく男の様子に気づいていた。泣いていてもちゃんと状況を判断できる〈したたかさ〉はさすがである。
ズーッと一気に鼻をすすったあと、王女はまるで龍が灼熱の炎を吐き出すかのように力強く言い放つ。
「卑怯よ! あんた、それでも闘術修行場の所長なの? 闘術士の風上にも置けないわね。修行する以前に、闘術の精神を勉強すべきだわ。ただ身体を鍛えればいいってもんじゃないのよ、闘術は!」
毒舌は絶好調。もはや涙の消えたララシャの瞳は、すさまじい怒りで燃え上がっていた。所長は彼女の逆鱗に触れてしまったのだ。もう誰にも止められない。
「身体と精神をバランス良く鍛えて、初めて強くなれる。そんな基本さえ分かんないの? あんたは!」
間髪入れずに責め立てる。その言い方は、彼女独自の闘術戦法――素早い動きと速攻で相手を完全に封じる――と酷似していた。所長に喋る隙を与えない。
「敵前逃亡だなんて……そんなんで、よく所長なんてやってられるわね! 恥を知りなさい、恥を!」
いちいち、もっともな意見ですね……レイナは涙を拭き、王女の演説に聞き惚れていた。そして彼女の闘術への造詣の深さに改めて感銘を受ける。
所長はもう、たじたじだった。反発するどころか、恐怖で身動き一つできないようだ。これではせっかくの闘術修行も意味がないわね、とウピは考えた。
王女は、技術面だけで比べれば彼らと互角程度かも知れない。その代わり精神面で圧倒的に勝っていた。負けん気の強さと冷静な判断力……どれをとっても明らかにララシャの方が上回っていた。
その天才格闘少女は、右手の人差し指をクノッブに向けてまっすぐ掲げる。
「あんたみたいなのが所長やってるから、弟子が弱いのよ。最低・最弱、もう最悪だわ。あんた、それがわかってんの?」
「ぎゃあ! 助けてくれ!」
所長は叫んだ。膝をガタガタ震わせ、口を開けたまま立ちすくんでいる。顔色は血の気が引いて白っぽく、唇は青紫色をしていた。まるで水温の冷たい海を泳いでいるかのようだ。
「だらしないわねえ。はぁ〜」
ララシャはため息をついてから、ゆったり顔をもたげると、一歩一歩、土を踏みしめながら所長へ近づいていく。
「ふふふ……」
「や、やめろ! 来るな!」
所長の表情はゆがみ、目は見開かれているものの視線は定まらなかった。首筋や額には大粒の冷や汗を浮かべ、筋肉質の腕は全面に鳥肌が立っている。
あと三歩、二歩、一歩……。ララシャは所長の目の前できちんと立ち止まった。そういう何気ない態度に、王族の誇りや気品を垣間見ることができた。
ウピとレイナは、ほぼ同時に、ごくりと唾を飲み込む。
「えいやっ!」
ララシャは疾風のごとく、所長の背後に回った……中年の指導者はあきれるほど全身スキだらけだ。
ごく自然な動作で、後ろから男の腕を固める。毛深く、日焼けで黒っぽい色をした、筋肉質で太い所長の腕。それを、筋肉質ではあるが白くて華奢なララシャの腕ががっしりと固めたのだ。
「行くわよ」
所長の耳元でささやくように宣言した王女は、すぐに腕をグイと締め上げる。
男の悲鳴が道場にとどろいた。
「うおあぁぁあ!」
「ララシャ、行けぇ!」
大声で応援したウピの心は、とてつもなくすっきりしていた……夏の森で微風を浴びているかのように。そして〈やっぱり、戦っている時が一番ララシャらしいや〉と思い、穏やかに笑みを浮かべた。
その横で、レイナは全く別のことを考え、苦笑いしていた。いきなり道場破りに巻き込まれたクノッブ所長――次々と弟子が敗北し、今、まさに自分がやられようとしている。もしかしたら、私たち、彼らにとってはいい迷惑かも知れませんね――。
レイナは所長に対し、ちょっと可哀想かも、と同情していたのである。それが苦笑いとなって顔に現れていたのだった。
「観念した?」
ララシャはわずかに首をかしげ、訊ねた。その声が弾んでいる。
所長は対照的に、かすれたうめきをあげるのが精一杯。
「あぅ……」
「え? まだまだ平気よね? 強い強い所長さんだもの。そうこなくっちゃ!」
ララシャはひねりを加え、所長の腕をさらに締め上げる。彼女は明らかにこの状況を楽しんでいた。
「うっ!」
所長は息を止める。恐怖と痛みでゆがんだ顔が真っ赤に染まっていく。
「ララシャ! 充分でしょう? もうやめて下さい」
その時、歩み出たレイナが、澄みきった声で試合の終結を頼んだ。いわゆる〈ドクターストップ〉である。
「え?」
ララシャの力が緩む。
「レイナ、どうして? せっかく、もうすぐで倒せるのに」
ウピも驚いて目を丸くし、横にたたずむ親友の肩をつかんで前言撤回を迫る。
「……」
王女はややうつむいて、レイナの次なる言葉を待っている。
レイナはしっかりと手を組み、祈るように言った。
「もう、ララシャの勝ちは決定的です! それ以上戦うのに、どんな意味があるんですか?」
「分かったわ」
ララシャは素直に腕をほどいた。今までの恐怖感と、解放された安堵感とが交錯して滅茶苦茶に混じり合い、所長はついに精神力の限界を迎えたようで、ゆっくりとその場に崩れた。顔色は青白く、白目をむき、口からは白い泡を吹きだした。
ウピは対応に苦慮し、横のレイナと、向こうのララシャの顔を交互に見比べた。
ララシャはぽつりと言う。
「あたし、フェアじゃなかったかしら」
「ううん、そんなことない。公明正大な試合の結果、ララシャの勝ちです」
レイナは優しく首を振った。
「でも、少しやりすぎたかも知れない」
ララシャが静かに言うや否や、どんよりした重苦しい空気が闘技場の上から降りてきた。
ウピはどうしてもこの雰囲気になじめず、つとめて明るく、威勢良く、
「只今の三連戦、全て挑戦者ララシャの勝利なり!」
と、高らかに試合終了を宣言した。
それで改めて気づいたのか、ララシャは両手を掲げて飛び跳ねた。
「や、やったわ、やった! あたし、勝ったのよ! やったぁ!」
忘れかけた無邪気な少女の微笑みを、ちゃんと取り戻したララシャ。レイナも安堵のため息をつき、ウピの機転に感謝した。ウピって、本当に明るくていい友達ですね……日常では気づかないそんなことがふっと思い浮かび、充たされた心地のするレイナだった。
ウピは、
「すごいよ! ほんとにすごい。ララシャさあ、国の闘術大会に出ても、きっと優勝できるよ!」
と褒め称えた。王女が返事をする。
「でも、これで満足せず、さらに磨きをかけるわ。下を見たらきりがないけど、絶対に上には上がいるから。あたし、もっともっと強くなりたいの」
「うん、大丈夫。ララシャなら、絶対、強くなれる!」
胸を張り、ウピは太鼓判を押す。
ララシャは最高の笑顔で、
「ありがとう!」
と言った。その語尾が闘技場内に美しくこだまし、乾いた土間にも、倒れた男たちの上にも分けへだてなく降り注いだ。
「ありがとう!」
今度はレイナが、誰のためというわけでもなく何のためというわけでもなく、自分を取り巻く全てのものに感謝した。
「!」
刹那。時間が止まり、緊張が走る。
それは前触れなく、突然だった。辺りを覆っていた柔らかな雰囲気を、馬のいななきが斜めに鋭く引き裂いたのだ――純白のシーツがびりびりと破れるように。
「馬車だわ。もしかして……」
ララシャは顔を曇らせる。青い瞳の奥に、すぐさま不安の色が浮かび上がった。
「馬車?」
ウピとレイナは顔を見合わせた。ララシャは一体、何を心配しているんだろう。
四本足で規則的に歩く馬の蹄の音が重層的に聞こえ、それがだんだん大きくなる。パカランパカパランラパカラパカパラパ……馬車は一台ではない。十五、六、あるいは二十台程度と思われた。
馬の蹄の律動音に加え、右へ左へぐらぐら揺れているのであろう細い鉄タイヤのきしみも響いてくる。
「来たわね……」
王女はドアを蹴っ飛ばして表へ出た。受難の白いドアは衝撃で外れてしまう。
「どうしたの?」
「待って下さい」
ウピとレイナは慌てて後ろ姿を追った。
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