銀の鈴

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 


 ちりんちりん。
 どこかで鈴が鳴った。
 鈴の音は、静かな夜の空気を震わせ、伝わり、とても高く響いた。澄んだ音色が、窓から差し込む月の光と合わさって、耳から離れない。
 乳白色の月光は、小さな町の輪郭だけをぼんやりと浮かび上がらせた。頼りない夜道には、街灯など存在しない。ゆらぐ月影と、星の粒だけが道しるべである。
 一度、厚い雲が空を覆えば、真の闇が全てを包み込む。その中で息を潜めるのは、猫やコウモリ、みみずくなど、夜行性の動物だけである。草木でさえも眠ってしまう。
 ちりんちりん。
 また、鈴が鳴った。とても、かすかな音だ。注意しないと、聴き逃してしまいそう。夜がこれほど静かでなければ、リンローナも気づくことなく、深い眠りに堕ちていたことだろう。
 しかし、夜中にふっと目が覚めてしまった彼女は、さっきから、その音が気になって仕方がなかった。ベッドの上で寝返りをひとつ。ベッドが少しきしんで、ぎぃーっと嫌な音がした。
(明日は早いんだから――もう寝なくちゃ――寝よう)
 でも眠れない。こういう時に限って、眠くならない。本当は眠いはずなのに、身体が眠ってくれない。リンローナは仕方なく、心の中で何度もつぶやく。
(寝る、寝る、寝る、あたしは、寝る――絶対に寝るんだから)
 だが、そうやって集中するにつれて、逆に目が冴えてしまうという悪循環に陥っていた。隣のベッドで静かな寝息を立てている姉が羨ましい。
 身体の上を行き過ぎる秋の夜風があまりに涼しいので、リンローナは起きあがり、窓を閉めた。ぱたん、という大きな音が、夜の中にこだまする。そして空気の流れが止まった。
 リンローナはもう一度、寝転がり、夜に対しての弱々しい抵抗を始めた。全身の力を抜き、深呼吸をし、最後に無理矢理、目をつぶる――。
 
 旅の途中で立ち寄った、この町。規模は小さいが、その代わり豊かな自然の恩恵を受けている。三方を森に囲まれ、残りの一方は草原だった。森は、秋という名の透明な絵の具で、赤や黄に色づけされ始めていた。そんな中、人々は穏やかに暮らしている。
 町のほぼ中央を、東西に川が流れる。通りの石畳は美しかった。空気には、どことなく優しさが満ちている。リンローナはこの町を、とても気に入っていた。短い滞在期間はあっという間に終わり、夜が明ければ出発する手はずである。
 町の風景を思い浮かべているうちに、再び眠気が襲ってきた。ベッドに身を任せ、秋の夜気に心を任せ、睡魔の襲うままに、今にもリンローナが眠りに堕ちようとした――。
その時。
 ちりんちりん。
 また、鈴の音。さっきよりも、幾分、音が小さくなった。窓を閉めたからだろうか。あるいは、鈴を鳴らす何者かが、少し遠ざかったのかも知れない。
 耳に残る、澄んだ響き。一体、こんな夜中に誰が鳴らしているのだろう。考え出すと、きりがない。
 リンローナは目を開けた。無駄だとは知りながらも、一人、つぶやく。
「眠れない。どうしよう」
 上半身だけ起こし、首を左右に振ってみた。頭が重たく感じる。そのまま、ベッドに倒れ込み、目をつぶる。やっぱり眠れない。――もう駄目だ!
 少し頭を冷やそう。
 リンローナは、薄手のコートを羽織ると、ドアを開けて部屋を出た。右手にはランプが握られている。その炎は弱々しかった。夜という名の大海に浮かぶ、一隻の小さな帆船にすぎない。
 階段を降り、玄関を抜け、宿を飛び出した。ひんやりとした空気の粒が、身体にぶつかる。その度ごとに、冷やされる。限りなく〈寒い〉に近い〈涼しい〉である。
「これじゃあ、かえって目が冴えちゃうかもね――」
 誰に言うわけでもなく、そうつぶやくと、一度ぶるっと身体を震わせてから、月明かりとランプの炎を頼りに、リンローナは夜の町に繰り出した。石畳が月光を受けて、鈍い光を返している。
 町中が寝静まっている深夜。自分の足音と、息づかい、ふくろうの啼き声、風の音――その他に、音が見つからない。
 でも、心細くはなかった。とても気持ちが良かった。
(あたしだけの夜! 夜が、あたしを待っていてくれたんだ!)
 広がる闇は、視界を奪って恐怖心を植えつけるのではなく、未知への興味を与えてくれた。闇との戯れ。
夜風が通り過ぎると、闇と手を取り合って、踊っている気分にさえなった。顔には自然と、笑みがこぼれる。今にもスキップして、この道をまっすぐ進んでゆきたい――。そんな、すがすがしい気分だった。
 ちりんちりん。
 鈴が鳴った。リンローナは立ち止まり、耳を澄ませた。精神を集中する。そして、音が流れてきた方角に、だいたいの見当をつけた。
(あっち、かな?)
 そう思った方に向かって、少女は適当に歩き始めた。夜の散歩は、適当で構わない。
月の光が、霧雨のように降り注いだ。月光は、異世界の扉を開くことの出来る、偉大な力を秘めているのだ。
 水音が耳につく。道は、川辺に続いているようだ。夜の川、黒い川。空には白い、天の川。どちらも、深くて長い川。海を目指して、永遠に――。
 ちりんちりん。
 鈴の音は、だいぶ近づいた感がある。あと少しだ。心は弾むが、まぶたは下がってくる。さすがに眠い。目をこすり、大きなあくびを一つつく。ランプを持ち替えて、手探り足探り、闇の海を泳ぐ。
 その時だった。ランプの光が、目の前に、黒い人影を浮かび上がらせた。ずいぶん小さい。
(あたしよりも背が低いんだから、きっと子供だ――)
 リンローナはとっさに、そう判断した。
 人影は一歩下がった。ランプの光は届かない。リンローナは一歩、歩み出た。ランプの光が、子供を照らす。その子の手の平で、一瞬、何かが反射した。銀色の光だった。子供は手の平を掲げ、二回、軽く振った。
 ちりんちりん。
 やっと出会えた――。この子が鈴を持っていたんだ。
リンローナは失くし物を見つけた時のように、何だかとても嬉しくなり、ほっとした。
「こんばんは」
 少女は小声で、できるだけ優しく言った。しかし、相手の反応はない。少し間を置いてから、再び呼びかけた。
「こんな真夜中に、どうしたの?」
「まよなか?」
 甲高い、子供の声がした。男の子とも女の子ともとれる、不思議な声だった。リンローナはランプを持ち上げ、一歩近づいた。すると、相手は一歩引いた。リンローナと子供の間には、猫が人間を警戒するのと同じように、一定の距離が保たれた。
 ぼんやりしたランプの光は、リンローナの手元足元だけを照らす。子供にまでは届かない。子供は、リンローナから見ると相変わらず黒い影で、顔は判然としない。もちろん表情も分からない。
 警戒されている――。リンローナはちょっと寂しかったが、あえてそれ以上は近づかず、黒い人影に向かって語りかけた。
「そう、真夜中。みんな、おやすみの時間だよ。……あなたは、どうしたの? こんな時間に一人でいるなんて、危ないよ?」
 リンローナはこの子供に興味を持った。銀の鈴を鳴らしながら町を徘徊する、この子に。この子が鳴らした鈴の音は、町中に響きわたるのだ。
 辺りを包み込む月の光は、相変わらず穏やかだった。遠くの水音は静かだった。起きているのは、小さな自分と、もっと小さなあの子、そして巨大な夜だけ――。リンローナは思った。
 黒い人影は、少し首を傾けた。そして、さっきと同じ奇妙な声で言う。
「真夜中、危なくないよ。ぼく、真夜中、大好きなんだ」
「でも……」
 リンローナが言葉を濁すと、目の前の子供はふっと笑い、
「じゃあ、お姉ちゃんは、どうしたの?」
 と、逆に訊いてきた。リンローナはどぎまぎしながら、
「ええっと……ちょっとね、眠れなくて」
 と、曖昧に答えた。あなたの鈴の音が気になったの――とつけ加えようとして、やっぱりやめた。そんなことを、わざわざ言う必要はない。
 黒い影はうなずいた。
「ぼくも、眠れないから、町を散歩しているんだ。昼間、ぐっすりと眠っているから、夜は眠くならない」
「ふうん」
 相づちを打ちながら、リンローナは素早く考えていた。――目の前の子供、〈ぼく〉という代名詞を使っているということは、きっと男の子なんだろうな。
 その少年が続ける。
「夜の散歩は気持ちがいい。夜には、邪魔なものが何一つないから。こういう澄みきった夜の中でしか、ぼくの鳴らす鈴の音は響かない」
「そうだね」
 リンローナは同意した。静かな夜だからこそ、かすかな鈴の音が、遠くまで届くのだ。それに、闇は視覚を奪うぶん、聴覚を高めてくれる。
「お姉ちゃんも、鳴らしてみる? お姉ちゃんなら、鳴らせるはずだよ……銀の鈴」
 少年が言った。ふいに、リンローナの鼓動は高まる。心臓やこめかみが、どきどきし始めた。
 リンローナは、小声で確かめる。
「本当に?」
「さあ」
 黒くて細い腕が、リンローナの前に差し出された。手の平には、可愛らしい銀の鈴が、ちょこんと座っている。その様子は、まるで、真っ赤な林檎がテーブルの隅で一休みしているかのようだった。周りと調和して、全く違和感がない。
「やってみる」
 リンローナは慎重に、彼の手の平から鈴を受け取った。まずは自分の手の中で転がし、感触を確かめる。硬くて、ひんやりした鈴の表面に、少年のわずかなぬくもりを感じ取ることができた。
「できるだけ遠くに届けよう、と思いながら、ゆっくり振ってみて」
 少年がささやいた。リンローナは目をつぶり、静かにうなずく。
「うん」
 銀の鈴をつかんだ右手を、ゆっくりと掲げる。心を世界につなげて、空想の風景を解放する。
 遠く、遠く――町を越え、森を越え、海を越え、空を越えて――うんと遠くまで、響いて!
 
 ちりん、ちりん。
 
 リンローナの手の中から飛び出した鈴の音は、とても美しく冴えわたった。夜風がすぐに気づいて、はるか彼方(かなた)、旅路の果てまで、そっとそれを運んでくれた。鈴の音は、夜という水たまりに広がる、小さな波紋だった。もしも天使がいるのなら、きっと、こんなふうに歌うのだろう。
『……』
 え?
 リンローナは、はっとした。
 音の余韻に、誰かの声が混じっていたからだ。優しくて、切なくて、どこか懐かしい声。リンローナには、その声が誰のものか、すぐに分かった。ふいに、胸が熱くなる。
 その時、少年が微笑んだ。暗くて顔は見えない。見えなかったけれど、少年は確かに微笑んだのだ。
 そして静かに言う。
「お姉ちゃん……とても澄んだ、綺麗な心だね」
「ありがとう」
 しばらくの間、リンローナは、さまよう余韻を捜し続けていた――穏やかな心で。しかし、それを捕まえることはできなかった。さっきの懐かしい声も、もはや聞こえなかった。
 リンローナは素直に言う。
「さっき、鈴の音に混じって、お母さんの声が聞こえた。そして、すぐに消えちゃった。……あたしの気のせいかな?」
「ううん」
 少年は首を振った。
「ぼくもね、鈴の音を聴いていると、故郷やお母さんのことを思い出すんだ。すると、決まって、とても暖かい気持ちになれる。でも……」
「でも、同時に、とても寂しい気持ちにもなるんだよね」
 少年の語尾を、リンローナが補った。少年は何も言わずに、また笑った。それから二人は、しばらく黙りこんだ。星たちの間から、静寂が降ってきた。
 透明な静寂はしんしんと降り積もる。海の底で人知れず崩れ落ちる、死んだ珊瑚の亡骸のように――。それを壊してはいけないと、少年は細心の注意を払ってささやいた。
「お姉ちゃん。目をつぶって、もう一度、鈴を鳴らしてみて」
 リンローナは言われたとおり、目をつぶった。心臓の鼓動が聞こえる。静寂を吸い込み、自分の鼓動のリズムに合わせて、リンローナはゆったりと銀の鈴を鳴らした。
 
 ちりんちりん――。
 
 リンローナが再び鳴らした鈴の音は、限りなく安らかにこだました。気高い音が闇を溶かして、平穏を生み出す。その中で、リンローナは再び、余韻に潜む母の声を捜そうとした。
 しかし、突然。彼女は強い目眩に襲われ、がっくりと膝をついた。世界がひっくり返ってしまうような、恐ろしい力に捕らわれた――そんな気がした。もはや逃げられない。
 頭の中で、ピーという高音が鳴り響いている。――助けて! 
声にならない声をあげる。何かが頭の中に入り込み、記憶の引き出しをかき回している。ひどい頭痛。リンローナは頭を抱えて、うめいた。風景がゆがみ、吐き気がした。そのまま、倒れ込む。そして、次第に意識が遠のいていった。
 
「……ンローナ? リンローナ?」
 誰?
「眠い? もう、帰る?」
 あったかい――。気がつくと、誰かの膝枕に、自分の頭が乗っていた。とにかく、限りなく気持ちがいい。ふわあり、ふわりと、夢と現実の間に浮き沈みしていた。
 心の中までしみこんでくる、この暖かさの素は、何だろう。――そうだ、これは誰かの体温だ。リンローナは無意識のうちに、その名を呼んでいた。
「お母さん」
「なあに?」
 母が答えた。確かに、母の声だった。リンローナは身体を起こそうとするが、眠くて力が入らない。小さな両眼を、うっすらと開けるのが精一杯だった。
 すると、すぐ真上に、母の顔があった。その先に、星空が広がる。赤い光、白い点、青っぽい星――。夜空いっぱいにちりばめられた無数の星たちが、母と娘とを見下ろしていた。
 耳を澄ますと、優しい潮の音が聞こえる。母の暖かさと、通り過ぎる潮風が心地よい、夜の砂浜。自分の心臓の音と、母の心臓の音が合わさって、不思議な生命の和音を作り出していた。
 リンローナは思い出した。――そうだ。小さい頃、毎晩のように、夜の海辺に連れていってもらったっけ。あたしのわがままを、お母さんはいつも笑って許してくれた――。もう、十年も前になる。
「あれ、どうしたの? リンローナ、泣いてるの?」
 いつの間にか、涙があふれていた。顔に涙の筋が走り、最後は細い滝となって黒い砂浜にこぼれ落ちた。ぽたり、ぽたり。口の中に紛れ込んだ涙の粒は、海の味がした。
 リンローナは涙声で呼びかける。
「お母さん……」
「リンローナ、いい子ね……寂しい時には、思い切り泣いていいのよ」
 母が言った。リンローナはそれに答えることはできなかった。ただ、泣いていた。母の言ったとおり、泣くのに任せていた。頭上の星たちが、涙でにじむ。
 その時だった。夜空にすっと線が走った。まるで、降り始めた雨のように。――黒い空間に現れた突然の白い線は、跡形も残らず、一瞬で消えてしまう。
「あ、流れ星!」
 母は明るい声で言った。リンローナもそれにつられて嬉しくなった。顔をほころばせると、涙は止まった。それから、目をこすっていたら、母が布を出して、何も言わずに、優しくリンローナの涙を拭き取ってくれた。
 そうだ、あの日、あたしは初めて、流れ星を見たんだ――。リンローナは少しずつ、あの夜のことを思い出していた。手が届きそうで届かない、満天の星たちを見上げて。
 寄せては返す波のように、ゆるやかなリズムが訪れる。リンローナの身体をゆっくりと揺らしながら、母が言った。
「ねえ、リンローナ。……お星様ってね、どうして、あんなに輝いているか、知ってる?」
「ううん」
 リンローナは、母の膝枕に乗せている首を、わずかに左右に動かした。母は微笑む。暖かい吐息が、リンローナを包み込んだ。それはまるで、冬のひだまりのようだった。心の芯から暖まる。
 母は、遠くの夜空に想いを馳せていた。そして、少し間を置いてから、質問の答えを教えてくれた。
「あれはね、死んだ人たちの魂が、地上を思い出している光なのよ」
「……」
 リンローナは黙りこくってしまった。今にも睡魔に負けてしまいそうな状態では、その言葉の意味を、すぐに理解することはできなかった。
「リンローナには、まだ難しかったかしら?」
 母は、また笑った。そして、右手を掲げ、細い人差し指をいっぱいに伸ばして、ひときわ輝いている天頂近くの青白い一つの星を指さした。
「あれは、私のお母さん……つまり、リンローナのおばあちゃんよ」
「おばあちゃん、よ……」
 リンローナは無意識のうちに、母の語尾を繰り返した。今、リンローナの身体には、幼い頃の自分と現在の自分、二人の自分が混在している。
「うん。……それで、あの赤いお星様は、おじいちゃん」
 母は別の星を指さした。母に言われると、リンローナはそんな気がした。祖父や祖母の顔が、星の光に重なる。――そうだ、あの赤いお星様は、おじいちゃんなんだ。
 母は、指を静かに下ろした。ふぅと小さなため息をついて、話の続きを語り始める。
「昼間はおひさまの力が強すぎて見えないんだけれど、おじいちゃんもおばあちゃんも、そのまたお父さんもお母さんも……みんなみんな、いつでも、地上を思い出しているの」
「うん」
「そして、私たちを、ずうっと見守ってくれているのよ。私たちの目の前に続いている暗い夜道を、柔らかく照らしてくれているの」
 そう言い切ると、母はリンローナの髪の毛をゆっくりと、丁寧に撫でた。何度かそれを繰り返し、最後に言った。
「リンローナ。いつまでも、優しい心を忘れないでね……」
 それきり、母は黙った。星は、何も言わずに、瞬いていた。リンローナは安心し、静かに目をつぶった。深い眠りが、心の底から湧き起こる。それが、身体全体を満たした時、彼女は夢の中に堕ちていった。
 
 いや、夢から覚めたのだ――。
 気がつくと、リンローナは闇の中、右の手の平に銀の鈴をのせ、左手でランプを持って、呆然と立ち尽くしていた。
 頬を、流れ星のような涙が伝う。ゆっくりと夜空を仰ぐと、そこには、さっき見たのと同じくらい素晴らしい夜空が、しかし淡々と広がっていた。
 リンローナはそっとつぶやく。
「そう。……あの年に、お母さんも、天の住人になったの。病気がちだったけど、本当に心の優しい、お母さんだった」
 心がはちきれそうになって、たまらなくなって、リンローナはすがるような気持ちで、銀の鈴を鳴らしてみる。
 
 ちりんちりん。
 
 もはや、余韻の中に、母の声は聞こえなかった。鈴の音は、リンローナの心を映して、寂しそうに響いた。それは、春の雪のように、はかなく消え去った。
 リンローナは、目の前に立っている黒影の少年に訊いた。
「この音、遠く遠くまで響いて……最後には、お母さんが住んでいる、小さな純白の星まで届くかな?」
「うん。必ず」
 少年は、力強くささやいた。それから、
「その鈴、お姉ちゃんに、あげるよ」
 とつけ足した。
「えっ?」
 あまりに突然だったので、リンローナは驚いて、もとから大きな瞳をさらに広げ、訊ねる。
「あたしが貰っちゃって、構わないの? とても大切なものなんでしょう?」
 すると、少年は静かに、だがしっかりとした声で、答えた。
「大丈夫。お姉ちゃんになら、安心して渡せる。ぼくの鳴らす鈴の音に気づいてくれる人……ぼくは、そういう人を捜していたんだ。そして今夜、ようやく見つけることができた。ぼくは嬉しい」
「そうだったんだ……」
 リンローナは、とても暖かな気持ちになった。たまたま、夜にこだまする鈴の音が気になって、追いかけて。思い返せば、そういう何気ないところから、少年との出会いが始まったのだ。
 少年は、リンローナの手の平に座っている銀の鈴を、そっと持ち上げた。沈みかけた月の光が、鈴の銀色を抱きしめ、ひときわ輝かせる。
「大事にしてね。寂しい夜には、また、鈴を鳴らしてみて。そうすれば、失くしたものに、出会えるから」
 少年はそう言いながら、鈴をリンローナの手の平に返した。相変わらずランプの光は弱々しく、少年の顔は、ぼんやりした影法師にしか見えない。
 リンローナは心から礼を言う。
「ありがとう。本当に、ありがとう……。あたし、あなたのこと、きっと忘れない」
 言い終わると、リンローナは、急に目頭が熱くなった。目から、というよりも、心の中から、涙が沸き上がった。止まらない。涙の中で、黒い影がゆらめく。
「ぼくも忘れないよ」
 少年が言った、そして、
「ぼくは、そろそろ帰るから。お姉ちゃん、さよなら」
 と、簡単に別れの挨拶をして、ぺこりと頭を下げた。それは、まるで通り雨のように、突然だった。予期していなかった出来事にリンローナは驚き、慌てて訊ねる。
「待って! まだ、名前も聞いてなかった。あなたの名前は?」
「ぼくの名前は、夜のかけら……」
 少年の姿は闇に溶け、闇と同化し、跡形もなく消えてしまった。リンローナはその様子を呆然と眺めていた。自然と、透明な涙があふれ出す。あとは、去りゆく時間の流れだけが、別れの辛さを癒してくれた。リンローナは力無く腕を下ろす。
 その拍子に、鈴が鳴った。
 
 ちりん。
 
 こうして、小さな銀の鈴だけが残された。
 心の中で色々な想いが交錯し、しばらく泣いていたが、あとわずかしかないランプの残り油を確かめると、リンローナは涙を拭いて、しっかりと銀の鈴を握りしめた。
「あなたは夜で、夜はあなただから、夜の中にいれば、いつでも、あたしはあなたに出会える」
 リンローナはそこでいったん言葉を切った。新鮮な気持ちで、いつもの明るい口調で、つけ加える。
「それだけじゃない。お母さんが、あたしを見守ってくれている! あの空の果てから、いつまでも……」
 リンローナは、その場を去った。一度だけ振り向いて、こう言った。
「おやすみなさい、夜のかけら。おやすみなさい、お母さん」
 東の空が薄い青に変わり始めていた。夜明けは近い。
 握りしめていた銀の鈴が、温かかった。

(了)



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