死神記念日 〜
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秋月 涼 |
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剣と魔法の世界「森大陸ルデリア」の、とある街で。 「あれぇ? 星が増えましたね」 夜空全体に、薄い闇の膜が覆いかぶさった。星の瞬きを邪魔していた明るい月の光が、ついに駆逐されたのだ。雲隠れ? ……違う。快晴の空には、隠れるべき雲が存在しない。 「ま、いいや」 しぶとく残っていた望月の欠片(かけら)は、先ほど、本来の輝きを失った。星たちに政権を奪われた月は、単なる赤銅(しゃくどう)色の固形物に成り下がる。 「お忘れ物、お忘れ物ぉ〜」 赤い月の下(もと)、時折、何事かをつぶやきながら、両足を規則的に差しだし差しだし、まっすぐに歩き続ける一人の少女。弱々しい炎を秘める小さなカンテラだけが、彼女の唯一の道しるべである。 「静かね……」 夜が始まってから、それほど経っていないのに、通りには人っ子ひとり見当たらない。普段の活気は、月の無力化とともに消え失せていた。野良の黒猫が、道のど真ん中を、我が物顔で歩いている。 「急がなきゃ」 大通りに面する、立派なたたずまいをした家々の門には、必ずといっていいほど、ライオンの顔を象(かたど)った奇妙な黒い像が、太い綱でがんじがらめにくくりつけられていた。 「お忘れ物っ」 早歩きの少女はそれに見向きもしない。 加えて、街角の要所要所には、簡素な木の掲示板が、これでもかと言わんばかりにしつこく立てられていたが、少女はそれにも全く関心を示さず、素通りしていった。 ちなみに、掲示板にはこう記されていた。 【今宵(こよい)は恐ろしき死神記念日。 お守りの結界印(けっかいいん)を持たぬ者、 けっして外出するべからず。 セラーヌ町領主・侯爵レオン】 やがて家がまばらになり、少女は墓場へ続く細い道に入った。冷たい木枯らしが頬にしみる。じっとしていれば、かなり寒いはずの初冬の晩であるが、少女は厚着をしているし、その上、さっきから歩き続けているので、額には汗の粒が浮かんでいるほどだった。 「ここが近道なのよねぇ」 吐息は白い。皮靴の裏で乾いた地面を踏みしめながら進んで行くと、枯れ草の間に、石造りの墓標が見え始めた。その向こうには、何かの大きな建物が、黒い影となってたたずんでいる。 「確か、机の中に置きっぱなし……」 暗くて寂しい墓場通り。常人ならば、沸き上がる恐怖感に耐えられず、つい小走りにもなるだろう。しかしながら、少女は無表情のまま、変わらぬ速さで歩き続けた。 その時。 彼女の背後に、不気味な影が忍び寄った。まるで闇から作り出したような、大きい黒色のマントを全身にかぶり、顔に当たる部分だけを露(あら)わにしているが、そこも黒く窪(くぼ)んで判然としない。後ろ手に抱えた凶器の刃は鋭く研ぎ澄まされ、顔の奥底に沈む怪しい二つの眼は、獲物を見つけた喜びできらりと輝いた。 黒マントは、音もなく接近する。一方、狙われた少女の方は、迫りくる危険に全く気づいていない。相変わらず、意味不明な独り言をつぶやいているだけだ。 「お忘れ物ぉ〜」 黒マントは、ついに凶器を持ち上げた。恐ろしく切れ味の良い、特製の鎌だ。彼はゆっくりと振りかぶる。静止した刹那(せつな)が、とても長く感じられる。鎌の刃に赤い月が映った。 「急がなきゃあ」 と少女が言った瞬間。巨大な鎌が、少女の首の付け根を狙い、斜めに振り下ろされた! シュッ。空を切る音。 「……」 黒マントは、特製の鎌を握りしめたまま、黙って立ちすくんでいる。わずかな静寂のあと、遠くで、フクロウの鳴き声がした。 少女は……。 「なんなの。どうして、急にほどけるの。困ったなあ」 先刻、鎌の刃は正しく照準を合わせ、確実に標的の命を奪ったかに見えた。まるで、獲物に襲いかかる貪欲(どんよく)な鮫のように。 しかし、そうはならなかった。やられると思われた直前、少女は突然しゃがみ込み、靴紐を結び始めたのだ。結果、黒マントの恐ろしい攻撃を、間一髪で避(よ)けてしまった。あまりにも運がいい。 「さ、急がなきゃ」 紐を結び終え、両手をはたいて立ち上がった少女は、黒マントの存在には、未だ気づいていないようだった。何事もなかったかのように、平然とした顔で歩きだす。 これには、黒マントの方がとまどった。彼にも一応プライドがある。攻撃が失敗したどころか、存在すら知られないままでは、あまりに情けないではないか。 彼は独特の低い声で唸(うな)った。空気が震える。 「やい、そこの小娘。止まれ!」 「お忘れ物〜」 黒マントの健闘むなしく、少女は完全に無視。墓場通りをお構いなしに歩いていく。振り向く素振りさえ見せないのは、奇人を通り越し、ある意味で立派な態度に見えた。 「止まらんかッ!」 幾ら黒マントが命令しても、少女は突き進む。下り坂にさしかかり、勢いは緩むどころか、逆に加速していた。困惑する黒マント。 「こしゃくな……」 今夜は土の匂いまで寒々しい。歩き続ける少女の後ろ姿が遠ざかったので、黒マントは風に乗り、軽やかに中空を漂った。木々の枝と枝との間を器用に飛び、先回りして少女の前に立ちはだかる。 「覚悟しろ!」 またもや鎌を振り下ろそうとする黒マント。少女の命が再度の危険にさらされた……直後。 ドシンという、ぶつかる音。ドタンという、何かが倒れる音。そして低いうめき声。 「な、何? よく見えないわ」 少女はいったん眼鏡を外し、慎重に息を吹きかけた。レンズが白く曇る。次に、上着のポケットから取り出した布で眼鏡全体を何度も丁寧に拭いた。 「この野郎……」 少女に真正面から衝突された黒マントは、さも不愉快そうにつぶやいて、立ち上がる。 「ごめんなさい。私、目が悪いの。それに、急いでいたんです。すみませんでした」 少女は眼鏡をかけ直してから、素直に謝罪し、ぺこりとお辞儀すると、すぐに再び歩きだそうとした。黒い影はマントを大きく広げて行く手をはばみ、怒鳴り声をあげる。 「こら、お前、待て!」 「私はオマエという名前ではありません。セリカ・シルヴァナと申します。セラーヌ町立魔法学院聖術科在籍の三年生、歳は十七と九ヶ月です」 言い終わってから、セリカはきょとんとした表情で、黒マントの奥に光る二つの眼を、不思議そうにのぞき込んでいた。対する黒マントは、さらに困惑する。 「名前なんて聞いてないぞ、俺は」 「え? でも、自己紹介は最低限の礼儀ですよ! あなたも今すぐ名乗りなさいっ」 会話は全くかみ合わない。二人の間には気まずい空気が流れていた。黒マントは苛立ちながらも、仕方なくセリカの言葉に従う。 「見てわからんのか? 俺は名高い死神様だ。……実のところ、冥界(めいかい)での地位は低いので、さらなる出世を目指して修行中の身だがな」 「シニガミさん?」 セリカは首をかしげ、眉間にしわを寄せ、必死に記憶の糸をたぐっていたが、やがて顔を上げ、諦めたように言った。 「どこかで聞いた気がするのですが、はっきりとは思い出せません。……それにしても変なお名前ですね」 死神はがっかりして、うなだれた。 「俺の存在を知らんとは、何事だ! あぁ、俺も落ちぶれたものよ……」 その時、セリカははっと我に返り、険しい顔つきになった。急に早口で捲(まく)し立てる。 「ところで、何か御用ですか? 私、急いでいるんですけど」 「御用も何も、死神がすることなんてただ一つ……フフ」 黒マントの奥から薄ら笑いが聞こえた。セリカは長い金髪をかき上げ、不機嫌(ふきげん)そうにそれを一蹴する。 「もしも、何かあるのでしたら、私の用件が片づいてからにして下さい。それまでは、絶対に許しません!」 死神は一瞬驚いたが、すぐにうなずいた。 「面白い……お前のような人間は初めてだ。今まで会った奴らは皆、俺様の姿を見ると慌(あわ)てふためき、恐怖と焦りの中で鎌の餌食(えじき)に……おいこら、待てー!」 「お忘れ物〜」 セリカは死神の演説を無視し、すでに歩き始めていたのだった。 「……まあよい。今回の一人目の獲物は、これで決まったわけだ。俺様の好意により、特別に執行猶予を認めてやるぞ」 ほくそ笑む死神。それから彼は宙を舞い、セリカのあとを追った。空は暗く、相変わらずの赤い望月が、死んだように浮かんでいた。死神は、その空に向かって叫んだ。 「ああ、俺はなんて思いやりのある優しい死神なんだろう!」 細い墓場通りは続く。ほとんど葉を落としてしまった木々の梢(こずえ)が、木枯らしに揺れた。分かれ道を右へ左へ。すると、その向こうに浮かび上がる黒い建物の影を、はっきりと確認することができた。セリカの足音と呼吸、そして独り言が、静寂の中で奇妙に響く。 「ようやく着きそうですねぇ」 「お前、一体どこに向かってるんだ?」 空飛ぶ死神が頭上から訊ねると、 「私の通っている聖術学院です。うっかり机の中に忘れ物をしてしまいましたので……」 セリカは即答した。その口調は、相変わらず落ち着いている。少しの動揺もみられない。 さて、ついに墓標が途切れ、道が大きく右に曲がると、学院の裏門が暗闇の中にぽっかりと現れた。すでに宵の口だ。とっくに戸締まりを終え、今や学院はもぬけの殻である。 「よいしょ」 鉄で作られた小さな門は、堅い錠(じょう)で閉ざされていた。幾らセリカが押したり引いたりしても、その程度ではびくともしない。 「やっぱり駄目ですね。困りました」 「……お前、要するに不法侵入しようとしていたのか? あきれた奴だ」 セリカもセリカだが、死神の口から〈不法侵入〉という単語が出ること自体、根本的におかしい。よくよく考えれば、死神は今まで、何度も殺人罪を犯してきたはずなのだ。 「不法ではありません。私は生徒ですから」 そう反論してみたものの、施錠後の学院には簡単に入れそうもなく、セリカは門を前にして困り果ててしまった。 「どうしましょう。大事なお忘れ物なのに」 その時だった。死神が一つの提案をした。 「おい、小娘。俺様が空から運んでやろうか? それなら簡単に門を飛び越えられる」 ……どうせ、あとで自分が頂く命だ。少しくらい手伝ってやっても良いだろう。 「本当ですか?」 セリカの両眼が、期待に満ちて爛々(らんらん)と輝いた。死神は、まず、持っていた鎌をマントの中に押し込んだ。あんなに巨大な鎌だったのに、小さなマントの中に吸い込まれ、あっという間に収納されてしまった。死神は言う。 「運んでやるのはいいが、その前に準備をしろ。あの像を、今すぐ門から取り外すのだ」 目の前に立ちはだかる学校の裏門にも、さっき町で見かけたのと同じ奇妙なおまじない――黒いライオン像と、太い綱――が施(ほどこ)されてあった。死神は面倒くさそうに説明する。 「そいつは俺の侵入を防ぐために取りつけられた、建物用の結界印の一種だ。魔力は弱いので、俺が本気を出せばすぐに破壊できるが、こんなところで無駄な力を使いたくない」 「あ。確か学院の先生も、それと同じ話をおっしゃっていた気がします。私はその時、別のことを考えていたので、しっかりとは聞いていませんでしたが」 セリカがしきりにうなずき、納得するのを見て、死神はあきれ果ててしまった。次に、怒りの感情がこみ上げる。 「お前は一つのことに夢中になると、他がおろそかになりすぎる。まず、その欠点を認識しろ。いいか。他人(ひと)の話はちゃんと聞くべきなのだ! この際はっきり言っておくが、俺様と死神記念日についての情報は、この町の人間なら誰でも知っているはずの一般常識だぞ! そもそも、お前はなぁ……」 柄(がら)にもなく説教を始めてしまった死神。話はどんどん横道にそれる。 「数年に一度の皆既月食。満月が光を失い、赤銅色に変わる晩。その都度、俺は封印を解かれてこの町に現れ、久しぶりの食にありついてきたわけだ。人間どもは俺を恐れおののき、結界印というものを作り出したが、俺様の絶大な魔力の前では、ほとんど意味をなさない。討伐隊とやらも組織されたが俺の足下にも及ばず……」 得意になって、自慢話に没頭していた死神は、かすかな呼吸音を聞いて、我に返った。 「すぅー」 死神は目線を下げ、セリカを見る。そして思わず言葉を失った。変な音は、セリカの寝息だったのだ。立ったまま居眠りしている。 「畜生。奴には何を言っても無駄なのか?」 冷めた夜空を見上げると、赤い月は先ほどよりも微妙に東へ移っているように思えた。 「まずい、時間がない。……おい、小娘、今すぐ起きろ!」 死神は慌ててセリカの身体(からだ)を揺すった。セリカは寝ぼけ眼(まなこ)をぼんやりと開けて、答えた。 「私はコムスメではなくセリカです……」 「とにかく、あの像を外せばいいんですね」 「端的(たんてき)に言えばそういうことだ」 「わかりました、やってみます。像、像〜」 セリカは裏門の前に立ち、綱に手をかけて、あっちを締め、こっちを引っ張り、ライオン像と門とをがんじがらめに結びつけた太い綱を外そうと努力した。 「ライオ〜ン像ぉ」 またもや独り言をつぶやいているセリカ。そばで見守る死神は、彼女に大いなる不安を感じたが、自分自身は結界印を触ることが出来ないので、どうしようもなかった。 「早くしろ。俺には時間がないんだ!」 「シニガミさん、急(せ)かさないで下さいよ」 焦燥(しょうそう)感を強める死神と、冷静かつ呑気(のんき)なセリカ。死神は、空の月とセリカの作業とを代わる代わる眺めてから、自分に言い聞かせる。 「皆既月食……死神記念日が終わり、月が光を取り戻したら、俺はこの世界にいられない。何としても、それまでに食事を済ませなければならぬ。この機会を逃したら、飯(めし)は数年間、おあずけになってしまうのだ!」 「あれれっ?」 突然の、セリカの情けない声が、死神を落胆させた。見ると、綱がこんがらがり、にっちもさっちもいかない惨状を呈していた。 「くそっ。どいてろ!」 死神の黒マントがひときわ青く輝く。次の瞬間、マントの奥底に沈む両眼から、鋭い雷光がほとばしった。辺りに焦げ臭い匂いが漂う。煙が引くと、ライオン像は見る影もなく破壊されていた。 死神は荒い息づかいで言う。 「はぁはぁ……早く俺のマントにつかまれ。うぐっ……門を飛び越えるぞ」 「すごいですねぇ!」 セリカは惜しみない拍手を贈った。それから、無表情のまま、こくりと首をかしげる。 「ところで、門を飛び越えて何をするんでしたっけ?」 「はぁ? な、何だと?」 死神は愕然(がくぜん)とし、かつて味わったことのない虚脱感と厭世(えんせい)観にさいなまれるのであった。 こうして二人は学院の敷地内に潜入した。セリカは校舎の各所で、入口の扉を押したり引いたりした。が、全てに鍵がかけられている。扉は、侵入者をかたくなに拒(こば)んでいた。 建ち並ぶ数棟の木造校舎を後目(しりめ)に、ずいぶん、学院の奥の方までやって来た。セリカは最後の扉に手をかけた。……動かない。 死神の怒りは、もはや爆発寸前だった。 「おい、全部閉まってるじゃないか。一体、どうするつもりなんだ!」 「まあまあ、落ち着いて下さいな」 セリカが軽い調子でなだめたが、逆効果。さらに腹を立てた死神は、一息で言いきった。 「今度はこの壁を破壊しろと言うのか? そんな下らないことに俺の力を使うのは御免だぞ。全くお前という奴は……」 まるで夫婦喧嘩(ふうふげんか)である。 「お黙んなさい! ここから入るのよ」 セリカが厳しく言い、指さした先には、傾きかけた小さな倉庫があった。粗悪な木材で作られた、年代物の倉庫だ。 外れかかった取っ手をつかみ、セリカが思いきり力を入れると、倉庫の引き戸は重い音を響かせて、ゆっくりと横に動いた。 「ここは立て付けが悪くて、戸締まりが出来ないんです。……さあ、校舎に入りますよ」 「ふん」 死神は鼻で笑った。空の赤い月はさらに東へ移動し、数年に一度の皆既月食は、そろそろ終わりに近づいていた。 よどんだ空気。か細いカンテラの光に先導されて、二人は埃(ほこり)っぽい倉庫の中を突き進んだ。片隅には、使い古しの机や椅子が、無造作に重ねられていた。地震が来れば、ドミノ倒しの要領で、見事に倒壊してしまいそうだ。 物と物との間を縫って、見た目以上に小さく狭苦しい倉庫を行くと、程なくして校舎側の出口にたどり着いた。 「よしっ、と」 セリカは、ドアの取っ手をつかんで右に回し、そのまま手前に引っ張った。ぎぃーっという嫌(いや)あな音を立てて、ゆっくりと開いたドア。その向こう側には、不気味なトンネルのような、暗い廊下が続いていた。 「ようやく、忘れ物に近づいてきましたね」 セリカはそう言って、うなずいた。 「とっとと行くぞ!」 死神は、いつ皆既月食が終わるのかと、気が気ではなかった。 足音、足音、風の音。昼間は学生で賑(にぎ)わっているはずの廊下は、完全に生気を失っていた。セリカが歩くと、木の床は時折きしんで、奇怪な鳴き声をあげた。そしてまた響く足音。 「お前、よく、怖くないな」 セリカの上方を浮遊しながら、死神がふとつぶやいた。 「じゃあ、シニガミさんは怖いんですか?」 セリカが訊ねると、 「馬鹿いえ! 死神に怖いものなど存在するわけなかろう!」 死神はすぐに大声で否定した。 すると。かろお、ろお、ろぉ、ぉ……。語尾が木の床と低い天井に跳ね返って、何度もこだました。死神は一瞬、ぴくっと震える。 「ほうら、やっぱり怖いんだ」 セリカが追い打ちをかけると、死神は黒いマントをほの赤く染め、大声で怒鳴った。 「調子に乗るなよ、小娘。……お前、俺との約束は覚えているだろうな。用事とやらが済んだら、次は俺の言う通りにしてもらうぞ」 「え、そんなお約束しましたっけ?」 セリカは両眼をしばたたかせ、首をひねった。死神はあえて反論せず、ぐっと我慢し、こみあげてくる怒りを抑えて低く唸った。 長い廊下もそろそろ果てが近づくと、セリカは急に左へ進行方向を変えた。そこには二階へ続く階段がある。セリカは右手で壁を触り、左手でカンテラを握って、一段ずつ、慎重に上り始めた。死神もあとを追う。 踊り場のあたりで、セリカが言った。 「ところで、シニガミさんって、要するに、人間の言葉を話すことができる新種の烏(からす)なんですよね? 空が飛べますし」 「か、烏だと?」 死神は絶句し、全身の力が抜けて階段に落下した。直後、辺りにはものすごい音が響きわたった。死神が階段を転げ落ちたのだ。 「あらっ。大丈夫ですか?」 セリカはカンテラを足下に置いてから、急いで階段を駆け下りる。慌てたため、あと少しというところでつまずいてしまい、勢いの止まらないまま、思いきり死神の上に倒れ込んでしまった。 「ぐはっ……」 踏んだり蹴ったりの死神。セリカはすぐに立ち上がると、右手を天に掲げた。 「烏のシニガミさん、安心して。授業で習った治療聖術で、お怪我を治して差し上げます。БЁЦД、聖なる女神ユニラーダよ……」 「やめ、やめ、やめろっ!」 死神は急いで起きあがった。しかし、セリカは魔法の呪文を唱え続ける。 「……この者の怪我を治したまえ。ハロ!」 セリカの指先から、柔らかな白い光が飛び出した。光は、すぐに死神を包み込む。 「うぎゃぁぁ、くぅぅ」 死神は金切り声をあげ、耐え難い苦痛をこらえている。一方、セリカは胸を張り、誇らしげに語った。 「私に感謝して下さいね〜」 「馬鹿野郎……負の力に属する俺様に、正の属性を持つ聖術を使ったら、傷は余計に悪化するだろうが!」 さらにセリカを責めたてようとした死神は、嗅覚(きゅうかく)に異常を感じて、急に黙った。 「……ん、これは何の匂いだ?」 なんだか焦げ臭い。死神は辺りを見回した。壁でもない、床でもない。どこだ。どこなんだ? 死神はゆっくりと目線を下げた。 「ぐわっ、俺か!」 さっきの聖術の影響か、自慢の黒マントから、幾筋かの白い煙がくすぶっていた。次に、身体が熱くなってくる。 「火事だ、俺様が火事だ!」 死神はそこら中をものすごい速さで飛び回り、その風圧で自らの火を消そうとした。あっちへぶつかり、こっちへぶつかり……マントがぼろぼろになるのも気づかないまま、死神は焦って飛び回った。死神がぶつかるごとに、古い校舎は大きく揺れる。 「冬場のボヤは、すぐに飛び火するから要注意ですね」 セリカは遠目で、死神の慌てふためく様子を観察し、勝手に分析していた。 「三年水組……ここです」 二階の、手前から三番目の教室。セリカは手にしたカンテラを引き戸に近づけ、クラスの番号を確認すると、一気に開け放った。 「やっとだ。やっとここまで来た」 死神の声はかすれている。感激もひとしお、と言った感じだ。見渡すと、教室には、さっき倉庫で見かけたのと同じ形をした机が二十脚ほど並べられていた。それぞれの机の前には、一つずつ、簡素な椅子が置いてある。 「忘れ物〜」 窓際にある自分の机に手を突っ込んで、中身をかき回していたセリカは、しばらくすると何かを取り出して、カンテラの光にかざし、 「あった」 とつぶやいた。その時、真っ先に喜んだのは死神だった。思わず大きく飛び上がり、天井に頭をぶつけたのも気にならない様子で、歓喜の声をあげた。 「やったやった! これで飯にありつける」 「せっかく全校生徒に配られた大切な物を忘れちゃって……でもよかった。これで安心して帰れます」 セリカは、彼女にしては珍しく、表情を緩めて満足そうに忘れ物を右手でつかむと、死神の待つドアの方に向かって歩きだした。 一方、食欲を抑えきれない死神は、ご自慢の鎌を取り出すことも忘れて、向かってくるセリカに飛びかかった。 「いただきまーっす!」 死神の身体が宙を舞う。死神は、自ら作り出した風に乗って、まずセリカの腕に飛びかかり、かじりつこうとした。黒いマントの奥底から、鋭い牙が現れる。 「きゃあ!」 さすがのセリカも、これには悲鳴をあげた。右手でつかんだ忘れ物も、左手のカンテラも投げだし、全身全霊を込めて後ずさりした。次々と机が倒れる音……セリカが思いきりぶつかったのだ。 「痛いです」 涙声のセリカ。 「急に何をするんですか。ひどすぎます」 机に腰を打ちつけた結果、痛くて起きあがれない。セリカは丁寧に腰をさすりながら、泣きべそをかいている。 まさに、その時だった。教室内に、死神の高らかな笑い声が響いたのは。 「わっははは……執行猶予は終了だ……モゴモゴ……目的を果たし、これでお前も心おきなく死ねるだろう……クチャクチャ……何だこれは?」 口の中で何かを噛み砕いている死神。セリカは腰の痛みをこらえ、辛(つら)そうに何度も言葉を区切って、こう訊ねた。 「ところで、シニガミさんの、私への用事って、一体、何なのですかっ?」 死神はセリカの発言を無視し、一歩一歩、彼女のもとに近づく。セリカの目の前で立ち止まると、さっきから噛み砕いていたものを味わいもせず一気に飲み込み、そして落ち着いた口調で語った。 「用事の前に、一つだけ質問をする」 セリカは腰を押さえながらうなずいた。死神はしばらく間を置いた。万物の静止と静寂。 それから死神は、凄(すさ)まじい大声で叫んだ。 「お前の忘れ物は、一体、何だったんだ〜! オゥエェェェェ……」 下を向き、マントの奥底から何かを吐き出している死神。セリカは突然の大音響に、心臓が飛び出しそうなほど驚いたが、蚊の鳴くような声でつぶやいた。 「先生が、必ず今夜は身につけなさいとおっしゃった、結界印というお守りです……何のためかは、聞き逃しました」 セリカは夜になってから、それを学校に置き忘れたことを思い出し、わざわざ取りにやって来たのだった。 そして先ほど、死神が襲いかかってきた時、彼女は手にした結界印を思わず投げ捨てた。そのお守りは宙を舞い、突進した死神の口の中に、まっすぐ吸い込まれたのだった。 死神除けの結界印。それ自体の魔力は弱く、気休め程度なのだが、さすがに体内に入り込むと、死神に与える打撃は大きかった。 「グォェェッ……畜生、この町には、二度と来ねえ……絶対に来ねえ……」 死神は情けない声を発しながら、身体を引きずるようにして教室を抜け、廊下に出た。 次の瞬間、死神のうめき声は途切れ、辺りには夜の静けさが戻った。セリカはそれから数分間、涙目のまま腰をさすっていたが、急に不安を感じて、ゆっくり起きあがると、廊下の方に歩いていった。 ドアから顔を出し、左右を見渡す。見たところ、誰もいない。風が吹いて、窓がきしんだ。その向こうには、皆既月食を終えて細い光を取り戻した、冬の月が浮かんでいた。 「シニガミさん、どこに行ったのですか?」 返事はない。セリカはさらに語調を強めた。 「忘れ物を返して下さい! それと、シニガミさんの用事って、一体、何なのですか?」 しかし、セリカの声は虚しく廊下にこだまするだけだった。 仕方なく、教室に戻ってカンテラを抱えると、彼女は校舎をあとにして、裏門をよじ登り、墓場道を通って自分の家に帰り着いた。 こうして、今回の死神記念日は、一人も犠牲者が出ないうちに終了した。翌日、町中はその話で持ちきりになった。 「旅の冒険者が、死神を討伐したのだ」 「結界印が普及した成果だ」 しかし、何度確認しても、その日に町を訪れた冒険者はいなかったし、結界印の魔力だって高が知れているので、どれも有力な裏付けにはならなかった。 セリカの通っている聖術学院にも色々な噂が飛び交ったが、理由は誰にもわからない。 「お買い物〜。急がなきゃ」 事件の張本人さえ気づいていないのだ。わかるはずがない。 なお、あの死神は、二度とセラーヌ町に現れることはなかった。伝承はうやむやになり、忘れ去られ、結局〈死神記念日〉という名称だけが残った。現在、皆既月食の晩には、赤い月の下、町を挙げての盛大な祭りが開かれている。 | ||
(了) | ||
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