失くし物

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 


 ユイランはさっきから、狭いベッドに横たわって、とある冊子を読みふけっていた。
「行って来るわね」
「行ってらっしゃい」
 師匠のセリュイーナが買い物に行く時も、ユイランは顔を上げずに声だけで送り出した。そして相変わらず、同じ冊子を丹念に読みふけっている。
 紙質が極端に悪いので、破いてしまわないように、慎重にページを繰る。その微かな音は、吹き荒れる風の大音響にかき消された。
 肌寒い部屋の中には、ユイラン一人しかいない。彼女は十九歳で、修行中の格闘家。数日後に闘技大会がある……さっきから読んでいるのは、その大会のパンフレットだった。
 ルデリア大陸の北東部にある、トズピアン公国。メラロール連合王国を構成する〈四公国〉に名を連ねているものの、未開の地にほど近く、他の公国に比べると産業や魔法の発達が遅れている。
 ユイランが滞在しているのは、この国の公都であるマツケ町。住民のほとんどが、知力よりも体力が自慢の、東方民族・黒髪(くろかみ)族だ。もちろんユイラン自身も、そのうちの一人である。
 普段は、海を隔てたメロウ島の修行場で、セリュイーナ師匠のもと格闘の稽古(けいこ)に励んでいるユイランだが、今の時期は公都で開かれる春季闘技大会に備えて、こちらに移り住んでいた。町の郊外にある安いボロ宿で、師匠や仲間たちと共に生活している。
 さて、その日はたいへん風が強かった。古い木造の宿屋は、怖いくらいにギシギシ揺れた。部屋に入り込む隙間風は、とても冷えていた。
「春一番ね」
 ユイランは突然立ち上がり、窓の外を見つめた。北国の弱々しい太陽の光と、青い空、ただよう白い雲。
 そして、その中でひときわ目立つ、赤い〈何か〉。それは活発に動く蛇(へび)のように、青空の舞台で激しく踊っていた。
「何だろう?」
 興味津々のユイラン。じっと目を凝らす。しかし次の瞬間、彼女は驚きで黒い瞳をまあるく見開き、大声で叫んでいた。
「大変ッ!」
 ……あこがれのセリュイーナ師匠が買ってくれた、大切な大切な赤いマフラー。いい天気だし、せっかくだから太陽の香りをつけようと、窓辺に干しておいたのが運のつき。
 紐でしっかり固定したはずなのに、折からの強風にあおられて、飛ばされたようだ。
「もーう!」
 さすが格闘家のタマゴ。考える前に身体(からだ)が動く。厚手のコートを適当に羽織り、宿の階段を一段抜かしで駆け下りると、ユイランは表に飛び出した。
「おっと」
「きゃっ」
 玄関前で、井戸水を汲んできた宿の娘と鉢合わせ。桶が傾き、水が大量にこぼれた。
「ごめーん!」
 と謝りながら走り去る、ユイランの背中に、娘が素早く質問を投げかける。
「ユイラン様、どちらへ?」
「マフラー!」
 天を指さして爆走するユイランの後ろ姿は、すぐに建物の影で見えなくなった。桶を持ったまま唖然とした表情でたたずむ、宿の娘。
「マフラー? ……そんな場所、この町にあったかしら?」
 
「ふぅふぅ。師匠が帰ってくる前に、取り戻さなきゃ」
 通りに出たユイランは一度立ち止まり、空を仰いでマフラーの位置を確認した。強風特急に乗って、不規則に進む天の赤蛇。
「あっちね」
 意味もなく指をぱちんと鳴らすと(これは彼女の癖だ)、ユイランは疾走を再開した。だんだん鼓動と呼吸が速くなる。
「はぁはぁ……こんな時、空飛ぶ魔法があれば便利だろうなあ」 
 素手での格闘を専攻しているユイランは、全く魔法が使えない。習えるものなら、ちょっとだけ習ってみたい気もするが、周囲に使える人がいないのだから諦めるしかない。
 一般的な傾向として、黒髪族は魔法と相性が悪いようで、この国の魔法浸透率はすこぶる低い。
「南の国へ行けば、空泳ぎ用の浮き輪さえ実用化してるらしいし。ほんと、羨(うらや)ましい!」
 ぶつぶつ言いながら走っていると、強い追い風が背中を押してきた。一気に身体が冷やされ、腕に鳥肌が立つ。
「寒っ」
 芽月(三月)は春の始まりとされるが、そんな常識を振りかざしてみても、北国のトズピアン公国においては、しょせん無意味である。春とは名ばかり、吹きすさぶ風には鋭さが残る。
 駆け足の代償として、背中にじっとりと汗が浮かぶのを感じながらも、ユイランは寒さに耐えられず、上から順にコートのボタンをかけていった。
 次いで、耳をすませる。
 後方から、自分以外の何者かが走っているであろう足音と、荒い息づかいとが聞こえてきたのだ。脇目すると、それは背の低い少年だった。七、八歳……か。
「おねえちゃん、邪魔だよ。どいて!」
 少年はそう叫ぶと、速度を上げ、ついにユイランと並んだ。負けず嫌いのユイランは、追いつかれたのが気にくわない。
「邪魔とは、何よ!」
 本気になって、ペースを上げる。横にいたはずの少年が視界から消え、しだいに差が開いていった。
 しばらくして後ろを振り向くと、少年は角を曲がり、ちょうど細い裏道に入ったところだった。
「やれやれ」
 あんなのがいると、やりにくいったらありゃしない。……ユイランは安心して、マフラーのゆくえを確かめるために空を見上げると、すぐに青ざめた。
 風の吹き方が微妙に変化したせいで、少年の入った横道こそが、マフラーに近づく最善のコースに思えるのだ。
「もうっ!」
 ユイランは回れ右をし、少年を追いかけるような形で、例の路地に入った。辺りの通行人は、みな、首をかしげる。
「何してるんだろう?」
「こんな町中で鬼ごっこだろうか?」
「それにしても妙な子たちですね」
 ……ひとまず、不思議がってはみるものの、ユイランの姿が見えなくなると、彼らはそれぞれの日常へと戻っていく。
 
「暑ぅい。ふー」
 額から汗がしたたる。やたらと口が渇く。後ろで結んだ長い黒髪は、ユイランの動きに合わせて左右に振れた。
「どうやら追いついたようね」
 歩幅と持久力が、はなから違う。ユイランは、すぐ少年に並んだ。
 追う側よりも追われる側の方が、気分的には落ち着かないものである。少年は半分振り向き、あからさまに嫌そうな顔をした。
「はぁはぁ……お前、何なんだ?」
 素朴な疑問を投げかけると、年上の女格闘家は、
「あたい、ユイランよ」
 と、至って真面目な口調で答えた。少年は息切れしながら、苦しそうに笑う。
「へへっ、名前なんて、聞いてねえよ」
 その時だった。
「ギャン!」
 ユイランが、休息中の犬のしっぽを踏んづけたものだから、さあ大変。どこまで続くかわからない不毛な競走に、新たな参加者が加わった。
 犬の方が人間よりも速いかと思いきや、人間に直せば相当の年齢に換算されるであろう茶色の毛並みをしたその犬は、いくら全力を出してみても、二人との距離はちっとも縮まらない。
「じゃ、あとはよろしくね!」
 少年に合わせてペースを落としていたユイランは、指をぱちんと鳴らすと、抑えていた実力を発揮し始めた。ぐんぐん差が開いていく。
 少年は悔しそうに舌打ちした。
「ちぇっ。ねえちゃん、ずるいぜ!」
「るんるんるーん♪」
 ユイランは爽快な気分で坂を下りながら、ちらりとマフラーの位置を確かめた。次に自分の周囲を見渡す。
 夢中で走るうちに、いつの間にか町中に入っていた。二、三階建ての、素敵な木造の家が建ち並んでいる。
 それらの建物のせいか、風の吹き方が以前に増して不規則になり、マフラーの高度はだいぶ下がってきた。
 ついに、何の変哲もない一軒家の屋根の上に、ひらりと舞い降りる。
「よっしゃー!」
 ユイランは思わず奇声を発した。それから、ボタンを外して重いコートを脱ぎ、走りながら小脇に抱えた。
 問題となる家の前で……コンコンコンコン。息を切らして、何度もノッカーを、しかも思いきり叩くユイラン。
「どなた? うるさいわねえ」
 中年の女性の声で返答があるのを聞くや否や、ユイランは勝手にドアを開け、家の中に足を踏み入れていた。
「お邪魔しまーす!」
 家族水入らずの夢曜日。小さなテーブルを囲んで、父・母・三人の子供たち、計五人家族は、母親が焼いたと思われるクッキーをほおばっていた。
 彼らは突然の無礼な訪問者を見ると、呆然とした表情で、口をぽかんと開けたまま、まるで静止魔法でもかけられたかのように凍りついていた。
 その様子を目の当たりにして、さすがのユイランも顔がひきつる。
「は、はははっ、食事中失礼しました。ちょこっと、屋根の痛み具合を調査するだけですんで……」
 とっさに嘘の理由をでっち上げて一礼したあと、何事もなかったかのように階段を駆け上がるユイラン。
 薄暗い屋根裏部屋で蜘蛛の巣と格闘し、梯子(はしご)を手探りで昇ると、ようやく陽の光にめぐり会えた。
 降り積もる雪を落としやすくするため、急な角度になっている屋根は歩きにくい。三月といっても、海に近いこの町では雪は溶けて久しいので、幸いなことに屋根は乾いているが、もしも足を踏み外せば命に関わる。
「さてと、マフラーはどこかな?」
 ユイランは呑気に構えた。もう、マフラーを見つけたものと決めつけている。……しかし、現実はそんなに甘くない。
「あれっ? なくなった!」
 ユイランが悲痛な叫び声をあげると、下から甲高い子供の返事が聞こえた。紛れもなく、さっきの少年だ。
「ねえちゃーん、向こう、向こう!」
 大きな声と大げさな身振りで、マフラーのゆくえを示す少年。その方向に視線をずらすと……。
「!」
 ひと休みした後、この屋根で別の風に乗り換え、またもや空の旅を続ける赤いマフラーの姿が、そこにあった。
「ありがとう。今行く!」
 少年に感謝の意を告げると、ユイランは挨拶も早々に、その家を辞した。家族は皆、怪訝(けげん)そうな顔。去りゆくユイランも、苦笑い苦笑い。
 さて、逃げるように家を飛び出すと、入口の前で例の少年が待っていた。茶色の犬は疲れ果てて、少年のそばに寝転がっている。
「どっちだっけ?」
 と、マフラーの行き先を訊ねるユイラン。見張っていた少年は〈あっち〉という代わりに、何も言わず駆け出した。
 ユイランは、わざわざ自分のマフラー探しを手伝ってくれる少年に好感を抱いて、ほくそ笑んだ。
「いいとこあるじゃない。助かるよ。……ボクの名前は?」
 訊ねられた少年は、首を振る。
「ガキ扱いは御免だぜ、ユイランねえちゃん。俺はティム。よろしく頼むな」
「ティムね。こちらこそ、よろしく」
「ああ」
 ぶっきらぼうに答えてから、ティムはユイランに聞こえないくらいの囁き声でつぶやいた。
「それにしても……礼を言いたいのはこっちの方なのにな」
「え? 今、なんか言った?」
「別に」
 ティムは投げやりに答えると、不思議そうな顔つきのまま、さっと額の汗を拭った。石造りの細い階段を駆け上がる二人。その足音だけが、やけに高く響いた。
「まぶしいっ」
 ユイランが天を仰ぐと、太陽はだいぶ西の空に傾いていた。街には少しずつ夕暮れが迫り、足下の影が長くなる。
 その黄色い空を背景にして良く映える、赤毛のマフラー。
 さて、もう少しで階段が終わると思われた時、正面から吹きつけてくる風の強さに耐えられず、ティムがよろめいた。
「うわぁぁ」
 ふらりと身体が斜めになり、今にも倒れそう。もしも階段を転げ落ちれば、そこに待っているのは、確実な〈死〉だ。
「もうっ!」
 振り向きざま、ユイランがさっと手を貸す。ティムがつかむ。瞬間、ユイラン自身も重力にとらわれそうになったが、なんとか持ちこたえ、ティムの手を握ったまま一歩ずつ前進した。
「ふわぁ〜」
 階段を昇り終えると、さすがのユイランも情けない声をあげて片膝をついた。苦しそうに肩で息をしている。
「助かった。危ねえところだったぜ。……あ、ねえちゃん、あれ!」
 ティムが一生懸命に指さす。
「何よ?」
 ユイランが顔を上げると、
「あーっ!」
 大通りの真ん中に、ちょうど、赤いマフラーが落ちてくるところだった。
 ここは高台にある町の中心部……商業地区だ。雑貨屋、魚屋、料理店に鍛冶屋が、所狭しとひしめきあっている。
 通りの向こうから、一台の幌馬車がやって来た。しかし、落ちてきたマフラーしか視界に入っていないユイランは、鼠(ねずみ)に飛びかかる猫のように、素早く動いた。
「ヒヒーン!」
 馬のいななき。
「こらっ、危ないぞ!」
 注意する御者(ぎょしゃ)の声、急停止する馬車。
 一方のユイランは、ひかれそうになったのも気にせず、マフラーの落下運動を正確にとらえて、一気につかみかかる。
 その時。勢いを取り返した悪戯者(いたずらもの)の南風が、再びマフラーを誘拐していった。赤い宝物は、またもやユイランの手の届かない場所へ。
「あーん。風の意地悪!」
 ユイランは何度も垂直飛びを試みたが、結局駄目だった。ひとまず諦めた彼女は、視線を上げて獲物の行き先を確認すると、必死の形相で大通りを走り始める。
「ねえちゃん、待ってよ!」
 あとを追うティム。……馬車の御者は、突然飛び出して来たユイランを一度は叱ったものの、その後は彼女らの異様な雰囲気に圧倒され、しまいには恐怖さえ感じたようで、微動だにせず、二人が通りの果てに消えていくのを静観(せいかん)していた。
「嵐は去った……」
 ほっと胸をなでおろす御者。しかし向こうの方から、一度は消えかかったはずのドタバタ走る音が近づいてくると、顔面蒼白になった。
 叫ぶユイラン。
「はぁはぁ……なんで急に風向きが変わるのよ!」
 ティムは、もう疲れ切っている。
「ねえ、ちゃん、はぁ、はぁ……」
「あとちょっと。急いで!」
 ユイランはまだるっこしそうに少年の小さな手をぐいとつかむと、ティムを引っ張る格好で走り続けた。
「うわぁ、速すぎるよ!」
 転びそうになるのをこらえ、気力で走るティム。ユイランは、まるで何かにとりつかれたように目をかっと見開き、マフラー目指して一心に疾走する。
 その様子を見て、おびえる御者と馬。
「ヒヒヒーン!」
 御者が鞭(むち)を入れる前に、自ら身の危険を察知した馬は、ユイランたちと反対方向へ全力で駆け出した。
 しかし、その馬の首の上へ、赤いマフラー様が降臨されたものだから、さあ大変。にわかに、馬とユイランとの追いかけっこが始まった。
「ヒーン!」
「こら、止まれ、止まらんか!」
 立派な黒髭をたたえた中年の御者がいくら鞭を入れても、あとの祭り。暴れ馬と化したかつての忠実な部下は、上司の指示を無視して走りまくる。
「待て待てぇ!」
 追うユイラン。彼女に引っ張られるティムの靴底は、摩擦熱でしだいに暖まった。しまいには焦げ臭くなる。
「うわあっ!」
 止まろうにも、ユイランにしっかりと手をつかまれて、格闘家の強靱な握力の前にはなす術もないティム。
 大通りの買い物客や店の関係者は、道の真ん中を突っ走る変な集団を見て笑い、あるいは苦笑した。
 さて、ここで一つ状況に変化が生じた。馬の首に掛かっていたマフラーの位置がずれ、馬の視界をふさぐ目隠しになったのだ。
「ヒーン」
 馬は困惑し、高らかにいななくと、今度はさらに加速した。細い脚を一生懸命に入れ替え差し替え、狂ったように走り続ける。御者はどうしようもなく、もはや馬にしがみつくのが精一杯だった。
 そして、かなたから迫り来るT字路。
「止まってくれえ!」
 叫ぶ御者。
「こらあ、止まりなさーい!」
 とユイラン。
「あちちっ。誰か止めてぇ!」
 ティムの靴底からは、ついに煙が立ち昇っている。
「ヒヒーン!」
 三人の切なる願いが通じたのか、壁にぶつかる直前、馬のつぶらな瞳を隠していたマフラーの目隠しがはがれ落ちた。
 壁に気づいた馬は、面舵いっぱい、右に急旋回して停止した。しかし、勢いの衰えなかった馬車本体は、煉瓦(れんが)の壁に激突。左後輪がはずれて、その場に虚しく転がった。
 さらにユイランとティムが突っ込む。
「うわぁぁぁ!」
 ティムはたまらず目をつぶった。
 しかしながら、少年の心配は杞憂に終わることとなる。壁の手前で、ユイランは突然、走るのをやめたのだ。
 そう……車は急に止まれないが、人や動物は、止まろうと思えばいつでも簡単に止まれるのである。
 馬はさすがに息を切らしていた。気の毒な御者は、馬上で気絶し、蛙のように白い泡を吹いていた。せめてもの救いは、馬車に客が乗っていなかったことだろう。おかげで、騒動の被害者は最小限ですんだ。
「あちちちっ! 何だこれ!」
 極度の疲労のために座り込んだティムは、煙立つ革靴をなんとか脱ぎ終わると、そのまま道端に横たわった。
 少年は全身汗まみれで、ぜぇぜぇひゅーと苦しそうに呼吸している。息を吸い終わる前に、新しい息が欲しくなる状態で、頭真っ白・視界真っ黒だ。
「やっと、見つけたわ……はぁはぁ」
 ユイランは、まるで古代遺跡の偉大な財宝でも見つけたかのように目を爛々と輝かせ、石造りの路上で身体を休ませる赤いマフラーにゆっくりと手を伸ばした。
 独特の感触。強風にあおられて、冷えきってはいるものの、なんだか同時に暖かさも感じる。まさしく、探し求めていたマフラーだ。
「よかった……」
 それを胸に抱いて、柄にもなく、うっすら涙ぐむユイランの横から、聞き慣れた少年の声が聞こえた。
「ユイランねえちゃん、本当にありがとう!」
 え? なぜ、ティムはあたいに礼を言うのだろう? 礼を言いたいのは、こっちの方なのに……ユイランは違和感と不安感とを同時に抱いた。
「じゃあ、返してもらうぜ」
 考え込むユイランの腕から、するするとマフラーを取り出したティム。ユイランははっと我に返り、ものすごい剣幕で少年を叱ると、
「何すんのよっ。これは、あたいのよ!」
 マフラーを思いきり引っ張った。
 いきなり怒鳴られて、ティムはとまどった。なぜ怒られるのか、理由が全くわからない、といった様子だ。
 彼の疑問は膨れ上がり、直後ユイランに対する怒りとなって爆発した。
「文句言いたいのはこっちの方だぜ! このマフラーの裏地、よく見ろてみろよ。ちゃんと刺繍(ししゅう)がしてあるだろ!」
「へ?」
 一瞬、間の抜けた表情をしたユイラン。……そういえば、いま手にしているマフラーの色や模様・材質が、セリュイーナ師匠からもらったものとは、微妙に違うような気がしてきた。
「刺繍?」
 震える手つきで、マフラーを裏返したユイラン。彼女の黒い瞳が広がって、ある一点を凝視した。
「あ」
 絶句。
 心の中に広がる、信じられないという気持ち。いや、むしろ、信じたくない、という方が近い。こんなことって……。
 マフラーの裏地にあった、ガルア語による刺繍は、確かに〈ティム〉だった。持ち主の少年が説明する。
「母さんが作ってくれた、世界に一つしかない、俺の宝物なんだ。名前入りだぜ。間違いない!」
 胸を張り、立ち上がったティム。そのそばにしゃがみ込み、事実を知って愕然としているユイラン。対照的だ。
 今、ユイランの目に映るのは、色を失った、全てが灰色の世界。普段は元気いっぱいの格闘家も、この一件では、さすがに打ちのめされたようだ。ノックアウト!
 放心した彼女は、一人つぶやく。
「そんな馬鹿な……。あたいの努力は無駄だったわけ?」
「あら。ユイランじゃない」
 と、頭上から女性の声が聞こえた時、ユイランは全身が凍りつくかとさえ思った。この声だけは絶対に忘れやしない。
「師匠……」
「こんな街中で、何してんの?」
 あっけらかんとしたセリュイーナ。一方のユイランはそっぽを向いた。〈もらったマフラーを失くした〉なんて言えるはずがない。
「何よ。反応無し? あんたらしくないわねえ」
 ふん、と鼻で笑ったセリュイーナは、倒れかかった馬車、はずれた車輪、気絶した御者の姿を一通り確認してから、横にたたずむ背の低い少年の肩を叩いた。
「ねぇねぇ、キミぃ」
「ん?」
 呼ばれたティムは、筋肉質の女格闘家を不安げに見上げた。呼んだ側のセリュイーナは、しゃがみ込むユイランを指さし、少年に訊ねる。
「この娘、どうしちゃったの?」
「ああ。マフラーがどうのこうのって……」
「ダメーッ!」
 ユイランは軽い身のこなしで起きあがると(闘術修行の成果だろう)、大慌てでティムの口をふさいだ。ティムの言葉尻はかき消される。
 そして、さらに大きく、驚きの叫びを張り上げるユイラン。
「あああああーっ!」
 ……。
 師匠の首筋を寒さから守っている、赤いマフラー。この色、この模様こそが、まさしくユイランのマフラーだ。
「あはは、ひゃははは……」
 ひきつった笑みを浮かべて、へなへなと力無く座るユイラン。その様子を眺めていたセリュイーナは、何となく事の顛末を理解したようだ。広げたマフラーのような赤い舌を出して、頭をかいた。
「どうせ私があげたやつだから、勝手に借りてもいいかなって思ったんだけどサ……持ち主のあんたに、一声かけるべきだったかしら?」
 冷えきった強い風が吹いた。空を行く雲の流れは速かった。街はすでに夕暮れの淡い光の中に沈み、烏の一団が口うるさく鳴きわめいていた……。
 
 翌日。ユイランは、全身に襲いかかるひどい筋肉痛に悩まされた。仕方がないので、師匠の許可を得て闘術の稽古は特別に休ませてもらい、部屋で一人、柔軟体操をしていた。
「もう。大会が迫ってるのに、仲間たちとは別メニューなんて。とんだ災難だわよ! ……あ〜、痛っ」
 正座したまま、上半身だけを後ろに倒す。ももの部分が伸びる、ひきつる。あとちょっとで神経が切れてしまいそうな錯覚に陥る。
 トン、トン。
 その時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。ユイランはそのままの姿勢を保ち、苦しそうな声で返事した。
「ど、う、ぞー」
「ユイラン。あんたに来客よ」
 セリュイーナ師匠だった。ユイランはすぐに起きあがり、首を左右に動かした。付け根がポキポキ鳴る。
「師匠。来客って?」
 ユイランが不思議そうに訊ねると、セリュイーナは振り返って手招きした。
「ほら、おいで」
「ユイランねえちゃん!」
 明るい声のあと、ひょっこり顔を出したのは、紛れもなくティム本人だった。コートの襟元には、今日も、お気に入りの赤いマフラーを巻いている。
 さらに後ろからは、ティムの母親と思われる、落ち着いた女性の声が聞こえた。
「うちの子がお世話になりまして……。お礼に伺いました」
「まあまあ。立ち話もなんですから、中へどうぞ」
 セリュイーナが案内すると、ティムはそれを合図に、部屋の中へ駆け込んだ。セリュイーナと、ティムの母親が、少年に続いて入った。そしてドアが閉まる。
 二十七歳のセリュイーナとそれほど違わない年齢だと思われるティムの母親は、麗しい貴婦人で、服装や仕草からはとても淑(しと)やかな印象を受けた。
「昨日はありがとうございました。事情は、全て、この子から聞いております」
 口調の端々からは、育ちの良さを感じさせる。器用そうな長い指……きっと裁縫(さいほう)も得意分野なのだろう。金銭的にも時間的にも余裕ある生活の中で、子供のためにマフラーを編む。そういう心優しい母親に違いない。
「わざわざ、すいません」
 緊張し恐縮するユイランに、ティムの母親は、直方体の白い箱を差し出した。
「つまらないものですが、ぜひ、これをお納め下さい。私に出来る、せめてものお礼です」
 ユイランは困惑して師匠の方を見た。セリュイーナは、こくんと一つ、うなずいた。ティムも口元を緩め、嬉しそうに微笑んでいる。
「わかりました。ありがたく、いただきます」
 ユイランは出来る限り丁寧に言い、貴婦人のほっそりした腕から贈り物を受け取ると、すぐに聞いた。
「ここで開けてもいいですか?」
 ティムの母親は穏やかに答える。
「ええ、どうぞ。本当は、わたくしの夫にあげるつもりで作っておりましたので、お嬢さんのお気に召すか、正直言って心配なのですが……」
 ユイランが箱をゆっくり開けると、そこには黒く染められた毛糸の編み物が入っていた。慎重に取り出すユイランに、ティムが声をかける。
「俺たち、お揃いだぜ!」
 ユイランは編み物を広げる。いやに縦に長い。首の辺りに巻けば、寒さをしのげそうだ。それは、北国の冬の必需品。
 ユイランは思わず叫んだ。
「マフラーなんて、もうこりごり!」

(了)



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