決戦の(とき)

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 


 少女はドアを開け、飛び出した。
 後ろに垂れ下がっている長い金の髪は整えられておらずボサボサで、目のまわりには隈(くま)ができ、一見すると寝坊でもしたかのようだった。
 もしも笑えば、さぞ可愛らしいはずの顔は、今や見る影もなく固くこわばって、悲壮感に満ち満ちていた。口は真一文字にキッと結ばれ、頬(ほお)は緊張のせいか、かすかに震えていた。
 彼女の名はセフィーナ。人間族の中でも、最も妖精の血を濃く受け継いでいるウエスタル族の出である。
 寝巻き風の薄着のままで、小道をひた走る彼女の背中に、黄色い朝日が注がれた。
 
 ここはルデリア大陸の南西部にある、南ルデリア共和国・メポール町。三方へ街道が伸びる、陸上交通の要所である。かつては地域の中核地で、由緒(ゆいしょ)あるクルズベルク家のお膝元として栄えたが、海上交通が発展した現在では落ち目だ。
 
 さて。空気は一縷(いちる)の涼しさを残す晩春の朝であるものの、晴れ渡った青空に浮かぶ太陽からの日差しは、いくぶん強かった。
 角を曲がる。人通りはまばらだった。狭い裏道を猛然と駆け抜けるセフィーナは、すでに息切れして苦しそうだった。
「はぁはぁ……」
 手先の器用さや魔法には自信があるが、筋力・持久力には不安が残る。体格は、背が高くほっそりとしていて、どう見ても走るのには向いていない。
 セフィーナは、そういう女の子だった。
「もう駄目!」
 悲痛な叫び声が、静かな通りにこだました。セフィーナは立ち止まり、その場にしゃがみ込んだ。可哀想に、半べそをかいていた。
「どうして、こんなことに、なってしまったんでしょう……」
 自責の念と深い後悔の言葉が、次から次とあふれ出てくる。状況は深刻で、予断を許さないようだ。
 時間がない。決戦の刻(とき)、迫る。……何かに追われるようにしてさっと立ち上がると、まっすぐにこぶしを掲げ。
 セフィーナは宣言した。
「でも、この戦いには、絶対に負けるわけにはいきません!」
 目をこすり、何度かまばたきした後、彼女は朝風に背中を押されて、再び走り始めた。懸命に地面を蹴って、一歩、一歩と。
 セフィーナは途中、似たような独り言を繰り返し、何度も自分に言い聞かせた。
「心に決めたんですもの」
 憂いの色を秘めた翡翠(ひすい)のような瞳からは、強い意志がうかがえた。彼女は遠くの雲をちらりと見上げ、一言、つけ加えた。
「ベレン、待っていて下さいね! 必ず、必ず行くから……」
 その時だった。
 ふと、魔法屋の看板が目に留まった。魔法、聖術……。彼女ははっと息を飲んで立ち止まり、〈奥の手がありましたね〉と言わんばかりに軽く手を打った。
 呼吸を整えながら、首飾りの先につけてある小さな宝石を握りしめ、何やら呪文を唱え始めたセフィーナ。
「йфюэбш……聖守護神ユニラーダ様、どうかお力を! わが足の動きを速めたまえ。スラバ!」
 指先から放たれた白い霧が両足を包み込み、やがて消えた。足全体に不思議な力がみなぎった。
「急がなければ」
 セフィーナが再び走り出すと、さっきまでの彼女とは本当に別人のようだった。信じられないほど速さが増したのだ。
「間に合うといいんですけれど」
 息づかいもほとんど乱れなかった。魔法の効果はてきめんだ。とにかく精神を集中させ、セフィーナは走り続けた。
 そして大通りに出た。
「お願い、間に合って下さい!」
 静かな朝の大通りは馬車も少なく、噴水のある広場の脇を通り過ぎると、すでに終わった朝市の残した魚の生臭さが鼻についた。
「愛しいベレン……待っててね! 今すぐ行きますから!」
 セフィーナは時々、抑えきれない自分の思いを語りながら、煉瓦(れんが)づくりの緩い下り坂を一心に飛ばした。
 快晴。快速。快適。
 
 しかし、上手いことほど、そう長くは続かない理(ことわり)となっている。運命の闇は確実に広がり、彼女にもついに転機が訪れた。
「ぐっ……」
 セフィーナは急にめまいを覚えて、がくんと前のめりに倒れかかった。すんでのところで手を出し、身体(からだ)を支える。
 これまで魔法の維持に集中力を使いすぎたせいで、彼女の精神は完全に疲弊(ひへい)していた。
「あと少しなのに」
 弱々しい声でため息をつくセフィーナ。顔は青ざめ、見るからに気分が悪そうだった。
 それでも、向こうの建物の上から、光の子らが踊りながら小さな姿を現すと、
「ここで諦めるわけには……」
 自らを奮い立たせ、足を引きずるようにして歩き始めた。左右にふらつきながらも、ゆっくりと確実に。
 しかし何歩か進むと、
「ああっ!」
 またもや、世界がゆがんだ。近くの壁によりかかって、ひと休みする。ひどい頭痛と足のだるさ。魔法維持のために無理した後遺症は、想像以上に大きかった。
「でも……」
 負けるわけにはいかない。私のベレンが待っている。
 それだけを考え、セフィーナはがむしゃらに歩いた。汗が乾いて、容赦なく体温を奪った。ついに、くしゃみが出た。
「っしゅん!」
 このままでは風邪をひいてしまうだろう。急ごう。……セフィーナはおもむろに布きれを取り出すと、垂れてくる鼻水を丁寧に拭いた。
 それから彼女は、朦朧(もうろう)とする意識を自ら呼び覚ますため、必要以上に大きな声で祈った。
「お願いします! 聖守護神ユニラーダ様、どうか、私に勝利を!」
 口が渇き鼓動は速まり呼吸は苦しく身体は冷える。最悪の状態の中、セフィーナはもはや気力のみで歩いた。
「……着いた!」
 彼女は高らかに叫び声をあげ、ぱっと表情を明るくするとともに、最後の力を振り絞って目の前の建物に駆け込んだ。
 丸い黄色の果物をかかえる若い女性を押しのけ、建物の奥へ突き進んだ。そして息も絶え絶え、そこにいた中年のおばさんに詰め寄るセフィーナ。
「すいません……ベレンは……」
 すると、おばさんは首を振った。
「残念。悪いけど、さっきのお客さんで完売だよ。次の入荷を待っておくれ」
 
 大好物の黄色い果実、甘くて美味しい限定輸入品のベレン。美容効果もあるという、町の八百屋の人気商品。
 
 負けた……。間に合わなかった。
 セフィーナは放心して片膝をつき、昨夜(ゆうべ)の夜更かしと今朝の寝坊とを、海より深く悔やむのだった。

(了)



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