贈り物 〜
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秋月 涼 |
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(一) ここは南国、ミザリア国。南海に浮かぶ小さな島国の、そのまた小さな海沿いの町がこの物語の舞台である。 実月(九月)も下旬となり、南国といえども夏の厳しい暑さはそろそろ和らぎ、太陽はつかの間の優しさを取り戻す。海を越えてきた潮風に織り込まれる、かすかな秋の予感。 「気持ちいいですの〜」 窓辺にたたずむ背の高い少女が、のんびりとした独特の口調でつぶやいた。せっかく整えた銀の髪が乱れるのをものともせず、風をいっぱいに浴びて深く息を吸い込み、そのまま大きなあくびをつく。 彼女の名はサンゴーン・グラニア。十六歳にしては、少し幼い。 「ふぁ〜あ……」 穏やかな夢曜日、神様も夢を見る日。二つに別れていた海と空は境目を失い、この季節、水平線の果てで一つになる。 「ん?」 サンゴーンは突然、顔をしかめた。暖炉の方から、いやぁな匂いがしたからだ。彼女はゆっくりと振り向く。 そして遅ればせながら悲鳴をあげた。 「きゃあぁぁ! 大変ですわ!」 火にかけていた平鍋から、黒い煙がもくもくと吹き出している。サンゴーンは暖炉に走り寄り、そばに置いてあった木製の水桶を細い腕で持ち上げ、その重みで二、三度ふらついたあと、今度はしっかりと体勢を整え、狙いを定めて一気に水桶をかたむけた。 炎と水との戦い。死骸が大量の水蒸気となって沸き上がり、湿った熱風がほほにまとわりつく。電撃戦は水が圧倒的な勝利をおさめ、炎は一瞬で消え失せた。 サンゴーンはおそるおそる、くすぶっている平鍋をのぞく。少女の青い瞳は一瞬、緊張で大きく広がったが、それはすぐに失望へと変わった。 「黒こげですの……」 堅焼きするはずだった食べ物は原形をとどめず、もはや単なる炭でしかなかった。先ほどの水攻めを受け、ジュウジュウと早口でしゃべり続けている。 「また、大失敗ですわ!」 サンゴーンは明るくほほえんだ。表情には憂いや嘆きは何一つ感じられない。料理の失敗など日常茶飯事で、すでに馴れっこになっているようだ。この失敗までもが、料理作りの楽しさの一環としてあらかじめ組み込まれているのだろう。 「今度はお茶ですの」 ぬれた薪(たきぎ)を新しいものに換え、今度はお湯を沸かす作業に取りかかる。太陽は空の峠を越えて、とっくに坂を下り始めていた。部屋に迷い込む午後の日ざしがきらきらとまぶしい。 「サンゴーン!」 そのとき外で若い女の子の声がした。メフマ島で生産された高級なお茶を準備していたサンゴーンは、いったん作業を中断して玄関に向かう。 扉の向こうで再び来客が言った。 「サンゴーン、いないの?」 「いま、開けますわ〜」 のんびり応えたサンゴーンは、さっそくドアの錠(じょう)をはずしにかかる。カチャリという軽やかな音が響き、細いすき間がじょじょに広がっていく。 「おはよっ!」 来客があいさつした。サンゴーンにとっては見慣れた顔である。特徴的な長い耳……妖精族の血を引いていることは想像に難くない。 「レフキル、いらっしゃいですの!」 サンゴーンはさもうれしそうに来客を歓迎した。人間と妖精族とのハーフ、リィメル族のレフキルは、サンゴーンと同い年で大の仲良しである。 レフキルが言う。 「あたし、今日のお茶会、すごく楽しみだったんだ……誘ってくれて、どうもありがとうね!」 「サンゴーンも、この日が待ち遠しかったですわ。さあ、中に入って下さいの。ちょうどお湯が沸くころですわ」 「やったぁ!」 レフキルは飛び上がって喜んだ。はしゃぐ二人は、しかしながら、その直後がくぜんとする羽目に。 暖炉の火力が強すぎて、沸かしたはずのお湯はすっかり蒸発してしまったのだ。二人は井戸水を汲み直す作業から始めなければならず、せっかくの楽しみはしばらくお預けとなった。 「またまた失敗ですわ……」 それでも相変わらずサンゴーンはのん気だった。反省の色など全くない。穏やかな人間が多い南方民族・ザーン族の中でも、彼女ののん気さは特筆に値する。 「ひぃ、疲れるよー」 レフキルは水桶を運びながら、ひたいから汗をしたたらせた。桶を持ったまま汗をぬぐおうともがくうちに、ザバーン、せっかくの水をひっくり返してしまう。 実をいうと、彼女もサンゴーンに負けず劣らずの〈おっちょこちょい〉である。もしも自分の家でお茶会だったら、あたしもサンゴーンと同じあやまちをおかしたかも知れないなぁ……そう考え、妙に納得してしまったレフキルだった。 (二) 「はい、どうぞですの」 サンゴーンは向かいのレフキルにお茶をすすめる。湯飲みから発せられる香ばしい匂いは、いつしか部屋のすみずみにまで届いていた。 「ありがと……」 木目の美しい椅子に腰掛けていたレフキルは、腕を伸ばし湯飲みの最上部に触れた。そして熱いのをがまんしながら、注意深く自分の方へ引きずってくる。 「雲みたいな湯気がもくもく出ていて、おいしそうね」 レフキルが目を細めてつぶやいた。高級品種のメフマ茶は独特のにごった赤茶色をしている。 暑い南国と熱いお茶とは合わないように思えるが、実際には普及している。原因として、おいしい茶葉が格安で出回っていることが挙げられる。お茶作りは島国ミザリアの重要な産業の一つだ。 「お菓子も出しますの」 サンゴーンが大皿を出してきてテーブルに乗せた。皿の上には、あやしげな黒い固まりが無造作に置かれている。 「何、これ?」 レフキルは顔をしかめ、けげんそうに訊ねた。サンゴーンは中途半端に首をかしげ、落ち着いて答える。 「クッキーですわ。ちょっと焼きすぎたようで、見た目は黒こげになったけれど、気にしないで欲しいですの」 「あ、そうだったの。これクッキーか」 さすがのレフキルも一瞬絶句したが、 「クッキーならあたしも持ってきたから、一緒に食べようよ」 と、自分の袋の中から比較的まともなクッキーを取り出した。ひび割れこそしているものの、サンゴーン作品と比べればはるかにましである。もともとレフキルは器用なのだ。 「それでは、乾杯ですわ!」 サンゴーンが会の始まりを高らかに宣言する。 「乾杯っ!」 レフキルの湯飲みがサンゴーンのそれに触れ、かちんと軽い音がした。 サンゴーンの祖母が存命だった数年前から、都合のいい日に集まっては簡素なお茶会を楽しんでいた二人。レフキルが商人見習いの仕事を始めてからは、休日の夢曜日に開催することが多くなった。 いつもは昼間にやっていたが、今回はさまざまなトラブルの影響で遅れ、すでに夕陽は真っ赤に染まって海の後ろに隠れる瞬間を今か今かと待ち構えていた。 二人は同時に湯飲みを持ち上げる。ようやく訪れた憩いのひとときだ。ふうふうと息を吹きかけながら、慎重に湯飲みをかたむける。ほんの少しだけ、すすってみる。 「あつっ!」 熱さで舌が焼けそうになり、あわてて湯飲みを置く二人。そのころになって、やっと口の中にお茶の味が広がって来る。それほど濃くなくて、さっぱりした味……南国の味。 「熱めだけど、すごくおいしい。このまま、しばらく冷ましておこうよ」 そう言って無邪気に笑うレフキル。サンゴーンも大きくうなずいた。 「はいですの」 ときたま部屋を通り抜ける夕風は、昼間よりもいっそうさわやかで、過ぎゆく夏の余韻が混じっている。 「この季節、大好きですわ」 サンゴーンが静かにつぶやく。その声に、遠くの海鳥の啼き声が重なる。海鳥の歌が夕暮れを、そして夜を運んでくる。 レフキルはわずかにほほえみ、窓の向こう……遠くの町並みをぼんやり見つめながら、ふうっと吐息を流した。 「この季節に誕生日の来るサンゴーンがうらやましいよ」 今日は実月の二十三日。サンゴーンの誕生日は明日に迫っていた。急にその話題が出て、サンゴーンは驚きを隠せない。 「覚えていてくれたんですの?」 とまどいがちに訊ねると、 「当ったり前じゃない! 友達だもん」 レフキルはサンゴーンに視線を戻し、相手の青い両目をしっかり見すえ、自信たっぷりに答えた。 「うれしいですわ」 サンゴーンは静かに礼を述べると、自分の湯飲みを高く掲げて、さっきよりも少しだけ温度の下がったお茶を一口すすった。のどがうるおうのを確かめながら、ゆるゆると飲みほしていく。通過点が熱くなり、胃がほてった。 レフキルは、麦わらで編まれたかわいらしい手さげ袋の中を、がさごそがさごそ探し始めた。 「でね、贈り物を持ってきたんだ……あった!」 レフキルは〈それ〉をていねいに取り出し、テーブルの真ん中に置く。かすかな音を立て、贈り物は腰を落ち着けた。 細いリングは銀でできている。宝石は透明感があり、内側には青白い光をたたえている。偉大な魔法の力を秘めているのは一見して明らかだ。 それは美しい指輪だった。 「こんなにすてきな品物……本当にもらっちゃっていいんですの?」 サンゴーンが目を輝かせると、 「もっちろん!」 レフキルはパチンと指を鳴らした。サンゴーンは指輪を手のひらに乗せ、光を当てる角度を変えてみた。そのつど宝石にひそむ青白い光は表情を変化させた。ときに優しく、ときに悲しく……。 「ありがとう、ですわ」 サンゴーンは指輪をはめてみた。小さな指輪だったが、サンゴーンはもともと指が細いので、ちょうどよかった。 「なんだか、気分が安らぎますの」 サンゴーンがつぶやいた。それを聞いて胸をなで下ろすレフキル。 「喜んでもらえて良かった。実はね、それ、渚で拾ったの。落ちていたものをあげるのはどうかと思ったんだけど、あまりにきれいだったから……」 そう言って、ほっとため息をついた。サンゴーンは夢見心地で、もう一度、宝石の光をのぞき込む。 「すてきですわ……レフキル、本当にありがとうですの!」 「どういたしまして」 レフキルは心底うれしそうに笑った。そして、こうつけ加えた。 「来年三月の私の誕生日、期待してるからね!」 (三) それから二人はつかの間の雑談を交わした。あたりにはじわじわと夜がしみこんで来る。たとえば氷が溶けるように、たとえば色づいた木の葉が散るように……休みなくきわめて自然に、東の空から夜の波紋が広がっていく。 会話が途切れて、二人はとっくに冷めてしまったお茶の残りをすすった。突然、サンゴーンが言い出す。 「なんだか、海に行きたくなったですの」 「海? なんでまた?」 レフキルがふしぎそうに訊ねると、サンゴーンはちょっと照れて、くすっと笑った。 「この指輪が海の色だからですわ」 「きっと、海が呼んでいるのね」 レフキルは自分が砂浜で指輪を拾ったときの情景を思い起こし、目を閉じてなつかしそうに回想した。 白砂に半分うもれて、青い光が……。 家を発ち、海に続く長い坂を下っていく。太陽はすっかり沈んで、いましも新しい夜が産声(うぶごえ)をあげようとしていた。町が闇と重なり、闇に含まれ、最後には闇と一体になっていく。 昼間の暑さはウソのようにおさまり、吹き始めたかすかな陸風が、そっと背中を押してくれた。 夕方の面影が西の果てに追いやられ、星たちが姿を現したころ、二人はようやく砂浜にたどり着いた。風と混じり合う波の音がすがすがしい。 「秋の夜長の砂浜も、たまにはいいね」 レフキルはそう言うと、鼻と口とを使って大きく息を吸い込んだ。潮の香りさえ昼間よりも穏やかに感じるのは、決して彼女の気のせいではない……闇の持つ魅惑の力が、全てをひたしていた結果だ。 一方サンゴーンは、 「まもなく星の舞踏会が始まりますわ」 とつぶやき、晴れた夜空をあおぎ見た。上弦の月が天頂近くで輝いている。今日は潮の満ち引きは小さい。 並んで夜空を見上げていた二人は、しばらくすると自分たちの周りがぼんやり明るいことに気づいた。半月だけでなく、どこか別の所にも光の源があるようだ。 突然レフキルが叫んだ。 「あっ」 そしてサンゴーンの手を指し示す。 サンゴーンはゆっくりと視線を下ろしていった。見ると、レフキルにもらった指輪が青く輝いていた。昼間の海を思い出しているかのように色鮮やかであり、なおかつ、いくばくかの寂しさも感じた。 「何ですの?」 と、サンゴーンが言い終わる寸前。指輪がひときわ強い光を発し始めた。次の瞬間、青い光は細い筋となって海面上を沖の方角へ一直線に突き抜けた。 「ええっ?」 サンゴーンとレフキルは顔を見合わせる。おたがい開いた口がふさがらず、頭の中が真っ白になった。指輪が青い光を放つなんて……。 「信じられない!」 レフキルは思わず大声をあげたが、その言葉の中には単なる驚きだけでなく、これから始まるであろう新しい物語に対する期待やあこがれも含まれていた。 二人は沈黙し、なりゆきを見守った。うち寄せる波の音が心臓の鼓動と合わさっていつも以上に耳にこびりつき、変にどきどきする。時間が長く感じる。 いつしか波のリズムが速まりだし、一つの楽曲を構成していった。自分の心が輪郭を失い、気分がぼんやりしてくる。 にわかに黒い海が動き出した。指輪の青い光が目指している沖の辺りが上下にうねる。沖の異変は、浜辺の二人にもはっきりと見えた。 (何が起こるんですの?) サンゴーンは自分の両手をレフキルの右手に重ねた。合わさった二人の手の中から、青白い光がこぼれていた。 気がつくと遠くから高波が迫っていた。逃げなければならないことは頭のどこかで理解しているのに、身体はぴくりとも動かない。自分の身体が自分のものでないようだ、全く力が入らない。 近づいてくる波の轟音(ごうおん)がなぜか遠くに感じられた。けっきょく二人は高波にとらわれ、視界を失った。何も見えない、何も聞こえない、何も感じない。 (四) レフキルは目を開いた。そこは、ひんやりと涼しい透明な空間だった。上の方がなんとなく明るい感じがする。下を見ると足は地についていない……ふわふわと浮かんでいたのだ。 といっても、天へ舞いあがる浮遊魔法(フオンデル)とは違うようだった。依然として身体は重く、気持ちは半ばまどろんでいた。 「どこ……?」 レフキルが声を振りしぼってささやくと、いつの間に現れたのか、目の前の若くて美しい女性が返事をした。 「ここは、海の世界です」 「そう、海の世界ですの」 覚えのある声が後ろから聞こえた。レフキルが振り向くと、いつものサンゴーンの笑顔があった。しかし、その親友も地に足がついていなかった。 レフキルはもう一度、正面の女性を見つめ直し、素朴な疑問をぶつけた。 「あなたは?」 「わたくしは人魚です」 人魚? レフキルは女性の下半身を確かめた。あるべき両足が存在しない。その代わりに、魚のような長い尾が生えていた。上半身は裸だった。 レフキルは自分の置かれている状況を理解して、思わずはっと息を飲んだ。海の中にいる自分、伝説の人魚族……。 とろけそうだった心が、止まりそうだった時間が、しだいに現実味を帯びてくる。レフキルは早口で訊ねた。 「どういうこと?」 「つまり、こういうことですの」 サンゴーンは手短に説明を始めた。 「レフキルが海岸で拾った、青い指輪。あれはもともと、この人魚さんの持ち物だったんですの」 落とし主である人魚が解説を加える。 「沖に潮の流れが速い場所があり、巻き込まれました。その中でもがくうちに、誤って指輪を落としてしまったのです」 はるか上方の海面に、黄白色の月影がゆらいでいる。サンゴーンはそちらを見ながら話を続けた。 「あの指輪はとても大切なもので、人魚さんを凶暴な他の魚から守ってくれるんですの。人魚さんは指輪をなくして本当に困っていたんですわ」 サンゴーンが一息つくと、レフキルはゆっくりとうなずいた。目の前を、かわいらしい小魚の集団が横切る。 サンゴーンは再び語りだした。 「人魚さんはあの指輪に対して、一生懸命『帰ってくる』ように祈りをささげたんですわ」 「そうか。その祈りが通じて、サンゴーンが海に行きたくなって……それから、指輪が人魚さんの祈りに応えて青く輝き始めて……」 今まで心配そうな表情をしていたレフキルは、ことの顛末(てんまつ)を把握して、ようやく表情をほころばせた。 人魚はレフキルの目を見つめ、次にサンゴーンの瞳をしっかりと見すえて、静かに首(こうべ)を垂れた。 「ありがとう。あなたがたが指輪を大切にしてくれたおかげで、私は再び、海の中で安心して暮らせます」 そう言った人魚の細長い指先には、先ほどの指輪がほのかに輝いていた。深い海色を秘め、宝石はまたたき続ける。 「ありがとうだなんて……。あたしたち、たいしたことはしてませんよ」 照れたレフキルは顔全体がほんのり赤く染まった。サンゴーンも恐縮する。 「たいしたことはしてないですの」 すると人魚は首を横に振った。 「ううん。そういうことこそが、一番大切だと思います。本当にありがとう」 ときおり大きな魚が近づくが、魔法の指輪の加護で人魚のそばには近寄れない。自分たちが水の中で息ができるのも、もしかしたら指輪の力なのかも知れない……レフキルはふと思った。 「さあ両手を出して。指輪を返してくれたお礼に、小さな宝物をさしあげます」 そう言った人魚の口調は波音のように心地よく響いた。サンゴーンとレフキルは一度、顔を見合わせる。どうしよう、もらうか遠慮するか……。 「お願いします、どうか受け取って下さい。〈うみ〉という名の、ふしぎな貝殻です」 人魚は優しくほほえみ、白い腕をさし出した。その手のひらには二片の巻き貝が座っていた。独特の薄桃色をした、きれいな貝殻だ。 サンゴーンとレフキルは意を決して、贈り物に手を伸ばした。表面にそっと触れると、かすかな凹凸を感じることができた。持ち上げる……ごく軽い。 人魚は貝の秘密を教えてくれる。 「それを、耳に当ててごらんなさい」 二人は言われた通り、巻き貝を自分たちの耳に当てた。サンゴーンは普通の耳、レフキルは少し長い耳。 「あっ!」 二人の叫びが重なる。確かに聞こえるのだ。近づく波、遠ざかる波。交わる波、ぶつかる波、大波小波。慣れ親しんだ波の旋律を、この貝殻が歌っている。 「それでは匂いをかいでみて下さい」 人魚は暖かみのある声で語りかけた。貝殻を鼻先にあてがい、二人はゆるやかに息を吸い込む。 「……潮の香り!」 「海の匂いですわ」 まずレフキルが、そしてサンゴーンが、感嘆のため息をついた。二人とも、どうしてこの貝殻が〈うみ〉という名前なのか、うすうすの見当がつき始めていた。 「最後に、貝殻を瞳にかぶせて下さい」 両手を組んで祈るような格好をし、人魚はなぜか寂しそうに言った。サンゴーンは左目をつぶって右目に貝殻をかぶせ、レフキルは逆のことをした。 すると予想通り。 「すごい!」 明るい昼間の海は、どこまでも果てしなく続いている。飛び上がる元気なイルカの群れ、鯨のおおらかな潮吹き。椰子の木が生えている小さな島々、空の青さ。海にまつわる鮮明な映像が、次々と切り替わっていく。 時が経ち夕方になると、熟したリンゴのような太陽が、海も空も赤一色に染めあげる。そして星たちが現れ、全ては闇の中へ沈んでいく。幾度となく幾度となく繰り返される夜と朝、雨と晴れ、別れと出会い……死と再生。 サンゴーンとレフキルは移り変わる景色に心から見とれていた。海の懐は深く、全てを分けへだてなくつつんでいた。 そう。 いま、海につつまれている! (五) 「海だ!」 サンゴーンとレフキルが同時に叫んで目を開けると、そこはもう海の中ではなかった。美しい人魚の姿も消えていた。 波の音、かすかな陸風。 「砂浜だ」 レフキルがぽつんと言った。二人が立っていたのは、さっき指輪が強い光を発し始めた場所。何の変哲もない町はずれの砂浜だった。 耳をすますと、ゆき過ぎる潮風に人魚の声が混じっていた。ひどくかすれていたので、よくわからなかったが、かろうじて末尾を聞き取れた。 《……ありがとう。さようなら……》 サンゴーンとレフキルは、しばらくの間、ぼう然と立ちつくしていた。こぶしを握りしめる。すると固い感触があった。 「貝殻ですわ……」 サンゴーンがつぶやいた。 「夢じゃ、なかったんだ」 レフキルは貝殻を耳に当てた。潮の音がはっきりと聞こえる。まるで子守歌のような、穏やかな波のリズム。 空の半月はずいぶんかたむき、弱々しい黄色の光がぼうっと夜道を照らしていた。少し身ぶるいしたあと、サンゴーンは親友に礼を述べた。 「ありがとうですの、レフキル。こんなにすてきな誕生日プレゼントは初めてですわ」 「指輪はなくなっちゃったけど……」 レフキルが残念そうに言葉をにごすと、サンゴーンはゆっくり首を振った。銀の髪が左右に揺れる。 「落とし物は落とし主に返すべきですの。私たち、とてもいいことをしましたわ」 「そうだよね……」 「指輪は、この貝殻に代わったですの。私は、これを誕生日の贈り物として、末永く大切にするつもりですわ」 「あたしも宝物にする!」 もらった貝殻を満天の星空にかざし、レフキルはこの海のどこかで暮らしているはずの人魚に固く約束した。 サンゴーンが右の瞳に貝殻をかぶせるやいなや、太陽を浴びて輝く真昼の海がすぐ目の前に現れた。透明な海水は巨大な鏡のようだった。 「この貝殻、そして人魚さんとの思い出……本当に素晴らしい贈り物ですわ」 「海の、贈り物だよね」 レフキルがつけ加えた。 そのとき闇の向こうから声がした。 「レフキルー、どこにいるの。ご飯よお」 彼女の母親が心配して呼びに来たようだ。二人は海に背を向け、しっかりと歩き始めた……手の中の小さな貝殻に、大きな海を感じながら。 夜風には涼しさの粒子がただよい、夏の終わりと秋の始まりとを告げた。町の方に歩き出すと波の音がしだいに小さくなり、最後は静寂だけが残った。 「おやすみ、海」 レフキルが言った。 「おやすみなさい」 サンゴーンが言った。 | ||
(了) | ||
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