すずらん日誌

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 



【補二話・足跡】


 猛り狂う風、叩きつける雪。牙をむき、漆黒の闇夜を暴れ回る冬という名の脅威。
 やがて嵐がおさまると、軒下にうずくまっていた来訪者は帰途についた。
 
「あれっ?」
 玄関のドアを開け、まぶしい朝の光の洪水に華奢な手をかざしながら、ファルナは目を丸くした。
 出てすぐのところに、羊毛で編まれた白い帽子が置いてあった。それは昨日の午後、野山でそり遊びをしているうちに失くしてしまった自分の帽子に違いなかった。
 第一発見者である妹のシルキアは腕を組み、大きく胸を張った。
「ね、お姉ちゃん。ほんとでしょ?」
「不思議ですよん」
 素朴な感想をつぶやいた姉のファルナは、突然の妙な出来事と、冷えた外気で、あっという間に睡魔が吹き飛んだ。
「誰が届けてくれたのだっ?」
 と思案をめぐらすファルナの疑問に、妹はゆうべ降り積もった新雪を指さした。
「足跡……」
 人間の〈かかと〉ほどしかない小さな足跡が延々と連なっていた。これをさかのぼれば、帽子を届けてくれた親切な人に会えるのだろうか。
「お姉ちゃん、行くよ!」
 言い終わるやいなや、シルキアは自分の部屋へ駆けだしていた。厚い上着を羽織って足跡をたどろうという魂胆だ。
 取り残されたファルナは、空模様をちらりと確かめてから静かにドアを閉めた。晴れ渡った青い空にはゆったりと綿雲がただよっていた。当分、雪の降る心配はない……つまり例の足跡も消えない。あわてる必要はないのだった。
 
 朝食も摂らずに実家の〈すずらん亭〉を発つと、姉妹は銀色に塗りつぶされた村の小道を歩いていった。顔なじみのおじさんやおばさんにあいさつする場合を除けば、二人とも白い地面に釘づけだ。
 目が疲れたシルキアは空を仰ぎ、何度もまばたきしながら、独りごちた。
「変な足跡だね」
 果てしない足跡の列はすべて、小さいけれども靴の形をしていた。そして足跡の間隔はひどく不規則だった。
 いつしか村はずれの丘にたどり着いたが、例の足跡は終わらず、そのまま森の中へ続いていた。
 すべらないように注意し、雪深い森へ歩み出す。研ぎ澄まされた北風が頬にしみた。
 
 すっかり葉を落とした針葉樹の梢から、空色が見え隠れしていた。森の新雪は羊の毛のように柔らかく、踏み下ろすたびにキュッキュと鳴いた。良く洗った酒瓶を布で拭く音に似ている、と〈すずらん亭〉看板娘であるファルナは考えた。
 陽の光を浴びて溶け始めた雪の雫が枝先からこぼれ落ち、帽子や首筋を濡らすたびに、姉妹はいたずらっぽく微笑むのだった。
 空気はやはり鋭さを維持し、風が吹きすさぶと耳が痛かったものの、斜めに立ち並ぶ光の筋道には優しさが満ちていた。厳重に厚着して真冬から遮断した体の奥は蒸し、うっすら汗をかいていた。
 静寂に包まれていた麗しの森は、大いなる安らぎと、わずかばかりの不吉な予感とをうら若き二人の少女へもたらした。
 妹のシルキアは足跡の左を、姉のファルナは右側を歩いていた。謎めいた足形の両脇に姉妹の痕跡が伸びていった。
 足跡の主に会える期待で鼓動が速まり、はしゃぐ妹。夢の中をさまよっている心境なのか、まどろんだ表情を浮かべる姉。
「ん?」
 突然、足跡が途絶えた。
 ゆっくりと顔を上げる。
 息を止め、黒い瞳を広げる。
 二人の顔がにわかに明るくなる。
「妖精さん!」
 嬉しさを抑えきれずシルキアが叫んだ。
 妖精の丈はファルナの膝下くらい。人間をそっくりそのまま縮めたような可愛らしい背中には、蝶に似た翼が根づいていた。真っ白な服、水色のロングスカートはかなりの薄着だ。後ろに垂らした金色の髪と白銀の翼とが朝日に映えていた。
 しかし四枚の翼のうち右側の一枚を損傷しているようで、飛び方がぎこちなかった。怪我の部分をかばいながら少し羽ばたいては雪に着地、また飛んでは着地、という単純作業を繰り返し、妖精はのろのろ進んでいた。
 小さくて不規則な足跡、という条件に符合する。間違いなく、この子だ。
「妖精さん!」
 今度はファルナが呼びかけた。すると相手は立ち止まり、ついに振り向いた。
 たなごころに乗せ、ひねもす眺めていても決して飽きないだろう……シルキアがそう思ったほど、妖精は美しく儚い顔つきをしていた。
 宝石のような青い瞳が姉妹をとらえた。妖精は軽く会釈し、あいさつする。
「こんにちは」
 シルキアとファルナはその場にしゃがみこみ、声量を下げて言葉を返した。
「こんにちは」
「はじめまして、ですよん」
 妖精はファルナの白い帽子を見上げ、わずかに表情を和らげつつ優雅に語った。
「帽子、もう失くさないでね」
 その微笑みに秘められた言いようのない哀しみに気づき、ファルナの胸は締めつけられるように痛むのだった。
「お姉ちゃん、お礼、お礼」
 シルキアにこづかれて、はっと我に返った姉は、すぐに感謝の辞を述べた。
「妖精さん、どうもありがとうですよん。おかげで助かったのだっ」
「ねえねえ、どうしてお姉ちゃんの帽子って分かったの?」
 シルキアは好奇心で瞳を輝かせ、所在なさげにうつむいている妖精へ訊ねた。吐息の軌跡が煙のように上昇していく。
 丁寧な口調で答えてくれる妖精。
「魔法で調べました」
「なるほどね! ところで、ゆうべ吹雪だったけど、大丈夫だった?」
 矢継ぎ早に質問を投げかけるシルキア。妖精は面倒くさがることなく返事をした。
「雪には強いので平気でしたが、強い風にあおられて、右の翼を……」
 そこまで言うと、彼女は口をつぐんだ。辺りを満たす冬の空気がいささか重くなった。雪がみぞれに変わるかのような、水っぽさを含む嫌な重たさだ。
「どこを怪我したの?」
 シルキアが患部を診ようとすると、
「触らないで!」
 顔をこわばらせ、妖精は鋭く叫んだ。あまりの豹変ぶりに、シルキアだけでなくファルナまでもが驚かされた。
 とまどいの視線をさまざまな角度に放散し、宙に差しのべた手の処置に困っていたシルキアだったが、ふいにそれを引っ込めた。心が激しく動揺し、今までの弾んだ気持ちは完全になりを潜める。
「ごめんなさい。私、人間の体温が苦手なの。本当にごめんなさい」
 申し訳なさそうに謝り続ける妖精と、すっかり肩を落とした妹。湿った雰囲気はさらに重量を増した。
 事態を打開すべく、ファルナが沈黙を破る。脳裏をよぎっては消える雑多なイメージから、最も良い案を選択する。
「あの……村に来ませんか? 感じのいい魔術師のお姉さんが居るんですよん。その人なら、きっと怪我を治してくれるはずなのだっ!」
 同時に首をもたげるシルキアと妖精、二人の瞳に希望の灯火が燃え出した。
 ファルナはそれを確かめて、ひとまずほっと胸をなで下ろし、
「せめてもの恩返しですよん」
 と真顔で語りかけた。帽子を運ぶのは、小さな妖精には難儀だったろう。
 しじまに覆われた森の中を澄みきった風が駆け抜けると、三人の間に立ちふさがっていた見えない壁はゆるやかに崩れていった。
 ファルナが先導し、もと来た道を引き返す。妖精の弱々しい飛び方を見ていると、姉妹は安易に声をかけられなかった。
 
 トン、トン、トン。
 木製の扉を律動的に叩くと、若い女性のくぐもった声が聞こえた。
「はあい」
 ドアには〈オーヴァン・ナルセン〉〈オーヴェル・ナルセン〉と彫ってある横長の板が打ちつけられていた。
 雪に埋もれた村はずれの古びた家……とても簡素な住居に、賢者オーヴァンの一人娘オーヴェルが住んでいる。父は別の町で研究者としての生活を送っているため、この家には彼女しかいない。辺境のサミス村では数少ない魔法使いだ。
 再びシルキアがノックすると、中から物音がし、やがてドアの隙間から、
「あら、いらっしゃい」
 と、飾り気のない笑顔が現れた。
「おはよう、オーヴェルさん」
 しばしば〈すずらん亭〉に来てくれる穏和な魔法使いを、ファルナもシルキアも、年の離れた姉のように慕っている。
「おはよう。久しぶりね」
 あいさつを返したオーヴェルは、足下で翼を休めていた妖精のすがるような視線と目が合い、びっくりした様子で訪問者たちを代わる代わる見つめたが、最後は表情をほころばせて歓迎した。
「今日はずいぶん可愛らしいお客さんがいっしょなんですね。外は寒かったでしょう、さあお入り」
 濡れてしまった帽子や手袋を早く乾かしたいと思っていた姉妹は、オーヴェルの誘いを素直に受け入れ、一歩進んだ。
 その刹那、悲痛な叫び声がこだまする。
「待って!」
 妖精だった。
 理由を訊ねると、小さな来客はおびえた様子で〈暖炉の火が怖い〉と繰り返した。ファルナとシルキアはこれまでのいきさつを詳しく説明する。
 ときおり相づちを打ちながら姉妹の話を真面目に聞いていた賢者の娘は、急な依頼にも関わらず二つ返事で快諾した。
「分かりました、やってみましょう。専門書で調べなければいけないから、少し時間がかかると思います。ファルナさんとシルキアちゃんは中で休んでていいわよ。妖精さんは人目につかないよう、裏口の方で待機していて下さい」
 てきぱきと指示を出すオーヴェルに、三人の訪問者は深々と頭を下げた。
 
「これね……」
 奥の書斎から弾んだ声がした。厚い本をパタンと閉じる不思議な音が響き、まもなくオーヴェルが姿を現した。
 赤々と燃えさかる暖炉の前には精巧な揺り椅子があり、その上へ読みかけの本が置かれていた。ファルナとシルキアは空腹を我慢し、言われたとおり部屋でくつろいでいたが、オーヴェルが戻ってくるやいなや反射的に立ち上がった。
「上手くいきますか?」
 恐る恐る訊ねたシルキアと向かい合い、二十歳過ぎの魔法使いは丁寧に応じる。
「治癒再生の聖術を固化し、魔術で氷の属性を注入すれば、たぶん大丈夫です」
「?」
 専門用語が理解できない姉妹は首をひねったが、末尾の〈大丈夫です〉という言葉を反芻し、やや安堵した。
 気持ち良さそうに鼻歌を唄いながら、頼りになる魔法使いは裏口から出て行った。邪魔してはいけないと思い、姉妹は家の中で静かに祈っていた。
 やがて二人は意味不明なつぶやきを耳にした……オーヴェルが呪文を詠唱し始めたのだ。そして〈ハロ〉だとか〈シュリームド〉などという叫びが聞こえた。
 吹きすさぶ木枯らしがおさまった。
 炎のざわめきが聴覚にこびりつく。
 わずかに高鳴る鼓動。
 時間の流れが止まったかと思えるほど長い一瞬が経過したあと、かすれ声でオーヴェルが告げた。
「終わりましたよ」
 待ちきれないシルキアが駆けだした。その後ろ姿を姉が追う。
 身も凍る冬の空気が頬に痛い。魔法の疲れだろう、壁に寄りかかったオーヴェルの息づかいはとても苦しそうだった。
 固唾を飲んで見守る姉妹とオーヴェル。三人の視線を全身に浴びた妖精はゆっくりと、そしてしだいに速く翼を動かした。
 細い足が地面を離れ、さわやかな風が沸き起こった。まだ不安定ながらも、左右の羽を軽やかに操って宙へ舞う。
 人間の目線付近で停滞飛行する彼女は、ようやく心のつかえが取れたのか、本来の明るさに満ちた優しい笑みを浮かべた。
「私、飛べる。飛べるわ!」
「やったぁ!」
 思わず腕を掲げ、シルキアは兎のように飛び跳ねた。ファルナはすべて――帽子を届けてくれた妖精、朝からつき合ってくれた妹、助けてくれたオーヴェル、それから雪や森や太陽やら――に改めて感謝し、褒め讃え、何度も手を打った。
 にわかに賛同者が集まり、拍手の輪は膨らんだ。四人が作り出したリズムは純白のサミス村へ新鮮に降り注いだ。
 妖精は小さな手を懸命に叩きながら少しずつ高度を増し、やがて会釈した。
「みなさん、どうもありがとう」
「こちらこそ、ありがとうですよん!」
 精一杯ファルナが呼びかけた。
 屋根を越え、妖精はだんだん小さな点へと変わっていった。見えなくなるまで、地上の三人は手を振り続けた。
「オーヴェルさん、あの子……」
 言いながら、相手の瞳を真剣にのぞき込んだファルナ。
 訊ねられた魔法使いは、空を仰いだまま大きくうなずいた。
「そう。あの子、雪の妖精だったのよ」
「やっぱりね。予想通りだ」
 しっかり者の妹は顔をほころばせた。
 その答えを裏づけるかのように、妖精が消えた空の果てから、白銀の贈り物がふわりふわりとこぼれ落ちてきた。天の絵の具は限りない平穏をもたらす。
「また会えるといいわね」
 嬉しそうにつぶやいたオーヴェル。
「また会いたいですよん」
 ファルナが素直な気持ちで祈るようにささやいたとたん、妹が横やりを入れた。
「わざと帽子を落とすのは無しだよ?」
「もちろんなのだっ!」
 空腹感も忘れ、ファルナは粉雪の舞う澄んだ空をいつまでも見上げていた。

(了)



【この作品は"秋月 涼"の著作物です。無断転載・複製を禁じます】