音の色

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 


 ここは南国、ミザリア国。南海に浮かぶ小さな島国の、そのまた小さな海沿いの町がこの物語の舞台である。
 からっと晴れ上がった青空のもと、
「サンゴーン。よーく見て、よーく聞いててね。すごいことが起きちゃうから!」
「分かりましたわ」
 二人の少女が庭の隅にしゃがみ込んでいる。南国といえども、今は涼月(十月)、秋の真っ盛りだ。陽射しは和らぎ、二人の華奢な背中を暖かく照らしていた。
 さわやかな潮風が町を駆け抜ける。
「じゃ、やってみるよ」
「ハイですの、レフキル」
 サンゴーンがうなずくと、後ろで束ねた長い銀の髪が静かに揺れた。一方のレフキルは、腕を伸ばし、井戸水で湿らせたハンカチをゆっくりと絞っていく。
 しずくが、ぽたり。
 清楚な赤い花に向かって落ちていく。
 サンゴーンは、南方民族・ザーン族の十六歳。ザーン族の特徴である青い瞳をまん丸に開き、ごくりと唾を飲み込んだ。
 ポーン……。
 水滴が花びらにたどり着いて弾けると、花は高いドの音を響かせた。余韻がしばらく庭全体に残り、消えてゆく。
「ほらねっ!」
 レフキルは立ち上がり、胸を張った。半妖精リィメル族の出身なので、耳がやや長い。レフキルとサンゴーンとは同い年で、ずっと前から大親友だ。
「本当ですの〜。すごいですわ!」
 サンゴーンは嬉しそうに拍手した。レフキルは、ハンカチを桶に浸けて再び湿らせ、力いっぱい、ひねってみる。
 不思議な植物は次々と違う音を発した。橙色の花はレの音を、黄色はミ、緑はファ、水色はソ、紫はシの音を。
「歌姫草の花音(かのん)のことは、噂で耳にしてましたけど、実際に聞いたのは初めてですわ。素敵な音色ですの」
 うっとりしていたサンゴーンだったが、急に顔を曇らせ、口ごもる。
「でも……」
「でも?」
 レフキルはもう一度しゃがみ込む。振り向いたサンゴーンは、不安げな視線のまま、自信なさそうにつぶやいた。
「でも、音の響き方が何となく寂しそうな気がするんですわ」
「寂しそうな気がする、か……。草木の神者のサンゴーンが言うことなんだから、きっと、そうなのかも知れないね」
 レフキルも神妙な面もちになった。
 ルデリア世界には、七人の神者(しんじゃ)がいて、それぞれに七力(火炎、大地、月光、草木、天空、氷水、夢幻)を司っている。神者たちは、おのおの〈神者の印〉という色つきの美しい宝石を持っている。ちなみにサンゴーンは、亡くなった祖母から〈草木の神者〉を継承している。神者の印は緑色である。
 彼女は静かに息を吐き出し、それからゆっくりと腕を組んだ。白いワンピースと麦わら帽子が良く似合っている。
 花音を思い出してみる。
 ド、レ、ミ、ファ、ソ、シ……。
「うーん。音が足りないせいですの?」
「そうだよね。ラの音がないよね」
「もしかしたら、それが原因かも知れませんわね。ラの花と離ればなれになって、きっと寂しがっているんですわ」
「この花ね、昨日の夕方にセットで買ったんだけど、最初から六本しかなかったんだよね。六本まとめて、値引きして売ってくれたんだ」
 レフキルは、昨日の仕事帰りに寄った生花店〈カティーの花園〉でのやりとりを思い出し、首をひねった。
「ラの花だけ単独で売れちゃってたのか、それとも仕入れる段階から元々なかったのか……どういうことだろう?」
 カティーばあさんの優しい笑顔と、しわしわの右手が、まぶたの裏に浮かんだ。
「とにかく、一度、カティーばあさんに聞いてみたいな。もし良かったら、サンゴーン、付き合ってくれない?」
 レフキルが訊ねると、正面の親友は、のんびりした独特の口調で返事した。
「もちろんですわ!」
 
 手をかざし、レフキルは空をあおぐ。
「いい天気だねー」
 イラッサ町の昼下がりは、とにかく穏やかである。猫と一緒にテラスでひなたぼっこするリィメル族の少女、お客が来ても居眠りし続ける薬屋の魔法使い、木陰で煙草を吹かす中年の職人。停泊する小舟、揺れる椰子の樹、舞い上がる蝶、鳥の歌、潮の音、雲の影……。
「眠くなってきますの。ふわぁ〜」
 サンゴーンがあくびを一つ洩らした時、ちょうど向こうの角から、近所の老夫婦が姿を現した。
「おやおや。サンゴーンちゃんに、レフキルちゃんじゃないか」
「こんにちは」
「こんにちは。二人そろって、どこ行くんだい?」
 老紳士の問いに、レフキルが応じる。
「カティーばあさんとこへ行くんです」
「おお、そうか、カティーのばあやか」
 白髪の老婆は何度もうなずいた。眼鏡の奥の丸い瞳が、細く長くなる。四人はしばらくの間、雑談を楽しんだ。
「それじゃあ、失礼します」
「カティーばあによろしくな」
 
 再びサンゴーンとレフキルは歩き出した。首筋や背中にうっすらと汗をかく。
「もうすぐだね」
 商店が増え始め、街が活気を帯びてくる。あちこちから声がかかり、そのたびごと、二人は笑顔で挨拶を交わした。
「こんにちはー」
 向こうに、三階建ての瀟洒な建物が見えてきた。目印は絵入りの看板だ。店の前には植木鉢が並んでおり、若い男性がせっせと手入れをしている。
「アレンさん、こんにちはー」
 相手は作業を中断し、立ち上がった。金髪を短く刈った、気さくな青年だ。店主のカティーばあさんの孫でもある。
「お、いらっしゃい。レフキルっち、今日はお休みかい?」
「そうそう。今日、うちのお店、臨時休業。おやっさんの娘さんの結婚式なんだ。おやっさん、張り切ってたよ」
 レフキルはうなずき、笑った。商人志望の彼女は、露店で働き、修行中の身だ。
「そうだったんか。めでたいなー」
 アレンも表情を和らげる。
 その時、花屋の前でキョロキョロしていたサンゴーンが、彼に訊ねた。
「おばあさんは、いないんですの?」
 店の片隅にぽつんと置いてある小さな茶色の椅子は、ひとりぼっちで暇そうに見えた。いつもは、この椅子にカティーばあさんが腰かけているのだ。
「あいにく、妹と海へ出かけてね……シーア、海が好きだから」
 五歳になったばかりの孫娘のシーアを、カティーはとても可愛がっている。
 レフキルは腕組みをして、訊ねた。
「昨日、歌姫草を買ったんだけど、六本しかなくて。ラの花が足りないんだよね。他の花も、何だか寂しそうだし……」
「おかしいな、仕入れた段階では七本セットになっていたはずなのに。ラの音というと、青い花がなくなってるんだな」
 アレンは首をひねった。彼は昨日の夕方、配達に出ていたから、レフキルとカティーばあとのやりとりを知らない。
「基本的には七本で売ることになってるんだよ、あの花は。そのことを、うちのばあさんが知らないはずはないんだけどね。何らかの手違いか、勘違いか……」
 思いきり髪を掻き上げ、アレンは戸惑った。サンゴーンとレフキルは、彼の次なる言葉をじっと待っている。
「詳しくは、直接、ばあさんに聞いてもらうのがいいけど……もしも青い歌姫草だけ欲しいんだったら、一番手っ取り早いのは、野山へ行って捜すことだと思うな。申し訳ないけど」
 レフキルとサンゴーンは向き合った。親友同士は、目と目で会話をする。
 すぐに方針は決まった。
「だったら、どうせ時間もたっぷりあるし、野山へ探しに行ってみる。詳しい場所を教えてくれる?」
 アレンはすまなそうに、だがしっかりと、目的の場所を説明してくれた。
「悪いね。じゃあ、まずは海の方へ出てもらって、それから……」
 
 薄水色の空と、青緑の海。それぞれに、透明な空気と海水が満ちている。秋の空はより高く、秋の海はより深く感じる。
「気持ちいいね〜」
「ハイですの!」
 二人は額の汗を拭き拭き、海沿いの高台をゆく。ワカメが干してあったり、白い砂が舞い上がったり、海鳥が休んでいたり……のどかな浜辺が続いている。
 人家が減って、山が立ちはだかる。勾配がきつくなる。二人は教わった通り、途中で右に折れ、畑のあぜ道を進んでいった。南国に多く生息する、銀の体を持つ細身の昆虫が現れ、空を滑っていく。
「待ちなさーい!」
 昆虫を追って、レフキルはにわかに歩みを速めた。しだいにスピードを増し、土の階段を一段飛ばしで駆け上がる。
「レフキル〜、待って下さいの〜」
 サンゴーンがのんびりついていく。
 急坂をどんどん行くと、さっきの畑が見下ろせた。
 その時、昆虫はとんぼ返りをし、レフキルとまっすぐ向き合った。
「おっと!」
 レフキルがつかまえようと手を伸ばした瞬間、昆虫はそそくさと風に乗り、もはや手の届かない方へ逃げだした。
 追いついたサンゴーンが宣言する。
「にらみあい、レフキルの勝ちですの!」
 
 言葉が出ない。
 遅れて、感嘆の溜め息が洩れる。
「わぁー」
 山の頂を越えると、反対側はなだらかな斜面で、秋の草花が人知れず香っていた。赤や黄色、橙や紫、白い花……。ここには、あまたの色がある。
 といっても無暗に派手なわけではなく、調和のとれた気品のある美しさを誇っていた。その向こうは常緑の森だ。
「こういう場所って、心が安らぎますわ」
 サンゴーンは緩やかに瞳を閉じ、両手を組み、片膝をついて聖守護神に祈った。すると、ほっそりした体から濃い緑の霧が出て、夏のかげろうのように揺らいだ。長い髪が立ち、にわかに電光を帯びる。
「サンゴーン……」
 変わりゆく友を、レフキルは驚きの目で見つめていた。忘れかけていたが、サンゴーンは〈草木の神者〉なのである。
 普段の生活の中で、彼女は今のところ、神者の力を発揮していない。そのため、町に尽くした前代の神者(サンゴーンの祖母)と比較し、サンゴーンを無能者扱いする輩もいる。当人もそういう噂に気づいており、ますます自信を失っている。
 しかし、こういう〈草木のあふれている場所〉へ来ると、隠れていた本来の力が遺憾なく発揮されるようだ。サンゴーンの祖母が、世襲批判をものともせず、死ぬ間際になって実の孫娘に草木の神者を託したのも、レフキルには何となく分かるような気がするのだった。
 サンゴーンはゆっくりと腕を掲げる。やがて、細かな恵みの雨が、野原一面に降り注いだ……静けさとともに。
 その時だった。
 ポーン、ポーン、ポポーン。
 聞き覚えのある高らかな音が、レフキルの耳まで届いた。その中には、ラの音も、確かに混じっていた。
「歌姫草が、どこかにいるみたい……」
「きっと、あちらですわ〜」
 サンゴーンは足下の花を踏まないよう注意しながら歩き出した。その姿はもう、いつも通りのサンゴーンだった。
 
 歌姫草の群生があったのは森のそばだった。近くを小川が流れ、土には適度な湿り気がある。樹の上から、リスの親が不安そうに侵入者を見下ろしている。
「大丈夫。あたしたち、何もしないよ」
 レフキルが優しく微笑みかけると、気持ちが通じたのか、リスは樹から降り、子どもたちの夕食を探しに出かけた。
「ほんと、きれいだよねー」
「地上にちりばめた虹ですわ……」
 歌姫草は七本一組の単位で、家族のごとく寄り集まって咲いている。赤、橙、黄、緑、水色、青、紫の七色は、ちょうどルデリア世界の七力と対応している。
「やっぱり全部の色がそろってるね」
 どの群れを見ても、七つの花が必ず一緒に集まっていた。小川から水をすくって花にかけると、明るい音がした。
 サンゴーンは空をあおいで、つぶやく。その横顔が、傾いた陽の光を浴びて、少し寂しそうに見えた。
「やっぱり、七つの花がいっしょにいると、楽しそうな音色がしますわ」
 レフキルは地面を見つめ、腕組みした。
「花屋さんじゃ、どうして青いラの花だけが欠けてたんだろう? 変なの」
「不思議ですの……」
 一瞬、真剣なまなざしになったものの、
「まあいいや。難しく考えるのはよそう」
「あとでカティーおばあさんに聞けば、きっと分かりますわ」
 とうなずきあい、二人は寝転がる。
 歩き疲れた足が、体が、そして心までが、森と原っぱの醸し出す深い安らぎにつつまれて、じょじょに解放される。
 サンゴーンは思わずあくびをした。
「ふぁ〜あ。眠くなってきましたの」
 耳をすませると、鳥の歌が、あちらからもこちらからも聞こえてくる。ここでは時間の流れさえ、ゆっくりに感じた。
 レフキルが、あお向けに寝転んだまま、今の気持ちを素直に言葉へ乗せた。
「鳥のさえずりって、一つ一つを聞いてるとバラバラに思えるけれど、それが合わさると素敵な音楽になってる……」
「鳥の歌だけじゃないですわ」
 うつぶせのサンゴーンの目の前で、歌姫草の家族が可憐に咲いている。眠りと目ざめとの間をさまよいながら、彼女はおぼろげに、けれども丁寧に話した。
「この七つの色、七つの音に象徴される偉大な自然の力が、野原や森には、たっくさん満ちてますの」
 ふわりと風が吹き、サンゴーンの語尾をどこかへ運んでいった。彼女は続ける。
「葉っぱの色、鳥たちの歌声、それぞれの生き物。一つとして同じのがないのに、それらが合わさると……」
「素敵な和声、優しい調和が生まれるんだよね。必要じゃないのは何もない、みんな大事なんだって気づいて、安心する」
 レフキルは穏やかな口調で言った。
「もちろん、食べたり食べられたり、悲しいこともあるけれど、また新しい命が生まれてきて、調和は保たれて……」
「命の、ハーモニーですわ」
 秋の午後は永遠のように透き通り、麗しい時を紡いでいた。鳥の歌に、いつしか二人の少女の寝息が混じりだした。
 
 夕暮れの〈カティーの花園〉には、赤い光が斜めに射し込んでいた。
「おーう!」
 レフキルとサンゴーンに気づいたアレンが、右へ左へ大きく手を振る。彼の横に置いてある古びた椅子には、杖を手にした老婆が腰かけている。もちろん、店主であるカティーばあさんだ。
「こんにちはー」
 サンゴーンとレフキルは会釈をする。
「おかえり。よく来たねえ」
 三階建ての〈カティーの花園〉は、おばあさんがいると輝きを増す。建物とカティーばあさんとが信頼しあい、支えあっているような印象を受ける。
「おばあさん、昨日の歌姫草なんだけど……やっぱり、七つの花をみんないっしょにしてあげたいな、と思って。ラの花は、どこに行っちゃったんです?」
 カティーばあさんが嬉しそうに相好を崩し、答えを言おうと口を開いた刹那。
 ポーン。
 二人の上から、ラの音が降ってきた。
「あっ!」
 サンゴーンが指さす。
 と、その先には……。
「あたしね、海がだーいすきなんだ!」
 ばあさんの孫娘のシーアが、じょうろを持ち、青い花の前で笑っていた。
 
「せっかく仕入れたんだけれど、孫娘が、青い花だけ欲しがってねえ」
 少しずつ夜へと移ろいゆく町の花屋の片隅で、老婆は嬉しそうに説明した。二階からは夕食のいい匂いがする。時折、母の穏やかな声と、父の落ち着いた声、娘の甲高い声が混じりつつ流れてくる。
 カティーばあさんの話は続いていた。
「仕方ないから、他の六つを組み合わせて、値引きしてレフキルちゃんに売ったけれど、確かに花からすれば、一つ欠けたのは寂しかったのかも知れないねえ」
「あたし、お花、返します。やっぱり、七色、みんな一緒がいいかなと思って」
 レフキルはもう心に決めていた。カティーばあさんは少し考えていたが、最後はゆっくりと首を垂れる。
「そうかい……すまないねえ。それじゃあ、何か代わりのお花を用意しようかねえ。うんっとおまけしてあげるよ」
「はいっ、お願いします!」
 レフキルが顔をほころばせると、カティーばあさんも、サンゴーンも、そばで見ていたアレンも、ほっと息をついた。
 
 かくして、二階の出窓に並ぶ七色の歌姫草は〈カティーの花園〉の名物となった。毎朝、ちっちゃなシーアが水をやると、辺りに元気な音が響きわたり、散歩する人たちも、ふと足を止めるのだった。
 一方、レフキルの家の庭は秋の花でいっぱいになった。レフキルが休みの日は、サンゴーンとおしゃべりをしながら、飽きることなく眺めるのだった。
 イラッサ町の秋は深まってゆく。

(了)



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