時が流れても

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 


「きれいだなぁー」
 丘の上から遠く町を見下ろし、ミラーは感慨深げに言った。山の端に沈みつつある真っ赤な夕陽が天空の高みを染め、町全体を紅葉させている。ルデリア世界の便利な魔法でも、自然の描く一瞬の美しささえ作れないな、と彼は思った。
「ちょっと涼しくなってきたわね」
 と言って、シーラは腕組みする。彼女のすべすべした頬も、黒い髪も、長いスカートも、今は夕焼け色を帯びていた。
 ミラーとシーラ、二人は同い年の二十五歳で、肩書きは旅人ということになっている。街道を行き、町や村で留まり、適当に働いて稼ぎ、資金が出来たら再び旅立つ、という生活を続けている。
 ミラーはわざとらしく呼びかけた。
「黄昏の町を見下ろすと、五年前を思い出さずにはいられない。だろう?」
「寒いわ。早く町へ出て夕食にしましょ」
 と、彼女の返事は素っ気ない。ミラーは黒い瞳を瞬かせ、不満げにつぶやいた。
「せっかくの記念日なのになあ……」
 そして過ぎ去った日々を思い起こす。
 
 五年ほど前のミラーは、故郷レイムル町の役場で働いていた。いくつかの魔術を操れる彼は、特に苦労することなく、その仕事にありつけることが出来た。黒髪族で魔法が操れる者は珍しく、何かと優遇される。彼にとっては好都合だった。
 毎朝、役場に通い、陽が落ちる頃まで町の税金に関する書類をまとめる仕事は、単調ではあったが安定していた。
 しかしミラーには一つの大切な趣味があった。それは旅である。彼は役場の休日を利用し、あちこち訪ねて歩いた。
「いつかは旅して暮らしたいなあ……」
 当時の彼の口癖である。しだいにレイムル町の周辺は探索し尽くし、仕事をしている間も、旅が頭の中を占めるようになってゆく。当然、仕事を失敗する。
「すみません、ここが違っているようなんですけれど。確かめてもらえます?」
 別の係の女性が現れ、静かに書類を置いた。ミラーは謝りながら、顔を上げる。
「ああ、すいません、確かめてみます」
 と言ったきり、彼の思考は停止した。
 そこにはミラーと同期で役場に入った女性が、困った顔をして立ちつくしていた。若く清楚で気品がある。どこか不安げな光を湛える両眼は謎めいていた。
「どうかしましたか?」
 ちょっと首をかしげ、女性は問う。ふっと我に返ったミラーは応えた。
「あ、いえいえ、何でもありません。この書類は調べておきますんで……」
「お願いします」
 そう言って立ち去った女性の後ろ姿を、ミラーは呆然と眺めていた。彼女の名はシーラ。同い年で、同じ年に役場に入ったが、配置が違うためか、今まで言葉を交わしたことはほとんどなかった。
 その日からミラーは彼女が気になりだした。簡単に言えば恋に落ちたのだ。以上が、二人の出会いのあらましである。
 夏が遠ざかり、気の早い木の葉は色を変えつつあった。ミラーの旅への憧れはつのっていった。それとともに、同僚であるシーラへの関心も高まってゆく。
 その頃、役場では晩秋に開かれる闘技大会の話題でもちきりだった。この大会はレイムル町が主催する規模の大きなもので、勝者を予想して投票する町公認の賭けは男たちの間で大人気だった。
「僕はアスタロンだね」
「いいや、バレンダに決まってるさ」
「俺は絶対、グレコッチに賭けるぜ」
 この大会での各種徴税のお陰で、レイムル町の財政は豊かであった。ミラーのような税金に関わる役人にとって、一年間で最も忙しい時期が到来したのだ。
 仕事の途中、ミラーは別の部署を盗み見る。そこにはシーラがいるのだ。
 彼女の表情に影を落とす憂いの色は、秋の深まりとともに強まってゆく。ミラーはいささか心配になった。彼女の悩みは何だろう。家族のことだろうか、仕事の問題か。それとも他に原因があるのだろうか。いくら考えても分からない。
 役場の先輩に、シーラの情報をそれとなく聞いてみることもあった。だが、
「彼女は物静かだが、しっかり者だね」
 との返事ばかり。結局、彼女の憂いの原因までは分からずじまいだった。
 しっかり者の彼女が悩んでいることだから、よほど重大な問題に違いない。ミラーは、単なる好奇心からではなく、純粋に彼女の悩みを聞きたいと思った。
 
 チャンスは割と早くやって来た。ある秋の日、ミラーは役場からの帰りがけに一人歩くシーラを見つけた。周りを確認して、役場の知り合いがいないことに気付くや否や、彼は歩みを早めていた。
 しだいに二人の距離が狭まっていった。やがて横並びとなる。華奢な肩へ、ゆっくりと手を伸ばす。そして……。
「どなた?」
 シーラは立ち止まり、振り返った。
「あら、ミラーさん」
「こんにちは」
 どう話しかけたら良いのか分からなかったので、ミラーはとりあえず挨拶をしてみた。シーラは不思議そうに訊ねる。
「どうしたんですか? 私に、何か?」
「あの……」
 ミラーはまごついた。こういう時の切り出し方が分からない。二人は道のすみの方で、しばらく見つめ合った。大きな荷馬車が通りのど真ん中を走っていく。
 シーラの黒くて澄んだ瞳は、相変わらず憂いと悩みで満ちあふれていた。ミラーの心はその光に射抜かれてしまう。
 なんて謎めいた人なんだろう……。
 ミラーはすぐに意識を取り戻し、一瞬の迷いののち、思いきって口に出した。
「あの、そうですね……もしよろしければ、ちょっと歩きませんか。きっと今日は夕焼けがきれいでしょうし」
 確かに空は快晴で、西の方は赤く染まり始めていた。ミラーは不安と期待で胸が息苦しくなり、心臓は高鳴った。
 結果はすぐに判明した。
「ええ、別に構いませんけど」
 シーラは、はっきりと応諾したのだ。
 ミラーは嬉しくて叫びたいほどの気分だったが、あえて平静を装い、指さした。それでも思わず声が裏返ってしまった。
「では、丘の方にでも行ってみましょう」
「そうですね」
 暮れゆくレイムル町の大通りを、二人は並んで歩き出した。陽はさらに傾き、影がしだいに細く伸びていった。
 魚屋のおかみさんが婦人の客と談笑している脇を通り過ぎ、鳥たちの歌も耳に入らず、ただ感じるのは吹き抜ける風が涼しさを増していることだけだった。
 二人の間には何となく気まずい沈黙の時が流れた。お互い、仕事以外の会話を交わしたことがなかったので、何から話せばいいのか見当がつかなかったのだ。それはミラーもシーラも同じだった。
 やがて闘技場が見えてくる。ミラーは気まずさに耐えきれなくなり、喋った。
「ああ、あれが闘技場ですよ。来週には闘技大会が開かれます。税金がどっと入りますから、僕の仕事も大忙しです」
「そうですよね」
 シーラは曖昧に返事しつつ、一方では真剣な眼差しで闘技場の壁を見ていた。
 闘技場を囲う外壁には、何人もの似顔絵が無雑作に貼られていた。闘技大会に出場する選手たちの情報だ。これを見たり、多方面から噂をかき集めたりして、人々は誰に賭けるかを決めるのだ。中には有名な選手のものも混じっている。バレンダ、アスタロン、グレコッチ……。
 ミラーはそこを通り過ぎ、丘の方に向かった。シーラは半歩遅れてついてくる。
 道の両脇には空き地が目立ってきた。数人の子供たちが丘の上の方から走ってきて、それぞれの家へ散っていった。
 いつの間にか、耳に入る音といえば、家路をたどる鳥たちの寂しげな歌と、二人の足音だけになっていた。丘への坂道は人気がなく、両脇に続く針葉樹の並木は秋風に任せて緑の葉を揺らしていた。
 今こそ、言わなきゃな……。ミラーはさんざん迷ったあげく、不意に立ち止まった。シーラも足を休め、顔をもたげる。
 ミラーは相手の澄んだ両眼をしっかりと見つめながら、真面目に語りかける。
「シーラさん、何か悩み事があるんじゃないんですか。最近、特に不安そうな顔をして……僕、心配していたんですよ」
 シーラは一瞬、驚いた表情を見せたが、すぐにうつむいてしまった。ミラーは困ったように腕組みし、話を続ける。
「僕で良ければ、相談に乗りますよ」
 烏がどこかで鳴いていた。彼は言う。
「悩みを打ち明けるのは勇気が要ると思いますけど、喋ってしまえば気が楽になります。もちろん、そのことを他人に言いふらしたりはしません。約束します」
 薄雲から夕陽が顔を出し、見晴るかすレイムル町はほのかに赤らんだ。西に連なる山々も、東に横たわる大海峡も、静思堂の尖塔も、レンガ作りの町役場も、楕円形の闘技場も……強く美しく、少しだけ恥じらいのある茜色に染められた。
 シーラは、か細い声で曖昧に応える。
「でも……」
 予想していた結果だった。普段は縁のない人間同士である。いきなり悩みを打ち明けて欲しいと頼むのは、いささか無謀であったと、ミラーは冷静に反省した。
 シーラは視線を逸らし、後ろ手に両手を組み、薄暗い地面を見つめた。相手の不安を和らげようと、ミラーは努力した。まずは重くなった雰囲気に光を射す。
「あの、いきなりで驚かれたでしょう。そりゃあ無理ないですよね〜」
 脇の下を冷や汗が伝った。こわばった頬を気にしながら、ミラーは語りかける。
「やっぱり、言いにくいことですか?」
 こんな時に幻術が使えたならな……とミラーは歯ぎしりした。ルデリア世界を形作る七力(しちりき)の一つである夢幻のエネルギーを反映した〈幻術〉は、他人の精神を操ることが出来るのだ。
 幻術で相手の心の中を覗くのは失礼だけれど、せめてシーラさんの気持ちを軽くすることが出来ればな……魔術には自信のあるミラーは頭を抱えてしまった。
 ちなみに、魔術は火炎・大地・天空・氷水の力を源としている。放浪癖のあるミラーは、天空に関する魔術を得意としていた。一言でいえば風の魔法である。
 秋の切ない風は二人の間を通り抜け、昼の光に隠されていた一番星が薄闇の空へ今まさに姿を現そうとしていた。見下ろした町の向こうには、西日を受けて紅く燃える夕凪の海が広がっていた。
 その時だった、彼女が語りだしたのは。
「捜していたの……」
 長く艶やかな黒髪をしなやかに掻き上げ、シーラは一歩だけミラーの方に近づく。そして静かに細面の顔をあげた。
「私を助けてくれる人を」
 何かを懇願するような、切実な表情だ。その言葉を、その表情をぐっと噛みしめてから、ミラーは胸を張って応じた。
「僕はあなたを助けますよ」
 シーラの瞳の中へ、見る見るうちに希望の炎が灯ってゆく。花のつぼみが開くように、潮が満ちるように、緑の葉が色を変えて行くように、粉雪が静かに降り積もるように、ゆっくりと。
 だが、確かに。
「本当?」
 シーラは念を押す。
 それを聞いたミラーは一瞬、たじろぐ。頭の奥の奥を、迷いの雷がよぎる。しかし彼は唾を飲み込み、覚悟を決めた。
 シーラさんの悩みがどんなものであろうと、僕はしっかり受け止めるんだ……。
「ええ、本当ですよ」
 彼は一度まばたきをしてから、はっきり宣言する。その時、シーラの頬が赤かったのは残照のせいだけではあるまい。
 彼女は目を潤ませながら語った。
「ありがとう、ミラーさん。やっと、私の捜していた人が見つかったわ」
 太陽が西の山にかかり、その後ろへ隠れ始めた。ミラーは、自分が物語の主人公になったかのような気分の昂揚を感じ、シーラの話を夢見心地で聞いていた。
「秋が終わるまでに、必ず現れると信じていたの。私を助けてくれる人が……」
 シーラはまた一歩近づき、優雅な動作で細い腕を伸ばし、ミラーの手を最初は微かに、しだいに強く握りしめた。
「何でも相談して下さい。手助けします」
 ミラーの最後の一撃。
 シーラはついに悩みを打ち明けた。やや早口ぎみの調子で、彼女は言い切る。
「来週、お金を貸して頂けませんか。少しでもいいんです。必ずお返しします」
 なるほど、とミラーは思った。お金のことなら、他人に相談しにくいだろう。彼は勝手に想像する。病気がちのシーラの母親、必要なのは高価な魔法の薬。病気はしだいに悪化し、お金は足りない。
 ミラーは間髪入れずに同意した。
「ええ、もちろん貸しますよ」
「嬉しいっ!」
 シーラはついに喜びを爆発させ、今までのしおらしい態度を一変させ、ミラーに抱きついた。あまりの彼女の変わり様にミラーはとまどい、違和感さえ覚えたが、なぜか悪い気はしなかった。
 頭のはるか上、空のかなたでは夜が幕を開け、レイムル町は闇に沈んでいった。
 
 一週間後。
「いけぇ! いけっ、やれ〜っ!」
 右のこぶしを思いきり振り上げるシーラ。彼女の瞳は情熱で燃え、もはや憂いの色はなかった。ざわめく観衆の中でも響く甲高い声で、彼女は楽しげに叫ぶ。
「アスタロンに賭けようか、グレコッチにしようか、最近、ずっと迷ってたのよ。今回の予想は難しいって評判でしょ?」
「ええ……」
 隣のミラーは、シーラの本性を知って愕然としている。瞳は虚ろで、彼女が話しかけても曖昧に応じるだけだった。
「でも、ミラーさんがお金を都合してくれたから、私、アスタロンにもグレコッチにも思いっきり投資できたわ。どうもありがとう。あとで二倍にして返すわね」
「はあ……」
 二人が来ていたのは、もちろん闘技場である。町を挙げての闘技大会、今は決勝戦だった。観客は最高潮に盛り上がる。
 シーラは得意の早口で喋り続けた。
「アスタロンは惜しくも準決勝で負けちゃったけど、グレコッチはとうとう決勝まで来たわ。私の目に狂いはなかった。いけぇ、やれぇ、グレコッチぃ〜!」
「そうですか……」
 闘技大会での税収を仕事として扱っていても、闘技大会自体にはあまり興味のなかったミラーは深い溜め息をついた。
 彼は未だに信じられなかった。シーラの悩みが、こんなことだったとは……。
 突如、シーラは立ち上がって、両手で頭を抱え、悲痛な叫び声をあげた。
「きゃあぁ!」
 この瞬間、ミラーの貸した大金は水泡に帰した。グレコッチが気を失い、敗れたのだ。賭けに勝った観客の中には喜んで飛び跳ねる者も現れた。その一方で、多くの人はうなだれる。シーラも、そしてミラーも、明らかに後者であった。
 これを機に二人の交際が始まる。寒い冬を乗り越え、いつしか川の水の温みだす頃、二人は役場を辞めて旅に出た。
 
 レイムル町の丘へ登り、夕暮れの町を見下ろして、ミラーがシーラを助けると宣言した日から、ちょうど五年が経つ。
 
「もう、五年も経ったら忘れちゃうか」
 故郷から遠く離れ、小さな港町の丘を下りながら、ミラーは愚痴をこぼした。
「しつこいな〜。覚えてるわよ。例の記念日でしょ? はいっ、プレゼント」
 シーラは少しだけ眉をひそめ、立ち止まって背負い袋の中から面倒くさそうに小さな箱を取りだし、ミラーへ手渡す。
「なんだ、覚えてたのか」
「その代わり、夕食おごってよね」
「がめついのは相変わらずだな……」
「何か言った?」
「いえいえ、なんでもないです」
 シーラの性格は全くと言っていいほど変わっていない。それはシーラ本人も認めている。人間の中身は、時が流れても、なかなか変わらないものだ。
 が、その一方で、外見の美しさも、あの頃と大差なかった。それはミラーにとって嬉しくもあり、困ったことでもある。
「さ、早く食事にしましょ。ね?」
 などと微笑みかけられると、つい許してしまうのだ。シーラの笑顔は、ミラーにとって、ある意味で〈幻術〉以上の精神錯乱効果を発揮する。
 彼は財布の中身と相談し、決定を下す。
「まあいいや。今夜はおごるか」
「ミラー、大好きっ!」
 シーラは五年前と同じような動作で、相手へ抱きついた。彼女を大事につつみ込み、ミラーは優しく語りかける。
「盛大とはいかないけど、ささやかに記念日を祝おう……」
 何はともあれ、幸せなミラーだった。

(了)



【この作品は"秋月 涼"の著作物です。無断転載・複製を禁じます】