すずらん日誌

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 



【補三話・秋風街道】


「朝だよ!」
 すでに着替えを済ませたシルキアはカーテンを右へ左へ引っ張った。明るい光が大きな窓から射し込んでくる。たちまち部屋の中は陽の粉でいっぱいになった。
「お姉ちゃん! さあ、起きてっ」
「うう……ぅん」
 シルキアが声をかけても、姉はまぶしそうに瞳を半分だけ開いただけで、すぐに再び毛布の奥へ潜り込んでしまった。
 シルキアはちょっと首をかしげ、腕組みし、姉を見つめて考え込んでいたが、
「仕方ないな。次の作戦」
 と言って窓に手を伸ばし、留め金を外した。そして勢い良く手前に引っ張る。
「秋風さん、おはよう!」
 待ってましたとばかりに〈すぅーっ〉と澄みきった風が迷い込んでくる。ほのかな睡魔は追い出され、あっという間に部屋の空気が現実味を帯び始めた。
「ほらっ、秋風さんを浴びてみてよ」
 温もりの残る布団を一気にひっぺがす。姉は抵抗するものの、力が入らない。布団を巡る定番の争いはいつも妹が優勢だ。
「寒いですよん」
 夢から逃れたくないと、丸まって縮こまる姉の背中を、秋風が遠慮なく吹き抜ける。九月の下旬とはいえ、ここは山奥のサミス村。朝晩はとても涼しいのだ。
「わかった、起きるのだっ……」
 姉のファルナが観念すると、シルキアは会心の笑みを浮かべ、廊下に出ていった。そのまま勝手口へ進み、外に出て、さっき汲んでおいた井戸水で顔を洗う。
「ひゃっ」
 これで頭の芯が目覚める。冷たいけれど気持ちいい。余った水で、後ろに垂らした茶色の髪の毛をわずかに湿らせる。
 それから一階の酒場のすみに掛かっている四角い鏡へ向かった。櫛を入れ、前髪をきれいに分ければ出来上がり。
 おいしそうな匂いがする。ぐつぐつと何かを煮込んでいる音が厨房から聞こえる。シルキアは顔を出し、声をかけた。
「おはよっ」
「おはよう、シルキア。いい天気ね」
 母の返事だった。宿に泊まっているお客さんの朝ご飯を作り中だ。そう、ここはサミス村で唯一、宿屋と酒場を営業している〈すずらん亭〉なのだ。
「お姉ちゃんを起こしたら手伝うね」
「頼むよ、シルキア」
 背中の方から、今度は父の声がした。
 シルキアは姉を起こすのが朝一番の仕事だった。それが終われば母の料理の手伝い、配膳、皿洗い、掃除、洗濯と、やることは山ほどある。夏の頃に比べれば、いくぶん宿泊客は減ったとはいえ、今日も忙しい一日が幕を開けたのである。
 
「ありゃ?」
 シルキアは瞳をしばたたき、唖然とした。部屋に戻ると、せっかく開けたはずの窓が閉まっていたのだ。部屋から廊下へ向かう秋風の流れも止まっている。
 そればかりではなくカーテンも半分だけ引っ張られ、部屋は薄暗くなっていた。
 犯人は分かりきっている。
「お姉ちゃん、いい加減、起きてよぉ」
 彼女があきれ声を出したのも無理はない。他方、姉はしぶとくベッドの上で自分の毛布を抱きしめ、まどろんでいる。
 もう一度、カーテンを開くと、ファルナはついに寝ぼけまなこで上半身を起こした。しきりに両目をこすっている。
 そこにとどめをさすシルキア。
「秋風街道、復活だっ!」
 窓を引っ張ると、シルキアの前髪がふわりと浮かび、さらりと落ちた。さわやかな風を思いきり吸い込むと、身体の中まで秋と混じり合ったように感じる。
「ありがとう……」
「えっ?」
 シルキアはすかさず左右を見渡したが、生あくびをしている姉しかいない。
「お姉ちゃん、今、何か言った?」
「何にも。ふわぁ、顔、洗うのだっ」
 素っ気なく、やや不機嫌そうに応え、朝に弱いファルナは部屋を出ていった。
 シルキアは窓辺に立ち、透明感のある青空を見上げ、不思議そうにつぶやく。
「さっきの言葉……誰だろう?」
 
「うーん」
 朝の仕事を終え、家族だけの昼ご飯を済ませてから、シルキアは一人で散歩に出かけた。珍しく考え込みながら、村はずれの坂道をのんびり登ってゆく。足下の土の表面には雑草が茂っていた。
 何か困ったことや悩みがあると、彼女はいつもここを訪れる。振り返れば小さな村の全景が見下ろせる、お気に入りの場所だ。黄昏の頃は、西日を浴びた村の家々と、その向こうに広がる夢幻の森、あかあかと燃える空が刹那の調和を醸し出す。特に秋だと格別な味わいがある。
 その季節が日に日に深まりつつあった。
「秋らしいお店の飾り付け、か……」
 森の入口まで来て足を止める。見上げると、落葉樹の緑の葉は夏の記憶とともに色褪せ、移ろい始めていた。といっても、黄葉・紅葉の季節には少し早い。
「やっぱり秋の飾りといえば色づいた葉っぱが欲しいな。待つしかないよね」
 独り言をつぶやきながら歩き続ける。
 昼ご飯の席で、母が提案したのを思い出す。それは〈すずらん亭〉の内装を一足早く秋らしいものに変えようという意見だった。父とファルナ、もちろんシルキアもすぐに賛成し、それぞれアイディアを持ち寄ることとなった。
 樹に寄りかかって腕組みしていると、突然、ロングスカートの裾が浮かび、ゆっくりと落ちた。前髪も一瞬、逆立つ。
「あっ」
 口元を押さえる。全身が軽くなって持ち上がるような、あの時と似た感覚だ。
 すると細く長い風が再び降りてきて、耳元をかすめ、森へ抜けていった。
「こんにちは」
 やはり朝と同じ声がすぐそばで聞こえた。まるで川のせせらぎ、小鳥のさえずりを彷彿とさせる高い響きだ。
「こんにちは!」
 何が起こるのだろう、と胸をときめかせながら、すぐに挨拶を返し、耳を澄ませた。返事がないのを見計らって訊ねる。
「あなたは、けさ、あたしのお部屋に遊びに来てくれた秋風さんだよね?」
 瞳は期待感と好奇心で輝いている。
「けさはありがとう」
 森の奥から爽快に流れてきた風の中に答えはあった。風はシルキアを通り越し、小さな渦を巻いて遙か上の方を目指した。
「どういたしまして。でも、なんでお礼を言うの? 訳を教えてくれるかな?」
 あの瞬間を回想してみるものの、思い当たることはない。眠っている姉を起こすためにカーテンと窓を開けたくらいだ。
 すると色々な方角から秋風が吹き、それぞれの言葉で一斉に喜びを伝えた。
「秋風街道が通れるようになったの」
「入口を作ってくれて、助かったの」
「あのお部屋が近道のトンネルなの」
「おかげで、お仕事がはかどったの」
 秋風街道って、ほんとにあったんだ。まさか自分の部屋が近道だったなんて。
 最初はあちこちからの秋風にびっくりしていたシルキアだったが、じきに慣れ、あまりの素敵さと楽しさに微笑む。
「みんなのお手伝いができて、ほんとに良かった。あたしも嬉しい!」
 気のせいか、普段よりも風の通路をはっきりと感じ取ることが出来る。澄みきった秋風の持つ秘められた力だろうか。
 春、森の一軒家で聞いた、若き賢者オーヴェルの言葉が懐かしく脳裏をよぎる。
 
 ――風にはそれぞれ色がついているの。
 いつか、風が見える気がするのよ――。
 
「お礼したいの!」
 声がして、ふっと我に返る。秋風が流れ去り、想いを告げたのだ。すかさず別の風が違う方から理由を運んでくる。
「秋風街道、役立ったから」
「お仕事、はかどったから」
 木々の梢がざわざわと揺れ、黄緑に変色した葉が一枚、回りながら落ちてきた。シルキアはそれを手のひらに受け止める。
「秋風さんのお仕事って、何?」
 するとシルキアの手のひらを涼しい空気の流れがいたずらっぽく通り抜けた。さっきの葉はまた天高く舞い上がる。
「森の葉っぱを」
「塗り替えるの」
「緑から黄色へ」
「黄色から赤へ」
 そして四方向からの風が集まり、シルキアの周りを軽やかに一巡りしてから、別の方に散っていった。風は見えないけれど、動きを肌で感じ取ることはできる。
「黄色から赤へ……」
 彼女は感激に満ちた声で言った。さわやかで、いつもよりちょっぴり大人びた微笑みはどこかしら秋風に似ている。
 と、その時、頭の中で二つの事柄がつながり、雷のようにひらめいたのだ。
「そうだ、秋風さんに葉っぱの色を変えてもらえばいいんだ。お願いできる?」
 シルキアは視線をやや上に向け、熱っぽく語った。風の流れが一瞬、止まる。何か相談しているようにも思われた。
 色とりどりの葉っぱを〈すずらん亭〉に飾れば、秋のイメージにぴったりだし、来てくれるお客さんにもきっと喜んでもらえる、とシルキアは考えたのだった。
 雨垂れのように鼓動が速まる胸をしばし押さえていたが、不安がることはなかった。すぐに風の返事が届いたのだ。
「ちょうど良かったの」
「それがお仕事なの」
「塗り替えたいの」
「お礼したいの」
 すでに思いはまとまっていた。風は決して嘘をつかない、と心で直感したシルキアは素直な気持ちで礼を言った。
「ありがとう!」
「明日の朝に迎えに行くの」
 何度、吹かれても魅惑の香り漂う風だ。シルキアはうっとりした表情で、宝石よりも透き通った伝言を聞いていた。
「あ、そうだ、お姉ちゃん!」
 ふいに、おっとりした顔がまぶたに浮かんだ。シルキアはパンと手を叩く。仲良しの姉の存在を忘れてはいけない。
 すかさず風に頼んでみる。
「もし平気なら、お姉ちゃんも連れてって欲しいんだけど、どうかな?」
 前向きな返事が聞けるだろうと期待し、興奮気味に語ったシルキアだが、相手の応えはとても意外なものだった。
「あの子、秋風街道を止めたの」
 と渋り出したのだ。
「あたしたち、いつも一緒に遊んでるの。楽しい思い出は二人で分け合って来たんだよ。お姉ちゃん、お寝坊さんだけど、悪い人じゃないよ! 絶対に保証する」
 シルキアの真剣なお願いに、通り抜ける無言の風の決意も崩れだしたのが分かった。やがて空気が元通りに軽くなる。
 十四歳の少女のきらめく前髪をさらさらと揺らし、森の葉っぱでリズムを奏でながら、風は流れ、凪ぎ、また流れる。
「明日、曙の刻になったなら」
「秋風街道を開いてほしいの」
「向かいの風見鶏が合図なの」
 姉妹の部屋の窓からは向かいの家の屋根に付けられた風見鶏が見えるのだ。
 事を理解し、思いきり空に腕を伸ばす。
「お姉ちゃんにも必ず早起きさせるね。秋風さん、あたしのわがまま聞いてくれてありがとう! よろしくね」
 
 さて、明くる日の朝……といっても、まだ日の出前で外は暗い。東の方の濃い青がほんの少し淡くなったような状態だ。
 シルキアはぱっと目覚めた。ゆうべ、早めに眠ったのが幸いしたようだった。白い吐息が秋の冷え込みを教えてくれる。
 そっと布団を抜け出し、羊毛の上着を羽織り、靴を履く。森の小鳥たちも、草木ですら最後の夢を見ていて、辺りは静けさと涼しさの粒子で満ちている。
 心地良い緊張感だ。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
 三歳年上の姉の寝顔は安らかで、無理に起こすのは忍びないが、せっかくの機会だ。身体を前後に揺り動かす。
「うーん……」
「そろそろ起きてよっ」
 しかし姉はさも眠たそうに眼を半分だけ開き、寝ぼけ口調でむくれている。
「陽も昇ってないのに、なんで起こすのだっ。もう少し寝たいですよん……」
 そのまま睡魔にやられそうになった姉の耳元で、妹は一言だけ、ささやく。
「会わなくていいの? 秋風さんに」
 それは幻術の覚醒魔法並みの絶大なる威力をたちまち発揮することとなった。
「そうだったのだっ!」
 眠気も睡魔も瞬きする間に消え去り、ファルナは跳ね起きる。妹はいつものように窓を開けながら、小声で呼びかけた。
「おはよっ」
「おはようですよん」
 姉も今朝ばかりは元気に挨拶を返した。
 二人は長袖の上に防寒着を羽織り、色違いの厚めのキュロットスカートという出で立ちになった。そして、たまにきしみをあげる木の廊下を慎重に歩いてゆく。
 
「涼しいのだっ」
 外に出るとすぐ、ファルナは言った。サミス村はしんとして、何の物音もしないが、かすかに遠くから鳥の声が聞こえてくる。藍色の空の彩度は緩やかに高まり、今や東の方は青くなっていた。雑草の表面には露がおり、新鮮だった。
「日の出前が一日で一番、涼しいよね」
 二人はいつものように井戸へ向かう。
「ファルナたちだけの朝が来たような気がするのだっ。早起きっていいですよん!」
 興奮気味なファルナの語りを耳にしたシルキアは思わず微笑む――これだけ朝を気に入れば、きっと明日からは素直に起きてくれるに違いない――と。
「よいしょ」
「なのだっ」
「よいしょ」
「なのだっ」
 さて、姉妹が協力して仕掛けを動かすと、井戸水をたたえた桶が普段の倍くらいの早さで勢い良く昇ってきた。
 ちょっと口に含んでみると、まるで空のように澄みきって透明感のある水の味が喉を潤し、お腹に冷気を送り込む。
「おいしいね!」
「ここの井戸水は最高ですよん」
 それからシルキア、ファルナの順で顔を洗う。残り少なくなった水で手を湿らせ、髪の毛を整える。姉妹の髪は良く似た明るい土色だ。肌は白っぽく、北方民族・ノーン族の典型的な姿である。
 シルキアは前髪を分け、肩のちょっと下くらいの後ろ髪を自然に垂らした。一方、ファルナは妹より少し長めの後ろ髪を適度に直すが、鏡がないので限界がある。見かねた妹が腕を伸ばすと、姉は膝を曲げて相手と同じ背丈になった。
「お客様、仕上がりはいかがですか?」
 シルキアはすっかり美容師気分で、姉のさらさらした髪の毛をいじっている。おしゃれに関しては妹の方が得意なのだ。
 夜の〈すずらん亭〉――つまり酒場のウエイトレスをする時、給仕服に合った緑色のリボンを姉に勧めたのはシルキアである。それが予想以上に好評だったので、勧めた方は悔しい思いをした。姉とお揃いのリボンをつけようと、シルキアは目下、髪を伸ばしている真っ最中だ。
「いいですよん。ありがとうなのだっ」
 とファルナがお礼を言った時。
 向かいの家の屋根に取り付けられた風見鶏が変な風に動いたのを妹が捉えた。
 大した風もないのに、かの鶏は北へ向いて静止したかと思うと、今度は南を向いて止まり、次は東、西、と明らかに妙な方角を連続して指し示したのだ。
「来たっ!」
 という言葉を置き土産に、シルキアは向かいの家を目指して思いきり駆けだした。素晴らしい判断力と運動神経だ。
「あっ、シルキア、待つですよん〜」
 ワンテンポ遅れて、ファルナがあたふたと追う。せっかくの髪がすぐに乱れた。井戸水で湿った手のひらが冷えた空気をかき混ぜ、何だか凍みる感じがする。
 東の空はわずかに黄色がかり、それとともに小鳥たちの高らかな即興輪唱曲はしだいに盛り上がっていくのだった。
 
「風さん、約束通り来てくれたんだ」
 弾む息でシルキアが語った。くだんの風見鶏をあおいでいると、ようやく姉が追いつき、二人して大きく深呼吸する。
「ふわぁ」
「ふぅう」
「風さん、おはようなのだっ」
 まずファルナが挨拶し、素直に謝る。
「昨日はごめんなさいですよん。秋風街道を潰すつもりはなかったのだっ」
「あたしたち、本当に秋風街道を知らなかったんだ。お姉ちゃんもこの通り反省してるし、許してあげてよ、ね?」
 シルキアも加勢する。しばらくは何の音沙汰もなかったが、しだいに風見鶏の動きが慌ただしくなってきた。右回りにクルクル、左回りにグルグル……。今にも壊れてしまいそうな勢いだ。
「うわぁ、目が回るよー」
「駄目なのだっ」
 姉妹はこらえきれなくなって、まぶたを閉じる。全身の力が抜けていった。
 
 闇。
 漆黒。
 不安定。
 動き出す。
 つつまれる。
 そして上昇感。
 
 身体中に風圧を感じる。耳がおかしくなり、ごくりと唾を飲み込むと、軽やかな風の粒子がぶつかってくる音がした。体感気温が下がり、もはや寒いくらいだ。
 何も見えない世界で前のめりに倒れかかった時、何かが押し戻してくれた。
「そろそろ大丈夫なの」
 どこかで聞き覚えのある、懐かしく不思議な声が聞こえた。胸に灯が点り、深いところから安らぎをもたらしてくれる。
 ゆっくりと目を開ける。
 そこで展開した無限のアングルに、姉妹はあっけにとられ、呆然と見入った。
 おそらく夢ではない。少し遅れて、思い出したように言葉の断片を洩らす。
「すごいのだっ」
「飛んでる……」
 二人の内面を無理矢理に表現するならば、震えるほどの感激と、湧き上がる驚異の念に、少しばかりの恐怖を合わせてかき混ぜたような気持ちに似ていた。
 下を見るとサミス村が小さく見える。遙かに続く太古の森が地平線の果てまで見渡せる。森の中を蛇行するセラーヌ河の源流もはっきりと確認できた。
 上を見れば、近づいた空に綿雲が浮かぶ。秋風に秘められた天空の魔力で、二人は今や鳥の視点を得たのだった。
「ちょっと怖いですよん」
 下を見れば足がすくむし、時たま不安定に揺れればドキリとする。けれど、かつて経験したことのない全方位の見晴らしは折からの寒さも忘れるほどだった。
 姉妹は両腕を羽のように平行に伸ばし、鷹が滑空するようにバランスを取った。姉の左手と妹の右手が固く結ばれ、二人は顔を見合わせて穏やかに笑った。
「えへっ」
「あははっ」
 ファルナは感嘆の声をあげ、四方八方、三百六十度の展望を楽しんでいる。他方、シルキアは〈この景色をいつまでも覚えていたい〉と秘かに心へ焼き付けた。
 橙色の粉が空いっぱいに広がり、東の方角は大いなる紅葉を始めた。風に混じって途切れ途切れに聞こえる鳥たちの輪唱曲が最高潮に達すると、あまたの木々の同じ側に細い赤みが射し、森が燃えた。あまりのまぶしさに片手で額を覆う。
 太陽の頂が顔を出した。創造神ラニモスを連想させる、厳粛な日の出である。
 黎明――朝のつぼみ――が花開いてゆく様の一部始終を、久しぶりに、しかも空から眺めることが出来た。もしも夢なら醒めないで欲しい、とおぼろげに考える。鳥が姉妹に気付いて驚き、方向を変えると、二人はまた向き合って笑う。
 再び風の声が直に聴覚へ響いてくる。
「もうすぐ〈風待の谷〉なの」
「秋風街道の宿場町なの」
「みんな、降りるの」
「お休みするの」
 やがてゆっくり高度が下がっていった。
 
「着地成功っと!」
 シルキアが、ついでファルナが地面に足を下ろした。大小の石が転がっている。
「ここが〈かざまちの谷〉ですよん?」
 そこは名も知らぬ渓流の谷間、せせらぎがさわやかな河原だった。水は空のように透き通り、近寄れば飛び上がる小魚の姿を見ることが出来そうなくらいだ。
 谷といってもそれほど険しいわけではなく、傾斜の緩やかな山と山に挟まれた場所で、圧迫感はないに等しい。山肌は緑の広葉樹で覆われ、そこから鳥と虫たちの高らかなメロディーが生まれている。
 森は真っ赤な太陽に照らされ、全てが暖炉の中で燃えているかのようだった。うっすらと霧が出て、幻想的でもある。
「ここが〈風待の谷〉なの」
「帆船が順風を待つように」
「ここで出発の日を待つの」
 そよ吹く風に、例の声が混じっていた。軽やかで優しいのは共通しているけれど、それぞれが一定の調和の中で主張し、とこしえの掛け合いを続けている。
「秋風さん、ありがとう!」
 顔を上げて、シルキアが呼びかけた。もとはと言えば、部屋の窓を開けたのが全ての始まりだった。出会いの扉はいつどこにあるか分からないなあ、と思う。
「すごい体験、感謝しますよん!」
 ファルナも素直な気持ちを伝えた時、彼女の後ろ髪が両側に振れた。その幅がだんだん大きくなり、高笑いが聞こえる。
「うふふっ……」
「風さん、どうしたのだっ?」
 ファルナの鼓動は期待と不安で速まった。緊張した面もちになり、心配そうに左右を見渡して透き通った相手に訊ねた。体感気温が少し下がったように思える。
「もしかしてあたしたち、何か誤解してるのかな? そんな気がするけど」
 妹が首をひねると、一瞬だけ風は凪ぎ、自信たっぷりとでも言いたげに鮮やかな朝日と戯れてみせた。光がちらちらするので、風が遊んでいると分かる。どうやらシルキアの漠然とした予感は的中したようだと、雰囲気の移ろいで分かる。
 秋風たちはさも楽しげに語り出した。
「空の散歩なら、どの風でもできるの」
「気分屋の春風でも」
「情熱家の夏風でも」
「寒い木枯らしでも」
 シルキアは風の話にうんうんと相づちを打っている。もはやファルナも恐怖よりも好奇心が勝って、興味津々だ。
「秋風、本領発揮なの」
「お仕事、始めるの!」
 風の言葉が、そして風自身が一ヶ所に集まっていく。にわかに木々の梢がざわめき、河の流れに逆らって波が立った。辺りに漂っていた霧が散り散りになる。
「えっ?」
「うわあ」
 姉妹の茶色の瞳が大きく見開かれる。朝の青空は消え、空間がグレーになった。二人は前屈みになり、右腕を両目にかざし、飛ばされないように力強く地面を踏みしめた。服の袖や裾が猛烈にはためき、草の切れ端や硬い虫が頬にぶつかる。
「お姉ちゃん!」
 やや背の高いファルナの足下が浮つきだし、シルキアが近づいた。何とか姉のもとにたどり着き、後ろから支える。
「大丈夫なの」
「心配ないの」
 切り裂くような突風に混じって例の声がかすかに聞こえた。とても大丈夫とは思えない状況だったが、その言葉通り、しだいに空気の渓流はおさまってゆく。
 姉妹は右腕を下ろし、恐る恐る天をあおぐ……すると小高い山の上では何とも神秘的な模様が描かれていたのであった。
「はっ」
 ファルナは息を飲み、シルキアはすぐに尊敬のまなざしへと変わっていく。
「すっごい……こんなの初めて!」
 秋風たちが次々と寄り添い、大きな白い渦を形作っていたのだ。ファルナは羊毛をぐるぐる巻いて毛糸玉を作るのをイメージし、シルキアは凍てつく真冬に吹きすさぶ粉雪の様を思い起こした。
「あっ!」
 声を合わせて叫ぶ。さらに信じがたい不思議な光景が目の前で展開したからだ。
 風の玉が卵のごとく割れ、白い竜のようなものが吹き出した。荘厳な竜は細く長い尾を伸ばして山の斜面を快走する。
 わずかに身体をくねらせ、竜はただ静かに空を駈けた。奥山の秘境には風の音と木々のざわめきしか聞こえない。
 すると竜の道沿いにある木々の葉が色づいてゆくではないか。緑が黄色へ、そして赤へと、天然のグラデーションだ。
 シルキアは無意識のうちに歩み出し、感激しつつも冷静な分析を忘れなかった。
「あの竜さんって、きっと秋風の結晶だよ。だって、あの瞳……間違いない!」
 竜の頭にきらめく、一双の繊細そうな瞳が証拠だった。尾っぽはまだまだ続いており、向こうの山は白につつまれた。やがて次の山へ飛び立つと、軌跡は消えてゆき、衣替えした木々があらわになる。
 触覚のような、あるいは角のようなものも、今までに見たどんな動物より立派でたくましく、しかも気品があった。
 こぼれ落ちた風のかけらは谷を吹き抜け、最終的には竜の尾へと戻ってゆく。
 ファルナは大きくあくびをする。
「ふぁ〜。あんまり気持ちいい風が流れてくるから、ついつい眠くなるのだっ」
「もうお姉ちゃんったら、こんな時に何言ってるの。ねぼすけなんだからぁ!」
 とシルキアはむくれてみるものの、本気では怒れない。スマートな白竜が空を横切っているのを目の当たりにして。
 竜の、小川のせせらぎのような飛び方はまさに風そのものだった。風に乗り、風の力で、風とともに飛んでいる。方向転換するたびに背中の毛並みが揺れ動き、夢ではなく現実なのだと実感する。
 ファルナが素朴な疑問を洩らした。
「これは本物の竜さんですよん?」
「思ったより怖くはないよね」
 話には何度も聞いていた竜だが、絵を見たのは一度きり、実家の〈すずらん亭〉を利用した旅人からだった。その時に見た竜はもっと雄々しく、恐怖さえ感じたが、他方、目の前で朝焼けの空を飛んでいる〈竜らしきもの〉からは特に攻撃性を感じない。外形も竜というよりはむしろ蛇に似ており、翼もなく、絵の竜に比べると肉付きはほっそりしていた。
 これは天界に最も近い場所に住むと語り継がれている正真正銘の竜ではなく、風が作り出した一時的な幻想生物なのだろうか。村に学院がなく、魔法や歴史に疎い姉妹には判断つかなかったが、もしかしたら竜ではないのかも知れなかった。
 シルキアは再び、賢者オーヴェルの言葉を思い出した。風には色がある、いつか風が見える気がする、という……。
「そうだ、オーヴェルさんなら分かるかも知れない。あとで聞いてみなきゃね」
「でも、どっちでもいいかも知れないのだっ。どっちにせよ素敵な出会いには違いないですよん。ねっ、竜さん?」
 ファルナが呼びかけると、相手はぐるりと空中に円を描いた。シルキアは顔をほころばせて拍手し、興奮気味に語る。
「そだね。でもお姉ちゃん、風、ついに見えたんだね。秋風街道の快速便を」
「森の着替えを手伝ってるのだっ!」
 そして二人は手をつなぎ、はしゃぐ。体の動きよりもワンテンポ遅れて、茶色の後ろ髪が飛んだり跳ねたりした。
 もうすっかり朝となり、晴れて澄みきった青空を背景に、雄々しき竜は軽やかな飛び方で森を秋に塗り替えていった。
 
「あっ」
 いずこからか赤い葉がふわふわと舞ってきた。反射的にシルキアが華奢な右腕を差し出し、それを上手につかまえる。きれいに色づいた葉は虫食い跡さえない。
「さすがシルキアですよん」
「えへっ」
 せっかく誉められて気分が良いはずなのだが、シルキアは何か腑に落ちない。
「ん? そういえば……」
 そこで二人は本来の目的を思い出した。お互いに顔をつき合わせて指さしする。
「お店の飾り付け!」
 すっかり忘れていたが〈すずらん亭〉の一足早い秋の装いという夢を叶えるため、シルキアは秋風たちに落ち葉の色を変えてもらえるよう頼んだのだった。
「自分まで忘れちゃうなんて……えへ」
 頼んだ張本人は照れくさそうに両手を胸の前で組み、あらぬ方を向くのだった。
 その時だ。
 遠くから轟音が響いてくる。
「シルキア、あれ!」
 姉が驚愕に満ちた声で短く叫ぶ。見つめた先にあったのは、明らかに姉妹を狙って真っ直ぐに降りてくる白い竜の姿だった。遠くからボールが飛んでくるかのように、竜の頭がどんどん拡大してゆく。
 あまりのスピードになすすべもなく、悲鳴すらあげられないまま、せめて避けるためにうずくまろうとしたとした瞬間。
 暗転。
 刹那のうちに足下が掬われて倒れ、視界が消えた。何もかも分からなくなる。上昇感とともに意識が遠のいていった。
 
 やや強い風圧を感じる。
 次に気付いたのは羊の毛のような柔らかくてフワフワしたものに抱かれていて、それが動いているということだった。
「お姉ちゃん、起きて。すごいよ!」
 耳元で妹の声がし、ファルナはゆっくりと瞳を開いた。単なる真っ青な世界だ。
「真っ暗の次は真っ青なのだっ。とにかく無事みたいで良かったですよん」
「無事も何も……起きあがってみて!」
 シルキアが弾む声で言い、姉の手を取った。割と落ち着いているはずのシルキアがこれほど慌てるのはただ事ではないと考えつつ、ファルナは上半身を起こす。
 確かにただ事ではなかった。
「これは……大変なのだっ!」
「ねっ!」
 上は空と雲、下は森と川。
 二人はまた空を飛んでいたのだ。
 しかも……秋風の竜の背中に乗って。
 鳥のような速さで飛んでいるため、前髪が逆立ち、開いた口と目が乾く。それでもファルナはじっと目を凝らしていた。
 すでに赤みを失った東からの光線が、秋風に塗り替えられた森の木々を斜めからくっきりと浮かび上がらせた。
「もうすぐ村に入るの」
「秋風街道の近道なの」
 竜の背中のあたりから聞き慣れた声がした。やはりたくさんの秋風が集まって、この竜が出来ているらしかった。
 シルキアは両手を口に当て、風にかき消されないよう声を嗄らして叫んだ。
「そうだ、お姉ちゃんも、お礼言ってよ! 葉っぱを吸い込んでくれたの!」
「え? よく分からないのだっ!」
 返事をする方も自然と声高になる。シルキアは竜の背中にしがみつきながら横に移動し、姉の耳元にくちびるを寄せる。
「秋風さんたちね、葉っぱの色を変えてくれたでしょ。その時、赤や黄色になって落ちちゃった葉っぱを、吸い込んでおいてくれたの。お店の飾り付け用にね」
「この竜さんが?」
 ファルナは目を丸くして訊ねた。昨日から不思議なことが立て続けに起こっているが、飽きはしない。不思議なことは何度起こっても、やはり不思議なのだ。
「うん。うちまで運んでくれるって!」
 妹の言葉を聞いたファルナは事の次第を理解し、下を向いて心から語りかける。
「竜さん……いや、秋風さんたち。何から何まで、ほんとにありがとうなのだっ! 秋風街道、大切にしますよん」
 すると返事が風に乗って姉妹に届く。
「どういたしまして」
「来年もお願いなの」
 白い竜は角度を高め、きれいな円を描いてゆく。姉妹は垂直になり、斜めになり、しまいには天と地が入れ替わった。
「きゃああっ!」
 胸が凍り付く。
 しがみついていた手が空をつかみ、二人は竜の背中から離れた。瞬間的に目を閉じる。支えるものが何も存在せず、どこまでも落ちてゆくしかない状態。
 それもすぐに終わる。
 さっきと同じ、柔らかい毛の感覚だ。
 宙返りを終えた竜の頭が二人を受け止めたのだった。シルキアは腕を上げる。
「すごいスリル……楽し〜い!」
「秋風さん、やりすぎですよん」
 一方のファルナは完全に目を回し、激しく上下する心臓を両手で押さえた。
 遠くにサミス村が俯瞰できた。見慣れた景色は二人をほどよく安心させる。
 シルキアは念のために再確認する。
「お姉ちゃん、朝が好きになったぁ?」
「もちろんなのだっ!」
 その返事を聞き、シルキアは心の中でほくそ笑む。それからお世話になった秋風へさらなる感謝を伝えるのだった。
「今朝はほんとにありがとう! あなたたちのことはきっと忘れないよ」
 乾ききった瞳からうっすら涙を流しながら、ファルナは真剣に質問する。
「当分は風待の谷にいるのだっ? また会えますよん? また会いたいのだっ」
 しかし風の返事はなかった。
 いよいよサミス村が近づき、ひときわ目立つ赤屋根の建物が確認できた。二人の実家の〈すずらん亭〉だ。陽が昇って時間が経ったとはいえ、村はまだしんとしている。村はずれの畑や羊小屋で働く人はとっくに出払ってしまったが、眠る人はまだ眠っている時間なのだろう。
 明らかに別れの雰囲気が漂い、姉妹は相変わらず耳にぶつかってくる風の子の羽音をいくぶん寂しそうに聞いていた。
 どこに降ろしてくれるのだろう、運んでくれた葉っぱはどうしよう……シルキアは漠然と考えていたが、どうも竜の速度は一向に収まる気配がないのだった。
 赤屋根がぐんぐん近づいてくる。
「秋風さん、どうする気?」
「無茶ですよん!」
 しかし祈りも空しく、飛竜は秋風街道の近道である姉妹の部屋の窓に突っ込んだ……ように思えた。おそらくそうなのだろうが二人には確たる証拠がない。
 気を失ったので覚えていないのだ。
 
 ――当分はこの辺りにいるの。
 風街の谷で出発の日を待つの。
 
 春はつぼみを起こすの。
 夏は北の果てで休むの。
 秋は葉を塗り替えるの。
 冬の間は南国で眠るの。
 
 風は永遠の渡り鳥なの。
 いつでも、そばにいるの――。
 
「いったい、何?」
「どうしたんだ!」
 厨房で朝食の用意をしていた姉妹の両親は奇妙な音を耳にした。突風が行き過ぎ、同時に何か重たいものが落ちる音だ。
 姉妹の部屋の窓とドアは開け放してある。緊張の面もちで恐る恐る父が覗き込み、その下から母が首を出した。
 両親はすぐ、きょとんとした顔になる。
「おや、寝てるみたいだな」
「さっきまでいないと思っていたのに……いつの間に帰ってきたのかしら?」
 姉妹のベッドの周りには数えきれないほどの色づいた葉っぱが散らばっており、かすかに秋の風を受け、揺れていた。
 そしてファルナとシルキアはそれぞれのベッドで安らかな寝息を立てている。
「今朝はお客さんもいませんし……たまにはゆっくり寝かしてあげましょうか」
 微笑んだ母の提案に、父もうなずく。
「そうだな。いつも早起きさせているから、たまには休みもいいだろう。部屋の落ち葉拾いは起きてからでも構わない」
 そっと姉妹の布団を掛け直し、両親は抜き足差し足で部屋をあとにした。木造りの廊下がぎぃと鳴り、それが遠ざかる。
 光と風が戯れる、秋の日の朝だった。
 
 その夜から〈すずらん亭〉の酒場は一足早く麗しい落ち葉で飾られ、村人から大好評を博したのは言うまでもない。
 
 さてさて、その翌朝。
 シルキアはカーテンと窓を開いた。
「お姉ちゃーん、朝だよ!」
 秋風街道が出来上がり、空気の流れが通り抜けてゆく。透明で、美味しくて、優しいけれど少し切ない秋の風だ。
 山の方から紅葉が始まっていた。サミス村の周りが暖色系に染まり、秋風が南へ旅立つのもそう遠い日ではないだろう。
「お姉ちゃん、どうしたの。お姉ちゃんの大大大っ好きな朝が来たんだよ?」
 意外だなあ、と思いつつ、シルキアは布団にくるまった姉を左右に揺すっていたが、残念ながら一向に反応はない。
「お姉ちゃん、起きてよー」
 どうもおかしいと感じ、しだいに彼女は危機意識を覚える。結局、いつものように布団をひっぺがす攻勢に出た。
「もう朝だってば!」
「やっぱり朝は最高ですよん……」
 ファルナは抵抗し、布団にしがみついた。シルキアの表情はこわばってくる。
「最高だと思うのなら、早く起きて」
「ほんと最高なのだっ」
 ファルナは寝ぼけ眼のまま、呆然と立ちすくむシルキアから自分の布団を奪い去り、温もりの中へ一気に潜り込む。
 それから低い声で、こうつぶやいた。
「最高ですよん、朝のお布団は!」
「こらー、お姉ちゃん! 約束が違うってば……秋風さん、ちょっと助けてよお! お母さ〜ん、お姉ちゃんが起きないんだけど。もう、お姉ちゃん!」
 半べそをかき、右往左往しながらシルキアは愚痴をこぼす。
 こうしてサミス村の秋は深まってゆくのであった。

(了)



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