I.D.

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア〜

 

秋月 涼 

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(一)


 ここは南国、ミザリア国。南海に浮かぶ小さな島国の、そのまた小さな海沿いの町がこの物語の舞台である。
「こらぁーっ!」
 南国特産の堅い樹で作られたほうきを右手に高々と掲げ、少女が道を全速力で駆けてゆく。歳は十代後半にさしかかったくらいで、白い肌がみずみずしい。
「今日こそは許さないんだから!」
 明らかに普通の人間とは違う――といってもこの国では珍しくない、やや長めの耳が縦に横に激しく振れている。魔力の象徴である緑がかった銀色の髪も、妖精の血を引く〈リィメル族〉の証だ。折って短くした青いズボンが似合っている。
「覚悟しなさーい!」
 二つの目は標的を捉えて離さず、鼻と口は荒い呼吸を繰り返し、喉は次々と怒鳴り声を放つ。年齢・性別・種族に似合わず、元気いっぱい迫力満点だ。
 春うららかな南国の午後は町や人だけでなく照りつける陽射しまでもがのどかさで満ちあふれていた。家々の窓辺は赤白黄紫の鮮やかな花が飾りたて、パンや魚を焼いた残り香が漂っている。馭者だけでなく馬車馬まであくびをしている。
 その中では少女の真剣な追いかけっこも微笑ましい日常的光景に思えてしまう。
「こらこらぁーっ! 止まってよぉ」
「あらっ、レフキルですわ〜」
 猛スピードで駆けてくる少女を見つけた同い年の友人が親しげな笑顔を振りまき、大きく手を振ったのも、この雰囲気の中ではむしろ当然の反応だった。
 その一方で、走ってくる耳長の少女――レフキルは息も絶え絶えにこう叫ぶのがやっとだった。
「サンゴーン! その猫、捕まえて!」
「今日はお仕事、お休みなんですの?」
 サンゴーンと呼ばれた少女は手を降り続けている。その時、足元を茶色の猫がすばしこく通り過ぎていった。明るい水色のロングスカートの裾がはためく。
 ようやくサンゴーンはワンテンポ遅れて気付くのであった。横を向き、猫の後ろ姿を目で追いながら質問を返した。
「猫さん、捕まえるんですの?」
 それを言い終わらないうちに、怒濤のごとくレフキルはサンゴーンの脇をすり抜け、向こうの小路へ曲がった猫を追って自らも細い道に入り、姿を消した。一陣の風が忘れ物のように流れ去り、サンゴーンの長い銀色の髪がさらさら揺れた。
 通りにたむろしていた人々は春の真昼に突然起こった追跡劇の行く末を眠たそうな瞳で見守っていたが、サンゴーンはただ一人、レフキルの向かった裏道の入口を凝視し、呆然としていた。
 しばらくして我を取り戻し、こう言う。
「サンゴーン、レフキルを手伝いますの〜」
 
 さて、サンゴーンが小路へ入ると、肩で息をしていたレフキルが顔をもたげ、確信の笑みを浮かべて見知らぬ家の勝手口へ進んでいくところだった。
「ふ、ふ、ふ。追いつめたぞーっと」
「ちょっとドキドキしますけど……サンゴーンも行ってみますわ」
 高鳴る胸の鼓動を抑えるため、首に掛けている緑色の清楚なブローチを握りしめる。これこそが、このルデリア世界に七つしかない〈神者(しんじゃ)の印〉の一つ、草木の神者の証なのだ。大好きだった祖母から託された形見の品でもある。
「こんにちはですの」
 律儀に声をかける。返事はない。
 低い壁伝いに表の方へ行ってみると、どうやらそこは魔法に関する書物や薬類を扱っている小さなお店らしかった。しかし昼間だというのに入口は閉じられ〈本日休業〉の札が置かれている。
 再び勝手口へ赴くと、その直線上に見える倉庫らしき別館のドアがほんの少しだけ開いていることに気付いた。
 サンゴーンはしばらく考えてからドアに近づき、頭だけを出して中の様子を覗いてみる。が、薄暗くて良く分からない。
「誰もいないんですの?」
 やはり応答はなかった。目を凝らしてみるとドアの向こうは狭い廊下になっているようで、途中の分岐を左に行けば魔法屋の店内につながっているらしかった。分岐しないで正面方向に進む道もある。
「サンゴーン……泥棒さんじゃないですの。大親友のレフキルが中にいるはずですから、ちょっとだけお邪魔しますわ」
 自分なりの言い訳をつぶやきつつ、ひんやりと湿った廊下に足を踏み入れる。
 手探りで真っ直ぐ進み、突き当たりを右に曲がると、倉庫らしきドアが見え、そこから光が洩れている。その手前でレフキルがほうきを手に構えている。どうやら猫を追いつめたようだった。レフキルは相手に集中しており、後ろからサンゴーンが来たことには気付いていない。
 その猫はというと、レフキルだけでなくサンゴーンにも見つかったことを警戒したようで、ドアの隙間から奥の部屋へ、するりと潜り込んでしまった。
 間髪入れずレフキルが動く。
 ドアが勢い良く開かれた。
 
 悲鳴。
 怒号。
 そして強烈な閃光……。
 
「な、何が起こったんですの?」
 まぶしくて思わず目を覆ったサンゴーンだったが、しだいに馴れてくる。ドアの向こうには紫の煙があふれており、視界はゼロに近かったが、レフキルを含む数人の女性らしき声が聞こえたのため不安の度が高まり、ついには飛び込んだ。
「けほっ、けほっ……」
 煙を吸い込み、むせてしまう。次々と立て続けに起こる予想外の出来事にサンゴーンの思考は混迷の度を深めた。
「何が何だか分からないですわ〜」
 やがて煙は嘘のように溶けてゆく。
 その時、目の前にひょっこりと、見知った親友の顔が浮かび上がった。
「レフキル! 大丈夫ですのぉ?」
 言葉とは裏腹な、あっけらかんとしたとぼけ気味の口調で訊ねるサンゴーン。さすがは〈のん気〉が特徴の南方民ザーン族の出だ。少々のことでは動じない。
 さて。
 サンゴーンに心配の言葉をかけられたレフキルは奇妙な返事をしたのだった。
「みゃお」
「えっ?」
 さすがのサンゴーンも、今度ばかりは珍しく眉間に皺を寄せ、高い声で驚いた。無理もない――レフキルの一言がまるで猫の鳴き声に聞こえてしまったからだ。
 レフキルの奇行は続く。手にしていた焼き魚を何故か口にくわえ、サンゴーンの脇をすり抜け、廊下へ向かったのだ。
 最初は自分の耳がおかしいのかと疑ったサンゴーンもこれには慌ててしまう。
「レフキル、どこ行くんですの?」
「いててて……ここにいるよぉ〜」
 今度は紛れもないレフキルの声がして、サンゴーンはほっとしたが、声の方向を思い出すと笑顔が凍りついてしまう。
 親友の声は後ろから聞こえたのだ……。
「こりゃ大変なことになったわい」
 今度は聞き覚えのない老婆のつぶやきだ。それは〈下の方〉から発せられた。
 しかし、サンゴーンの見る限り、自分の足元には茶色っぽい親猫しかいない。先ほどレフキルがあとをつけていた猫だ。
 すっかり煙の晴れた小部屋はまがまがしい雰囲気につつまれていた。床には大きな魔法陣が描かれ、中央に巻物が置いてある。窓は厚いカーテンで遮られ、ランプの炎だけが妖しげにゆらめいていた。
 周りを見渡すと、杖にもたれかかり黒装束に身を固めた背の低い魔女らしき老婆、二十代前半くらいで黄金色の長い髪が美しく、清楚で上品な顔立ちとそれに見合った服装とをしている素敵なザーン族の女性、それから騒ぎの原因の猫。
 振り返ってみると魚を口にくわえたレフキルはいつの間にやら姿を消していた。
 サンゴーンは向き直り、老婆の両目を見下ろし、素朴な感想と疑問を洩らす。
「お婆さんに、お姉さんに、猫さん。おかしな組み合わせですわ……あなた方、どなたですの? それと、この部屋で、いったい何が起こったんですの?」
「わたくしの方が聞きたいわ。あなたたち、突然いらっしゃったけど、どなたかしら? どういったご用件です?」
 うら若き娘らしく落ち着いた声が響きわたる。ところがそれを発したのは、声に合わない腰の曲がった老婆だった……。
 
「てんこんひじゅつ?」
 レフキルとサンゴーンは同時に聞き返した。ただしレフキルの言葉は見知らぬ若い女性の唇の間から紡ぎ出されている。
「転魂秘術。つまり魂を体から引き離し、別の体へ入れてしまう極めて難しい魔法のことじゃ。ついでに声も入れ替わる」
 解説をしているのは老婆であるが、外見が猫だと、いくら重大な秘密を喋ってみたところで迫力不足は否めない。
 レフキルは美しい女性に変わってしまった自分の両手をまじまじと見つめながら話を聞いている。転魂の難を逃れたサンゴーンの方はというと、理解の範囲を超えた状況に目を白黒させている。
 魔法使いのしゃがれ声は延々と昔話を語り続けるのであるが、かいつまんで説明すると以下の点に集約される。
 
・一昨年の夏、南国を襲った嵐から数日後、砂浜へ流れ着いた巻物を拾ったこと。海水に浸かったはずなのに少しも濡れた形跡がなく、大いなる力を感じさせた。
 
・それは失われた古代文明の言語で書かれていたため、伝説とされる〈古代人の島〉から流れてきた可能性が高いこと。
 
・魔術師ギルドの書庫にこもって辞書と首っ引きになり、解読したところ、その巻物には転魂秘術が記されていたこと。
 
・転魂秘術を使うのに必要となる最高級の魔法の触媒を、半年がかりでようやく全て集めることが出来た苦労談。
 
「そしてわしはな、若く豊満な肉体をもう一度味わいたく、孫娘のルヴィエラに頼み込んで実験対象になってもらったというわけじゃ……泣ける話じゃろうて」
 すっかり自分の話に酔いしれた老婆をよそに、レフキルは頭の中を整理する。
「ふーん。ということは、あたしが入ってるのはルヴィエラさんというわけね」
「ええ、その通りです。おばあちゃんが呪文を唱え終わる瞬間に、あなたと猫ちゃんが魔法陣に紛れ込んだんです」
 ルヴィエラはそう言って猫を睨みつけた。今や自身が真っ白な髪の祖母となり果てた孫娘の顔――それが醜くゆがむ。
「だから嫌だって言ったのに……おばあちゃんのせいで、最悪の結果です!」
 老婆は咳払いでその場を誤魔化した。
「ゲホッゲホッ。とにかくな、術のかかる瞬間に、魔源物質を帯びた光がわしら三人と一匹の体をつつんだ。詰まるところ、わしの意識がこの猫に入り……」
「わたくしの意識がおばあちゃんに入り……」
「あたしの意識がルヴィエラさんに入り、猫があたしに入り込んだ、ってわけね」
 ルヴィエラとレフキルの言葉に、魔女は何度もうなずいてみせた。はた目には猫が短い首を懸命に動かしているように見える。理由を知っていても変な感じだ。
 さて、その場にはもう一人、しきりに首を動かしている者がいた。
「すぅ……」
 さっきから前後左右に船を漕ぎ、かすかな寝息を立てているのはサンゴーンだ。
「ちょっと、サンゴーン、起きてよ」
 レフキルが揺り動かすと、相手はうっすらと瞳を開け、目をこすった。依然として半分眠ったまま夢見心地で訊ねる。
「んっ? 朝ですの?」
「あちゃー。こりゃ駄目だわ」
 レフキルは広げた手で面を覆う。ルヴィエラは〈この子が本当に草木の神者の継承者なのかしら〉とでも言いたげな、あきれたように冷めきった表情だ。
 サンゴーンはぽかんとして辺りを見回していたが、ゆっくりと口を開き、親友に別の疑問を投げかけるのだった。
「レフキルはどうして猫さんを追いかけていたんですの?」
「そうそう、あの〈盗っ人猫〉のやつがさぁ……」
 腹に据えかねることを思い出したようで、レフキルは一気に顔を紅潮させ、堰を切ったように話し出そうとした。
 その時、厳しい声で待ったがかかる。
「わたくし、そんな話し方はしませんわ。あなたは今、わたくしなんですから、言葉遣いに注意して頂かないと困ります」
 自分の体から自分に似合わない単語が飛びだし、いたたまれなくなったルヴィエラが横やりを入れたのだ。レフキルは驚いた様子で、二の句が継げなくなる。
「ルヴィエラ! あんたはちょっと黙っておいで。今はお嬢さんの話す番じゃ」
 老婆がきつめに叱ったが、やはり猫の姿では威厳も何もない。状況の混乱でサンゴーンには再び眠気が押し寄せてくる。
「ふわぁ……」
「何です! おばあちゃんがそもそもの原因を作ったんじゃないですか!」
 ついに口喧嘩を始めてしまった祖母と孫娘をよそに、レフキルはサンゴーンが眠らないうちにと事情説明に躍起する。
「今日はお仕事、休みをもらったのね。で、お昼は家族みんな出払ってたから、午前中に買ったお魚を焼いて、おかずにしようと、お皿に盛りつけといたわけ」
「ふむふむ、ですわ」
 いつもなら身を乗り出してくるはずのサンゴーンだが、ルヴィエラの体をしている親友に抵抗を感じ、未だ距離がある。
「そしたらあの猫が紛れ込んできて、一番大きいのを口にくわえ、逃走した」
 老婆はレフキルに指さされたため、孫娘との口論の途中でも器用に反論する。
「わしじゃないぞ、犯人は猫じゃ」
 が、レフキルは話に夢中で老婆の思いは届かない。足元に転がっていたほうきを手にし、騎士が槍で突く真似をする。
「で、あたしは武器を手に臨戦態勢!」
「一尾くらいあげちゃえばいいですの」
 サンゴーンは相変わらず、南国民ザーン族らしい典型的な回答をした。
 間髪入れずにレフキルが言い返す。
「一度や二度なら、あたしだって大目に見るよ。だけど、ここんとこ、あたしが一人で食事の用意をしてる時、毎回、何か盗まれてるのよ。いっつも同じ猫! いい加減、堪忍袋の緒が切れちゃった」
「うーん……それじゃレフキルが怒るのも無理ないですわね」
 説得されたサンゴーンは理解を示し、
「でしょ?」
 とレフキルは胸を張った。ルヴィエラの整った体だと、特筆すべき仕草でなくてもかなり色っぽくなってしまう。
 その頃、横では泥沼の悪口合戦が展開されていた。興奮は高まる一方である。
「だいたい動機が不純なのよ、おばあちゃんは」
「何を抜かすか。若返りはな、古来より、あまたの支配者が追い求めてきた壮大なテーマなのじゃぞ。この一度きりのチャンスのため必要な触媒を集めるのに、どれだけの費用と時間と労力をかけたことか。この努力、お前には分かるまい」
「ええ、分かるわけありません! そんなくだらない目的でお金を無駄にして」
「くっ……くだらないじゃと!」
 老婆はついに怒りが頂点に達し、レフキルを見上げて責任を転嫁し始める。
「そもそも、おぬしが悪いのじゃぞ!」
「えっ? あたし?」
 急に叱られて当惑するレフキルに、魔女猫はさらなる追い打ちをかける。
「わしの積年の夢だった若返りを、ものの見事に砕きおって。この魔力を帯びた秘術書には今や〈元の姿に戻す力〉しか残されておらん。もう二度と転魂術は使えないんじゃ。人生をやり直せるはずだったのに、努力は水泡に帰す……日が沈めば、瞬時に巻物は消え、新しい体へ永遠に魂が固定するんじゃったのに!」
「え、今、なんて言った?」
「今、なんて言いました?」
 レフキルとルヴィエラの声が重なる。
「まずい、言ってしもうた」
 老婆が後悔しても後の祭り。ルヴィエラは目を爛々と輝かせ、猫の首根っこをつまみあげ、早口で詰問するのだった。
「どういうことですかっ! 結局、わたくしの体を乗っ取る魂胆だったのね!」
 祖母の格好をした孫娘が祖母を批判するのはいささか滑稽ではあるが、本人たちにはそんなことを気にする余裕はない。
 猫はうめく。
「うぐぐ、苦しい……悪だくみは出来んもんじゃのう、うぐぐっ!」
 ルヴィエラの方はもはや怒りを通り越してあきれてしまい、力が抜ける。その隙に猫老婆はルヴィエラの呪縛から逃げ出そうと恥も外聞も捨て、もがいた。
 孫娘は放心したように独りごちる。
「聖守護神ユニラーダ様は何でもお見通しです。やはり、わたくしの勘は当たっていましたね。どうも気が進まなくて」
「お取り込み中、すいませんけど……」
 腕を組んで神妙に考え込んでいたレフキルがついに動いた。珍しく青ざめた顔になって、二人の間に鋭く割り込む。
「何です、話の腰を折らないで下さい」
 ルヴィエラは猫を見下ろしたまま面倒くさそうに言いかけたが、対するレフキルは真剣そのものの口調である。
「元に戻すことは出来るんでしょ。どうすれば、この術、解けるの?」
 時間の流れがその刹那に凍りつき、ルヴィエラは思わず猫を放した。魔女の老婆は咳き込みながらも、応答する。
「ゲホッゲホッ、その方法はな、関係者をここに集めて、巻物に書いてある呪文を詠唱することじゃ。それ以外にない」
「たいへーん! こんなところで、こんなことしてる場合じゃないよ! 探さなきゃ、あの猫を。あたしの体を!」
 慌ててしまったレフキルはその場で駆け足を始める。ルヴィエラも当事者とあって、さすがに動揺を隠せない。
「早く見つけないといけませんわね」
「手分けして探そう。サンゴーンも手伝って!」
 目標が決まると判断は迅速だ。レフキルは親友の肩を叩き、そして絶句する。
「もう、おなかいっぱいですわ〜」
 彼女は楽しい夢の中を彷徨っていた。
 かくして南国の小さな町を舞台としたレフキルたちの大捜索が幕を開ける。

(続)



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