一番の贈り物 〜
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秋月 涼 |
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「今日はどこにも行く気がしねえなぁ」 曇った厚いガラスを、降り続く雨が粒となって叩く。 ケレンスたち五人の冒険者はセラーヌ町に留まり、三日ほど男女に分かれて仕事をしていたが、今日と明日はようやく休みで、明後日は早くも出発の予定だった。リンローナとシェリアは貴族の子供のお守り(夏休み中の家庭教師の代役)をし、男性陣は怒鳴られながら馴れない狩りの手伝いをして稼いだ。 そして迎えた八月十九日、せっかくの貴重な休暇はあいにくの雨模様だった。ケレンスはタックと買い物に行くことになっていたが、宿屋の一階の食堂のソファに寝転がり、出かける気は失せかかっていた。一つは雨によるもので、もう一つは連日の厳しい仕事の疲れによるものだった。運動神経抜群の彼だが、重い獲物を運ぶのは久々の肉体労働で、さすがにこたえた。ふだん剣の練習をしている時とは全く別の筋肉を使うのだ。 「そういえば、リンの姿が見えねえな」 ソファに寝転がり、頭の後ろで手を組んだまま、ケレンスはつまらなそうに訊ねた。薄暗い食堂の窓際にある小さな二人がけのテーブルでは、シェリアがぼんやりと外を眺めつつ、特製の羊のミルクを飲んでいる。ルーグは床の隅で柔軟体操をし、タックはケレンスのそばで財布の中身を数えている。リンローナの姿だけが見えなかった。なお、ちょうど旅人の入れ替わりの時期で、この日の連泊者はケレンスたちの一行だけであった。 「リンローナさんなら朝食後に出かけましたよ」 タックは顔を上げず、手を動かしたまま、興味なさそうに応えた。ケレンスはわざと丸く瞳を開き、大げさに両手を広げる。 「へーえ、こんな朝っぱらから元気なもんだぜ」 「さあ、僕たちも出かけましょう」 タックは年季の入った革袋に財布をしまい、それをぎゅっと腰に結わえる。その言葉は寝耳に水で、ケレンスは飛び起きた。 「こんな雨の中を?」 「あんたたちも行ってらっしゃいよ。ほら早く早く」 雨音に混じり、窓際からシェリアの弾むような声がする。それはルーグと二人きりの時間を過ごしたいためのようにも思えたが、派手な外見に似合わず割と慎ましやかな交際を心がけ、気を遣っているシェリアがここまであからさまに他人を排除しようとすることはむしろ珍しく、ケレンスは何となく不快に思った。 「なんか怪しいな」 その台詞を聞いて、内心どきりとしたのはシェリアとルーグであった。特にルーグはぴくりと一瞬だけ動きを止めたが、その後は再び、ぎこちなく柔軟運動を始めた。タックは相変わらずのポーカーフェイスであり、長い付き合いのケレンスも気づかない。 そのケレンスは木の床に両脚をドンとついて立ち上がると、タックの肩をはたき、皮肉と溜め息混じりに雑な言葉を洩らす。 「ま、いっか。しょうがねえや。出かけるぜ」 「そう来なくっちゃ」 とタック。ルーグとシェリアも胸をなで下ろす。ケレンスは何の準備もせず、玄関の方へ向かう。タックはその間に素早く厨房へ向かい、宿屋の者から傘を二本借りる手はずを整えておく。 雨は少し小降りになっていたが傘は必要だった。二人の幼なじみは並んで宿を出る。街並みは白い霧に沈んでいた。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 同じ頃、若い貴婦人に似合うような白いフリル付きの日傘(これも宿で借りた)をさし、リンローナはセラーヌ町の市場を歩いていた。雨足は再び勢いを盛り返し、日傘では生地に染みて、しまいには水滴が垂れ始め、あまり雨よけにはならなかった。 川が増水したり、畑が水浸しになったりで、生鮮物を売っている店はさすがに休業が多く、その一角は閑散としていた。地面がぬかるみ、敷物が湿ると、今日は早々に見切りをつけて店じまいする所もあった。が、全体としてはリンローナの予想よりも人手は多かった。食料や生活雑貨はいつでも必要だということだろう。雨の中で営業を続けるのは、屋根付きの立派な店か、ノルマを達成しないと生活が苦しい者か、非常に極端だった。 水っぽい風が一吹きし、リンローナの思考を中断させる。 「……失敗したなぁ」 薄着で来てしまったことを彼女は後悔し始めていた。大陸の南西にあって温暖な気候の故郷とは違い、ここセラーヌでは夏なのにも関わらず驚くほど冷たい雨が降った。それだけ北寄りだという証拠である。風も秋らしく、透明度が高く感じられた。 「くしゅん」 体をぶるっと震わせ、くしゃみをすると、薄緑色の髪が前後に揺れる。使い古した旅の革靴に水がしみこんできたのだった。 「えーっと、小麦粉と、砂糖と……」 それでもリンローナは材料の購入に余念がない。調理道具は宿屋の方で貸してもらえる約束を取り付けている。必要なものを買い集めると、楽しそうにつぶやきながら帰路をたどった。 「ふんふ〜ん。上手く焼けるといいなぁ」 雨はしとしと降り続く。着衣は肌に貼り付き、身体の熱を奪う。すぐ温泉に浸かりたいのを我慢し、彼女は歩いた。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ケレンスはタックの後を追うようにして、きょろきょろと落ち着き無く辺りを見回しながら、つまらなそうに口笛を吹き、霧に煙る雨の町を歩いていた。お互い、別にこれといって欲しいものがあるわけでもない。タックは時折、ケレンスの様子を推し量るように話しかけたが、相手は気のない相づちを繰り返すのみだ。そのため会話は一方的に始まって一方的に終わり、親友同士には珍しく、奇妙な沈黙がコミュニケーションの主役であった。 うなだれるようにして歩きながら、緩やかなカーブの道のレンガの隙間に溜まった水をぼんやり見ていたケレンスだったが、危険が迫ると冒険者の勘が働くのか、タックに「危ない」と声をかけられるまでもなく身体をねじって通行人を避けようとした。 視線を上げると、相手はケレンスと同じくらいの年頃で、眼鏡をかけた金の髪の少女だった。彼女もケレンスと同じ方に避けてしまい、二人はやむを得ず見つめ合った。几帳面なそうな顔を見ていると、逆に大らかなリンローナを思い出してしまう。 少女は平坦な調子で失礼を詫びた。 「あ、ごめんなさい。わたし、目が悪いんです」 「こっちこそ悪いな、ネエちゃん」 普段よりもいくぶん沈んだ低い声でケレンスの方も軽く謝り、再び歩きだそうとすると、少女の方は大きく瞳を見開いた。 「わたし、一人っ子なので、お姉さんじゃなかったりしますけど。それに、セリカ・シルヴァナという正式な名前が……あらら」 セリカは明らかに話し足りない様子だが、ケレンスは相手をするのが面倒になり、左手を後ろの方で蝶のように振りながらその場を去った。タックも軽く会釈をして緩い坂道を登っていく。 「まあいいです。さ、お買い物〜」 セリカも用事を思い出し、独り言を呟きつつ別れていった。 坂を上りきった辺りで、ケレンスは唐突に言った。 「つまんねえ。帰ろうぜ」 「せっかくだからご飯でも食べましょう」 タックはなおも引き留めようとしたが、気温は低く、天候も悪いままで、これ以上町の探索を続ける理由が思い浮かばない。 「宿のメシでいいだろ。俺が帰ると問題でもあるのかよ?」 ケレンスの方も、いよいよ何らかの異変を感じたらしく、口を尖らせて不機嫌に反論した。舌戦ではタックも引くに引けない。 「カフェにでも入れば温かい飲み物が出ますよ。たまには僕がおごりますけど、どうです? もちろんパーティーの会計としてではなく、僕個人のポケットマネーから出しますのでご心配なく」 「心配はしてねえけど、俺は帰りたいから断固として帰る」 意地の通し合いになりかかったが、ケレンスはそれさえ面倒とでも言いたげに、もと来た道を引き返してゆく。タックは色々と声をかけたが無駄骨で、彼の表情は曇っていった。先ほどよりも重苦しい沈黙が二人の間に舞い降り、お互いが踏み込めない空気の檻を作ったのだった。そして宿が見えてきた。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 宿に入る頃には、タックは諦める段階を通り越し、むしろサバサバした表情になっていた。やる気にさえなれば、一日中、ケレンスを上手く飽きさせないように町中を歩くことなど訳もない。だが、何しろ今日は天候が不純で気温は秋のように低く、タック自身もいまいち乗り気になれなかった。無理もないだろう。 「もう帰ってきたの?」 ソファーに寝転がり、かったるそうに魔法書を読んでいたシェリアは、ケレンスとタックを見ると慌てて本を閉じ、驚いた様子で起きあがった。彼女しかいない食堂は薄暗く、寒々しかった。 「じゃあ、部屋に行きましょう」 最後のあがきとばかり、タックはケレンスの背中を押した。すると、それに口を挟んだのはケレンスではなくシェリアだった。 「ルーグが寝てるから静かにしといてよ」 「なんだ、ルーグ、部屋で寝てるのか」 二階の寝室への階段を上がろうとしたケレンスは踏み出した足を止める。不運にも、その背中にタックが正面衝突する。 そして。 その時、ケレンスは違和感に気づいてしまった。 「なんかいい匂いがするな」 タックとシェリアは気まずそうに顔を見合わせた。大人たちに隠した嘘がばれないか、ビクビクしている子供らのように。 「たぶんリンだろ?」 ケレンスは不機嫌そうで、平板に語った。タックの答えはなくシェリアはごくりと唾を飲み込む。どうやら図星のようだった。 「なんで隠すんだ? 徹底的に確かめてやる」 「ケレンス!」 止めようとしたシェリアはタックに静止される。 「無駄ですよ。いいじゃないですか、おめでたいことですし、いつかはバレるかバラすことですから。仕方のないことですよ」 「でも、あの子、楽しみにしてたし……」 気の強い女魔術師には珍しく、口ごもる。頭の中では、たった一人の妹の悪戯っぽい笑顔と、弾む言葉が反芻していた。 お夕飯まで黙っててね、お姉ちゃん。 ケレンスをびっくりさせたいから――。 同じ頃、ケレンスは調理場に現れていた。 「やっぱりな」 「あっ……」 入ってきたケレンスを見るや否や、リンローナは信じられないとでも言いたげな呆然とした表情になる。テーブルの上には焼き上がったばかりのクッキーが並び、香ばしさと熱気とを辺りにふりまく。ケレンスは何らかの異常は感じつつも手を伸ばす。 「なんだ、クッキー作ってたのか。味見してやるよ」 「あっ」 リンローナは悲鳴のような声をあげた。ケレンスは気にしない様子で、まだ温かいクッキーを二つ三つ、一気に頬張った。 「うめぇ、うめぇ。何でまた、急にクッキー焼いたんだ?」 その質問を聞き終える間、リンローナの薄緑色の瞳は急速に潤んでいき、やがて泣きながらその場を走り去ってしまった。 「おい、リン?」 今度はケレンスが唖然とする番だった。テーブルのクッキーからは虚しい余韻のごとく細い湯気が立ちのぼっていた。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「誕生日だって?」 予想だにしていなかった単語に反応し、ケレンスはテーブルに両手をついて思いきり身を乗り出した。さっきまで顔中に不満を露わにしていたのとは大違いだ。雨は小降りになっている。 「今日、何日だっけ?」 「八月十九日よ。ケレンスの誕生日なんでしょ?」 斜め左にいるシェリアは眉をひそめ、呆れたように言った。彼女とケレンスとタックは食堂の四人用テーブルを囲んでいた。 「むむ……」 今日で確かに十八歳になるのだが、ケレンスは自分の誕生日を完全に忘れていた。幼い頃は、既に亡くなった母親が夕食に誕生日のお祝いをしてくれたこともあったが、その後の父親との二人暮らしでは、そういうイベントとは遠のいていたのだ。 「なんだ、とっくにそこまで気づいていたんだと思っていましたが。ケレンスは勘がいいのか悪いのか分かりませんねぇ」 皮肉めいた言葉を投げかけたタックを、ケレンスはじろりと睨んだが、その昔からの悪友はタイミング良く目を逸らした。 彼女には珍しく、シェリアが少し深刻そうに口を開いて何か言いかけると、ケレンスもタックも喧嘩をやめて同時に注目する。 「……で、ケレンスは台所で何をやらかした訳?」 その一言で場の雰囲気が再び凍りつく。キッチンを飛び出したリンローナが、涙をこぼして階段の横にある姉妹の女性部屋に入り、鍵をかけたのをシェリアもタックも見ていたからである。 ケレンスは唾を飲み込み、うつむき加減で説明する。 「知らなかったんだよ、俺にくれるものだったなんて――美味そうだったからさ、幾つか適当にかっぱらって、試食してやった」 それを聞いたシェリアは不運を呪うように溜め息をつく。 「まあ、ケレンスが悪い訳じゃないだろうけど、あの子はショックだったわね、きっと。なんか楽しみにしてたみたいだから」 「今さら隠しても仕方がないから全部バラしますけど、結局リンローナさんは夕食の時にケレンスを驚かせたかったんですよ」 「なんだよ、やっぱ俺が悪いんだろ?」 ケレンスは黄金の髪を無造作に掻きむしった。軽はずみな行動を後悔し、もだえ苦しんでいる罪人(つみびと)のように。 「ま、大したこと無いと思うけど、様子、見てくるわ」 シェリアが立ち上がろうとすると、それを制止する右手が伸びて、彼女はその場に座り直した。もちろんケレンスであった。 「俺が、行く」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「おい、リン?」 軽いノックを繰り返したのち、ケレンスはドアに頬を寄せ、まずは小さく呼びかけた。部屋の中はしんとしているが、時折、くぐもったように何かの音が聞こえる。もしや、咳……だろうか? 「さっきは悪かったな」 ケレンスは割合と素直に謝ったが不気味なほど反応はない。ドアノブに力を込めると、すんなり回った。鍵は開いている。 「おい、入るぞ」 まさか、着替えなんかはしてないだろうな……と心配しつつも、ケレンスはドアを引っ張った。しだいに隙間が大きくなる。 果たして、リンローナは居た。 薄暗い部屋のベッドに突っ伏して。 その姿は弱っている小鳥のように見えた。 「ゴホン、ゴホン……」 「リン!」 布団に顔を埋めているため音量こそ小さいが、リンローナは明らかに悪性の咳を繰り返している。ケレンスは素晴らしい速さで少女に近づくと、すべすべの頬に手を伸ばした。そこは燃えるように熱く、相手は苦しげに肩で呼吸をしているのも分かった。 「おい、誰か、リンを……じゃねえ、腕のいい聖術師か医者を呼んできてくれ。今すぐだ! どうやら風邪を引いたらしいぜ」 廊下で待機していたタックは、その言葉を聞くなり、外へ飛び出した。シェリアは慌てて部屋に入ってくる。騒ぎを聞きつけ、ルーグも直ちに目覚めると一階に下りてきた。ケレンスは井戸へ水汲みにゆく。にわかに緊迫したムードが漂った。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「ゴホゴホッ……」 時折、リンローナは布団に顔をうずめて、苦しげに咳をした。 「あとは、私がやるわ」 医師が帰ったあと、雨はようやく霧になったものの、夕方を迎えて更に暗くなった宿の一室で。シェリアがぽつりと洩らした口調は軽かったが、言葉の内に重みがあり、決然としていた。ケレンスとタックとルーグの男三人衆も心配そうにリンローナのベッドを見下ろしていて、真っ先に反応したのはケレンスだった。 「待てよ。俺のせいなんだから看病は俺がやる」 「別に、誰のせいでもないだろう。過剰な責任感は無用だ」 ケレンスを素早く制したのはルーグだ。シェリアも続く。 「ここは女性部屋だってこと忘れたの? 悪いけど男の人は出てって頂戴。どうせ今夜はこの子と一緒に寝るのよね、私」 それに、この子は私の実の妹なのよ――シェリアはそういう気持ちを心に隠して、わざと語調を強めた。風邪が移るなら自分だけで充分だから、ケレンスには思い留まって欲しかった。 その辺りの事情を汲み取ったタックが友の肩に手を載せる。 「ケレンス」 「……分かったよ」 ケレンスはうつむいたが、まだ完全に諦めてはいなかった。 「分かった。じゃあ、お前ら、先にメシを食ってこいよ。その間、俺が様子を見る。誰かしら居た方がいいだろ。で、あとはシェリアに引き継ぐ。これで文句ねえだろ?」 しばらく誰も返事をせず、部屋には沈黙の神が舞い降りた。リンローナの悪性の咳がぶり返し、それが収束してゆく。過ぎ去った雨の粒が軒先から落ちて弾ける微かな音が耳に届いた。 「それでいいわ。頼むわね」 シェリアは無感動に言い、先頭を切って部屋を出ていった。タックとルーグは後ろ髪を引かれる思いで、患者を心配そうに見つつ、そっとドアを閉めた。ケレンスとリンローナとが残され、いつしか日はとっぷりと暮れて、紛れ込む闇はひどく優しかった。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 部屋が暗くなり、ケレンスはとりあえずランプを点けようと立ち上がった。テーブルの片隅の火口箱を開け、道具を取り出し、馴れた手つきで火を起こそうとするが、雨のあとで空気が湿っているせいか、なかなか上手くいかない。物音が気になったのか、夢と現実の間を彷徨っていたリンローナが目を覚ました。 「誰……」 彼女は相変わらず布団から顔を出さずに言った。喉をやられたのか、声はしわがれ、注意していないと聞こえないくらいだ。 「お姉ちゃん?」 「喋るな」 ケレンスが厳しく応えると、相手ははっと息を飲み込んだようで、気まずい間があった。それから彼女は恐る恐る顔を出す。 「ケレンス? ……けほっけほっ」 「喋るなって言ってるだろ」 ささやくような音量で、しかし不満そうな言い方でケレンスは念を押した。聞き手のリンローナは、むしろケレンスがあまり怒っていないことを察知し、薄暗い中で上半身を起こした。その間に、ケレンスの作業が功を奏し、部屋にかすかな光が灯った。 「大丈夫、休んだら、だいぶ良くなったよ。風邪のひき始めだし寝てれば治るよ。ごほっ……家庭教師の疲れもあるだろうし」 「あんな雨で無理するからだろ。もともと体力ないくせに」 ケレンスは内心、相手がどんな反応をするかビクビクしながら、わざと批判めいたことを呟いた。リンローナはうなだれる。 「クッキーの件は悪かったな。俺、自分の誕生日なんて、ほんとに、すっかり忘れてたんだ。まさか、そんなことだったとはな」 相手の反応が弱いので、ケレンスは躍起になって話題を変えた。やはり風邪気味で元気がないのだろうかと心配しながら。 「そもそも、誕生日の話なんて、滅多にしなかっただろ?」 「何だ知ってたんだ。驚かせようと思ったのに失敗しちゃった」 いつもなら、ぺろりと舌を出すところだが、リンローナはこみ上げる咳を抑えて会話するのがやっとのようで、時折、苦しそうな吐息を洩らしたり、胸の辺りを抑えたりした。そして再び語る。 「せっかくの誕生日なのに、台無しにしちゃったね。あたし馬鹿みたい。ほんと馬鹿だよね、また、みんなに迷惑かけて……」 リンローナは途中から涙声になった。ケレンスはどう反応したら相手を傷つけずに済むのか迷ったが、敢えておどけてみた。 「別の意味でもっと驚いたな、俺は」 「ごめんね……ごほっごほっ」 リンローナの澄んだ瞳からこぼれだした熱い液体は布団を濡らしていることだろう。心と病の二重の苦しみに耐えていると思われる少女の想いを考えると、ケレンスは胸が張り裂けそうな切ない気持ちになった。でもタックのように上手い言葉が見つかるわけでもなく、ルーグのような威厳も見せられず、十八歳になったばかりのケレンスはどうしていいのか分からない。 発作が治まり、唐突に質問したのはリンローナだった。 「じゃ、ケレンスは自分の誕生日を忘れてるくらいだから、あたしの誕生日なんて、絶対に知らないよね? まだ先だけど」 「知らねえ。二月だったっけ?」 「うん」 「一日だったか?」 少し照れながらケレンスが応えると、リンローナは急に身を乗り出して、信じられない体験をしたような口調で問いかけた。 「憶えてたの? 憶えててくれたの?」 「別に。たまたま覚えやすいからだろ……おいリン、寝てろよ」 「なーんだ、そうなんだ」 「まあ、金に余裕があって、気が向いたら、なんか欲しいものを買ってやってもいいぜ。その時まで憶えてたらの話だけどな」 その時、ドアをノックする音が聞こえた。シェリアの声だ。 「宿の人から特製の風邪薬をもらってきたわ」 真っ暗な中、ランプの弱い光だけが散らばる部屋で、ケレンスとリンローナは闇という名の鏡を境に微笑み合った。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 姉のシェリアがドアを開き、闇に覆われた部屋の中に入ってきた。それは間もなくケレンスの出番が終わることを意味していた。 「よかったら、クッキー、温めて、みんなで食べてね」 リンローナは途切れ途切れに喋り、それから手の甲で涙の跡を拭った。 「ああ。分かったから、安心して休め。ほんと、最高の誕生日だったぜ」 ケレンスがベッドから身を離しながら呼びかけると、少女は落ち着いた穏やかな口調でこう応えたのだった。 「ありがとう。そして、おめでとう、ケレンス」 「おう。じゃあな」 ケレンスは軽く返事をしてから、今度はシェリアの方に向き直った。 「じゃ、あとは任せたぜ。姉御」 「まあね」 風邪薬の小瓶とグラスの水を持ってきたリンローナの姉は曖昧な微笑みを浮かべた。いつものように自信たっぷりに言おうとしたのに、隠しきれない心配さが表に現れたような、そんな表情と喋り方だった。 「お姉ちゃん、ごめんね……ごほっ」 リンローナが再び苦しげに咳き込んだのを振り切るように、ケレンスはうつむいて黙ったまま大股で部屋を出ていった。そして入口の所で振り返り、泣き笑いのような顔で、しかし無理に絞り出した明るい声でこう言ったのだった。 「おめぇが良くなることが、一番の贈り物だからな!」 大きな音を立ててドアが閉じられ、足音が遠ざかってゆく。温かな毛布にくるまっているリンローナは、ゆっくりと強く瞳を閉じた。 姉妹の小さなやりとりが終わり、グラスの水が空っぽになる頃、宿屋の食堂には早くも美味しそうなクッキーの匂いが漂い始めていた。 数々の想いを乗せて、真夏の夜は更けてゆくのだった。 | ||
(了) | ||
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