エピローグ
その刹那、サホはまぶしい朝の光の中に、痩せた少女の黒いシルエットを見た。自分と同じように壷の半分を押している。
――いや、違う。
満身創痍の焦げ茶色の壷は、もはや半分ではなかった。唯一無二の存在として、この世界に確固たる根を下ろしていた。
それが別々の世界を意味することは永久にないだろう。バラバラに壊れたのち、サホとリュナンによって修復された壷は、昨日の怪しい輝きを失い、きわめて穏やかな〈表情〉をしていた。
「サホっち」
いつも通りのリュナンの呼びかけを、サホは聞き取った。
手で書いたのではなく、口から耳へ伝わる〈言葉〉として。
その事実に気づいたとたん、サホの眼は急に熱くなってきた。泣くのは恥ずかしいと言い聞かせて、何とか耐えようとする。
サホの自室は朝の爽やかな空気に充ち、鳥たちの唄が高らかに響いた。窓の向こうにどこまでも続く青空が目にしみる。
「ね……む」
サホは喋る練習をするかのように、震える唇を懸命に開いた。喉が鳴っているという当たり前のことが、信じられないほど新鮮に思える。逆光になっていて、相手の表情は読みとれない。
一方、リュナンの方はサホの顔がよく見えていた。朝の光をいっぱいに受けて、サホの赤い髪が燃えるように輝いている。
「おかえり」
リュナンは少し眠たそうに言った。動作は緩慢で、二つの瞳は今にも睡魔に負けそうなほど細められていたが、頬は紅潮して血の気が良く、やり遂げたという充実感にあふれていた。
「ただ……いま」
サホは〈泣かない〉ために全ての集中を注ぎ込んでおり、ぎこちなく応えた。結果、涙の泉はどうにか堰き止められている。
しかしその努力も親友の素朴な台詞の前では無駄だった。
「ねむちゃん、サホっちの役に立てた?」
その一言がサホの胸を射抜いた。
リュナンは、睡眠の放棄という彼女なりの最大限の覚悟を決め、サホの力になろうとしていた。それはいつだって、まったく見返りを求めない無償のものだ。サホを支えてくれた、体の弱い親友のいくつもの文面が、脳裏をよぎっては消えてゆく。
『早く帰っておいでよ。私も手伝うから』
『こんなに遠いけど、こんなにそばにいるよ』
『だって、サホっちは、私の大切な大切な友達だもの』
じわりじわりと暖かい気持ちが伝わる。指先に、顔に、そして双眸までも――。泉はあふれ、一筋だけ涙の河を流した。
「また、ねむに泣かされちった」
そして両眼を服の袖で拭き、今度は心の底から湧き上がってくるような笑みを浮かべ、サホは立ち上がった。ふらついて、せっかく完成した壷を危うく踏みそうになるが、得意の運動神経を発揮して飛び越え、じっと座り込んでいるリュナンの前に立つ。
そこで初めて、サホはリュナンの表情を間近で見た。
リュナンの顔に書かれた目印の〈ねむ〉という字は、サホと同じ種類の温かい水に溶けて、一部が不明瞭になっていた。
「ありがとう、ねむ」
サホは万感の思いをこめて、噛みしめるようにゆっくりと感謝の辞を述べ、右手を差し出す。この期に及んで涙はいらない。
「どういたしまして」
頑丈な造りのサホの手に、繊細なリュナンの手が触れて、重なり、合わさる。それは壷の復活を再現したかのようだった。
二人はしばらくの間、固い握手を交わしていた。
やがて、部屋のドアが開き、女性の豪快な声がこだまする。
「おお、帰ってきたかい!」
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜
「おっかぁ!」
サホは立ち上がり、小太りで少し背の低い母親の瞳を覗き込んだ。それは雄弁に語っている――まあ、あんたのことだから大して心配はしてなかったけど、無事で良かったねぇ――と。
リュナンは軽く会釈をし、サホは立ったまま自信たっぷりに胸を張る。母親は部屋を見回し、ヒビだらけの壷の姿を捉えた。
「おったまげたよ。そんな危険な壺だったなんてねぇ」
彼女は娘への最初の手紙に書いたのとほとんど同じ文言をつぶやいたので、サホとリュナンは顔を見合わせて笑った。
「あははっ」
「ふふっ」
「なんだい、おかしな子だねぇ」
腕組みして口元を緩め、あきれたように困ったように首をかしげた母親だったが、すぐに何かを思い出してサホに訊ねる。
「あんたら、朝飯はどうする?」
「確かにおなかへったかも。ねぇ、ねむ?」
サホは唾液が湧き上がるのを感じた。あまりの集中と緊張とで静まっていた腹の虫も一挙に活動を再開し、声高に叫ぶ。
ぐぅ〜う。
「やだ、恥ずかしー。とりあえず、ねむ、食事にしよ!」
しかしリュナンは動き出そうとしなかった。彼女の方も、ほっそりとした彼女なりの食欲はあったが、それ以上に別のことが気がかりだった。立ち上がり、丁寧な口調で疑問を投げかける。
「あの、今、何時くらいですか?」
「そうねえ……普段なら、もう出かけたくらいかねぇ」
母親はまず質問者を見て、それから自分の娘の方に目線を送る。リュナンは遅刻で怒られる図を想像し、予定通り休んでしまおうかと考えていたが、そこに割り込んだのはサホだった。
「まだ、間に合うかも!」
「えっ?」
リュナンは自分の耳を疑って呆然と聞き返した。一方、やる気満々のサホは腕まくりを始め、彼女らしい論理を披露する。
「せっかく間に合うために頑張ったんだから、間に合おうよ!」
その台詞に凝縮されている前向きな力を感じ、ほんとにサホっちが帰ってきた――と改めて実感したリュナンは、晩秋の朝によく似合う新鮮で清らかな笑顔で、真っ直ぐにうなずいた。
「うんっ」
「そうと決まれば、走るのみ!」
言い終わるや否や、リュナンの冷え切った右手を鷲づかみにし、ドアの前に立っている母親の横をすり抜け、サホは全力で狭い階段に突進したのである。その背中に母親の声が届く。
「あんたら、朝飯は?」
「きゃあ、サホっち、落ち着いて〜」
突然の展開にうろたえ、リュナンは悲鳴をあげた。サホは階段の最上段で両腕を振り、駆け足足踏みを繰り返している。
「我慢するしかないっしょ!」
そして勢い良く階段を駆け下りようとする直前、またもや母親は赤毛の娘にブレーキをかけ、出発前の確認を念押しする。
「服は着替えなくていいのかい?」
「もう、昨日のでいいや!」
「髪は?」
「適当!」
「荷物は?」
そこでサホは氷の魔法をかけられたかのようにピタリと停止し、ゆっくりとぎこちない様子で後ろを振り向き、苦笑いする。
「忘れてた……」
「姉ちゃん、うるせえよー」
小さな弟が目を覚ましてドアを開け、目をこすりながら寝ぼけた調子で文句を言う。サホはご機嫌で、右手を高く掲げた。
「おーっす」
〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜
「じゃーねー」
「また明日!」
学院の生徒たちは今日の講義を受け終わり、用事のない者は帰途につく。秋の終わりの太陽は西に傾き、昼間が短くなったことを実感させる。通りの街路樹は赤や黄色に色づいて、早くもこぼれ落ちた枯れ葉は数日前の雨にしっとり濡れていた。
曲がり角の花屋で、顔見知りのおかみさんに挨拶する――サホは手を振り、リュナンは会釈した。向こうの裏路地では子供らの歓声が響きわたり、肉屋のおやじは立ち話に興じている。
「ごほっ、ごほっ、ごほっ」
「だいじょぶ、ねむ?」
急に咳き込んだリュナンを気遣い、サホは立ち止まる。朝に無理をしたせいで持病の喘息(ぜんそく)が悪化したようであるが、発作が静まると、リュナンは案外あっけらかんと応えた。
「うん。授業中に眠ったから、だいぶ良くなったよ」
「あ・た・い・も!」
いたずらっぽい笑みを浮かべ、サホは秘やかにささやいた。
三頭立ての荷馬車がゆっくりと近づいて、二人とすれ違う。赤毛の少女は頭の後ろで両手を組み、懐かしむように語り出す。
「奇跡的に、始業には間に合ったけどサ」
「結局、怒られちゃったねぇ……」
サホの続きをリュナンが受け取り、二人はまた歩き出す。
「いつも通り、居眠りで、ね」
「でもさー、あたい、あれは絶対にわざとだと思うよ」
サホは瞳を輝かせ、確信に満ちて言った。二人の足元では、まだ新しい落ち葉が弾け、季節の音楽に軽い彩りを加える。
「何の話?」
リュナンが首をかしげると、サホはすかさず補足する。
「あの、壷の文字のこと。いつの時代の人か知らないけど、あの作者、敢えて曖昧にしたんだ。ねむもそう思うでしょ?」
「うん。きっと、そうだね」
深くうなずいて、リュナンは友達の意見に同意する。
彼女の翻訳によって解明された、壷の横に刻まれていた古代語の文言は、字のかすれ具合によって二通りに解釈できた。
別れること。
そして、友情。
昨日までの壷は相反する意味を孕んでいて危うかったが、全ての魔力を発動しきって毒気が抜かれた〈かつての魔法の壷〉は、今やサホとリュナンにとって唯一の意味しか持たない。
「ひゃあ」
冷たくて勢いのある北風が前触れもなく吹き荒れ、旧市街の通りをめぐる。リュナンは右手で髪の毛を、左手でスカートを抑えた。金の髪が膨らみ、光を散らして優雅にこぼれ落ちる。
その横で、サホは風の行き先を眺め、ぽつりと洩らした。
「いよいよ本格的な木枯らしかな」
その風が、サホの部屋を通り抜ける――。
特製の魔法の糊が入っている小ビンは傾いて、あっけなく倒れた。ドアはバタンと閉まり、カーテンは高く持ち上がり、筆が転がる。それでも安定感のある焦げ茶の壷はびくともしない。
使われなかった台帳の最後の一枚が、微かに揺れていた。
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