雪かき

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


    ざくっ。            
       ……。          
              しゅっ。  
     ざくっ。           
                 ……。
             しゅっ。   
        ……。         
      ざくっ。          

 軽やかで、涼しげで、リズミカルな音が、表から響いてくる。
 水滴のたっぷり着いた古い窓ガラスは見るからに重そうだ。

 雲に隠れた冬の太陽の代わりに、部屋の暖炉は火の粉をあげている。薪の山を燃やして崩して灰にして、煤を煙突から吹き出した。その手前にちょこんと置かれている揺り椅子には、木目が不思議な模様を描き、見方によっては誰かの瞳のようだ。
 さっきから微妙に揺れていた茶色の髪の毛が、少しずつこぼれ落ちた。ぞうきんを手にしたまま、安心しきった顔で椅子に腰掛け、少女はまどろんでいる。色白の肌は若く、艶があった。
 食後に訪れる緩やかな眠気の海を、彼女はさっきから彷徨っているが、いよいよ夢の領域へ一歩踏み込んだ。玄関の方から聞こえてくる一定間隔の音――何かに突き刺さる〈ざくっ〉、固まりを落とす〈しゅっ〉――の繰り返しが朝の弱い彼女の芯を溶かし、悠久の大河にゆらゆらと呑まれてゆくのを助長した。
 どこかから出てきた季節はずれの天道虫がを暖炉を周回して舞い飛んでいたが、やがて警戒を緩め、彼女の肩に乗った。
 手の力が抜け、ぞうきんが床に落ちた。彼女は上体を前のめりに倒したままで気づかず、それどころか寝言を呟き始める。
「温泉は……最高、ですよん……」
 彼女の名はファルナ・セレニア、十七歳にしては少し幼い。山奥サミス村で唯一の酒場であり宿屋である〈すずらん亭〉の看板娘だ。傷一つ無い柔らかな頬には、やや赤みがさしていた。

 ざくっ。しゅっ。

 サミス村の雪は、降ったり溶けたりしながらも、確実にかさを増していった。村人は皆、厚い毛皮をまとい、木や鉄のスコップで雪を掘っては、邪魔にならない場所へ積み重ねるのである。
 ここで生きていくには必要不可欠な仕事――冬の間じゅう、ずっと続く重労働だった。積み重ねれば家と同じくらいの壁が出来てしまうほど、サミス村は雪深い地域である。冷たくて湿った空気が中央山脈にぶつかり、あまたの雪を降らせるのだ。

 ファルナが完全に眠りに堕ちてから、やがて表の音はやみ、しばらくしてドアがきしみながら開いた。冷たい風が入り込む隙間を見つけてひしめくが、それはすぐに固く閉じられる。全身を雪まみれにした父と、ファルナの三つ下の妹のシルキアが、二人とも顔を真っ赤にして朝の日課の雪かきから戻ってきた。
 ちょうどその頃、わずかな泊まり客の食事の皿を洗い終えた母が、厨房から戻ってきて酒場を通りかかった。夫とシルキアをねぎらった後、母は掃除中のファルナが寝ていることに気づく。
「あらあら」
「しいっ」
 シルキアは利発そうな顔で、口に手袋の指先を当てた。姉とそっくりの茶色の瞳には、いたずらっぽい光が浮かんでいる。
「おしおきしなきゃ」
 そう小さく呟くと、シルキアは母と父にウインクし、そろりそろりと姉が船を漕いでいる暖炉の脇の揺り椅子へ近づいてゆく。

 ファルナは依然として、無防備に寝息を立てている。
 シルキアは呼吸を整え、両腕をゆっくり掲げ、準備する。

 そして、いきなり。
 凍えるほどの雪をいじって、濡れた手袋をはめたまま――。
 ファルナの麗しのほっぺに押しつけたのだ!

「ひええっ!」
 ぬくい夢から覚め、鼓動を激しく鳴らして、ファルナは文字通り〈椅子から跳ね起き〉た。それから呆然と座り込んでしまう。
「なーに、サボってんの! お姉ちゃん」
 勝ち誇った妹の声が響き、後ろからは両親のくすくす笑いが聞こえる。ファルナは四方八方を見回し、ようやく我に返った。
「あっという間に、温泉が消えちゃったのだっ……」
 ぽつりと洩らした一言が、シルキアの憤りも溶かしてしまう。

 外では氷柱(つらら)の雫が冬の音楽を奏でている。
 鉛色の雲の層は薄くなり、銀の陽が弱い光を撒いていた。

(了)



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