小さな島の大きな町の、
小さな小さな秋の終わりに

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 海岸通りに出ると、幼い頃から馴染んできた濃い潮の香りが鼻をつき、口の中で塩味となって甦った。昼の海風から夜の陸風にかけての微かな空気のささやきが、彼女の頬の産毛を撫でて行き来する。それは地面から溶け出した夜の精霊だった。
 草履で一歩を踏み出すたびに白い砂が崩れて、足の指の隙間を滑り、爽やかな音を立てた。珍しく後ろで束ねた長くもない髪が、ねずみの尻尾のようにリズムを取って上下に揺れている。その黄金のひと房は、夕陽の最後の残滓を浴びて、ちらちら星くずのように瞬いた。見上げると、何にも邪魔されない広々とした夜空の舞台には、本物の星たちが姿を現し始めている。
 出来たての肉だんごを彷彿とさせる彼女の後ろ髪の、その快活な動きがわずかに大きくなった。疲れていたはずの帰り道なのに、いつもと違う海辺の遠回りをしたら元気が湧いてきて、足取りも軽くなったのだった。典型的な海の民、ザーン族である。
「うーんっ」
 立ち止まって空に腕を伸ばし、つま先立ちしたまま息を吐き出せば、新鮮な思いが爪の先まで、心の奥底まで充たしていく。
 最高に贅沢な瞬間だよ――彼女はそんな思いにかられた。

 明日は仕事が休みで、久しぶりの息抜きが楽しめる。あの店の新作のケーキも食べたいし冬物の洋服も買いたい。何より、なかなか会えないでいる友達と、くだらないおしゃべりを交わしたい――やりたいことが次から次へと浮かんでは消えてゆく。
「だいぶ短くなったんだなぁ」
 昼間は日を追うごとに短くなり、その分を補うかのように足元の影は細く長く伸びている。海はとっぷりと藍色に暮れ、普段はあっけらかんとしている椰子の木のシルエットが不思議なほど繊細に見える。一年を通して気温が高く、カラっとしていてもやはり厳しい暑さと、全てを叩きつける激しい降雨で知られるミザリア市にも、乾いた冬の前の短い秋を感じることが出来る。
 ちょうど今ごろの季節、凪の夕べ――この国に紅葉はないけれど、空の紅葉ならば、どこにだって負けない自信があった。

 彼女はミザリア国で唯一の国立学院の魔術科を中くらいの成績で卒業し、今は商人になるため下積み修行を重ねている。
 小柄で、目鼻立ちはとりたてて特徴のない、ごく平凡な十八歳のザーン族の女性である。だが、その柔らかな視線の中に宿る一途な意志の力――夢に向かう努力のカケラ、とでも言おうか――が印象的だ。それらは強烈なイメージではなく、むしろ彼女の身の丈に合った控えめなものだが、決して友を裏切らない、信頼のおける彼女の人柄が滲み出ていて好感が持てる。
 遠浅の海岸線は秘密を隠して闇を映し、昼の熱気はいつしか失われて、すがすがしい夜の内側へと移り変わっていった。
 革製のきんちゃく袋を小脇に抱え、家を目指しつつ遠回りをしながら、彼女は気ままな散歩を続けた――おなかがすくまで。
 そして限りなく自由な気分を味わいつつ。

 彼女の名前は、ウピ・ナタリアルという。

(了)



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