冬の朝

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 シルキアが目を覚ましたとき、辺りはまだ暗かった。
 夜かと思って耳をすませば、ほんの微かな鳥の歌声が聞こえる。冬至を目前に控えた〈この朝〉はいちだんと冷え、いちだんと遅くやってくる。鼻で息を吸うと頭に突き抜ける感じがした。

 保温という卵の殻から抜け出すのは、いつも勇気が要る。小細工せず、シルキアは一気に布団をはいだ。全部の冬が一時に集まり、自分だけ狙ってくるような気がする。シルキアを縮こまらせて、世界に占める彼女の表面積を小さくさせようとする。だからシルキアは震えながらも大きく伸びをして、威嚇した。
 それから右手を差し出して、ベッドの下の上着の袖に素早く腕を通り、いよいよ凍りついた朝の空気の中を泳ぎ始める。

 冬の朝は特殊な匂いだ。それは匂いというよりも、気温の低さから来る一種の刺激という方が近い表現かも知れないが。
 カーテンの隙間に顔を寄せてみる。少し湿ったガラスの、その向こうの町並みは、鼻や口から洩れる吐息よりも白く霞んでいた。それは雪であり、それは霜であり、それは霧であったろう。
 辺りはまだ暗く、冷気は針のように身体を突き刺してくる。単に日の出前というだけではなく、天は濃い灰色の雲で覆いつくされているようだった。薄暗い部屋の中で、彼女の茶色の髪は黒っぽく見えた。風の音は普段よりも弱く、その隙間を縫って、張りつめた鳥の唄が引き続き一日の始まりを告げていた。

 隣のベッドでは、三つ年上のファルナが安らかな寝息を立てている。朝に弱い姉を起こすのはシルキアの役目だが、今はまだその時ではない。靴を履き、シルキアはそっと部屋のドアノブに触れた。金属製のドアノブは冷たさをいっぱいに吸い込み、冬の一つの指標だった。それをゆっくりと右に回していく――。

 身体の隅から隅までかじかんで、階段を下りるのは慎重になる。一階の食堂のドアを開けた瞬間、予想以上の膨らみきった暖かさがまとわりついてきて、シルキアは思わず目を閉じた。
「おはよう」
 子音を立てて、声の練習がてらシルキアはささやいた。暖炉の中で炎が弾け、光と熱に代わる音が不規則に響いていた。
「おはよう、シルキア」
 厨房から顔を出し、母が低い声で言った。ここは村で唯一の宿屋だから、客がいれば朝はことのほか早い。長く厳しいこの季節は、ほとんど開店休業状態だが、それでも客は全くいなくなるわけではない。今日は数人の行商人が泊まっていた。

「お父さんは?」
「玄関の周りの雪かきしてる」
「雪はやんだの?」
「そうね。今日は晴れそうだわ」

 会話が途切れ、母はそっと持ち場に帰った。シルキアは食堂を見渡して、何の手伝いから始めようかと考えをめぐらした。
 結論から言えば、シルキアは全く別のものに心奪われる。

 真紅の龍。

 東の空の低いところに、それは横に長く伸びていた。
 重い雪雲が割れて、隠れていた赤い空が現れたのだ。
 それは虹のように短命な、きわめて神秘的な光景だった。

 本来は、朝の光が徐々に射し込み、勢力を増していくのを見るのが好きなシルキアではある。今朝は見られそうもないが、その代わり、いいものを見られた――と思う。その〈真紅の龍〉の価値と同じだけ、彼女はいい顔になる。薄氷を踏むような緊張を孕みつつも、凛として誇り高い、冬の朝の荘厳な表情に。

 形を変えてゆく空の谷間から、シルキアはふと目を離した。確かに、母が言った通り、しだいに晴れてきそうな天候である。

「……とりあえず、貯蔵庫に行って来ようかな」
「お肉を人数分お願いね。それと、滑らないようにね」
「うん。行って来る」

 姉のファルナが起きる頃には、早朝の厳しさはだいぶ緩和され、朝の第二幕が開演するだろう。それには――まだ、早い。

(了)



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