海を飛んだ少女

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


(一)

 灰色の巨大な翼を、不吉な鈎(かぎ)の玩具のように広げ、羽ばたかず、ただ風に乗り、その海鳥は舞い降りてきた。まばたきしている間に翻ると、次の刹那、のたうち回る銀の鱗(うろこ)をくわえている――彼女の長い嘴(くちばし)に。海鳥の魚獲りは年老いた猟師のように厳しく、なおかつ芸術的でさえある。

「海と空との一瞬の出会いだね」
 冬空の海鳥を遠目にリンローナが呟くと、タックが答える。
「本当は、必死の生存競争ですけどね」

 しばらく北風の唄を聞き、沈黙が流れたのち、再び口を開いたのはリンローナであった。荒れた北国の海の向こうに、彼女の故郷であるモニモニ町の南海の夏を懐かしく思い浮かべて。
「そういえば、お姉ちゃん、海鳥になったことがあるよね」
 突然自分の話になり、リンローナの姉であるシェリアは物思いから醒めて顔を上げた。耳が痛いほどの寒さで、息は白い。
 訳の分からぬケレンスは眉をひそめた。姉妹と同郷のルーグは、彼の長い足でゆったり歩きながら、一言だけ賛意を示す。
「そうだな」
「何だよそれ、海鳥になった、っつーのは?」
 ケレンスの文句を合図に、いよいよ物語が始まる。
 
 
(二)

「そんなこともあったわねぇ」
 シェリアは非常に平坦な声で、大したことではないように答えた――あるいは万感の思いを込めていたのかも知れないが。
「変身する魔法でも使ったっての……」
「黙って。順を追って話すから」
 ケレンスの質問を厳しく遮り、シェリアは記憶をたどる。

 ――が、身も凍える冬の風は彼女の思い出の邪魔をした。
「悪いけど、場所、変えてもらえる?」
 パーティーの財布を預かる会計係のタックは、現在の残金と今後の収支を素早く計算し、よくよく考えてからうなずいた。

「昔の話よ」
 暖かいお茶の入ったカップを置き、シェリアは語る。妹のリンローナは、かじかんだ手を湯気の立つカップに当てている。ここはメラロール市に林立する落ち着いたカフェの一軒であった。
「とてつもなく昔の、子供時代のことだわ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 それは、とある夏の日の出来事であった。
 ルデリア大陸の南西に位置する温暖なモニモニ町では、六月半ばから九月半ばにかけて海水浴が可能となる。シェリア(当時十一歳)、ルーグ(同・十四歳)、リンローナ(同・七歳)はいつものように連れだって、町の南側の砂浜に遊びに来ていた。
 その日は北東の風が強く、思いのほか、潮の流れは速かった。まだ小さかったし、安全志向のリンローナは水際で遊んでいたが、泳ぎに自信のあったシェリアはどんどん沖に出ていき、潮に流されてしまった。足はとっくに着かないし、砂浜を目指そうとすればするほど流されていく。大波が来ると視界はゼロになり、塩水を飲み込む。沖に行けば当然ながら水は冷たくなる。

(昔から問題児だったんだなぁ)
 感慨深く呟いたケレンスに、シェリアは鋭く言い返した。
(金づちは黙っててよね)
(な、何だよ、俺が……何だよ、そのな、あれだ)
 ケレンスの口調はしどろもどろになる。剣術に短距離走にとスポーツ万能の彼であるが、水泳だけは大の苦手なのだ。かなり動揺したのか、持っていたカップのお茶をこぼしそうになった。

 ちょうど、その時である。
「お客様、おかわりはいかがでしょうか?」
 盛んに湯気を上げている東国伝来の陶器のティーポットを厚い手袋でしっかりと支え、清潔な長い金髪をアップにした十八歳くらいのウエイトレスが通りかかる。シェリアは真っ先におかわりを頼み、他の四人もそれに従った。しばしの休憩となる。
「冬は、あったかいお茶とか、スープは最高だね!」
 リンローナが明るい笑顔をふりまき、タックはうなずく。
「ええ。全く、心の中まで暖まるようですね」
「じゃあ、続き行くわよ」
 先導役のシェリアが再開を宣言し、皆はカップを置いた。
 
 
(三)

 シェリアの漂流にいち早く気づいたルーグは一度戻り、リンローナにその場に留まるよう伝えた。また、大人たちを見つけ次第、助けを乞うように頼んだ。七歳のリンローナは青い顔になったが、気丈にも事態を受け容れてルーグの指示を復唱した。

(リンは昔からしっかりしてたんだな。誰かさんとは違……)
 またもや口を挟んだケレンスの語尾は苦痛な叫びに変わる。対面のシェリアが、つま先で思いきり彼の足を踏んだのだ。
(黙ってりゃいいんだろ。畜生……)
 シェリアは満足して頷き、懐かしそうに目を細める。耳の奥で、あの夏の日の波のさんざめきさえ響いているかのように。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ルーグはシェリアの薄紫色の頭を目指し、泳いだ。しかし予想以上に横波がひどく、思うように真っ直ぐ進むことが出来ない。
「私は焦って、夢中で泳いだが、疲れるだけだった」
 二十二歳のルーグは、十四歳の自分を思い出して語った。

 その頃、浜に残された小さなリンローナは通りすがりの中年夫婦を捕まえ、溺れかけているやも知れぬ姉の件を訴えた。
(何よ、私、溺れかけてないわよ。変なこと言わないで頂戴)
(ごめんねお姉ちゃん。遠くから見たら分からなかったんだ)
 リンローナは身を乗り出して補足する。しばし険悪なムードが漂うが、シェリアの怒りの矛先をケレンスは自らに向けさせる。

「へへーん。シェリアだって溺れかかったわけだな」
「そんなことないわよ。こっからの展開がすごいんだから!」
 意気盛んなシェリアは話を中断し、ケレンスに食ってかかるわけでもなく立ち上がり、興奮して叫ぶ――と、カフェに一瞬だけ静寂の天使が舞い降り、彼女一人に全員の注目が集まった。
「ふん。ほんと、すごいんだから。私の天賦の才能が……」
 顔を紅潮させて、姉は悔しそうに恥ずかしそうに座り込んだ。その声はしだいにトーンダウンし、いったんは消えてしまう。

 再び、周りの人々が会話を始めると、タックは先を促した。
「シェリアさん、続きを聞かせて下さいよ。お願いします」
「しょうがないわねぇ」
 大げさに溜め息をついて掌(てのひら)を上向きに広げ、姉は先ほどの失敗を誤魔化し、動転した気持ちを落ち着かせる。
「ちゃんと聞いててよ、特にあんた」
 シェリアに指を突きつけられると、ケレンスは頭の後ろで両手を組んで〈あさっての方角〉を見つめ、いい加減な返事をした。
「へーい、へいへい」
 
 
(四)

 十一歳のシェリアは沖に流され、身体の芯まで冷えきって、しだいに泳ぐ力もなくなってしまう。ルーグの追ってくるのが分かったが、波はますます荒ぶる巨大な怪物のようにうねって、二人を絶対的に引き離す。シェリアはふわりと持ち上げられたり、波の坂を下ったり、時には頭から塩水の滝をかぶったりした。
 しかし彼女は諦めない。何か方法があるはずと頭をひねり、考えに考えた。その間も町は遠ざかり、猶予は失われていく。

 結論として、泳いで岸を目指すことは無理だと判断した初級魔術師は、一か八かの賭けをしようと決めた。上体を起こすと、器用に立ち泳ぎをしながら、波のリズムが落ち着くのを待つ。
 目を閉じて水の奏でる音楽に身を任せるていると、身体はしびれ、冷たいのか熱いのか曖昧な気分になる。その一方、遥か海の底の貝殻の音まで聞こえそうなほど心は澄みきってきた。荒れた曲であっても、どんなタイミングで比較的緩やかになり、息継ぎや休符が多くなるか、本能的に分かってきたのだ。

(極限状況で、魔力が研ぎ澄まされたのかも知れないわね)
 あの時に味わった〈死の境界線〉を思い浮かべ、シェリアは寒気を覚えて首を振り、残っていた二杯目のお茶を飲み干した。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 太陽が雲間から顔を出し、八年前の彼女は危うく意識を取り戻した。そして直感する――最大にして最後のチャンスが到来したのを。行動を起こすとすれば、次の〈休符〉しかないのだ。

 彼女は両手を高く水面上に掲げ、思い切り息を吸い込み、吐き出した。精神を集中させ、覚えたての呪文の詠唱を始める。

『塔ヨξйэ……我、天空のちからを……』

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 再びポットを持って通りかかったウエイトレスにより、昔話は中断する。飲み物が充たされると、ケレンスは続きをせがんだ。

「それでどうなったんだ? 死んだのか?」
「馬鹿ねぇ。死んだら、今の私は何なのよ?」
 あきれて応えたシェリアは、もったいぶってカップにゆっくりと口をつけ、音を立てずにすすった。それから細く長い人差し指としなやかな中指でカップの取っ手をつまむと、丁寧に置いた。
 
 
(五)

「私は呪文を唱えたわ」
 シェリアはゆっくりと薄紫の瞳を閉じ、回想の海に潜った。必死に取り組んだことほど、振り返れば懐かしく思えるものだ。
「うろ覚えの、師匠の言葉を思い出しながらね」
 腰の後ろ側に両手を当て、彼女はしなやかに指を伸ばす。

『おおいなる風を、われは欲す……ヒュ!』

 あざ笑うように背伸びしてはしゃがむことを繰り返す沖つ白波はいったん大人しくなっていたが、十一歳のシェリアは次なる瞬間に飲み込まれてもおかしくない、まさしく風前の灯火だった。
 しかしながら風には二種類がある。炎をかき消す空気の流れと、むしろ火を煽り立てるもの。炎の気性を持つ彼女は、自ら風となって生命の火を燃え上がらせ、窮地を脱すべく画策した。

 魔法を詠唱する場合、本来ならば前方や上方に腕を伸ばす。ところが若き魔術師は、塩水の中に浸けたままの両手を後ろに回し、腰を支えるような形でしっかりと組み合わせたのだった。勇気ある少女が唯一の打開策と信じ、実行に移したのは、これまで一度も成功したことのない、捨て身の〈天空魔術〉だった。

 呪文を唱え終わっても何の反応はなかった。失敗という単語が脳裏をかすめたが、彼女は決して諦めず、水の冷たさに震える指先へ限りなく意識を集中させた。この一時的な〈凪ぎ〉が終われば確実に命運は尽きる。彼女にはそれが分かっていた。

 その日、海が荒れていたこと――ここでは逆に幸いとなる。
(要するに、天空の精霊たちが数多く行き来していた訳よね)

『来た!』
 小さなシェリアは、指先から弱い風が発生して渦巻きを始めたのに気づいた。十歳くらいだと、せいぜい魔法を安全に使用するにはこの程度が限界であるが、彼女は一つ心に決めていた。術者に危険が及ぶため、固く禁じられている使い方であることを承知の上、魔力を一気に解放して自分には制御できないほどの魔源物質を取り込み、敢えて暴走させることを――。

「あんな無謀な使い方は、最初で最後にしたいわねぇ……」
 溜め息混じりに感想を洩らすシェリアに対し、彼女より三つ年上で恋人のルーグが、今までの沈黙を破って思いを伝える。
「無茶して心配をかけるのは、勘弁してもらいたいものだな」
「まあ……なるべくね」
 シェリアは割と素直に従い、ルーグと視線を交錯させる。リンローナはそんな二人をまぶしそうに見つめていたが、ケレンスはタックの方を向いてあからさまに顔をしかめる。タックは何一つ表情を変えず、今まで通りの軽い微笑みを浮かべていた。
 
 
(六)

「それで、結局はどうなったのでしょうか?」
 タイミング良くタックが訊ねると、シェリアは我に返った。
「あ、まだ話してなかったわね」
 語り口はまんざらでもなさそうだったが、飽きっぽい彼女の限界が近づいたのだろうか――やや面倒くさそうになっている。
「じゃあ一気に行くわよ」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 十一歳のシェリアは少しずつ気持ちを楽にしていった。魔法を使う際には極度の集中力が要る。呪文の詠唱により魔源界につながる小さな穴が開くが、それを〈魔源口〉として安定させ、魔源物質を受け取るには術者の緊張維持が必須条件だ。心が不安定になったり、精神力を使い果たしたり、精神力を越える魔法を使おうとすると術者は確実に気絶する。最悪の場合、魔源物質が暴発し、術者を死に至らしめることさえあり得るのだ。
 いくら魔力を持つ者であっても、魔法を使うのに必要な集中の仕方は独特のもので、長い期間に渡る訓練が欠かせない。魔法使いを目指す子供が最初に習い、最も基本となるのが精神修行だ。弱い魔法から順番に試してゆき、何年もかけてようやく中級魔法に必要な精神集中が出来るようになる。魔法は一つの技術だが、それは相当に専門的な技術である。素質を持ち、仮に呪文を知っていても、鍛錬を重ねないと危険極まりない。

 シェリアは当時、まだ魔法を習い立ての身であり、例えば〈天空魔術〉の系列であれば指先から一瞬の風を起こす程度しか正式には伝授されていなかった。標準の天空魔術である〈ヒュ〉の呪文は教科書を先読みしていたことで何とか唱えられたが、起こした風で自分を動かすなど、本来は到底考えられぬ。しかも精神集中の重要さは耳が痛くなるほど聞かされていた。
 だが、その集中を不安定にさせることで魔源物質を多く取り込み、魔法を暴走させるしか窮地を脱出する方法を思いつかなかったわけだ。辛うじて成功した〈ヒュ〉を維持しながら、心を微妙に弛緩させたり極度に緊張したりして魔源口を拡張し、せっかくの〈ヒュ〉が消えないうちにより多くの魔源物質を利用し――しかも波打ち際に戻る前に自分の精神力が尽きてはいけない。

 困難でも、やらねばなるまい。
 シェリアにとっては、まさに生命を賭した賭けだったのだ。

(魔法の状態を感じながら、だんだん心を解放していくのよ)

 後ろ手に組んだ指の先から発するささやかな水流を腰に受け、シェリアはバランスを取るために膝を曲げて、重心をやや後ろにかける。彼女の思惑通り、風は順調に強まって渦は大きくなり、しぶきを上げ始めた。そのままでは前に倒れ、水面に顔をぶつけるため、シェリアはさらに胸をそらして抵抗を試みる。
 魔法は不安定さを増し、身体の周りのあぶくは沸騰するかのように弾けた。雰囲気の高揚と、何かが始まる予兆が充ちる。

 ふと彼女は気づいた。
 謎めいた弱い水流が前方から来ているのだ。

 見渡せば海は何とか落ち着いている。波の仕業ではない。

 その直後、シェリアは理解した。
 風を受けて、彼女自身が動き始めていることを――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「そして私は、海の上を走り始めたってわけね」
 抑揚をつけて堂々と語り、シェリアは前髪を掻き上げた。
 
 
(七)

「そん時、見えたのよね……浜辺への細い細い一本道が」
 遠くを見つめるような眼差しをし、シェリアは落ち着いた口調で呟いた。時間と場所を遙かに越えた想い出の中の一幕である。口調はいつもと変わらぬように聞こえたものの、不思議な余韻が残り――妹のリンローナはその違いを的確に感じていた。
 シェリアは追憶に浸って口をつぐんだ。今まで沈黙していたルーグはこぶしを握りしめ、まざまざと甦る悔しさを受け止める。

「波が高く、私はシェリアのもとに近づくことさえ出来なかった。その場に踏みとどまり、自分の体勢を維持するのがやっとだ。あんなにも自分の無力さをつきつけられたのは初めてだった」
「ルーグはぜんぜん悪くないわよ」
 と強情に言い張るのは、当然ながらシェリアである。リンローナは会話の流れを止めないように気をつけ、ひそやかに語る。
「あたし、あの日は本当に怖かったよ。通りすがりのおじさんとおばさんに、誰か船乗りさんに頼んで船を出してもらえませんかってお願いしたんだけど、お姉ちゃんはずうっと向こうだし、助けに行ったルーグも危なくて……心が張り裂けそうだったよ」

「それで、続きはどーなったんだ?」
 彼らの想い出話にケレンスが水を差す。
「しょうがないわね。もうちょいだから、ちゃんと聞いててよ」
 話が長くなり過ぎ、シェリアは面倒くさそうに言った。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 自らが生み出した水流に乗って身体が動くと、身も凍りつくような寒さが襲いかかってくる。うねり、飛び跳ねる水は巨大な化け物の腕のようだった。手足の感覚はほとんど無くなり、歯はガチガチ鳴ったが、それでも幼いシェリアは驚異的な集中力を維持し続け、次のチャンスが来るまで少しずつ移動し続けた。

 長くは持たなかったろう。しかし奇跡は起きた――彼女が言うところの〈浜辺への細い細い一本道〉が姿を現したのである。波の狭間をゆく海の谷間の直線が、薄紫の瞳にはっきりと映る。

 シェリアは力を抜き、思考を一挙に解放して世界と繋がる。

 直後、猛烈な圧力を背中に感じ、身体が前屈みになった。彼女は苦痛に顔をゆがめつつも、震える歯を食いしばって体重をさらに後ろへかけた――魔法じかけの見えない椅子に背中を預けて。速度が増せば増すほどに両脚は鉛のごとく重かった。彼女はまさに一艘の船となり、また一陣の風となり、海をかき分けてゆく。突然の小さな抵抗にざわめいて揺れる黒い水面を二つに切り裂き、覆い被さろうと企む波を辛うじて避けながら。

 飛び交う水しぶき、汐の香り、塩の味。

 かつて体験したことのない早馬並みのスピードに、シェリアの視界は狭まっていた。それでも何とか正面に焦点を合わせるべく気丈に顎を持ち上げると、上下左右に激しく振れる景色の中央近くに、遠いはずのリンローナの頭の緑が拡大して見える。

 妹の姿を見て、気が緩んだのか。
 暴走した魔法の勢いが強すぎたのか。
 それとも横波や強風にあおられたのだろうか。

 シェリアはほんの刹那、ぐらついてバランスを崩した。
 しかし、こういう修羅場では一つの失敗が生死を分ける。
 体勢を懸命に修正しようと身体を仰け反らせるものの、常に風の圧力を受けているため上手くはいかない。腰の後ろで固く組み合わせていた両手を微妙に持ち上げた、その時であった。

 身体がわずかに前のめりになる。
 それは復旧が困難な臨界点を少しだけ越えていた。
 あとは崩壊の道を突き進むだけである。

 圧倒的な海と猛烈な風とに挟まれ、シェリアの視界の下の方から目に見える世界の全てに海の容積が溢れていった。一瞬一瞬が驚くほどゆっくり流れていったが、実際には悲鳴をあげる暇さえもないのだった。水闇は彼女を誘い、確実に迫り来る。

 絶望的な反抗も顔を打つ水圧でついえた。彼女は反射的にまぶたを下ろしたが、さっきから激しい呼吸を繰り返している口を閉じるのは遅れてしまう。遅れて、自分の身体が水の表側に衝突した音が現実離れした幻のように響いたのだった――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

何も見えない。
何も聞こえない。

息もできない。
触れるものとて存在しない。

それでいて全てに触れられている。

ただ氷のような冷たさに包まれている。

口の中には塩の味がし、喉が疼いている。


意識を失いかけたシェリアは、何かを聞いた。
――ような、気がした――

耳は詰まっていて、くぐもった泡の音がする。

(そうだ、音がする……)

それが何だったのかは、今でも分からない。

自分自身の魂の鼓動なのか。
それとも、海の鼓動なのか。

息はできない。

(だけど、音が聞こえる)

急に元気が出てきて、生命の執念が再び燃焼する。

(お願い。もし残ってたら、働いて!)

そして再び両手を後ろで組み合わせ。
海のまっただ中で、彼女は天空魔法へ集中し始めた。

(私を波の上の世界までつれてって。私の風よ!)

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

彼女は瞳を開けた。

何も見えない。

――。

何も見えない?

――。

(見える)

ある方向が全体的にぼんやりと明るい。

水の中で、魚のように自由には動けないけれど。
シェリアは魔法の風で、海を飛ぶことができる。

海を見通す魚の目は持たないけれど、光なら分かる。

(あっちよ!)

強烈な意志の炎が、彼女を水中の泡の如く上昇させる。

ゆらめいている光の層がしだいに近づいてゆき――。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「はっ!」

 シェリアは水面上に顔を出すと、喜ぶ余裕も全くないまま、身体の重さがなくなる浮遊感にとらわれた。海からの脱出の続きのように上へ羽ばたく。身体の方は頭よりも正直だ。苦しかったぶん大きく激しく肩を上下させて貪るように風を吸い込み、逆に古くなった肺の空気を吐き出す。紫色の前髪は濡れそぼって額に張りつき、薄紅に染まる頬には幾筋もの塩水の河が走る。

 勇気を出して下を向くと、足は水から離れている。
 彼女は海を飛び、僅かながら空を飛んだのだ。

「お……ゃーん」

 はっきりと自分に向けられて投げられた誰かの声に導かれて正面を向けば、かなり近づいた砂浜と、そして小さな妹が必死に手を振る姿が見える。それがぐんぐんと近づいてくるのだ。

(私の魔力、あとちょっと頑張って……)

 シェリアは念じた。さすがに身体と意志の疲労感が現れ、肩や首、背中や腰や足の小指まで重力がゆっくりと戻って来る。
 底なしの威力を誇っていたシェリアの風魔法も、いよいよ限界に達しようとしていた。速度が落ちて彼女の身体を支えきれなくなり、踵(かかと)が着水する。素足の裏を海の舌が舐めるように、くすぐるように触れ合って、左右に飛沫の橋を架け続ける。

「お姉ちゃーん!」

 今にも消えようとするシェリアの精神をギリギリの所で支えていたのは、高まってゆくリンローナの叫び声だった。しだいに周りの風景が薄暗くなり、世界が離れてゆくのだろうかと朧気に感じつつ、シェリアは歩くほどの速さで水面を滑っていった。

(もう少し)

 妹の姿はもうはっきりと見えるが、目はかすれてくる。

(あと、ちょっと……)

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 シェリアがくずおれたのは波打ち際であった。
 立っていることも出来ず、身体はあっけなく傾き、昏倒する。
 魔法の風の最後の余波を受け、頬は砂浜をなぞった。

 そして、止まった。

 足先を洗う波が洗う、夢なのか現なのか分からぬ感覚。
 心の花園には早くも深い安らぎが直観的に溢れ出す。
 彼女の全面的な勝利で、戦いの幕は下ろされたのだ。

「お姉ちゃん、シェリアお姉ちゃん、しっかりして! 誰かぁ!」

 駆け寄るリンローナの声を聞き、シェリアは今度こそ本格的に失われてゆく混濁した意識の奥底で何度も繰り返していた。

〈助かった、助かった、これで、助かった……んだ……〉
 
 
(八)

「……っていうわけ」
 一番に盛り上がる部分を語り終えると、シェリアは急激に興味を失くしたようだった。けだるさが畳みかけるように襲ってきたのか、顔にも言葉にも明らかに覇気が無くなり、どこで打ち切ろうかと苛々し始めているように見えた。さっきからしきりに髪の毛をいじっており――それが彼女の心理を露骨に顕している。
 最初は邪魔ばかりしていたケレンスも、いつの間にか女魔術師の昔話に引き込まれてしまったようで、文句はなりを潜め、ただカフェの天井を走る不可思議な横長の木目模様を呆然と眺め、余韻に浸っていた。その日、その場所に立ち会ったリンローナやルーグの様子は言わずもがな、二人は深い追憶に浸っている。タックだけがいつものように冷静で、テーブルの下へ両手を伸ばし、近づく勘定のため財布の中身をちらりと確かめた。

 すでに宵の口を迎え、若い恋人たちや家族連れ、仕事を終えて集まってきた商人、友人同士、髭を伸ばして芸術家然と構えた男や、近所の老人――ありとあらゆるメラロール市の人々が集まってくる。窓が大きく、しゃれてはいるが少し重い喫茶店のドアを彼らが押すたび高らかに鈴が鳴り、ウエイトレスの歓迎の声が発せられる。客は熱いお茶を飲んで冷えた身体を温め、あるいは旧交を温め、会話を通して心を温め合い、見つめ合う。

 店の給仕はシェリアたちのテーブルの横を素通りしてゆく。五人がそれぞれの思いの中で沈黙を重ねれば、洗い場の水音が妙に耳につく。井戸から汲み出すか、ラーヌ河の支流を利用しているのだろう。文化都市メラロールは水の豊かな街である。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 ツ、ク、ツ、ク、ツッ。
 良く手入れされた人差し指と中指の爪で椅子の肘掛けをリズミカルに五回打ち、シェリアは鋭利な口調で宴の幕を下ろす。
「はい、おしまい!」
 そのまま立ち上がると、冷めたティーカップを持ち上げて薄紅色の艶のある唇を近づけ、僅かな残りを一息に飲み干した。
「もう夕飯の時間でしょ?」
 シェリアがそそくさとコートを羽織り出すに至り、ルーグもケレンスもリンローナもようやく我に返って動き始めた。余情は夜の空気に少しずつ溶けるように消え失せ、現実に引き戻される。
「あ、僕、会計をしてきますから先に出ていて下さい」
 素早く準備を済ませたタックが伝票を持って歩き始めると、数人の給仕があちらこちらから唱和した。客の回転率を上げたい時間とはいえ、出来る限りの真心を込め、彼女らは礼を言う。
「どうもありがとうございましたッ!」
「またのお越しをお待ちしております!」

 それらの挨拶や、客のおしゃべり等、雑多な言葉の混沌地帯を整然と斜めに切り裂き、女性にしてはやや背の高いシェリアは颯爽と店を後にする。ケレンスとリンローナが続き、ルーグはリーダーらしく忘れ物がないか辺りを見回してから出発した。
 
 
(九)

 タックを待つ間、四人はカフェの入口の横で何となく小さな円を作ったが、シェリアだけはあからさまにそっぽを向いている。
 彼らは皆、手持ちぶさたな様子で待っていた。空気は凍てつくように冷たく、鼻から洩れ出す吐息は白い。夜空の星は藍色に深まる西の空にその数を増やしつつあった。ガラスの箱に入れられた魔法のランプが通りのあちこちに灯り、月光の原液を吸わせた芯が柔らかな黄色の輝きを周辺に投げかけている。
 緩い曲線を描くレンガの路沿いに整然と並んでいる料理店からは肉や魚を焼く匂いが流れ、食欲を大いにそそる。三階建てで統一された住居の煙突からは暖かな煙が立ち上っていた。

「ひゃっ」
 きつく腕組みして華奢な肩を精一杯に怒らせていたリンローナは、身を切るような北国の夜風の冷たさに耐えられず、手袋をしたまま毛皮のコートの前ボタンを上から順番に閉じてゆく。
「冷えるな」
 長い防寒具の裾がはためいたルーグは、ややうつむき加減で低く呟いた。特定の誰に語りかけるわけでもなく、自らの発言を噛みしめるように。残響は彼の内面の深淵へと堆積してゆく。
「ああ……」

 ケレンスが短く応える間もなく、後ろのドアが開いてタックがそそくさと現れた。タックはルーグを促し、先頭に立って歩き出す。年少のリンローナを中央に挟んで、シェリアとケレンスが続く。
 最後尾の二人は普段から馬が合わぬことが多いが、昔話の副作用だろうか――特につつき合うこともなく、それぞれの物思いにふけっていた。タックとルーグが魚系の定食屋を指さすと、リンローナはうなずき、後ろの二人は視線だけで賛意を示す。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 店の長椅子に腰を下ろして給仕に最初の注文を伝えると、シェリアは落ち着いたのか、本来の活気とわがままさを少し取り戻した。わざとらしく咳き込んでから、会計係に強く要望する。
「夕食はおごってよね。さっき喋りすぎて喉が渇いたわ」
「お茶の一杯くらいなら、おまけしますよ」
 ダメで元々のつもりだったのにも関わらず、前向きなタックの回答に対し、シェリアはすかさず意外そうに聞き返したが、
「え、ほんとに?」
 ここはチャンスとばかり念を押し、既成事実化しようとする。
「男に二言はないわね? タック」

「せっかくのお話の、ささやかなお礼にいかがでしょう?」
 タックが見回し、提案を持ちかけたのは他の三人である。パーティー全体の会計係である以上、タックの独断で共同資金を使うわけにはいかぬ。彼は最初にリンローナの方を見下ろす。
「あたしは賛成だよっ」
「金銭の管理はタックに任せてある」
 ルーグが婉曲に承認すると、ケレンスも面倒くさそうに言う。
「たまにはいいんじゃねーの」
「ふーん。ま、いいわ」
 自分の話が思っていた以上に大きな影響を与えたと改めて知ったシェリアは、滅多に味わうことのない半透明の感慨と、一握りの恥ずかしさ、妙に冷めた気持ちとの狭間で揺れ動いた。
「じゃ、出来るだけ高いお茶の方が得よね……」
 そう言ってメニューを取ると、小さな笑いが起きた。タックはほくそ笑み、リンローナは口元を押さえて清楚に微笑む。ケレンスは飲みかけの水を吐き出しそうになり、ルーグは頬を緩める。
「な、何よ」
 姉が珍しく狼狽した後、代表して説明するのは妹である。
「だって、すっごくお姉ちゃんらしかったから!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 リンローナは先ほどの昔話を再び持ち出し、嬉しそうに――だが必要以上に興奮することなく、節度を守って穏やかに語る。
「あの時は本当に怖かったけど……風に乗ったお姉ちゃん、空を泳いで海を飛んでるように見えたよ。鳥さんみたいだけど鳥さんじゃないし、お魚さんみたいだけどお魚さんじゃないし……」
「私は私に決まってるじゃないの」
 比喩を真に受けてむくれるシェリアにケレンスがまたもや吹き出すと、その張本人から睨まれてしまう。彼は肩をすくめた。

「そんなに面白い話かしらね、これ」
 あきれたように呟いた彼女に、間髪入れずタックが訊ねる。
「それからは、そんな無謀な魔法は使っていないんですか?」

 するとシェリアは口をとがらせ、大げさに右手を振った。
「そんなにやっちゃあ、体が持たないわよ!」
「とか言って、色々やらかしてそうだけどなぁ。姉御は」
 ケレンスがぽつりと口を挟む。シェリアは身を起こして抗議しかけたものの――楽しい作戦を思いついたのか、急に小悪魔的な笑みを浮かべ、すらりと長い指先を剣術士の方に向けた。
「そうだ、ケレンスに体験させてあげるわ。私の暴走魔法を!」
「ま、まぁ、待て、待てよ。早まるな、な」
 何かを防ぐような形で滑稽に両腕を伸ばし、慌てて相手をなだめすかすケレンスは、その実、情けなくも完全に腰が引けていた。巧みに剣を操る接近戦には長けていても、心理戦や魔法絡み――さらには、案外と女性に弱いケレンス少年であった。
 当然ながら、シェリアは彼を一刀両断に笑い飛ばす。
「冗談よ。冗談に決まってるでしょ!」

「お待たせしました」
 そこへちょうど良い具合に給仕がやって来た。大皿には新鮮な緑の野菜の葉が広げられ、その上では未だに煙を発し続けている火を通したばかりの海の魚が、一口サイズの細かい破片に分かれて並んでいる。香ばしさが空腹の胃を刺激する。
「メシだぜ」
 ケレンスは不満そうにゆがめた顔をぱっと輝かせ、じゅるっと唾を飲み込み、小皿を持ち上げてフォークの柄を握りしめた。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 メラロール市の夜の帳は、まだ下りたばかりだ。
 これが冒険者たちの、とある冬の休日の出来事である。

(了)



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