春待つ日々 〜
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秋月 涼 |
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(一)
陽の光はあまたの金剛石となって、どんな立派な王の謁見の間よりもまばゆく光り、照葉樹の枝と枝と間に散らばっている。 「よいしょ……と」 丸みを帯びた土の階段は続き、勾配はにわかにきつくなる。彼女は立ち止まって、左手を膝につき、右手で額の汗をぬぐった。息は弾み、緑がかった銀の前髪は額に張り付いている。 服装は十六歳らしく清楚な、襟元や袖の先にレースの模様が入り、縦に半透明の小さなボタンが五つ並んだ白い長袖ブラウスを着ている。山道を歩くため、お気に入りのスカートは諦めて茶色い長ズボンを履き、腰周りと足首をベルトで締めている。その内側の腿のあたりを汗のしずくが流れ落ちるのが分かった。 冬とはいえ、もともと温暖な南国であるが、今日は特に新しい季節の訪れを予感させる。気温だけではない――それぞれに高さや歌い方の違う小鳥たちの〈さえずり合唱曲〉や、草の葉に置かれた朝露の最後のきらめき、風に舞う花びらのような黄色の蝶、風の温もり、幼虫、つぼみ――その全てが、季節を教える羅針盤の針として、次に進むべき一点を指し示している。 「サンゴーン、大丈夫? ちょっと休む?」 後ろから聞こえた別の少女の声は、まるで平然としていて少しも疲れた様子はない。他方、サンゴーンは振り向いて、謝る。その顔はすまなそうにうつむき、自分を責めているようだった。 「レフキル……いつも、ごめんなさいですの」 (何かあったのかな。落ち込んでるみたい) 親友のことなら、すぐに分かる。レフキルはサンゴーンの不安を和らげたいと願いつつ、出来るだけ優しい言い方で応えた。 「いや、別に謝ることはないけど。サンゴーンのペースで構わないよ。あたしだって、こういう坂道は、ゆっくり行くのがいいし」 レフキルは妖精族の血を引いているために耳が長く、サンゴーンよりも微妙に銀の濃い銀の髪を持つ。瞳の色はもっと明らかな差があり、サンゴーンは海を思わせる深い青だが、レフキルは新緑の碧だった。背丈はレフキルの方が少しだけ低い。 今日のレフキルは、赤や白や焦げ茶色の複雑な刺繍を織り込んだ民族衣装風の半袖シャツを着て、黒い半ズボンを履いていた。軽い山登りにしては、ずいぶんとシックな服装である。 そして最も特徴的なのは、レフキルの華奢な左手に、二十輪ほど寄せ集めて紙で包んだ純白の花束が握られていたことだ。一つ一つの花はひ弱で小さいが、それでも精一杯健気に咲いた花からは、かすかな夜の匂い――月の香りが漂っていた。 といっても、現在は陽の昇りつつある午前中である。 「もうすぐですの。頑張りますわ」 しばらく息を整えたサンゴーンは、そう言うと再び歩き始めた。レフキルは一瞬だけ心配そうに顔を曇らせたが、すぐに毅然とした表情を取り戻した。そして前を行く親友のペースを乱さないように気を遣いながら、長い曲がりくねった階段を登ってゆく。 (二)
土を塗り固めて作り、人の足で削られたと思われる丸みを帯びた階段は、このごろ雨が降っていないので乾燥している。 照葉樹の枝が左右から手をつなぎ、登り坂は光と影とで作ったトンネルのようだったが、傾斜はやがて緩やかになり、階段は尽きて細い森の小道となった。それも長くは続かなかった。 木々が果て、急に視界が開けてきたのだ。遮られていた光が直接的に降りそそぎ、眼がくらんでしまったサンゴーンは額の上に手をかざした。真上から叩きつける夏の厳しい陽射しより、空気や風に溶けて細かく散らばる冬の方がまぶしいものだ。 そこは山の頂を中心とした、ちょっとした広場であった。遙か下には神殿の尖塔、小さな港――故郷のイラッサ町を見渡せる。西には大都市ミザリアの王宮や市街地を、東には弧状列島、南東にはルン島とメフマ島などを一望することが出来た。 どこまでも続く紺碧の海と、雲の浮かぶ蒼天は泣きたくなるほど澄みきっている。それは世界のどこへも繋がっている扉だ。この地上界だけでなく、死んだ者が召される天上界までも――。 「ここだね」 レフキルの左腕に抱かれた白い花びらが風にそよぐ。 そして二人がたどり着いたささやかな広場には――。 黒や灰色の、大きさや色はまちまちの石が並んでいた。 (三)
雨に打たれ、風に食べられ、長い時の流れを経て角の削られた石は上半分を覗かせ、下半分は土に埋まり――高き天上界と深き冥界と、この地上界とを繋ぐ抜け道のように立っている。 その中にひときわ目立つ真新しい石がある。サンゴーンとレフキルは急に話をやめて黙り込み、厳粛の意識を顕わにした表情でそっと石に近づいた。森の小径では木々に阻まれていた強い海風を直接に受け、サンゴーンの銀の前髪は乱される。 レフキルはしゃがんで、身の丈も横幅も彼女の膝くらいしかない棒状の黒い石の前にひざまづき、対照的な色の白い花束を手向ける。草の上に横たえられた花の亡骸は二度と咲かぬ。 それは墓石だった。 この国の古くからの伝統を引き継ぐ棒状の形状に合わせ、右に九十度倒した字で、縦方向に名前と享年が刻まれている。 サンローン・グラニア(享年七十八歳)ここに眠る 両親が謎の失踪を遂げたため、祖母のサンローンは実質的にサンゴーンの唯一の肉親であった。サンゴーンの最も大切な人であったのは言うまでもないが、妖精と人間の血を受け継ぐリィメル族のレフキルにとっても生涯の恩人と呼べる人物だ。 サンローンは世界的に重要な草木の神者を務め、さらにイラッサ町の町長として善政を敷き、町民からの信頼は絶大だった。特にリィメル族――人間からも妖精からも中途半端な存在とみなされていた――の偏見を失くす運動は大成功を収め、レフキルが生まれる頃には居心地の良い国になっていたのである。 功績に比するならば、この墓石はあまりにも小さく質素だが、それは彼女自身が生前に遺言したことだった。場所も本人の希望通り、海と町と、広い世界が見渡せる山の上が選ばれた。 レフキルは膝をつき、サンゴーンは立ちつくしたまま――瞳を閉じて想い出に沈み込む。二人は同じ風の音を聴いていた。 (四)
ゆっくりと目を見開き、唇を上下に動かせば、かすかに汐の香りを含む冬の風に喉が乾いてゆくのを感じる。何か言いかけてやめたサンゴーンはほっそりとした指先を組み、空を仰いだ。 いつの間にかレフキルも祈りを終え、ひそかに同年齢の親友の様子に注意を払っていたが、無用な言葉や先走った行動で相手の邪魔をすることは決してしない。向こうが始めなければ三日でも四日でも待つ――というくらい、どっしり構えている。 サンゴーンは天空から大地に大きく視線を落として、その合間にレフキルをちらりと見た。銀色の前髪がさらりとこぼれる。 やがて若き草木の神者は覚悟を決めたのか、再び口に力を込めてゆく。それは大変に勇気のいることだった――こんなことを言って、レフキルは心配しないだろうか。むしろ私のことを嫌いになるのではないか。面倒くさいと思われてしまうのではないか――ありとあらゆる悲観的な憶測が、彼女の頭をめぐる。 それでも結局は、いつも真剣に、真摯に、真面目に対応してくれたレフキルへの信頼が打ち克つのだ。サンローンが亡くなってからというもの、包み隠さず本心を打ち明けられるのはレフキルだけだったし、レフキルの方もそのことを良く理解していた。 親元を離れた木の葉が土に頬を寄せる瞬間の音に似て、透き通り、儚く消えてしまう囁き声でサンゴーンは口火を切った。 「町長としての自覚が欠けていますって」 「……誰?」 レフキルは気持ちを抑えて怒るような、それでいて優しく微笑みかけるような、相反する要素を持つ奇妙な声色で訊ねた。 「サンゴーンのことですの」 「うん。それをサンゴーンに言ったのは、誰? ってこと」 普段は穏やかな性格のサンゴーンだが、まれに、ひどく落ち込んでしまう日があった。出来るだけ相手を傷つけないように言葉を厳選し、口調を和らげて、レフキルは問いを投げかけた。 ふいに強い風が木々の間を通りかかった。ナイフを彷彿とさせる甲高くて鋭い音が鳴り響き、二人の会話を途切れさせる。 「この前のお話し合いで……」 サンゴーンは語尾を濁したが、頭をもたげた時の表情はさっきよりも格段に明るく見えた。辺りに留まっている想いのかけらが数珠繋ぎとなって、繰り返し繰り返し心の毒を引き出させる。 「どうしたらいいか、わかりませんの。町のお役には立ちたいですの、でも私に町長さんは重荷ですわ。実質的には摂政の方に全部任せていますけれど、私は何もせず町のお金で暮らしていますの。いつまでもこのままじゃダメですの……でもサンゴーンには一体、何ができますの? 何も思い浮かびませんわ」 そして沈黙。サンゴーンは重く口を閉ざしてしまった。 墓に手向けた白い花はかすかに揺れている。 自分を責める彼女の悲痛な言葉の数々が木々の根に吸収されるまで充分に待ってから、レフキルは軽く溜め息をついた。 「そう……話し合いで」 (五)
レフキルは『気にすることないよ』と相手を安心させるように言いかけたが、結局やめてしまった。気にしているからこそ、サンゴーンは内情を吐露したのだ。前提を覆すのは無益である。 「そう……」 何と言ったら、相手を傷つけずに済むだろう。レフキルは知恵を絞るが、どうしても気の利いた台詞が思い浮かばなかった。 彼女は苦し紛れに、こう言った。 「いいじゃん! いいよ」 「?」 サンゴーンは、さも不思議そうに首をかしげる。話としては幾分ややこしくなったが、雰囲気が和らいだのは確かであった。 「何がいいんですの? 分かりませんわ」 当然ながらサンゴーンは親友に訊ねた。レフキルは頭の中を整理しようとしたが、ふいに考えが明白になり、繰り返し語る。 「そのままでいいんだよ。無理する必要はないってこと!」 非常に素晴らしい考えではないか、と思ったレフキルだったが、サンゴーンの表情は妙に沈んでいた。相手は訥々と呟く。 「でも、わたし、いつまでもおばあ様を卒業できませんの……」 サンゴーンの言葉は鋭い針となってレフキルの心に突き刺さる。せっかく良案だと思ったのに、瞬時に間に色褪せてしまう。 それでも必死に想いの数々を整え直し、レフキルは語った。 「卒業って何? サンゴーンはサンゴーンなんだからさぁ、お婆さんと全く同じことをやる必要はないと思うよ。きっと……ね」 「でも、いつもおばあ様と比べられますの」 サンゴーンは諦め顔で本音を吐き出し、黙り込んでしまう。 草木の神者の前任は実の祖母だっただけに、サンゴーンへの民衆の期待は大きかった。それを見事に裏切ってしまったぶん、彼らの失望は大きく、サンゴーンへの風当たりも強かった。前任者が偉人だっただけに不運な成り行きとも言えるだろう。 しかしレフキルは考えた――あのお婆さんが、血筋にこだわってサンゴーンを指名することは無いだろうと。それはひとえに〈サンゴーンという人物こそが次の神者にふさわしい〉と考えたからだろう。そもそも個の利益を重んじる人ではなかったのだ。 そうだ、そうに決まってる。 空から伝わってくる老婆サンローンの気持ち――風を受け、レフキルは確信した。すかさず声を弾ませ、親友に問いかける。 「サンゴーンは、イラッサをどんな町にしたい?」 「どんな町?」 サンゴーンの方は目を白黒させ、唐突な質問に戸惑う。 それでも普段から思うところがあったのか、素直に言った。 「うーん……みんな仲が良くて、平和で」 「うん、うん」 レフキルは相手の話を邪魔せず、相づちを打つだけである。一方、サンゴーンは夢を膨らませて、少しずつ明るく応えた。 「花や木や草があって……」 「いいじゃない」 返事をしつつ、心の奥底でレフキルは叫んでいた。 (それって、サンゴーンのお婆さんとすごく似てる考えだよ!) (六)
陽が翳(かげ)り、白妙の砂浜が波に洗われるように整然とした動作と速さで、見渡す限りの色彩がさあっと失われてゆく。 見下ろす海の青も灰色のヴェールを帯びた。緑がかった銀の前髪を海風に煽られ、それを右手で抑えつつレフキルは言う。 「じゃあさ、サンゴーンの出来るところからやってみたら、どうかな? 別に町長とかいう難しい立場じゃなくて、一町民として」 「一町民として……ですの?」 サンゴーンは少し戸惑うように応えた。いつしか町長の仕事を〈自分には到底取り組めない至高のもの〉と考え、気張っていたため、親友レフキルの提案をひどく新鮮に感じたのだった。 その時であった。 薄い雲間から再び空の炎が姿を見せた刹那――。 今日のこれまでで一番強い風が地の底から沸き起こった。 森の木や下草の葉を爽やかな音色の楽器にし、小鳥の進路を狂わせ、水に模様を刻んだ。人には畏怖の念を抱かせる。 サンゴーンはいつもの癖でスカートを抑えようとしたが、今日は茶色のズボンなので問題なかった。レフキルは得意の反射神経で額に手を乗せ、細かに散る砂塵から目を守ろうとした。 突如、その場に居合わせた二人の少女らは目を見張った。 祖母の墓に手向けた白い花束が、まるで何かの意志を受けたかのように〈ふわり〉舞い上がり、宙に浮いて止まったのだ。 レフキルが慌てて腕を差し伸ばしたが、僅かに間に合わず。 二十輪ほどの痩せた花は月の香をふりまきながら、風に後押しされて彼女らを束ねる紙を飛び出し、一人ずつに分かれた。 降り注ぐ太陽の光に、彼女らは誇り高く、しかも素直にまばゆく輝いた。そして一瞬の後、いと麗しき絵画を中空に描いた。 印象的な風景にサンゴーンとレフキルが見とれるのに挨拶をするかのように、南国の雪の花びらは風を受けて高く昇った。 空気の流れが止まり――そのまま彼女らは緩やかに坂道を下り始め、最後にキラリ光ると、崖の向こう側に墜ちていった。 気がつくと何の汚れもない純白の花びらは消え失せ、彼女らの親代わりだった包み紙のみが所在なく微かに動いていた。 「魔法……ですの?」 魅せられて、サンゴーンは無意識のうちに感想を洩らす。 やはり心の高揚を感じながら、レフキルは思わず叫んだ。 「風の魔法だ……いや違う、きっとサンローンお婆さんだよ!」 (七)
友の言葉を半ば呆然と聞いていたサンゴーンは、少しずつ顔を上げていった。冬の空は蒼く澄んで安らかに広がり、呼吸する息に紛れて自分の中に流れ込み、心を清らかにしてくれる。 風吹く丘に立ちつくし、ズボンの膝の辺りがはためくのも髪型が乱れるのも気にせず、南の空の高みに浮かぶ陽の光に目を細める。さっきまで曇っていたサンゴーンの海色の瞳は、しだいに魂を取り戻したかのごとく生気に充ちた光を発し始める。今や畏敬の念に彩られ、その焦点は遙か無限大の遠く――天上世界を指し示していた。なおかつ足元の景色をも忘れていない。 (サンゴーンって……時たま、あたしにも分からなくなるよ) 幼い子供のままなのか、むしろ何もかもを超越しているのか。急に二、三歳、年を取ったように見えた親友の横顔に、レフキルは驚いて目を見張った。彼女の性格を特徴づける〈危うさを秘めた優しさ〉は緑色の霧となって湧き出し、前面に顕れつつある本来の芯の強い部分をつつみ込むように円く取り囲んでいる。 「サンローン……おばあ様?」 空の遠くに向けて、草木の神者がかすれた声で呟くや否や。 当のサンゴーンは銀の髪を抑え、レフキルは無理矢理に右足を伸ばして花束を持ってきた紙を踏みしめ、すでに飛んでしまった白い花の二の舞を避けるため、抑えつけねばならなかった。 確かにそれは風の返答であり、風を含んでいる〈もっと大きなもの〉の返事であったことを、二人は鋭い直感で知っていた。 風がやんでゆくと、斜めになった草は気丈に立ち上がる。 「見ていてくれたんですの?」 そう言ったサンゴーンは、頬を緩め、すぐに首を振る。 「おばあ様は、どこにでも、いらっしゃるんですわ」 「うん。きっと、きっと……そうだよ!」 相手の思いをしっかり受け止めるため黙りがちだったレフキルは、にわかに沸き起こる感激に任せ、泣き笑いの顔で友に歩み寄る。サンゴーンは微笑みを浮かべ、細い手を差し伸べた。 やがて二人の少女たちは右手を重ね、人差し指、中指、薬指、小指、最後に親指を曲げて、互いの存在と体温を感じた。 地に根付き、光を浴び、風を受け、水を飲み、熱を得て。 草木はそれらの真ん中で、大きく育つ。 固く、そして難しく結び合わさった紐の片隅が、一箇所だけ解(ほど)けたような気持ちを、サンゴーンは感じていた。悩みは消えたわけではないし、まだまだ絡まっているけれど、物事は思うほど難しくないのかも知れない。思うほど簡単でないのも事実だけれど、頼れるレフキルもいれば、亡くなった祖母のサンローンも必ず見守っていてくれる――いつでも、どんな場所でも。 「だって、」 「おばあ様は、」 「草木の神者だったんだから!」 握手したまま向かい合い、弾む声で言葉を合わせ。 それから彼女たちは、ひとしきり朗らかに笑った。 祖母の墓に礼をして、二人は下り坂を軽やかに歩き始める。 鳥は啼き、虫は地を這い、樹は緑を誇り、花は鮮やかだ。 豊かな土の上を、風は舞い、唄って、森は生命を育む。 空も海も果てしなく、暖かい陽の光は二人を照らしていた。 次の季節は、背伸びすれば届く所にまで近づいている。 あとは自分の気持ち次第――サンゴーンは思うのだった。 | ||
(了) | ||
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