ちょっとした俺の自慢話を
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秋月 涼 |
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(一)
朝の空気は清々しいものの、さすがは南国で陽射しはやや強く、青空を流れる雲の色まで明るいようだ。海鳥の啼き声が遠く響いており、ここが小さな島国であることを思い出させる。 俺は馬の手綱を握りしめたまま、通行手形を確認しに行った衛兵が戻ってくるのを待っていた。それとは別に二人の衛兵が俺の馬車の荷物を一通り改め、禁止されている武器や麻薬、魔法の書物、隠れ兵がいないかを点検する。若いのと中年くらいのとの組み合わせの男たちは何か楽しげに雑談しながら、それでも専門家らしく手際よく調べ終えると、並んで敬礼をした。 「ありがとうございました。問題ありません。しばらくお待ちを」 「そりゃどうも」 薄茶色の気に入りのつば有り帽子を取って、俺は素っ気なく応じた。その実、伯爵様にでもなったような気分で、誇りさえ感じていた。故郷のモニモニ町を離れ、初めて他国の役人との交渉に臨むわけだから多少の緊張感もあったが、しょせんは俺の得意な商談だ。成功させる自信は大いにあったし、事実こうして首尾良く運んだ――けどな、今回俺が話をしたいのはそんな件じゃなく、もっと別の種類の自慢話だ。まあ黙って聞いとけ。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 さっきの二人の衛兵は次の馬車の検問に向かった。彼らは最低限の威厳を維持していたが、どうしても退屈そうに見えた。 頑丈な石の城壁は高くそびえ、重要地点には見張り塔が厳粛に立ちはだかる。幾つもの建物――おそらく貴族の別邸やら会議場やら調理場やら――と、芝生や花園や池の中庭、廻る回廊の最奥に、白い石で造られた開放的な建築様式で有名なミザリア国の王宮があるのだろう。たぶん広間ではカルム王が朝の謁見の真っ最中だが、ここから窺い知ることは出来ない。 その一方で、俺の目の前の狭い通用門は開け放たれ、許可を受けた荷馬車が次々と行き交っている。動きやすそうだが身を守るには少々心許ない革の鎧に身を固めた十人ほどの衛兵たちは、それぞれに大剣や槍を所持しているものの、警戒感はさして強くない。まさに長きに渡って平和を謳歌するミザリア国らしい風物詩と言い切っても構わないだろう。もちろん夜になれば門は固く閉じられるし、見張り塔が異常を察知して鐘を鳴らしても同様、王宮防衛の拠点を担うが、今はその時ではない。 俺の前の大型馬車が空堀に架かる狭い橋を巧みに進んでいった。いよいよ俺の番だ。気分を落ち着かせ、堂々と構える。 「南ルデリア共和国のイグル殿、行ってよろしい」 書類をきちんと書いておき、もちろん正式の通行手形を用意してあったため、審査は実に簡単だった。倉庫地区のみ立ち入ることの出来る通行証を受け取り、上着のポケットにしまう。役人との商談は倉庫地区にある部屋と聞いているので問題ない。 「ご苦労さん」 馭者の席から礼を言い、俺は荷馬車を走らせるのだった。 (二)
堀を渡り終えると、馬が走り易いように粒の細かい灰色と黒の砂を撒いた道が僅かな登り勾配で続いていた。幅はかなり広く、前後合わせて十頭ほどの大型貨物馬車でも道から外れずに進めるし、中型車同士なら止まらずに行き違えるだろう。 俺のは一頭立ての小型車だから〈運転が楽〉などという段階を通り越し――いかにもちっぽけで、雰囲気負けしてしまう。 「いかんいかん、これが向こうの作戦なんだ……」 別に俺のために作られたわけじゃないが、これからの交渉に臨むにあたって、ありったけの自信を取り戻そうと努力した。 通用門だから正門に比べれば見劣りするのだろうが、それでも王家にはふさわしい程度の丸い庭園が広がり、道はその淵に沿うようにして緩やかに曲がっている。馬は特に問題なく走っているので、鞭打つ必要もなく、俺はしばし景色に没頭する。 中庭には春の花が見事に咲き誇り、むせるような匂いの一端が漂ってくる。赤、黄色、紫、白――南国の花はどれも華麗で、元気な感じだ。モニモニ町からはミザリア海峡だけを隔てた反対なのに、亜熱帯と分類されるこの国の植生はだいぶ違う。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 おそらく貴族の別邸だろう、どっしり構える角張った建物の二階同士をつなぐ石橋の下をくぐると、水車や川を配した次の小さな庭の奥に赤レンガで作られた倉庫群が延々と立ち並んでいるのが見えてきた。花園の間に広がる草の原っぱの緑はいよいよ新鮮で、照葉樹や椰子の木が大いに枝を伸ばしている。 「ほっ!」 その時、突然の出来事だった。 青い何かが目の前に現れ――俺は慌てて手綱を引いた。 「おっとっと」 俺は前のめりになるが、馬は何とか歩みを休める。 危うく人身事故を起こすところだった。相手は青に輝く服を身にまとい、俺の馬車の目の前を駆け足で通り過ぎようとする。 肩幅はしっかりしているが、後ろ姿は華奢で、どうやら女性らしい。俺は不満に思いつつも最低限の節度を死守し、言った。 「ちょっと、君。危ないじゃないか!」 「何よ、うるさいわね!」 その女性は振り向き、威圧するかのように大声で怒鳴った。 きつい言葉と、彼女の外見の落差に、俺はいささか拍子抜けしてしまう――相手が十五歳くらいの少女だったからだ。顔かたちは悪くないが、視線は厳しい鋭さに充ちている。俺は情けなくも彼女の視線に射られ、身体がすくんでしまったのだった。 (三)
そう。彼女の雰囲気を最も特徴づけるのは〈鋭い視線〉だ。 確かにただ者でない厳しさがあるし、世間を斜に構えているようだ。が、血も涙もない冷酷者とは明らかに一線を画している。 何と言ったら適切なのだろうか? 思春期に特有の、自分の中に潜む限りなき情熱を制御できず、そのことに苛立って全ての押しつけに反抗してみたり、世界と比べて自分の存在のあまりの小ささに悩んだりする――。 良く良く見れば、そういう純朴な〈背伸びしたい気持ち〉が潜んでいる。俺はとっさに直感した。あの子は世間一般に言う〈良い子〉じゃないが、根っからの悪党でもない。厳しい視線は本来のものではなく、敢えて強情さを演出しているんじゃないか、と。 俺も商人の端くれ、これでも人を見る目はあるつもりだ――仕入れや納品で最も重要なのは信頼に足る取引相手だからな。 彼女はその場で駆け足足踏みを続けながら、顔をしかめる。 「何よ? あたし急いでんの!」 少女とは思えないドスの効いた声だ。じろじろと見つめていたせいだろうか、彼女は上目遣いに睨んだ。もしかしたら見た目よりも年齢は高くて、王宮を警備する女性兵なのかも知れない。それにしてはだいぶ横柄な態度なのが妙に引っかかる。 「こ、こりゃ失礼……」 迫力負けし、とりあえず謝っておく。それでも何となく立ち去りがたく留まっていると、彼女の方も俺の方を見つめて、喋り足りなさそうに口を尖らせている。もちろん手と足を動かしながら。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 彼女は長い金の髪を、運動の邪魔にならないように頭の上でお団子状に二つに丸めて、それぞれを白い羽毛つきのピンで留めていた。馬上からではあるが、かなり高価そうな品に見える。さすがは王宮を警備する国家公務員、高給取りなのだろうな。 服装は、肌にピッタリと密着した黒い長袖と長ズボンの上に、青い繻子で作られた半袖の武術着を羽織っている。上下が繋がっている武術着は腰の辺りまで長い切り込みが走り、濃い赤紫で縁取りされている。細いけれども筋肉質の両脚はしなやかに長く伸び、ズボンを履いているとはいえ男なら惹きつけられずにいられないだろう。その武術着の腰の辺りを白い帯でキュッと締め、紫のスカーフを肩の周りに巻き――結構オシャレだ。 両手には黒い指出しグローブをはめている。靴はブーツと言っても過言ではない代物で、蹴られると痛そうだ。足首と膝の半分あたりまでサポートしている、ごっつい茶色の革靴である。 王宮警備の女性兵だけあって全般的に筋肉質なのだろうが、武術着や、その他もろもろの服装のお陰で巧みに隠されている。武術にはメロウ島を中心とする北方系、ミザリアを中心とする南方系があるが、彼女の場合は当然ながら南方系だろう。 背丈は、普通の若い女性くらいだ。脚がすらりと伸びているし、体中から威圧感を発しているので背が高く思われがちだが、十代後半の女性としてはほとんど平均に近い身長だろう。正確な年齢が分からないので何とも言えない面はあるがな。 昔、近くに住んでいたラサラさんちの二人娘――あの背の高いお姉さんと、おちびさんの妹を足して二で割ったくらいじゃないかな。痩せていても痩せすぎではなく、筋肉質でも太ってはいない。ずんぐりでもヒョロヒョロでもなく、良い意味でがっしりしている。女性だけでなく、男性を含めても理想の体型だろう。 (四)
「ほォら、あいつらに追いつかれたじゃないのよ!」 しばらく考え込んでいると、女性兵は両手を左右の腰に当てて胸を張り、少しうつむいて上目遣いに俺を睨み、口をとがらせて顔をしかめた。ところがさっきからの不満そうな態度とは裏腹に足踏みをやめて立ち止まっており、わざとらしく伸びをする。 「んーんっと」 この子、話し足りないのだろうか――俺は考えた。 「あいつらって? あの兵士かい?」 ここは敢えて下手に出る。花園に沿って続く砂を敷き詰めた馬車道に沿って、二、三人の若い兵がフラフラしながら息せき切らして一目散に駆けつけてくる。俺はそいつらを指さした。 「ふぁーあ。いつもあたしが勝ってばかりで、つまんないわ」 武術着の上からでも分かるほど少女らしからぬ発達を遂げた肩の筋肉を持つ彼女は、うなずく代わりに深い溜め息をつく。 ミザリアの女性は穏やかで気だてがいいと聞いていたが、とんだ誤解もあったものだ。こんな勝ち気な女の子がいるとは。 けだるく温い春の風が通り過ぎ、花の香を運んでくる。 黄金のような輝きを秘める彼女の前髪は午前の陽を浴びて光り、額には汗をかいている。それを黒いグローブで拭う時、彼女は一瞬だけ笑顔になった。天真爛漫そうな、素直で可愛らしい本来の顔だ。あまりの違いに、俺は図らずもはっと息を飲む。 随分と威張っているくせに、妙に人懐っこい部分も持ち合わせており、何故か立ち去り難くなる。暴走と内省、力と気高さ――さまざまな二面性を持ち、良くも悪くも印象に残る人物である。 それから間もなく、兜は被らずとも重そうな鉄の鎧を装着し、堅い皮で作った膝まである茶色の軍靴を着て、三人の兵は不規則な足音を響かせつつ駆け寄って来た。彼らは女性兵の目の前に来ると、三人が三人、膝に手をついて腰を曲げ、前屈みの姿勢でへたばっている。どうやら俺を咎めたりするわけではなく、女性兵を追ってきたのは疑い得ない。何も悪いことをしていなのに、少しだけドキドキしてしまった小市民の俺だった。 まあ、そんなことはどうでもいい。 「だらしないわねえ」 汗だくになり、今にも倒れそうな兵を見るや、青い武術着姿の女性はさげすむように鼻でフンと笑った。若いのにも関わらず、すごい貫禄だ。他方、疲れ切った兵たちの方は恨み節を呟く。 「はあァ、少しは護衛する方の身にもなって下さいよ……」 「だから護衛なんて要らないって言ってるでしょ!」 少女は青い瞳を見開き、甲高い声を張り上げて厳しく一喝した。重心を低くし、腕を曲げて拳を固く握りしめ、今にも飛びかかりそうな勢いだ。効果てきめん、兵は肩を落として黙り込む。 「お父様にもそう報告しなさい、何度でも。分かったわね!」 少女は追い打ちをかけ、それから勝ち誇ったように笑った。 (五)
俺は馬上から、武術着姿の女性と三人の兵隊たちのやりとりを興味深く傍観していた。護衛? お父様? 何のことだろう。 女性の高笑いが収束してきたスキを狙い、俺はまず関係のない話題から、相手の心の懐に少しずつ潜り込もうと画策した。 「あ、そうそう、向こうの赤い建物が倉庫なんだろう?」 三人の護衛兵は滑稽なほど一斉に顔を上げ、信じられないようなものを見るような目つきで俺を凝視した。それがだんだん哀れみに充ちてゆく。知らぬものは幸せだ、とでも言いたげに。 彼らの荒い息づかいは既に落ち着いており、さすが軍人だと思わせる。女性兵にはさんざんな言葉をぶつけられたものの、それなりに重量のある鎧や靴を着用し、おそらく長い距離を走っていたのだから、彼らだって相当の体力があるはずなのだ。 振り向いた女性兵は俺の方に一歩だけ近づき、睨んだ。 「倉庫? そんなもん、見りゃ分かるでしょ。それより、あんた、言葉に気をつけなさい。ぶっ飛ばして、不尊罪で訴えるわよ」 「ぐっ」 相手の恐ろしいほどの気迫に押され、たちまち続く言葉を飲み込んでしまった。彼女は触ると爆発しそうな、くすぶっている炎のような人だ。普段、聞いたことのない〈フケーザイ〉という単語にも関心はあったが、俺はひとまず頭をかいて非を認めた。 「はは、こりゃ失礼しました。礼儀を知らぬ田舎者なもので」 すると男の兵の一人が血相を変えて駆け寄って来た。両手を口に当て、俺の耳に近づようと背伸びする。俺が上半身を右に傾けると、男は厳しい表情のまま、周りに洩れぬ声量で囁く。 「異国の商人か。ご迷惑をおかけして、誠に申し訳ない。この場は我々に任せて、大事に至らぬうちに早いところ行くが良い」 俺は身体を起こし、腕組みした。 そして例の少女を指さし、その場の全員に大声で訪ねた。 「あの子、王宮の女性兵じゃないのかい?」 (六)
「ふ……ふざけんじゃないわよっ」 突然の低い怒鳴り声に、俺の身体は情けなくも固まってしまった。声の主は分かりきっている。怒らせてしまったろうか? はっきり言って恐ろしいほどの緊張感が漂っている。なのに、相手がどんな顔をしているのか気になって仕方がなかった。 俺はゆっくりと振り向き、目線を下げてゆく――。 「どうか穏便に」 「落ち着いて下さい」 三人の兵たちは慌てふためき、俺と少女との間に割って入り、何とか押しとどめようとしている。その後ろで、俺の予想に反し、少女は下を向いていた。燃え盛るほど怒り心頭なのか、うなだれているのか、衝撃を受けているのか、はたまた泣いているのか――どうとでも受け取れる様子で、当然ながら表情は分からない。大きな耳のような金の髪の団子が目立っている。 腕を下ろして両拳に力を込め、わずかに肩を震わせ、武術着の少女はうつむいたまま立ち尽くしていた。俺はというと、魅せられたように呆然と彼女を眺めていた。それは一筋の昇りゆく真紅の炎だった。彼女の周りは通り過ぎる風までもが精悍な印象を与えた。スキがなく、ただ者ではないことを改めて思い知らされ――しかも持って生まれた育ちの良さが垣間見えるのだ。 「今のうちにお逃げ下さい! 勝負を挑まれますよ」 「このお方を怒らせては危険です」 「何をしている、早く行くんだ!」 兵士たちは重心を下げて肘を前に突き出し、驚くことに少女から身を守る姿勢を取った。そして少女の動きに細心の注意を払いつつ、青ざめた必死の形相で俺に向かって口々に叫んだ。 彼らの忠告が遠くに霞んでいる。俺はいつでも撤退できるよう、ほとんど無意識のうちに重たい手を動かして馬の手綱を握りしめ――心の中では疑問と好奇の果実が膨らんでいった。 やがて、爆発する時が訪れる。 かすれた声で、俺はつぶやくように訪ねた。 「あなたは……いったい、何者なんです?」 (七)
うつむいたまま少女が何もしないでいると、兵士たちはゆっくりと警戒を解いて手を下ろし、まずは馬上の俺の方を見た。 俺は微動だにせず、じっと待った。 再び風がそよぎ、草花を撫でて通り過ぎる。蜜蜂の羽音が響き、噴水の水は明るい陽の光を浴びてキラキラと輝いている。 その時だった。 少女はぽつりと――だがはっきりした声で――こう言った。 「あたし、ほんとに、普通の女性兵に見えた?」 「もちろんです」 俺は即答した。言葉遣いはいつの間にか丁寧になっている。相手の中に潜む気高さが、自然とそうさせてしまったんだな。 いつの間にか兵士たちも神妙な顔つきで黙っている。 黄金の前髪を揺らし、彼女は少しずつ首を起こしてゆく。 整った鼻と柔らかそうな唇、それから南国の青い海に似た情熱の瞳が露わになったけれど、今は何ものをも捉えていない。 彼女は聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ぽつりと呟く。 「なれるもんなら、普通の女性兵になりたかったわ……」 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 俺の身体を重い衝撃が通り抜ける。頭は石のようになり、指先は軽く痙攣した。肩は地面に引き寄せられ、心は沈殿する。 いくら背伸びをしても叶わぬ夢が、きっと彼女にはあるのだろう。詳しい理由は知らずとも、それが痛いほどに伝わってくる。 兵士たちも固まっていた。彼女は結局、腕一本使うことなしに、俺たちを打ちのめして――ぶっ飛ばしてしまったのだった。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「ふん、私らしくなかったわね。おい、お前たち、行くわよ!」 次の瞬間、彼女は何事もなかったかのように視線の鋭さを取り戻すと、勢い良く地面を蹴って駆け出した。刹那に覗いた健康的に日焼けした横顔は、何故か微笑んでいるように見えた。 三人の兵はあっけにとられていたが、はっと気がついた一人が慌てて叫び声をあげる。それは俺の予想通りの答えだった。 「ララシャ様!」 世界的に名を轟かす、おてんばで武術好きなお姫様。 賢明なレゼル王子の妹で、ミザリア国の第一王女。 彼女こそ、まさしくララシャ王女その人だったのだ。 青い繻子の後ろ姿がぐんぐん遠ざかる。 だいぶ離れた所で、王女は一度だけ俺を見た。 俺が親しげに手を振ると、フンっとそっぽを向いてしまう。 「ララシャ様ぁ〜」 「お待ち下さい!」 兵士たちの苦しげな呻きと懇願が響いている。 (ララシャ王女は、ララシャ王女らしく生きてくれよ) 俺は馬の手綱を引き、心の全てで応援しつつ――彼女が建物の影に隠れてしまうまで、力強く美しい走りを眺めていた。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 後から聞いた話だが、将来を嘱望される若手の騎士は、ここ数年ララシャ王女の護衛につけられることが多いらしい。身体が鍛えられ、忍耐も備わり、自然と精鋭の軍人になるそうだ。 あの日、ララシャ王女は朝のランニングの途中であり、三人の兵たちは護衛だったということになる。男どもは鎧を着て、王女に負けじと走っていたのだから、さぞかし持久力がつくだろう。 それはいつしかミザリア王宮の朝の風物詩となり、宮廷の貴族や侍女たちは〈王女杯・競走大会〉などと呼んでいるらしい。 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 「というわけだ。滅多に出来る経験じゃないぜ」 羨ましげに見つめる商人仲間に、俺は決め台詞を浴びせる。 「な、ちょっとした自慢話だろっ?」 | ||
(了) | ||
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