春風に誘われて 〜
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秋月 涼 |
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(一)
「なんで女っつーのは、甘い物が好きなんだろうな」 頬杖をつき、ケレンスは蜂蜜のケーキを見つめてかったるそうに言った。溜め息混じりの口調は諦めているようにも思える。 「だって、美味しいんだもん……いっただきまーす!」 向かいの席のリンローナは略式の祈りを済ませ、いよいよフォークを持ち上げた。緑色の澄んだ瞳が期待に満ちて拡がった。 「あいあい。どーぞ召し上がれ」 ケレンスの方は短い金髪の後ろ頭で手を組み、白く塗られたおしゃれな木の椅子の背もたれに体重をかけた。いかにもリンローナに興味がなさそうな態度を取り、眩しい青空をあおぐ。 低い垣根を挟んで、レンガの通りを人々が行き過ぎる。ここはラーヌ三大候都の一つ、草原のセラーヌ町のカフェであった。 ケレンスの前には冷えた〈月光水〉が置かれていた。月光実(レモン)の薄切りを浮かべた微炭酸の飲み物で、さっぱりとした味わいはいつの時代でも若者に人気のある、定番商品だ。 「そんなもん食ったら、豚みたいに太るぜ」 わざと相手を挑発するようなことをケレンスは言った――と同時に自分の発言を後悔する。もしかしたらリンローナの興味がケーキに注がれていることに妬いているのかも知れなかった。 リンローナは滅多なことでは怒らない。器用な手つきで蜂蜜のケーキを小分けにし、清楚に口へ運んでいたが、小さな手提げ鞄から布を取り出して口元を拭き、冷静に応えるのだった。 「大丈夫だよ。あたしの家系、みんな痩せてるから」 草色の髪の毛は肩の辺りで切り揃えている。薄茶色の半袖の花柄ワンピースの上に、七分袖の焦げ茶の春物の上着を羽織っているのは確かに地味ではあったが、品質自体は良い物を選んでいるリンローナだった。若い肌は艶々と輝いている。 彼女の前には、ケーキ皿の他に、水煎れ紅茶のグラスも置かれていた。砂糖一かけ、ミルク少々を入れるのが好みである。 (二)
つまらぬ雑用の仕事が片づき、今日は冒険者の休日だ。宿屋で朝食を摂ったあと、庭の花を見ていたリンローナが部屋に戻ると、姉のシェリアの姿はなかった。男部屋にいるのかと思って軽くノックをすると、面倒くさそうなケレンスの返事があった。 「入れよ」 ドアを開けたリンローナは部屋を見回し、拍子抜けする。 「あれ、ケレンス……だけ?」 シェリアはおろか、リーダーのルーグもタックも居ない。 「俺だけじゃ不満かよ。悪かったな」 ケレンスが口を尖らすと、リンローナは自分の非を認める。 「ごめんね、言い方が悪かった。別にそういう意味じゃないよ。お姉ちゃん、どこに行ったのかと思って探してたんだけど……」 横になっていたベッドから身を起こし、ケレンスは応える。 「シェリアの姉御なら、ルーグと出かけたぜ」 「そうなんだ……タックは?」 リンローナは普通に訊いたが、相手の返事には棘があった。 「いつもの、定例報告だとさ」 王国諜報員のタックは、町に着くと定期的に指定の酒場へ顔を出し、密かに情報交換する。その間の彼の行動を追及するのは仲間内でも一種の禁忌になっている。誰にでも秘密はある。 「ふーん。そっかぁ」 間を置いて、リンローナはうなずく。そのまま何となく立ち去りがたい様子でその場に立っていたが、春の爽やかな風が窓の方に吹き抜けると、一歩前に歩み出て後ろ手にドアを閉めた。 壁際とケレンスの上に視線を彷徨わせ、彼女は訊ねる。 「邪魔しないから、ここにいても、いい?」 ケレンスは蒼い瞳を細めて、ベッドの淵に腰掛けたまま、上目遣いに背の低い少女を見上げた。それから腕組みし、応える。 「どーぞ、御勝手に」 「ありがとう。ちょっと本を取ってくるね」 ほっとしたような口調で胸をなで下ろすリンローナは、再びドアを開けて廊下に出る。間隔の短い足音が遠ざかっていった。 「失礼しまーす」 丁寧なリンローナは、もう一度、ノックをして部屋に入った。 片隅の木の床にちょこんと腰を下ろし、壁に寄りかかってワンピースの両膝を横に曲げ、十五の少女らしく〈横座り〉をした。 そうして古びた聖術の書物のページを繰るリンローナに、朝の光を背景に窓辺でたたずむケレンスが不器用に呼びかける。 「おいリン。暇なら……散歩にでも行くか?」 「えっ?」 急に話しかけられて驚いたリンローナは、本を開いたまま顔を上げた。ケレンスの金の前髪が輝き、春の風にそよいでいる。 「お散歩? うん、いいよ」 少女はぱたんと書物を閉じ、腕をついて立ち上がった。 ケレンスは平静さを装った顔をし、大股でドアの方に歩き始める。その口元は嬉しさにほころび、本当の意思を顕していた。 「じゃあ、行こうぜ」 (三)
「そうだ。ケレンスも食べる?」 とろーりとろけるような甘い蜂蜜のケーキは、貴婦人の気品さえ漂わせる。そのひとかけにフォークを添え、藍色の花の模様入りの白い皿を両側から支えて、リンローナは真向かいの若い剣術士に示した。疑いを知らぬ、とびっきりの笑顔と一緒に。 「おいしいよ! 無理には薦めないけどね」 彼女が手を引っ込めようとしたとたん、ケレンスは持ち前の反射神経を遺憾なく発揮して、相手の皿をひょいと横に奪った。 「んじゃ、もらっとく」 彼としては珍しく、ケレンスは少しうつむきがちに応えた。頭の中では、何となくこの場に居づらいような気恥ずかしさと、それでいて話を続けたい矛盾した感情に加え、カッコいいところを主張したいという見栄が交錯する。そんな彼から発せられる普段と違う妙な雰囲気を捉えて、リンローナは何か言おうとしたが結局は口をつぐむ。十五歳の少女は〈ケレンス、馴れないカフェで緊張してるのかなぁ〉という都合の良い解釈に至ったのだ。 その間にケレンスの方はフォークを握り、有り余る力で突き刺し、やや崩れかけたケーキの切れ端を恐る恐る持ち上げた。 かけらを上目遣いに仰いで顎を下げ、勢い良く放り込む。多少がさつなケレンスの行動に、リンローナはもはや慣れっこになっているので、一瞬だけ驚きの表情を浮かべただけだ。それより今は、お薦めのケーキが相手に認められるかを知りたかった。 「んぐ……んぐ」 頬と歯を動かすや否や、ケレンスの舌の内側には真っ先に独特の蜜の甘さが拡がっていく。少し遅れて、ケーキに垂らした月光実(レモン)の酸っぱさが味覚を刺激し、唾液が溢れる。 「どう、かな?」 草色の瞳を見開き、リンローナが両手の間に顔を挟んで頬杖をつき、期待に満ちた問いを投げかける。わざと眼差しを合わせないよう、十七歳の剣術士はまぶしそうに目を細めて斜め上に視線を送っていたが、ケーキのひとかけを飲み込んで彼の手には似合わぬ小さなフォークを口から出し、皿ごとリンローナに差し出しながら、反対の手で鼻の頭をこすりつつ感想を洩らす。 「まあまあじゃねえか」 「よかった。ケレンスもこういうの、嫌いじゃないんだね」 聖術師は安心して呟いた。それを見ていたケレンスの方は何やら腕組みしていたが、やがて不器用な口調で付け加える。 「たぶん」 「たぶん?」 「たぶん、リンのケーキの方が、おそらく……うめえと思うぜ」 わずかの後に――。 「ほんと?」 無邪気で無防備な笑みが目の前で弾ける。彼女は言った。 「ありがとう! あたしので良ければ、また今度、作るね。道具がないから、なかなか難しいけど、宿の人に借りられたらね」 「ああ、頼むぜ」 ケレンスの方も、今度はちょっとだけ素直にうなずいた。 (四)
「そん時、やっこさんが飛び出してきてな……悪ガキめーって怒鳴って、わめいて、腕を振り回してさ。あんまし怒ったもんだから前しか見えてねえ。で、俺が横から飛び出してって、ちょいと足をかけたわけ。したら、あっけなくつんのめってズデーン! だ」 「ふふふっ。ひどいんだからぁ。ふふっ」 言葉とは裏腹に、リンローナのお腹は小刻みに痙攣している。普段は清楚な微笑みを心がける彼女でも、そろそろ湧き上がる可笑しさに耐えきれなくなっていた。襲いかかる渦に対抗しようにも想像は止まらず、頬は緩みきり、整った顔は崩れる。 ケレンスはもっともらしく腕組みし、さらに追い打ちをかけた。 「あの情けない姿ったらないぜ、見せてやりたかったなぁ」 「うぷ、あは、あはははっ……ひー」 しまいにはリンローナは背中を丸めてうつむき、ひとしきり彼女の周りにいちだんと明るく華やかな空気を振りまいていた。 ケレンスは誇らしげに十五歳の異国の少女を見守っている。彼は昔話を適当に脚色し、物語のような筋をつけて話すことが得意だった。幼なじみのタックは交渉事を得意とするが、それとはまた別の方向性の話術であろう。幸い、ケレンスの母国語のノーン語と、リンローナの母国語のウエスタル語は言語学上で見ても非常に近しい関係にあり、文法はもちろんのこと、似たような単語も多いため、日常会話程度ならば特に不自由しない。 「あー苦しい!」 残っていた僅かな水煎れ紅茶を飲み干して、そのぬるさに気づき、リンローナは時間が経ったことを悟った。心臓はまだ高鳴っているが、霧が晴れてゆくように、頭の中は急速に冷静さを取り戻していった。薄緑の瞳の少女はゆっくりとグラスを置く。 そして、やや名残惜しそうに、落ち着いた声で呟くのだった。 「ずいぶん、光の具合が変わったね」 話は尽きぬ。楽しい夢が醒めるのに似た物足りなさを味わいつつ、ケレンスはきょとんとした顔でカフェのテラスを見回した。 午前中は陽射しが直接射し込む喫茶店の庭だったけれども、いつしか光源は移動し、今は大きなニレの樹の日陰に入っていた。夕方にはまだまだ早いけれど、一日の中で最も暑い頃は終わりかけ、北国の春の風は爽やかに吹き抜ける。テラスの客はほとんど入れ替わっており――二人の飲み物も尽きた。 「んー」 今さらながら喋り疲れたのか、ケレンスは大きく伸びをする。 それから相手の雰囲気を感じ取って、やむを得ず訊ねる。 「そろそろ……行くか?」 「うん」 リンローナが同意すると、ケレンスは動くのが億劫だという自分勝手なワガママを内にしまい、一気に立ち上がるのだった。 「ずいぶん話したもんな。よし、行こうぜ」 (五)
「お勘定、頼むぜ!」 「はい、ただいま」 ケレンスが手を挙げると、入口の近くに立っていた若い女給仕が気付いて、小走りに駆けてきた。金の髪を結わえ、白と薄茶で統一された清潔感のあるブラウスとスカートを着ている。 彼女は背が高く、ほっそりとして色白、しかも彫りの深い顔立ちというノーン族の特徴を見事に体現していた。手際良くケーキの皿と空いたグラスを確認すると、リンローナを視界の片隅に置きつつ、主にケレンスの様子を伺いながら請求額を告げる。 「しめて四ガイト五十レックになります」 ケレンスはズボンの後ろポケットに手を伸ばして使い古した革の小銭入れを引っ張り出し、中身を改めた。指で円を描くように動かせば、一ガイト銀貨と十レック銅貨がジャラジャラと鳴る。 「ん?」 突如、剣術士は目を光らせ、不審そうに財布の奥を覗いた。 「何だこりゃ」 正確に四つ折りされた紙のようなものが、銅貨の間に垣間見える。全く覚えが無いため、彼は急いでつまみ上げ、開いた。 その横ではリンローナが丁寧な口調で給仕に頼んでいる。 「別々のお会計、お願いできますか?」 「承りまして御座います」 一方、文面を目にしたケレンスの顔は愕然とした驚きと、あっさり行動を予想された悔しさ、そして他人の財布を勝手にいじられた怒りによって、あっという間にしかめ面を火照らせていた。 「あんにゃろ……」 『君が紳士ならば、 年下のお嬢さんには おごるべきですよ』 ――それが小さな紙に記された文面の全てであった。 細やかな筆致は、幼なじみの腐れ縁、タックに間違いない。 「どうしたの?」 聞き慣れた声で我に返ると、澄みきった翠玉を思わせる草色の瞳が不思議そうにケレンスを見上げていた。その横では、勘定に来た給仕が盆を持ったまま所在なげに立ちすくんでいる。 ケレンスはとっさに紙を丸め、無造作に財布へ押し込んだ。 それから勢いに任せ、背の低い聖術師に言うのだった。 「リン、先に行ってろ。まとめて払っとくから」 「え? ……うん、わかった。入口で待ってるね」 リンローナは話をややこしくしないため、敢えて突っかかったりせず、賢くも健気に同意した。簡単に盗まれないよう、肩紐だけがやたらと太く頑丈な造りになっている実用的な布の鞄――安物にしては長持ちする――を肩にかけ、聖術師は歩き出した。 「ご一緒でよろしいですか?」 給仕の女性が訊ねる。ケレンスは財布から四枚の銀貨と五枚の銅貨を取り出すと、テーブルに並べ、口に出して数えた。 「……三、四、五。合ってるだろ?」 「ちょうどお預かりいたします。ありがとうございました!」 盆を抱えたまま、ノーン族の女給仕は頭を下げるのだった。 (六)
針金の芯を隠すほど重層的に蔦(つた)が絡み合い、長い年月をかけて作り上げた弓形の緑門(アーチ)は、一つの国に根付く奥深い文化の象徴でもある。それを見上げつつ、金の髪を短く刈った少年が何となく手持ち無沙汰な様子で姿を現した。 緑門の横にたたずんでいた小柄な少女は、連れのケレンスが支払いを終えて出てきたので、顔をもたげて口元を緩めた。 その当人、十七歳のケレンスは顎をしゃくって先を促し、目で合図を送り、通りを大股で歩き始めた。リンローナも後を追う。 ケレンスの服装は彼の性格を端的に示すが如く、かなり大雑把であった。少し汗臭さの残る綿製の橙色の開襟半袖シャツに、きつくも緩くもない焦げ茶色のズボンを履いている。本来は着るものにうるさいケレンスであるが、冒険者として旅の連続ともなるとそうもいかない。水分を吸収しやすく、それでいて乾きやすいもの、万が一の際には森や地面にカムフラージュできる色――背中の背負い袋の容量を考えれば、贅沢は言えない。 それでも半袖の派手目の服は、彼にとっては町中を歩く時に使える、いわば〈晴れ着〉であった。旅の途中では、意外と半袖を着る機会がない。暑い時に肌を露出すれば日焼けがひどく、夜になると熱を持って水をかけただけでも滲みる始末なのだ。 リンローナの方はズボンよりもスカートが似合う少女である。しかも丈が長いものを気に入っていた。それによって背の低さが隠されると信じているのではなかろうか――傍目にはそう思えるほど、彼女はロングスカートを割合と好んで着用していた。 今日も、ワンピースと言ってしまってはあまりに地味な薄茶色の服を着て、せめて首周りに濃い碧のスカーフを巻いていた。肩の辺りで切りそろえた草色の髪の毛は丁寧に梳いてはいるが、特に髪飾りをつけるわけでもなく、そのまま下ろしている。 派手好きな姉のシェリアと比較され、ケレンスには事あるごとに〈もっとオシャレに気を遣えよ〉と言われ続けている彼女であるが、あまり召かし込む必要性を感じないのだった。もともと清楚な可愛らしい容貌を持ち、肌は滑らかで化粧することもない。二十代後半以降の女性からすれば、うらやむべき若さである。 その聖術師は歩幅が狭いので大股気味に、早歩きするケレンスの斜め左後ろで彼に追いつこうと懸命に足を出していた。 「待ってよ、ケレンス。さっきの請求の件だけど、あたしの方がケーキを注文したんだし、三ガイトくらい払えばいいかなぁ?」 銀貨を三枚、手の平に載せて前に差し出そうとするリンローナを振り返りもせず、前を向いたまま少年はぶっきらぼうに言う。 「とっとけよ」 「え?」 予想だにしない相手の応えに、リンローナは耳を疑った。 「でも……悪いよ」 しばらく間を置いてから、真剣に意見を述べたのだが――。 「要らねえって言ってんだろが」 タックの忠告をまともに受けたわけではなかったが、ケレンスは今さら請求するつもりはなかった。わざと低い声で威圧するように呟いたが、もしかしたらリンローナを不安にさせたかも知れないと即座に反省し、今度はなるべく感情を籠めずに語った。 「どうせ大した金額じゃあねえんだ」 そうまで言われるとリンローナに敢えて反論する理由はなかった。ここはケレンスの顔を立てようと決め、話を受け容れる。 「ありがとう、ケレンス。あたし、おごってもらうのって初めてだよ! もちろん、お父さんとお母さんと親戚の人を除けばね」 「シェリアの姉御はケチだもんなぁ。ルーグは?」 ケレンスは相変わらず前を向いて歩くに任せたまま、魔術師シェリアのしかめ面を思い描き、朗らかに笑いながら訊ねた。 ところが、リンローナのいらえは予想だにせず曖昧であった。 「あ、ルーグなら、あるかも……」 「こいつめ。初めてじゃねえだろ!」 ケレンスがようやく足を止め、振り返りざまにリンローナの額をこづくと、スカートの似合う小柄な少女はぺろりと舌を出した。 「えへ。ごめん……でも、ありがとう。ごちそうさまでした!」 言われた剣術士の方は、歯痒いような、気恥ずかしいような――それでいて満足感を味わっており、軽くうなずくのだった。 「んンむ」 (七)
いつしか洒落た飲食店は減り、街並みには立派な構えを持つ木造の問屋や倉庫が増え始める。荷馬車が行き交い、独特の動物臭さが漂っているが、レンガ作りの道は出来る限り綺麗に清掃されていた。青く澄む草原の空がしだいに拡がってくる。 気のせいか、圧倒的な水の量がゆったりと流れる雅やかな、しかも新鮮で爽快な音が、微かに奏でられ始めた――白い雲を背景に天を滑る渡り鳥の、次の季節を告げる歌声と混じり合って。そよ吹く風は頬の産毛をくすぐり、心を解き放ってくれる。 「気持ちいいねー」 内側から溢れ出す気持ちを、リンローナは言葉に乗せた。 「そうだな」 ケレンスは適度に顔を引き締め、精悍な笑みを浮かべる。 往来する商人で賑やかな表通りを離れ、細いけれども文化の薫り高き裏路地を、二人は歩いていた。道端や、白を基調とした家々の窓辺の鉢植えには春を謳歌する花たちが咲き誇っている。二十過ぎの女性を思わせる背の高い大柄の赤い花は演劇の主役のように華麗で力強く、白い花びらの中央に黄色の花粉を光らせて数株が寄り添うように咲いているのは可憐な少女、鮮やかな黄金は活発で明るく行動的な女性を思わせ、薄紫に銀の縁取りの花は艶やかで気高い貴婦人を想起させた。 空気が動くと、彼女らは挨拶をするかのように首を垂れた。多種多様な形をした葉裏には油虫が這う。そして蝶はしなやかに舞い、蜜蜂の郵便屋はまめに花粉を運んだ。地面には蟻の行列と幾つもの巣穴が見える。気温は暖かく、甘い香りが漂う。 T字路に差し掛かり、直進する道は尽きた。目の前に立ちはだかる草の生い茂る自然の土手を指さし、ケレンスは訊いた。 「昇ってみるか?」 「うん」 リンローナはうなずいた。額はうっすらと汗ばんでいる。 彼女がケレンスに手を引かれて急な斜面を登りきると、左側に流れてゆく〈母なる大河〉ラーヌ河の中流の豊かな川面が見えた。見えない雨のように降りそそぐ太陽の光は、終わりを知らぬ永遠の揺りかご――河の流れ――に捉えられ、弄ばれ、ちらちらと瞬いていた。深い蒼の川面は澄み、目を凝らせば魚まで覗けそうな気がする。さっきまでの町中と違って、視界は感動的なまでに広がり、遙か遠くまで見晴るかすことが出来た。 滑らかな弧を描く石橋の下を小舟が通り過ぎる。流れの緩いラーヌ河は貨物を中心に船便も多く、定期の旅客船までも運行されている。海の船に比べれば子供のようなものだが、大量の輸送力は重宝されている。特に中流のセラーヌ町から河口の王都メラロールへ赴くには、馬車よりも速いし楽だ。それらの比較的見栄えのする船の合間を縫って、川釣りの小舟が行く。 振り向けば、侯爵の居城に建つ石造りの尖塔が見える。ラーヌ河から引いた幾つもの用水路は苔むして歴史を感じさせ、その上に張り出すようにして大きさも形も様々な水車が並んでいる。水車の街、と異名を持つセラーヌを特徴づける眺めだった。 河の向こうは彼方に続く草原で、青々と霞んでいる。視線の行き着く先は、未だに雪の冠をかぶった遠い山並みであった。 その時。 にわかに現れたすがすがしい風の一群れが背中を押し、リンローナの薄緑色の髪を逆立たせ、ワンピースの裾をはためかせた。散歩する二人の横を、彼らは脇目もふらずに留まることなく駆け抜けた。目的地を指してまっしぐら――とでも言いたげに、何の迷いもなく、誇りに充ちて。彼らの残り香を思いきり吸い込めば、この季節が秘めた生命力が直に身体へ注ぎ込まれる。 彼らの背中を夢見るような視線で追っていたリンローナはふいに顔を上げ、いたずらっぽく微笑んでケレンスに声をかけた。 「思い切り走ったら、春風さんに追いつけるかな?」 「……やるかぁ?」 ケレンスはその発言を馬鹿にするどころか、ニヤリと笑い、白い歯を見せた。リンローナの顔はさらに明るく元気に弾ける。 「うんっ」 折しも、土手に茂る草のざわめきが聞こえてきた――確実に後ろの方から。ケレンスは振り向かず、正面を見据えて叫ぶ。 「行くぜッ!」 聖術師の華奢な肩を軽くはたき、彼は威勢良く地を蹴った。 「あたしも!」 リンローナも負けじと腕を振り、足を前へ前へと差し出す。 「はぁ、はぁ……」 風景が迫り来る。息は苦しいが、鼓動のどよめきさえ快い。 そろそろ夕暮れを感じさせる涼やかさの中、無駄なものが取り払われて透き通っていくような感じを味わいつつ、若い二人は走れなくなる限界まで走り続けるのだった。格好に囚われず、とにかく風に追いつこうという一念で、頭の中を空っぽにして。 やがては疲れ果て、膝に手をついて休み、息が落ち着けば元来た道を辿るのだろう。宿へ戻って仲間と合流し、旬の野菜や川魚をふんだんに用いた地元の夕食に舌鼓を打つのだろう。 だが、それはまだまだ先のことだ。 春風をつかまえて、春風に乗って――春風に誘われて。 暮れゆく川沿いの道を、全力で駆け抜ける二人だった。 | ||
(了) | ||
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