奥サミス原生林より 〜
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秋月 涼 |
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湿り気を帯びた空気には土の匂いが混じっている。 ほっそりと背の高い女性は水色の長袖のワンピース姿で、その上に藍色の外套を羽織っている。彼女の服は、夜と朝に架けた〈あかつきの橋〉――この時間――から切り出したかのような彩りの組みあわせで、森の妖精を思わせるがごとく涼やかだ。 こぼれる陽の光の続きめいた金の髪を後ろで結わえ、足取りも軽く目を細めて歩く森の朝の散歩道では、高らかな鳥の声が重層的に響いている。羊の乳の色をした白い霧が微かに漂っているが、視界を邪魔されるほどに濃くはない。露に濡れた草の子は雫を落として顔をもたげる。早起きの白い蝶は彼女を招くように舞っていた。心が洗われるほど清々しい曙の刻限だ。 足下を這うように進む剛毅な木の根を跨ぎ、短くて狭い急な坂道を登ると、身体は火照って鼓動は速まる。ただし、白いうなじや頬をかすめて風が行き過ぎると、秋の日中と同じくらいに淑やかで麗しく――彼女は思わず首をすくめ、身を縮めるのだ。 それらは皆、避暑地の夏、高原の林の朝の一風景である。 小川のせせらぎがして、彼女は立ち止まり、耳を澄ます。 手にしていたスケッチブックを右の脇に挟み、薄緑の下草を掻き分けると、そこには河とは言えないほどのささやかな湧き水の流れがあった。土の色までがはっきり見分けられるほど透き通った水――角度によっては銀色にきらめいて見える泉から、とめどない生命の象徴のごとく、森の恵みが溢れ出している。 彼女は身をかがめ、ほっそりとした右手を差し伸べる。 思い切って湧き水の中につけるが、すぐに引っ込める。 「はっ!」 右手を振り、彼女は雫を払った。湧き水の冷たさは予想を遙かに越えていたからだ。手の神経の感覚が失われ、痺れる。 だが、次の瞬間――。 彼女はスケッチブックを脇に挟んだまま、今度は両手を伸ばし、滾々(こんこん)と出ずる水の口に浸した。風よりも透き通った神秘の泉が少しだけ濁り、そこに現実の水があることを教えてくれる。ここでは言葉は要らない、生の五感があればいい。 彼女は水の冷たさに唇を噛んだが、さっと掬い上げて口元に近づけた。匂いもなく色もない純粋な真水が、たっぷりとそこにある。それは指の間を伝って雨の模型のようにこぼれ落ち、掌とさして変わらぬ大きさの泉に同心円状の波紋を投げかけた。 両手を傾いで注げば、軟口蓋の粘膜が潤いを取り戻して、舌は凍える。飲み干せばゴクッと喉が鳴る。味はない、だけれど、なぜか美味しい。それもそのはず、原生林がくれた純粋なエキスなのだから。胃の辺りを朝の水が通り過ぎる頃、右手で口を一拭きすれば、この森とめぐり逢えた幸せが心の中を暖める。 彼女は立ち上がり、いつしか朝の光の中を縫って歩き出す。その首元には賢者の身分を示す宝石が、消えかかる星の名残のようにきらめいていた。スケッチブックには使い古しのチャコールが挟んである。何もかも露に濡れ、瑞々しく新鮮に生まれ変わるこの時間、花や草や木の芽などを観察して記録するのは彼女にとって何にも代え難い喜びであり、森の独り暮らしの気休めだった。大きな自然も小さな所から見えてくるものがある。 栄養を吸って、新しいものを生み、吐き出す。みんな同じだ。 「私も、この森に息づく一人なのだわ」 そして、私の中の一部でもある、この森――。 サミス村から林の小径を延々とたどった先にある〈奥サミス〉と呼ばれる場所の尽き果てぬ原生林の中で、二十一歳の賢者、オーヴェル・ナルセンはささやかな自給自足の暮らしを営んでいる。厳しい冬が近づくまで、森の研究生活は続いてゆく。 | ||
(了) | ||
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