真冬のぬくもり

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


「はぁーっ」
 雪で湿った手袋の両手を掬うように組み合わせ、思い切り息を吐き出すと、風の溜め池となった掌はすぐに溢れて暖かな空気をこぼし、顔の周りだけに小春日和を振りまいてくれた。冷え切った頬は適度な湿り気で滑らかになっている。厚手のコートはもちろん、頭には毛糸で編んだ簡素なフードをかぶっており、その厳重装備の後ろ姿は大きくなった精霊のようにも見えた。
 また少し降り始めた雪が折り重なる微かな音は、彼女が足を振り下ろすたび、地面が固められるキュッキュという鳴き声にかき消される。薄暗い空の下、やや深い足跡が長く続いていた。

 それは十二月でもとびきり寒い日の午後だった。わざと外に出して置いた桶の雪解け水は凍り付き、朝から溶けていない。
 セラーヌ河の最上流に近いサミス村は山奥の小さな集落だ。森の果て、高原の谷間にある風光明媚なところで、豊かな山や河の恵みを存分に享受してきた。景色の美しさと食事の美味しさ――何より人々が醸し出す穏やかな雰囲気にすっかり入れ込んでしまう者も多く、夏場は近隣から避暑の貴族が集まり、それを目当ての行商人も多くやってきて賑やかな時を迎える。
 ざわめきは早い秋の訪れとともに過ぎ去り、収穫を祈る祭りが終われば、サミス村は長く厳しい季節を迎える。木々は葉を落とし、多くの動物は冬眠するが、村人は生業を営み続ける。
 人の行き来はほとんど途絶え、獣の遠吠えも格段に減る。雪が降れば鳥たちも姿を見せない。雪の上の移動は大変だが、平たくて底が丸い大きな靴を履いたり、そりを利用したりする。その代わり、重労働だった井戸の水くみの必要はなくなる――降り積もった雪が、あらゆる場所を井戸に代えてくれるのだ。

 冬はどうやら白や灰色が好きらしい。青い空は鉛色に塗りつぶされ、淡雪や細雪、粉雪や吹雪が大地の全てを覆い尽くす。家々の屋根はもちろん、土も池も湖も真っ白に化粧する。背の高い針葉樹は雪の帽子をかぶり、色という色が失われてゆく。
「冬は寒いから、みんな嫌いみたいだけど……」
 歩きながらつぶやいたのは、茶色の前髪をフードからこぼしている酒場の看板娘、おつかい帰りの十七歳のファルナだった。
「寒いだけじゃないと思うのだっ」

 暖かな吐息は霧か煙のように漂い、北風に溶けて消えた。
 サミス村の冬はありとあらゆるものが収縮し、特徴的な色や形を失って区別が無くなる。酒場や宿の仕事で忙しかった、華やかな賑わいの夏には気づかなかったもの――この季節、全てが単純化されることで、彼女には少しずつ見え始めていた。
 例えば家の軒先から根を伸ばした氷柱が地面まで届くほど冷え切った朝、低い角度でまぶしく降り注ぐ空の光の宝石たちはきらきらと輝き、果てしなく優しい。分け隔てなく与えられる明るさと熱を浴びれば、太陽の偉大さを改めて思う。しなやかに両脚を動かして誰もいない雪原を駈ける野ウサギには張りつめた生命の躍動を感じ、ただひたすら降り積もるかに見える新雪を黒い手袋で掬い取れば、一つ一つに違った美しい彫刻が施されているのが分かる。寝る前は空気よりも遙かに冷たく感じる布団が、朝起きる頃には出るのが億劫になるほど温まっている――それを作り出すのは自分自身の体温、命の炎の暖房だ。

 日々の些細な変化を、頭で考える前に身体で直に感じ取ることが出来る。そのような直観的理解において、ファルナは妹のシルキアよりも全般に秀でている。天真爛漫で素朴で、意外と負けず嫌いな性格とともに、彼女を特徴づける一つの才能だ。
 きっと妹であれば、おそらくこんな台詞で総括したことだろう。
(寒ければ寒いほど、ぬくもりのありがたみが分かるよね!)

 雪がやみ、速い速度で雲は去り、晴れ間が覗いてきた。久しぶりの彩り――青空を見れば、おつかいの疲れも吹き飛ぶ。
 なじみの急角度の赤い屋根は降り積もった天使の贈り物で白く染まり、煙突からは暖炉の煙が上がっていた。懐かしい我が家、そして〈すずらん亭〉独自の美味しい昼食はもうすぐだ。
「お姉ちゃーん」
 やはり厚いコートとフードに身を固め、入口で待っている妹が手を振りながら姉を呼ぶ。ファルナは笑顔で手を振り返した。
「シルキアー、ただいまー。お昼は何なのだっ?」
 気持ちが和らぐと空腹を覚える。妹はすぐに答えを返した。
「お姉ちゃんの大好きなシチューだよ。早く!」
「わぁー!」
 満面の笑みになり、ファルナは思わず走り出した。慌てて転ばなければ、真冬のぬくもりに、もうすぐ手が届くだろう――。

(了)



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