雲の戯れ

 〜森大陸(しんたいりく)ルデリア・幻想結晶〜

 

秋月 涼 


 だいぶ冷やされた北風が、明るい朝の町を駆け抜けていきます。山の向こうから降り注いでくる光はまぶしく、額に手を当ててもしばらくは残像が残っていました。通りの蔭の面積が広がるので、夏とは反対に細い日なたを選んで歩くようになります。
 シャムル公国の主要な港であり、魅惑の島の玄関口として栄えるデリシ町はとても裕福で、商人たちは競って息子や娘を学舎に通わせています。近くの村から獲れたての旬の野菜を運んできた荷馬車や、修行中の若い職人さん、朝市の帰りの漁師さんに交じり、学舎へ向かう子供らの姿が見受けられます。
 空気の中をかすかに漂う潮の香りは海が近い証拠です。鼻の感覚を鋭くしていると、どこかの広場で落ち葉やゴミを焼いているのでしょう、妙な焦げ臭さが漂ってきたのを捉えます。目も少し痛くなりましたが――風向きが変わればへっちゃらです。
 角度のきつくない屋根屋根が立ち並び、いろいろなお店の名前や、分かりやすい看板が出ています。喫茶店はカップが目印ですし、宿屋や雑貨屋、八百屋や、酒場や花屋など、こぎれいなお店がひっきりなしに立ち並んでいて、見ているだけでも飽きません。さすがに朝からやっているお店は少なく、せいぜいパン屋や薬屋くらいでした。新鮮な魚は市場で売られています。

 金色か銀色の髪を持つザーン族の子供たちは、実に様々な服装をしていましたが、誰もが薄い上着を羽織っていました。港町のため大陸の流行にも敏感で、高い文化を誇っています。
「望月の光射し、空翔る軍馬ぞ、高らかにいななける……」
 有名な古代の詩を呪文のように暗唱し、誇っている少年や、
「寝てるの? 朝なんだよね。寝てるの?」
 足下に積もる葉をずっと蹴りながら歩いている男の子、
「さん、にー、いちっ、それっ!」
 四人の女の子たちは新しい遊びを考え、そのうちの一人、ツインテールの子が後ろ向きに歩いている姿も見受けられます。

 広すぎもせず、かといって狭すぎることもない通りの左右には街路樹が等間隔に背を伸ばしています。落葉樹はひらひらと舞い、煉瓦の路面を埋め尽くして茶色の絨毯に変えました。雨が降ると滑りやすくなり、馬車が走りづらくなるので、ほうきを手に掃除をしている近所のおじいさんがいます。白髪のおじいさんは、顔見知りになった通学の子供らと朝の交流を楽しみます。
「おはよう、おはよう」
「おはよー!」
 元気に挨拶したのは、背が低めで長い金の髪の活発な女の子、八歳のジーナです。その隣にいる同級生、銀の髪の夢見がちな少女、九歳のリュアも笑顔で丁寧に会釈するのでした。
「おはようございます」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「いい天気だね」
「うん!」
 見下ろして相好(そうごう)を崩す老人の言葉に、ジーナはうなずきました。歩きながら、リュアは斜め後ろに手を振ります。
「行ってきまーす」
「あれっ?」
 その時、ジーナは驚いて瞳をまばたきしました。見覚えのある大通りですが、どこかしら違和感があります。街路樹の葉っぱが減ったからなのか、光の角度が変わったからなのか、掃除をしている老人と会った場所がいつもと違うからでしょうか――。
「……やばい、リュア急ごう!」
「え?」
 声をかけられたリュアはきょとんとしていましたが、急にジーナが小走りに駆けだしたので、あわてて背中を追うのでした。
「ジーナちゃん、待ってよぉ〜!」

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 冬の始まりを示す風を浴びていると、頭が浄化され、考えが冴え渡ってきます。彼らに混じって路面を蹴り、速度を上げれば、両足が大地を離れるかのような清らかでみずみずしい快感を味わえるのです。コートの中が汗で蒸しても、気にしません。
「ふぅーっ」
 ジーナがようやく止まったのは、大きな四つ辻の交差点の少し手前でした。それほど長い距離ではなかったのでリュアも何とか追いつき、息を弾ませながら友に真相を訊ねるのでした。
「はぁはぁ……どうしたの?」
「だって、急がないと間に合わないから」
 ジーナは胸を手で押さえつつ、冷静に応えました。木の葉の色や落ち具合を観察したり、霜柱や水たまりに張った今年初めての薄い氷など、色々なことに興味を奪われながら歩いていたので、いつの間にか他の同級生よりも遅くなってしまったようです。思いきり走ったことで、またみんなの姿が見えていました。
 二人は呼吸を整えながら、やや早足に広い通りを進んでゆきます。ジーナが半歩前を行き、後ろからリュアがついていきました。葉を落とした街路樹の枝先に輝く朝露と、その間で青く光っている空をあおぎ、ゆるいカーブを曲がります。丘に続く上り坂にさしかかれば、二人が通っている学舎はもうすぐそこです。
 家々の立ち並ぶ坂の向こうに、鐘のついた白い塔が見えてきました。学舎というのは、個人が教えている私塾形式のものが多いのですが、二人が通っているところはデリシ町で最も多くの児童が通っている本格的な学舎で、建物も大きいのです。
 白い吐息を漏らしながら坂の上の方を見上げると、視界の中で空の占める領域がぐんと広がっていることに気づきました。
「あぁ、あの雲……」
 焦げ茶色の手袋に守られた人差し指を伸ばして、真っ青な空を示したのは、銀の髪を肩の辺りで切りそろえたリュアでした。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

「ん?」
 ジーナは石畳の坂道を靴の先で蹴りながら歩いていましたが、隣のリュアの声と様子の変化に気づき、天を仰ぎました。
「あっ!」
 目に染みるほど蒼く澄んだ空の高みには、まるで絵筆で描いたかのようなすじ雲が、気持ちよさそうに羽ばたいています。
「お兄さん? きっとテッテお兄さんだ!」
 深い海を思わせる紺瑠璃色の瞳を喜びに広げ、光の道筋みたいな黄金の髪を活発に揺らして大はしゃぎしたのはジーナでした。口を開いて風を飲み、後ろに倒れてしまいそうなほど首を持ち上げると、吹雪のかけらみたいに真っ白な吐息が遙かな雲と混じり合います。どこまでも続いてゆく世界の天井は、冷たい空気にすっかり磨き上げられたガラス窓です。そのままの姿勢で歩くジーナは、少しずつ進む速度が緩やかになっています。
 落ち葉を踏み、右へ左へとフラフラ歩いていた八歳の少女がついに歩みを止めれば、学舎の生徒に抜かされていきます。
 街路樹は道沿いに続き、細かな影が地面に映っていました。

 第一発見者のリュアは困ったように首をかしげ、言いました。
「そうかなぁ、リュアはどっちか分からないな。テッテお兄さんが作ったのか、空が作ったのか……ジーナちゃん、行こうよぉ」
 語尾は自信なさそうに小さくしぼませながら、リュアは呟きました。本来はジーナよりも夢見がちな性格ですし、雲を見たり想いを膨らませたいのは山々なのですが、迫り来る学舎の時間を前にどうにか自制心が働いていました。朝風を受けて繊細な銀色の後ろ髪は砂浜のような音を鳴らし、微かに揺れています。

 退屈な毎日に飽き飽きしているジーナは、青空に模様を描く薄い雲を都合の良い方に解釈して、興奮気味に叫びました。
「学舎なんて行ってる場合じゃないよ! もしかしたらテッテお兄さんが、あたしたちを緊急に呼んでるのかも知れないよね」
 頬に赤みがさしたのは、風が冷たい影響だけでなく、気持ちが高ぶってきた証拠です。特に瞳は大きく見開かれています。

 今にも腕をつかんで走り出しそうなジーナを前に、リュアは腕組みして難しい顔をしました。しばらくの間、期待に覆われたジーナのまなざしと、透明に近い空の雲、そして学舎の塔を見比べていましたが、最後にはごくまっとうな応えを編み出します。
「お兄さんなら、たぶん、こんな時間に雲を流さないと思うよ」

 以前、テッテという青年が放課後にデリシの町へ向け、妙な形の魔法の雲を飛ばしました。それを追った二人はとても不思議な経験をし、今では〈お兄さん〉と言えばテッテのことです。
 リュアは普段よりもいくぶん堂々とした口調で説得しました。
「ジーナちゃん、学舎が終わるまで待ってみようよ。やっぱり同じような雲があればお兄さんだし、なかったら雲の戯れだし」
「ええー、でも……」
 不満げに口を尖らせたジーナでしたが――。

 グゥォーン。
  グゥォーン。

 聞き覚えのある鐘が鳴り始めると、反射的に坂の上に向かって走り出しました。今回は学舎をさぼることについての後ろめたさやためらいもあったのでしょうが、ジーナの行動はいつも突然で予測不能、しかも決めてしまえば迷わずに突き進むのです。
「ま、待ってよぉ!」
 リュアはいつも慌てて追いかける役です。校舎と古めかしい石の門がぐんぐん大きくなります。こうして二人は予鈴が鳴り終わる前に、どうにか遅刻せず学舎の敷地内を歩いていました。

 校舎に入る直前、まだ速いままの心臓を感じ、こめかみの汗を手で拭いながら、ジーナは名残惜しそうに天を仰ぎました。
「待っててよ、雲さん!」
「待っててね……」
 隣のリュアも、弾む息に切なる願いを託すのでした。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

 放課後、彼女たちはどんな雲を観るのでしょうか。
 それはまた別の機会に――。

(了)



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